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湯浅泰雄 『気・修行・身体』

「つまり経絡系は、心と身体、精神と物質の双方に密接に関係し、その双方に作用を及ぼす中間的システムなのである。したがってそれは、デカルトの物心二分法では説明できない第三の存在であり、物と心を結びつける媒介となるシステムである。」
(湯浅泰雄 「気と身体」 より)


湯浅泰雄 
『気・修行・身体』



平河出版社 
1986年11月25日 第1刷発行
1995年8月30日 第9刷発行
347p 「初出一覧」1p 「著者略歴」1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,369円(本体2,300円)
装丁: 中垣信夫



本書「あとがき」より:

「第一章「東洋的心身論と現代」は、日本武道学会の第十四回大会(一九八一年秋)が筑波大学で開かれ、ゲスト講演を依頼されたときに準備した草稿がもとになっている。」
「第二章「気と身体」は、新しく書き下ろしたものである。
 後半の二章は既発表の文章に加筆した。前半の二章が主に修行の身体面をとりあげているのに対して、後半はどちらかというと修行の心理面を中心にとりあげている。
 本書の全体を通じて流れている筆者の関心は、三つのテーマから成っている。一つは日本を中心にした東洋の精神史。一つはユングを中心にした深層心理学や精神医学に関連した問題。そしてもう一つは、心身論を中心にした哲学的諸問題である。」



本文中に図・図版28点。対談・書評・エッセイは二段組。



湯浅泰雄 気・修行・身体



帯文:

「東洋的心身論の可能性!
気・瞑想法・武術 東洋の思想的伝統は、
「修行」を核とする独自の心身論を生んだ。
本書は、深層心理学・心身医学・大脳生理学等
さまざまな角度から、日本を中心とする
東洋的心身論の現代的意味とその可能性を明らかにする。」



帯背:

「東洋的心身論
の新たな視点」



カバー裏文:

「仏教・道教の瞑想法、芸道、武道、
さらには「気」の問題等、東洋の思想的伝統は
「修行」を核とする独自の心身論を生んだ。
本書は、深層心理学・心身医学・大脳生理学等
さまざまな角度から、日本を中心とする
東洋的心身論の現代的意味とその可能性を
明らかにする。」



目次 (初出):

はじめに からだとこころ 〈対談〉 湯浅泰雄+石川中 (『精神世界の本』 1981 平河出版社)

第一章 東洋的心身論と現代
 1 東洋の修行の伝統と西洋の心身二元論的思考様式
 2 静止的瞑想と運動的瞑想
 3 瞑想の深層心理学的意味と心理療法
 4 瞑想と心身一如
 5 修行と芸道
 6 日本武道の特質
 7 心身分離的二元論から心身相関的二元論へ
 8 身体の三つの情報システム
 9 条件反射と自律系コントロール
 10 方法論的反省

書評 H・マスペロ 『道教の養性術』 (「日本読書新聞」 1983・5・23 日本出版協会)
書評 坂本百大 『人間機械論の哲学――心身問題と自由のゆくえ』 (「週刊読書人」 1981・1・12 読書人)

第二章 気と身体――武術・瞑想法・東洋医学
 1 心・気の一致ということ
 2 瞑想の訓練は気を変容させる
 3 気の変容
 4 気の変容に伴う内的イメージ体験の諸相
 5 東洋思想における認識の意味――方法論的中間考察
 6 東洋医学の身体観の基本的特質
 7 経絡における気と情動の関係
 8 無意識的準身体における外界志向作用
 9 記憶と生ける身体
 10 客観的科学と主観的科学
 11 気と外界の関係
 12 心・生命・物質

書評 黙示の時代――G・アードラー 『生きている象徴』 (「朝日ジャーナル」 1979・10・26 朝日新聞社)
書評 樋口和彦 『ユング心理学の世界』 (「日本の神学」 20号 1981 日本基督教学会)

第三章 浄土の瞑想の心理学 (「現代思想」 1982・9月号 特集・日本人の心の歴史 青土社)
 1 はじめに
 2 精神医学と宗教経験
 3 インド的伝統にみられる思想表現と芸術表現の関係
 4 中国と日本における浄土の念仏
 5 定善観の心理学的解釈
 6 死の問題

エッセイ シャルトルと長谷寺 (「創文」 1976・9月号 創文社)
エッセイ 三輪山の夢 (「ユリイカ」 1985・1月号 青土社)

