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網野善彦 『日本中世の民衆像』 (岩波新書)

「当時は、東国と西国の交流自体、別の「民族」の間の交流といってもよいほどの一面をもっていたことも考えておかなくてはなりません。朝鮮人、さらには中国人との交流と、この交流の差は、われわれが考えているよりもずっと小さかったのではないでしょうか。」
(網野善彦 『日本中世の民衆像』 より)


網野善彦 
『日本中世の民衆像
― 平民と職人』
 
岩波新書(黄版) 136 


岩波書店 
1980年10月20日 第1刷発行
ii 185p 
新書判 並装
定価380円



本書「あとがき」より:

「本書は、一九七九年十月二日、同月九日の岩波市民講座における講演記録を整理し、「日本中世の平民と職人」と題して、『思想』一九八〇年四月号、五月号の誌上に、二回にわたって発表した論文に、「忘れられた歴史」(『世界』一九七八年十二月号)、「『新猿楽記』の諸国土産について」(日本思想大系、月報六二号)などの趣旨をもりこみ、さらにかなりの筆を加えて、再構成したものである。」


本文中図版(モノクロ)31点。

でてきたのでよんでみました。



網野善彦 日本中世の民衆像



目次:

はじめに

第Ⅰ部 中世の平民像
 一 平民身分の特徴
 二 さまざまな年貢
 三 年貢の性格
 四 水田中心史観の克服
 五 公事の意味するもの
 六 「自由民」としての平民

第Ⅱ部 中世の職人像
 一 職人という言葉
 二 職人身分の特徴
 三 遍歴する職人集団
 四 櫛を売る傀儡
 五 職人としての唐人

おわりに

あとがき




◆本書より◆


「はじめに」より:

「よく指摘されることですが、中世後期、すなわち室町・戦国時代の問題は、おおよそ江戸時代から明治以後のわれわれの常識で理解ができるといわれています。その時代の生活や文化、言葉などについて、われわれはとくに違和感を感じないでつかめるといわれているわけで、日本の伝統文化は、室町時代のころが一つの出発点と思われます。ところが、中世前期、鎌倉時代以前の問題になりますと、どちらかといえば古代につながっていく面がありまして、必ずしもわれわれの常識では理解しがたい異質なところがある。」
「なによりもまず、われわれがふつうの日常生活で使っている基本的な言葉の意味が、南北朝の前と後とでは、大きく変ってしまう場合があることを考えておく必要があります。」
「とすれば、中世前期以前の問題についてわれわれが考える場合に、うっかり江戸時代以降われわれの使っている言葉の意味をそのままにおし及ぼしたり、江戸時代から現在までつながる常識的な感覚でとらえようとすると、大きなまちがいをおかす危険性があり、日本の文化、歴史、民族の特質についても、その点をよほど注意しておかないと、正確な理解ができなくなってしまうのではないか、と私は考えているのであります。」



「第Ⅰ部 中世の平民像」より:

「平民百姓、あるいは平民という言葉は、(中略)案外、古代や中世の文書・記録のなかにたくさん出てまいります。しかも、その用例をたどっていきますと、職人とか、下人(げにん)・所従(しょじゅう)などの身分の人と、いわゆる百姓身分との違いを強調するときに、平民あるいは平民百姓といわれることがしばしばみられるように思われます。たとえば、職人身分の人が、「自分は平民ではないから、平民の負担する課役を課されるのは不当だ」といったり、平民自身が「この名田(みょうでん)は平民の名田だから、下人・所従がもつことは許しがたい」といったりしているわけです。」
「「百姓」という言葉をあげますと、おそらく皆さんは農民をただちに連想されるだろうと思います。(中略)しかし、中世以前の社会のなかで「百姓」といわれた人々は、決して農民だけではない。海の民も、山の民も、商工の民も、「平民」身分であった場合にはみな「百姓」とよばれています。」
「さて、まず最初に平民身分の特徴について私の考えていることをまとめて申し上げておきたいと思います。第一に、さきほど不自由民といいました下人・所従と違って、平民は特定の人に人身的に隷属していない。ですから当然、売買や譲与の対象にならない身分であります。それ故、平民身分の人々は、(中略)移動の自由を保証されていました。また武装についても禁止はされておりません。」
「と同時に、平民身分の人々は、下人・所従が年貢(ねんぐ)・公事(くじ)を公式に負担する資格をもっていないのに対して、年貢・公事の負担の義務を負っている。(中略)その点が「職人」身分の場合とも違うわけで、「職人」は平民の負担する年貢・公事を全部あるいは一部、免除されている。下人・所従の場合には負担する資格がないのですが、「職人」の場合には、国家的、社会的に保証された「特権」として負担義務を免除されている点が、平民と異なるのであります。」
「それ故、義務である年貢を未進・滞納した平民は、平民身分としての権利を駆使しえなくなるので、ある場合には、自分自らを身代(みのしろ)として質に入れて、下人・所従の身分に身をおとしてしまわなければならないということもおこりますけれども、年貢・公事をきちんと負担しているかぎり、(中略)さきほどあげた平民身分の自由は保証されるといってよいと思います。」

