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岡谷公二 『貴族院書記官長 柳田国男』

「国男がその青年期のはじめに当って、「此世」を「をくらき」ものと見たという事実は、無視することができない。これは、たとえ気分の上のことではあっても、総体としての「此世」の否認であり、そこには政治の入りこむ余地はない。この社会をいかように改革してみたところで、「此世」はどこまでいっても「此世」なのだから。政治は、「此世」にしか属さず、「ゆめの世」には力を及ぼしえない。」
(岡谷公二 『遺族院書記官長 柳田国男』 より)


岡谷公二 
『貴族院書記官長 
柳田国男』



筑摩書房 
1985年7月10日 初版第1刷発行
3p+216p 索引vi
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,800円



本書はまだよんでいなかったのでアマゾンマケプレで最安値のを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



岡谷公二 貴族院書記官長 柳田国男



帯文:

「大正三年から同八年まで、貴族院書記官長の任にあって、生涯のうちもっとも現実の政治と深くかかわり、柳田学の転回点ともなった六年間の足跡を丹念に掘り起こし、柳田研究の空白部分を埋める意欲作。」


帯背:

「柳田国男
   と政治」



帯裏:

「本書を書き終えて思うのは、昭和期の柳田国男が、民俗学の確立のため、自分のなかにあった多くの可能性を切り捨てていることである。……柳田学の真の理解のためには、顕在の部分だけでなく、このような潜在の部分も考慮に入れなければならない。その点で、大正期は柳田国男研究において、きわめて重要な時期だと私考する。固定化、常識化しつつあるかに思われる現今の柳田像とは、いくらかでも違った柳田像を提出できたとすれば、著者としては本懐である。
(あとがきより)」



目次:

一 就任
二 最初の同志たち
三 「巫女考」と「毛坊主考」
四 台湾総督府とのかかわり
五 御大礼
六 物知り翰長
七 台湾・中国旅行
八 松岡静雄と日蘭通交調査会
九 日華クラブ
十 確執から辞任へ
柳田国男と政治――むすびにかえて

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「三」より:

「初期の柳田国男の、漂泊民に対するこのように強い関心は、どこから来ているのだろうか。
 漂泊民の研究のもとになった彼の山人への関心は、「幽冥談」や「天狗の話」が示しているように、天狗や神隠しへの関心を出発点にしていた。」
「彼は、『故郷七十年』の中で、「七つ八つから十歳になるころまで、私は何度となく神隠しの話を耳にした」と述べ、同書や『山の人生』の中で、神隠しにあいかかった体験をいくつも語っている。」
「彼は『山の人生』の中で、「神に隠されるやうな子供には、何か其前から他の児童と、稍〃ちがつた気質が有るか否か。是が将来の興味ある問題であるが、私は有ると思つて居る。さうして私自身なども、隠され易い方の子供であつたかと考える」と書いているが、神隠しにあいやすい、とはどういうことか。
 それは怜悧で、感受性が強くて、因童(よりわらわ)になりうるような神秘家の素質をそなえている、ということであろう。また、村境から外の世界にたえず心をはせていて、外からの呼び声に敏感で誘われやすい、ということでもあろうし、この世ならぬもの、とは言えないにしても、今、目の前にあるものを越えた、遥かな何ものかに対する予感と憧憬をかくし持っていることでもあろう。国男はたしかにこのような少年だった。」
「神に隠されやすい子供の素質の中には、あきらかに漂泊の因子がある。それは、定住者の日常生活の中から、容易にさまよい出てしまう、ということである。」
「布川にいた頃、彼は、隣家の庭の小さな石の祠をあけて、その中にはめこまれた「じつに綺麗な蠟石の珠」を見たとたん、興奮して「何ともいへない妙な気持」になり、しゃがんだまま見上げた青空に、何十という昼の星を見る、という神秘的な体験をしている(『故郷七十年』)。学校にゆかず、遊び友だちもなく、利根川畔の暗示に富む自然の中で一人で暮していたこの頃、彼は同様の体験をほかにもしているが、この種の体験は、繰り返されるとき、堅固な日常生活をも空無化しかねない。彼は、外界に対してむきだしであり、その呼び声に対して無防備であった。この時期、なんらかの強力な条件が加わっていたならば、彼は、定住の枠から離れ去っていたかもしれない。
 父母の相つぐ死は、彼の存在を一層不安定にした。