第四章 密教の修行論とマンダラの心理学――身体の宇宙性 (『講座日本思想』 1・自然 1983 東京大学出版会)
 1 歴史的背景――山の仏教
 2 密教の深層心理学的背景
 3 『即身成仏義』の修行観と宇宙観
 4 イメージとしてのマンダラ
 5 マンダラの深層心理学的考察
  (1) 胎蔵生マンダラ
  (2) 金剛界マンダラ

あとがき




◆本書より◆


「東洋的心身論と現代」より:

「ご承知のように、禅の瞑想の場合はよく「無念無想」といいます。眼を半ば閉じて鼻の先を見つめ、何も考えないで長い間じっと坐り、湧き出してくる雑念や妄想がしだいになくなっていくように努力するわけです。(中略)ところが平安仏教の修行法はもっと複雑で、いろんな方法を使います。特に多いには、一定のイメージを心に念じつづけるやり方です。たとえば阿字観という瞑想法では、梵字(サンスクリット)の「A」という文字を心に思い浮かべます。また月輪観という瞑想法は、月を心に思い浮かべ、それが三日月からしだいに満月になっていく状態を想像します。
 こういう方法は、インドでサーダナ sāhdana (成就法(じょうじゅほう))と総称されているもので、悟りを達成(成就)する技法という意味です。たとえば、不動明王(お不動さん)のサーダナの場合ですと、修行者は、心の中で自分自身が不動明王になったと思って、その身体の様子を想像します。」
「密教の寺院には、多くの仏や菩薩や天人などを極彩色で描いたマンダラを飾り、仏像も光り輝く金色に塗ってあります。(中略)こういうマンダラや仏像は、元来、僧侶たちが瞑想し、修行するための道具(引用者注:「道具」に傍点)(ヤントラ)だったのです。(中略)そしてそういう仏像やマンダラを礼拝し、讃美する言葉を唱え、心を仏のイメージに集中して、深いエクスタシーの状態に入っていくことによって、現実に、目覚めたままで天上界に住む仏たちの光景を経験するように訓練するわけです。心理学的にいえば、一種の幻覚として、仏の姿を見るようになるわけです。」
「深層心理学の立場からみると、こういう瞑想法は、意識の表面にはたらいている抑制力を弱め、その下にかくれている無意識のエネルギーを活発にする訓練です。ふつう目覚めている状態では、意識の作用は外界の対象を感覚し、それに反応しています。ところが瞑想に入って、外からくる刺戟を遮断すると、外へ向かう心のエネルギーが弱まるので、訓練を続けていくにつれて、意識下に潜在している心のエネルギーが活発になってくるわけです。これは、夢を見るのと同じ心理的メカニズムです。眠っているときは、意識のはたらきが停止してしまいますから、その下に抑えこまれ、かくれている無意識のエネルギーが表面に昇ってきて、夢のイメージになって現れます。瞑想は、こういう状態を、目覚めたままで自由に経験できるようにする訓練です。」
「ユングは、彼の工夫した瞑想法を「能動的想像」 active imagination と名づけていますが、(中略)彼は、道教の瞑想法からヒントを得たようです。」
「心理療法と瞑想法は、このように共通した点がありますが、基本的な考え方は少しちがいます。心理学的メカニズムそのものは同じですが、その出発点と目的がちがっています。心理療法はもともと、ノイローゼの治療法として工夫されたものですから、心の中に生じた意識と無意識の葛藤や分裂をもとへ戻して正常な状態を回復するためのものです。」
「これに対して修行法としての瞑想法の場合は、病人を治療することを目的とするわけではありません。出発点は、われわれの日常生活における正常な心の状態です。そこから出発して、より高い変容した意識状態にまで達することが目的です。心身医学や精神医学などでは「変成意識状態」 Altered State of Consciousness (略称ASC)という言葉を使うことがありますが、これは、催眠、幻覚、祈禱や瞑想に伴うエクスタシー状態など、日常ふつうの意識の状態とはちがった心理状態を総称したものです。」