「当時の庶民生活は、決して水田だけで支えられていたわけではありません。畠・山・林、あるいは塩沢・海・川等々、多様な自然的条件に応じたさまざまな形の生産によって、はじめて成り立っていたといわなくてはなりません。」
「こうした視角から見直してみると、水田という地種(ちしゅ)は日本の歴史のなかできわめて制度的、政治的な役割を果たしてきた地種であるという事実が、おのずから浮かび上がってきます。古代の律令制が全く水田のみに基礎をおいてその制度を築いていることは、いまさらいうまでもないことでしょう。中世において、(中略)水田は租税をとるための制度的な計量基準、賦課基準にほかなりません。」
「もちろん、このように、水田が公的な生活・制度の基本にすえられたという事実そのものに、日本人にとっての水田の重要な意味があることはいうまでもないのですが、しかし、そこに、支配下の領域を斉一的に掌握しようとする支配者の志向が強烈に入っていたことを見落すべきではないと思います。そして、水田がこのように、いつも課役の賦課基準であり、非常に政治的な、制度的な性格をもった地種なのだということをよほどはっきり心にたたみこんだ上で、日本の歴史を見直さないと、大きなまちがいをおかすことになるだろうし、これまで歴史家は、そうした誤りをおかしてきたといわざるをえません。」
「端的にいえば、日本人が米を常食とする稲作民族であるという常識的な日本人観のなかには、かなりの部分、権力者の作り出した「虚像」が入っているということです。しかも、この「常識」=「虚像」を生み出した重大な責任の一半は、まちがいなく歴史家にもあるといわざるをえないのであります。なぜなら、これまで歴史家はさきのような文書史料の限界――それが公的な「ハレ」の世界、庶民の生活を支配者がある方向で規制し、制定した制度を知る上には非常に有効でありますが、一般庶民の日常の生活そのもの、「ケ」の世界をとらえるためにはまことに小さな力しかもたない、少なくとも、きわめて間接的なものでしかないという、ある意味ではあたりまえの、文書史料のもっている限界を見きわめることに、決して熱心ではなかったのであります。」
「そのことを明らかにするためには、文書がどのような手続きで作成され、どのような過程をへて現在まで伝わってくるかという伝来過程の研究が不可欠なのです。ところが、(中略)いまでもこの方面の研究は、いちじるしく立ちおくれている。(中略)いまのべたような文書史料の性格を考えますと、そうした厳密な手続きをなおざりにしたまま組み立てたれる歴史像は、否応なしに「水田中心史観」となり、意図せずして権力者の志向にそったものとならざるをえないことになりましょう。」



「第Ⅱ部 中世の職人像」より:

「まえにもふれましたとおり、ここでいう「職人」は身分としての「職人」で、平民が負担しなければならない年貢や公事の負担義務を一部ないし全部免除される特権を保証された人たち、いわば「自由」を特権として保証された人たちであります。」
「「職人」身分の人たちは、そうした特権を保証されるかわりに、自らのもつ専門的な職能を通して、天皇・院、あるいは摂関家、将軍家、寺院、神社に奉仕している場合がふつうで、十二世紀から十三世紀以降になりますと、「職人」の実態は、漁民、狩猟民、手工業者、商人、芸能民、呪術師のような非農業民、農業以外の生業でもっぱら生活している人々となります。」
「奉仕している権門の性格によって称号が変ります。天皇に奉仕する場合はしばしばふれたように供御人という称号がふつう使われます。摂関家の場合は、殿下細工、殿下贄人(にえびと)といわれることが多い。また寺院の場合には、犬神人が山門西塔釈迦堂寄人といわれたよに寄人(よりうど)とよばれ、神社の場合には、石清水(いわしみず)八幡神人、春日社神人、日吉神人のように神人(じにん)とよばれます。賀茂・鴨両社の場合には供祭人(ぐさいにん)といわれています。」
「そして、こうした供御人、神人、寄人などについては、平安時代末期以後、天皇の発する法令――公家新制によって、制度的に定められた交名帳(きょうみょうちょう)(名帳ともいいます)がそれぞれに作成されておりました。その意味でこの人々は公的に認められた身分であったわけです。」
「そこで注意しておきたい重要な点は、こうした供御人、神人たちなどの職人は、(中略)しかし決して一つの権門だけに従属し、しばられていたわけではなかったということであります。」
「職人の権門への従属と、下人・所従の主人への従属との本質的な違いはそこにあるといえます。」
「さらに注目すべきことは、このように天皇や、神仏に従うことによって、多くの職人たちは、市(いち)、津(つ)、関(せき)、渡(わたし)、泊(とまり)などで交通税を賦課されず、チェックされないで諸国を自由に往来して売買交易をすることのできるという特権を保証されたのであります。(中略)そして、この特権を究極的に保証していたのは、多少限定をつけておけば、少なくとも西国では天皇であったといってよろしいと思います。」
「中世後期になって、天皇が政治的実力を喪失し、特権を保証する力を失った時代にも、それはある種の伝説と化しつつ、職人の由緒書(ゆいしょがき)のなかに、それぞれの職人の職能の起源を説明する伝説として長く江戸時代まで生きつづけていくのであります。」
「さきほどそれを西国と一応限定しましたのは、東国の場合、同じような動向が多少異なった形で出てくる場合があるからであります。
 まえに奥多摩の丹波山にいきましたとき、そこの獅子舞の長い伝統を伝えているお宅にうかがって、獅子舞の由緒書を拝見したことがありますが、これは後嵯峨天皇にその起源を結びつけていました。このように東国の場合も、西国と同様に天皇に結びつけるケースは当然ありえたのですが、ただおもしろいことに、源頼朝がそこに介在する事例がしばしばみられる。介在だけではなくて、頼朝自身から特権を保証されたことを根拠にしている商人、職人が東国にはいるのであります。狩猟民であるマタギや、(中略)甲州の大鋸杣人(おおがそまびと)、さらには、よく知られている弾左衛門の由緒書――いわゆる「河原巻物」など、みな起源は頼朝であります。」
「おそらくここには、東国と西国における職人のあり方の違い、あるいは根本的には縄文・弥生の時代にまでさかのぼる東国と西国の社会そのものの構造、民俗の違いとも深い関係をもつ問題があるのではないかと考えられます。(中略)近世の被差別部落のあり方も東と西ではずいぶん違うのではないかと思います。」
「東国には天皇と異なる独自の権威として、頼朝の存在が非常に大きな意味をもっていたことはまちがいないと私は思います。(中略)さきのような社会構造、民俗の違いを背景として、西国と異なる国家を生み出すだけの潜在的な力量を東国社会はもっており、その首長としての頼朝は、西の天皇と対抗しうるだけの意味をもっていたとも考えられるわけであります。短期間にせよ最初の東国国家を樹立した新皇将門(まさかど)の伝説が、西国では、たたり神の意味しかもっていないのに、東国では、一種の英雄伝説となっていることも参照されてよいと思います。」
「東国には西国と異なる権威を求める志向が明らかにある。家康がなぜ自分を日光にまつらせたかということも、こう考えてみますと、理解できるように思います。ここまでくれば、東国と西国とは異なる「民族」として、異なる国家をもつ可能性を十分にもった地域といってもよかろうと思うのです。
 天皇と職人とのつながりはたしかに非常に深いものがあるわけですが、それを(中略)より広い視野でとらえる立場は、最初にふれましたように、このように、日本を単一の民族と最初から決めてかかる見かたから離れることによって、確立しうると思われます。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『東と西の語る日本の歴史』 (講談社学術文庫)
高橋富雄 『もう一つの日本史 ― ベールをぬいだ縄文の国』

































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