  かのたそがれの国にこそ
  こひしき皆はいますなれ
  うしとこの世を見るならば
  われをいざなへゆふづゝ (「夕づゝ」)

と新体詩人松岡国男が歌う時、私たちはそこに、この世ならぬものの声に誘われるのを心待ちにさえしている彼の姿を見ることができる。
 しかし後半生の彼は、親友の花袋や独歩の冷やかな眼を振り切って柳田家に養子に入り、官吏というもっとも堅実な職業について、漂泊とは反対の道を歩んだ。しかしこの事実そのものが、漂泊との彼の親近を証拠立てている。彼にこのような道を選ばせたものが、家や家庭という定住の枠を持たぬ人間の心もとなさ、さびしさ、不安、恐怖であったことは明らかだからである。比喩的に言えば、柳田家や官吏という職業は、神隠しにあわないための逃げ場所だったのだ。」



「八」より:

「柳田国男が、大正七年五月、浜松で行なった「机上南洋談」と題する講演の草稿をよむと、すでにこの頃、彼が、マレー半島から蘭領インドにかけての地理や歴史を正確に把握していたのがわかる。その中でとくに興味を引くのは、彼が、「バジョウ」とよばれる海上漂泊民に注目していることである。バジョウは、「漁獲を以て生を営み陸に上る事至つて稀」で、「ボルネオ、スマトラ、及び〔マレー〕半島の海岸に多く住し……婦女労働して水に潜り、生海鼠、玳瑁(たいまい)などをとる」。そして彼は、その生活形態が、中国の蛋民や、日本の家船の人々と酷似していることを指摘している。」
「すでに述べたように、国男は、これまで漂泊民に強い関心と共感を抱いてきた。明治から大正初めにかけての彼の民俗学上の仕事は、クグツ、サンカ、歩き巫女、比丘尼、聖、唱門師、鉦打ち、鉢叩き、舞々、木地師といった漂泊民、とくに山中の漂泊民をもっぱら対象としてきたと言っても過言ではない。そしてこの時期に至って、彼の眼は、海の漂泊民に注がれた。彼の南洋研究をつき動かしていたものの奥には、シージプシーに対するこのような関心がひそんでいたのである。
 そして彼が、「海が通路なることは昔も今に同じ。砂漠や山岳の如き交通の障害物とはいふべからず」「南シナすなはち嶺南二省、アンナン、コーチ、カンボジャ、シャム、インド、ビルマ、マレー半島、マレー群島、フィリッピン、台湾の海陸は一団の世界なり。……昔から行きたい所に行つて都合次第に縁組もし土着もしてゐるシナ人その他の土人等が眼中には国境などはないのである」(「卓上南洋談」)と書くとき、そこには「海上の道」の仮説へとつながってゆくものがはっきり感じられる。」



「柳田国男と政治」より:

「柳田国男は、生涯、左右、中道を問わず、いかなる政党にも属さず、政党にかかわりを持つことも、親炙することもしなかった。研究ひとすじの学者ならいざしらず、官界・政界に二十年近く身を置き、自分を「失敗した政治家」とみなしたことさえある彼の場合、これは、やはり一考に価する事実である。
 彼は、政党だけでなく、官界・政界の大きな人脈に加わることもしなかった。(中略)貴族院書記官長の地位にあった六年間、多くの人々と往来しつつも、彼は政治的には孤立した存在だったように見える。
 政治が権力を以てはじまるとするなら、政党乃至派閥への加入は、権力に近づく第一の捷径であろう。それをあえてしなかったのは、柳田国男が非政治的人間であったことのなによりの証拠である。
 彼は晩年、役人時代を回顧して、「官界に勢力争いが激しく、人が栄達を計るのに汲々としているのが嫌やで仕方がなかった」(「村の信仰」)と述懐しているけれど、政界にあっては、そうした思いはいっそう深かったであろう。私は第六章で、いくつかのゴシップを通じて、生ぐさい政界の動きに超然とした彼の姿をスケッチしてみた。これらのゴシップは、それぞれ別の時に、別の記者によって、偶然書きとめられたものだけに、政治を語る場所で金魚の佃煮について語り、官舎の上を通る時鳥(ほととぎす)の声に耳を澄まし、書記官長席で公然と大あくびをする国男の姿勢には、予想以上の一貫性があるように思われる。このような姿勢を彼にとらせたもの、それは彼の性格や素質だけでなく、多分意志でもあったのだ。
 柳田国男は、政党にかぎらず、一般に党派そのものになじまなかった人間だった。」