「心理療法は、神経症の患者、つまり病的異常状態に陥った人を、正常なレベルまで回復させる方法です。これに対して瞑想による修行は、(中略)心のはたらきを現在よりもつよめ、もっと向上させていく訓練法であるといえるでしょう。いいかえれば、心理療法は、意識と無意識の間に生じたズレをもとへ戻す方法であるといえますが、修行は、意識のはたらきと無意識のはたらきを統合する力(引用者注:「統合する力」に傍点)をだんだんと強め、自分特有の情動のパターン(心のくせ)やコンプレックスをコントロールし、さらにより高く変化させていくことを目的にしているといえるでしょう。」
「ただ、その訓練の途中では、一種の人工的ノイローゼ状態になる場合があり、下手をすると、ほんとうのノイローゼになったりします。(中略)たとえていえば、種痘をすることによって軽い人工的病気の状態をつくり出せば身体に免疫体質がつくり出されるようなもので、人工的ノイローゼ状態を突破していけば、精神の力はだんだんと強くなっていくわけです。」
「では、このような訓練によって、心と身体の関係はどのように変化していくのでしょうか。
 禅でよく使われる「心身一如」という言葉があります。日本の文献では、古くは栄西〈1141―1215〉の『興禅護国論」に出てきます。彼は瞑想が深まって三昧に入った状態を「諸縁を放下し、万事を休息し、心身一如、動静すべてなし」といっています。(中略)諸縁を放下するとか万事を休息するというのは、日常生活にみられるような、外界のできごとに心を使う態度を捨ててしまうということです。つまり、瞑想するときには、外の世界とのつながり(諸縁)を一切捨て去り、忘れ去って、ただひたすら自分自身の内から湧き出してくる心の動きだけに注意します。われわれはふつう、毎日の日常生活の場面では、外界の事象に注意を奪われ、心のエネルギーはいつも外に向かって流れています。したがって他人の言動に対しても、善と悪の区別を立てて、あれは良いとかこれは悪いといった判断をします。瞑想は、そういう意識の判断をすべて止めてしまう(中略)ことによって、ひたすら魂の内なる世界に入りこむことです。心理学的にみれば、それは外界からの刺戟に反応する意識の作用を抑え、心のエネルギーの流れを内へと向けかえることによって、無意識の作用を活発にし、さらにそれをコントロールしていくことです。そういう訓練を長年続けていくと、さまざまな雑念が消えていって、心が空っぽになり、いわば自分という意識がなくなった三昧の状態を体験できる、というわけです。」
「字に即していえば、「心身一如」は、心と身体が分かれず一つになったような状態という意味であり、(中略)心の雑多な動きがまったく消えてしまい、心の状態と身体の状態が一つになったということでしょう。また道元は、彼が中国で参禅していたときの見性の体験を「身心脱落」とよんでいます。身体と心の区別がなくなってしまったという感じだろうと思います。」
「ここで興味があるのは、運動的瞑想の場合です。運動的瞑想は、身体運動をたえずくり返すことによって、静止的瞑想の場合と同じようなエクスタシー体験に達する方法です。わかりやすい例としては、たとえば、一遍〈1239―89〉が始めた念仏踊りなどがあげられます。(中略)運動的瞑想は、身体器官(特に手足)の運動の訓練を通じて、高い変成意識状態に達しようとするわけです。」
「哲学用語を使っていえば、日常ふつうの状態では、心と身体は主体 subject と客体 object という関係にある、とみることができます。客体の最も代表的なものは外界に見出されるさまざまの物体、つまり「物」です。われわれの身体も、そいう物体の一種つまり客体として、この世界(空間)の中に存在しています。これに対して主体というのは、客体になりえないもの、客体を認識したり動かしたりする意識作用の持ち主ということです。心はその意味で、主体(正しくいえば主体のはたらき)です。要するに、主体である心が客体である身体を支配し動かすことが、意識的な身体運動であるわけです。
 ところが、右にいったような「心身一如」の境地では、心は、無意識のままに身体と一つになって動いています。つまり、主体としての心と客体としての身体の区別はもはや感じられなくなり、主体は同時に客体であり、客体は同時に主体であるという状態になります。身体という客体の動きは、そのまま主体としての心の動きそのものになりきっています。逆にいえば、主体としての心は、われを忘れ、客体としての身体の動きそのものになっています。哲学者の西田幾多郎が「純粋経験」とか「行為的直観」とよんでいるのは、こういう状態であると思います。」

「西洋の近代的な考え方と東洋の古い考え方の基本的なちがいは、いったいどういう点にあるのでしょうか。心身のはたらきについていうと、西洋の近代医学は、大多数の人たちの正常(ノーマル)な状態、つまり不特定多数の例(引用者注:「不特定多数の例」に傍点)を基準にして考えていきます。たとえば、ふつうの人の場合、この器官はこういうはたらきをしているとか、この薬はこういう作用がある、といったことを観察して、そこから経験的な法則をひき出すわけです。近代の経験科学というものは一般に、こういうやり方をとっているといっていいでしょう。近代科学の法則が一般的な妥当性をもっているのもそのためです。ただ、こういう考え方をとる場合には、ふつうの人とちがった例外的ケースは、無視ないし軽視される傾向を生じがちになります。
 これに対して東洋医学では、たとえば薬の処方は患者一人一人によってちがうという原則に立っていて、一見同じようにみえる病気でも、患者によって処方が変わることも少なくありません。」
「近代的な考え方が陥りやすい一つの欠点は、不特定多数の場合を「正常」と考え、その基準に合わないものはすべて「異常」とみなす傾向を生みがちなところにあります。(中略)精神医学は神経症や精神病という病的異常状態を研究対象にしていますが、この場合、「異常(アブノーマル)」といういい方は「病的」という悪い意味をもっています。(中略)医学というものは、(中略)ともすると「異常」ということと「病的」ということが同一視されやすいのです。」
「西洋近代のやり方では、一般に人間の心と身体の関係はこう考えられるという理論的な枠組みをまずきめてかかることになるので、それに合わない状態は例外とか異常として無視される傾向になりやすいのです。しかし東洋の考え方では、心と身体のほんとうの関係は日常ふつうの状態では未知なものであるという考え方から出発して、実践を通じてそれを探求していく態度をとります。」
「東洋哲学の伝統的心身観では、修行を通じて心身の関係が日常ふつうの状態からどう変化するか、そしてそのときどういう心理状態が体験されるかという経験に即して、ふつうではわからない両者の奥深い未知な関係を認識していくのです。」



「気と身体」より:

「気は(中略)もともと心理的(引用者注:「心理的」に傍点)であるとともに生理的(引用者注:「生理的」に傍点)な性質を示す生体特有のエネルギーであって、心と身体の両方(引用者注:「両方」に傍点)に関係するのである。先にのべたように、気の流れは瞑想の訓練と深く関連したものであり、その点からいえば心理的性質(引用者注:「心理的性質」に傍点)を帯びている。しかし鍼灸的治療の観点からみると、気の流れは生理的機能の活性化(引用者注:「生理的機能の活性化」に傍点)に効果がある。つまり皮膚の内側として感じられる身体(自分の「からだ」の感覚)は心理的存在であり、外側からみた皮膚に包まれた身体は、その内部から生理的機能が外に発現してくる場である。気の流れはこの内と外を媒介する通路である。
 気のエネルギーはさらに、身体内部を循環しながら、手足の末端を通じて外界の気の流れとつながっている。われわれは自分の「からだ」の感覚、いわゆるセネステーシス(全身内部感覚)の状態全体を「自分」としてとらえているわけであるが、その自分は、皮膚を境界として外界と交流しているわけである。要するに皮膚は、心理作用と生理作用、つまり心と身体が――気の流れを介して――物質的外界と接する独特な交流の「場」なのである。」

「皮膚電流の現象は、元来東洋医学とは無関係に、心理学や生理学の立場から研究されてきたものである。皮膚に回路をつくって弱い電流を流すと、電位の変化が起こって伝播していき、その波がグラフとして記録される。これがいわゆるGSR(Galvanic Skin Reflex)である。(中略)GSRは情動作用と関係が深いため、心理学のテストに応用されている。いわゆる嘘発見器 lie detector はこの原理を応用したもので、質問が被験者の感情をつよく刺戟したときにはGSRにつよい反応が現れる。この現象は今世紀初めに明らかにされており、ユングはその初期の実験を見て、皮膚は無意識をのぞく窓だな、という感想をもらしたという。」






こちらもご参照ください:

C・G・ユング/R・ヴィルヘルム 『黄金の華の秘密』 湯浅泰雄・定方昭夫 訳
湯浅泰雄 『ユングとヨーロッパ精神』
湯浅泰雄 『ユングとキリスト教』 (講談社学術文庫)
高橋巌+荒俣宏 『神秘学オデッセイ』 (新装版)





































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