「彼はこのように、周囲の人々と党派的な結びつきを持つことを極度に避けた。彼はいつも公を貫き、事が私にわたることを嫌ったのである。
 彼が身内意識を持たなかったことも、別の面から彼の非党派性を証拠だてている。」
「党派に身内意識はつきものである。党派とは、政党の場合ですら、私的な利益のために結びつきあっている集団であり、そのような利益を擁護するためのものなのだから、いきおい外部に対して攻撃的、防衛的で、内部には宥和的に働く。平たく言えば、外にきびしく、内に甘い。外圧が強ければ強いほど、そのような力学に支配される。どのような党派も、多かれ少かれ、このような構造と力学をそなえている。公の透明な視線は、このような場では危険である。それは、党派を解体させかねない。柳田国男のように公に執しつづける人間は、党派には属しえず、党派からも歓迎されない。」

「政治家の素質というものが存在するかどうか、存在するとして、それがどのようなものなのかは一概には言えないにしても、南方熊楠や折口信夫と比較する時、柳田国男が政治家に対する適応性をそなえていたことは明らかである。オルガナイザーとしての才能ひとつをとってみても、そう言うことができる。
 だから彼の非政治性とは、素質とは別のところにあった。それは、政治と権力のリアリティを心底からは信じていなかった点にある。」
「そのような不信は、彼の経験と観察の結果ではなく、あきらかに、それに先立つもっと根深いものであった。経験と観察は、不信の度を深めただけだったのである。

  うたて此世は をくらきに
  何しにわれは さめつらむ
  いざ今いちど かへらばや
  美しかりし ゆめの世に (「夕ぐれに眼のさめたるとき」)

 柳田国男と政治との関係を論じるこの一文に、彼の二十歳の時の新体詩を引用するのは、恣意のそしりをまぬかれないかもしれない。しかし私は、新体詩にあらわれている彼の資質と感受性が、後年の仕事とどこかで結びつき、それを規定していると考えるので、この場合も、そこまで遡らずにはいられない。
 新体詩人松岡国男が「をくらき」ものと観じた「此世」とは、言うまでもなく、彼が当時生活していた東京の片隅だけをさしているのではない。それは、過去・現在・未来にわたってのこの世界全体である。どこへ逃れようと、どれほど時を経ようと、「此世」が「をくらき」ことに変わりはなく、「此世」が明るくなることなどありえない。そして「此世」と対立して、美しいのは「ゆめの世」である。
 このような現実嫌悪と他界願望とは、松岡国男のほとんどすべての新体詩に見ることができ、その基調をなしている。それを、彼の素質に根ざすものと見るか、青年期特有の感傷や文学趣味にすぎないとするかは、意見のわかれるところである。そしてそれによって、後年の彼の仕事に対する見方に大きな偏差が生じてくる。
 私は、前著『柳田国男の青春』の中で、彼の新体詩の重要性と、それが後年の彼の仕事とどのようにかかわっているかを明らかにした。たとえば私は、彼が歌道の師松浦辰男の影響によって、平田篤胤らの幽冥観に関心を持ち、天狗、神隠し、山人などの事象に近づき、それらの研究から民俗学へ入っていった道すじも、その自然主義批判も、泉鏡花愛好も、常民の生活意識や信仰といった、目に見えぬものの重視も、それと表裏をなす、目に見える、有形のものに対する、自身すら明確に自覚していない冷淡さも、最晩年の『海上の道』にみられる日本人の他界観の追究も、新体詩にあらわれているこのような基調と、ひそかに通底している、と考えるのである。
 この観点に立つならば、国男がその青年期のはじめに当って、「此世」を「をくらき」ものと見たという事実は、無視することができない。これは、たとえ気分の上のことではあっても、総体としての「此世」の否認であり、そこには政治の入りこむ余地はない。この社会をいかように改革してみたところで、「此世」はどこまでいっても「此世」なのだから。政治は、「此世」にしか属さず、「ゆめの世」には力を及ぼしえない。」

「柳田国男は、少くともある一時期以後は、(中略)すすんで現実と相渉ろうとし、「世の中が住みよくなる」(「青年と学問」)ことだけを念願として仕事をしてきた。彼はたえず日本の現実を憂えていたが、楽観を忘れず、つねに未来に希望を託していた。退嬰や自棄に陥った彼の姿を見た者はいない。実際彼は、敗戦のような大きな破局に出会っても少しも挫けず、「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」と日記に書き記すような人間であった。その長い一生にあって、どこにも暗さなく、ペシミズムの影など少しも差していないかに見える。
 今日定着しつつある、明るい、ひたすら現実を志向する、前向きの柳田像は果して実像なのだろうか。私には疑わしい。なにも彼をニヒリストに仕立てあげる必要はないけれども、少くとも彼は、もう少し複雑な心の襞を持った人間だったはずである。この種の柳田像の多くは、刻みが浅く、単調で、退屈だ。
 たとえば私は、『故郷七十年』の中で、布川にいた少年時代のある日、隣の家の石の祠の扉をあけて、そこに美しい蠟石の珠を見出したとき、興奮して、見上げた青空に無数の昼の星を見た、という経験を語ったあとで、彼がなにげなく付け加えている「あんな風でながくゐてはいけなかつたかもしれない。幸ひにして私はその後実際生活の苦労をしたので救はれた」という言葉に注目しないわけにはゆかない。
 彼の現実志向の背後に、このような神秘的体験を置いて見ることは、絶対に必要である。そのとき彼のそのような志向は、もっと別のニュアンスを帯びて私たちの眼に映るであろう。それは、大袈裟な言い方をするならば、狂気にさえ通じる世界から身をもぎはなすための彼の選択という面さえ現わしてくるだろう。
 彼は、この世界が可視の現実だけでは終わっていない、という意識をたえず抱いていた。彼は、師の松浦辰男のようにかくり世を信じたわけではないが、目に見えぬものに惹かれる心の習性だけは、終生変わらなかった。そのことは、現実の事象に対する余計なこだわりや執着から彼を解放し、その思考を自由にしている。
 彼の思考は、つねに現実に即しながら、現実に密着することも、その中に埋没してしまうこともない。彼は正確なパースペクティヴを持ちつづける。彼が現実との間にとる距離は、現実の中の一切を相対化しかねない。繰り返すけれども、彼が世の保守主義者と異るのは、このような視線のためである。」

「国男の学問の中には、天皇制を相対化する契機がいくつもあった。彼が御大礼に奉仕していた一日、「若王子の山の中腹」から「白い煙」を細々とあげていたサンカなどはその一つである(『山の人生』)。谷川健一は、サンカが、いかに天皇制に無縁な、「天皇制を相対化する」存在であったかを、「山人と平地人」の中で説いている。国男が、明治の末から大正のはじめにかけて、大きな関心と共感を抱きつづけた、天孫族の「不倶戴天の敵」である山人、山男にしてもそうだ。
 山人、山男、サンカは、もちろん国男がその実在を信じた人々であった。しかし彼等への関心が、幽冥道と天狗への関心から生れていることからも分る通り、また『遠野物語』や『山の人生』が示すように、彼等には他界的なものがつきまとっており、幽冥界の消息をもたらす天狗と同一視されているところがある。

  かのたそがれの国にこそ
  こひしき皆はいますなれ
  うしと此世を見るならば
  我をいざなへゆふづゝ (「夕づゝ」)

と歌う新体詩人松岡国男の他界願望が、民俗学者柳田国男の他界研究に影を落としていると私は書いたが、そのことを、ここでもう一度繰り返したい。あえて言うならば、このような他界願望が、彼に山人や山男の世界を発見させたのであり、そしてこの願望こそが、天皇制を相対化しているのである。
 柳田国男は、このような契機を、昭和に入ると表面に出さなくなるけれども、戦前の、次第に色濃くなってゆくナショナリズムの風潮の中で、ついに彼が天皇と天皇制を絶対化することがなかったのは、おそらくはそれがあるためであった。」






こちらもご参照ください:

ハンス・ヨナス 『グノーシスの宗教』 秋山さと子/入江良平 訳







































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