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アンリ・マスペロ 『道教』 川勝義雄 訳 (東洋文庫)

「実は、神々は常にわれわれの近くにいる。いや、われわれの近くどころか、われわれのなかにいる。(中略)このような身体内部の神々はきわめて多数である。(中略)一般に三万六千の神々がいるといわれている。」
(アンリ・マスペロ 「中国六朝時代人の宗教信仰における道教」 より)


アンリ・マスペロ 
『道教』 
川勝義雄 訳
 
東洋文庫 329 


平凡社 
1978年4月26日 初版第1刷発行
1992年7月20日 初版第12刷発行
370p 索引26p
18.4×11.6cm 
角背布装上製本 機械函
定価2,884円(本体2,800円)
装幀: 原弘



本書「あとがき」より:

「本書は、今世紀前半のフランスにおけるシナ学の巨峰、アンリ・マスペロの《中国の宗教と歴史に関する遺稿》全三巻(Henri Maspero, *Mélanges posthumes sur les religiouns et l'histoire de la Chine*. Publications du Musée Guimet, Bibliothèque de diffusion, tome LVII~LIX, 1950)のうち、第二巻にあたる *Le Taoïsme* の訳であり、そのうしろに附録として、《遺稿》にのらなかったマスペロの講演「道教の神々――いかにしてこれと交感するか」(Les dieux taoïstes: Comment on communique avec eux, dans *Comptes rendus de l'Académie des Inscriptions et Belles-Lettres, 1937*, pp. 362-374)の訳をつけ加えたものである。」
「この訳書は、(中略)一九六六年に東海大学出版会から出版され、一九六八年にも若干の補注を加えて第二刷が出されたが、今回、《東洋文庫》の一冊として、ふたたび日の目を見ることになった。」
「今回の訳書では、初訳のこなれていない訳文を若干訂正し、(中略)注の欠点を補正したほかは、ほとんど旧訳の体裁をそのまま踏襲した。」



本書はまだよんでいなかったので、もったいない本舗さんで325円(送料無料)で売られていたのを注文しておいたのが届いたのでよんでみました。



マスペロ 道教



目次:

日本版のための編者序文 (P・ドミエヴィル)
編者序文 (P・ドミエヴィル)

Ⅰ 中国六朝時代人の宗教信仰における道教
 一、道士と不死の探究――肉体的な術
 二、精神の術――内観・冥想・神秘的合一
 三、道教の教会と信者の救済――制度と儀式

Ⅱ 詩人嵆康と竹林七賢のつどい

Ⅲ 西暦初頭数世紀の道教に関する研究
 序文――文献学的に
 一、個人の宗教生活と不死の探究
  1 外面的宗教生活――実践と修行
   a 不死の道への第一歩――倫理的生活と「徳行」
   b 生理的実践
    (1) 錬金術の実践
    (2) 食餌法の実践
    (3) 呼吸の実践
    (4) 性的実践
    (5) 体操の実践
  2 内面的宗教生活――神々および道士と神々との関係
   a 道教の神統譜
   b 最高の神々と神秘的冥想
 二、道教教団と一般大衆の信仰
  1 黄巾時代の教団組織
  2 集団的な祭りと儀式
  3 死者のための儀式
  4 集団的道教と個人的道教――神々の観念の進展
  5 張天師に関する附論
 三、道教と、中国仏教のはじまり
 四、附論――道家的宗教の起源と漢代までの発展に関する歴史的研究
  1 荘子の時代の道家における不死の術と生の神秘的経験
  2 秦漢時代の道教

Ⅳ 老子と荘子における聖人と生の神秘的体験

〔附録〕 道教の神々――いかにしてこれと交感するか

文献一覧
年表
あとがき (訳者)
索引




◆本書より◆


「中国六朝時代人の宗教信仰における道教」より:

「道教は、信者を「永遠の生(Vie Eternelle)」に導こうとする救済の宗教である。ところで、道士たちは、「長生(Longue-Vie)」を求める場合、それを精神の不死としてではなく、肉体そのものの物質的な不死として考えた。」
「生きている身体の保持ということが、常に不死を得るための正常な方法となったのである。問題は、これを、この死すべき身体を、延命させること、というよりもむしろ、生きているあいだにこれを不死の身体にとりかえること、すなわち、死すべき器官に次第にとってかわる不死の器官(中略)を身体そのもののなかに生みだし、これを発展させることであった。そこまで到達した道士は、死なずに「白日のもとで天に昇る」のである。」
「普通に認められた解釈では、死が日常の出来事であるような人間社会を混乱させないために、不死になった人は死んだふりをするのだ、とされた。かれは普通の儀式にしたがって埋葬される。しかしそれは偽りの死にすぎない。棺におさめられるのは剣や杖であって、かれはそれに屍体のあらゆる外見をあたえておく。真の身体はすでに立ちさって、永生者〔仙人〕たちのなかで生きている、というのである。これがすなわち「尸解(しかい)」といわれるものである。」

「実は、神々は常にわれわれの近くにいる。いや、われわれの近くどころか、われわれのなかにいる。われわれの身体には神々が一ぱいおり、そしてこの神々は外界の神々と同じなのである。このことは、にんげんの身体が世界と同じであり、他の形をとった世界そのもの、つまり大宇宙(マクロコスモス)に対する小宇宙(ミクロコスモス)だということからくる一つの帰結である。まるい頭は天の穹窿であり、長方形の足は四角い大地である。天を支える崑崙山は頭蓋骨であり、天に附着してそのまわりを廻る日月は、それぞれ左の目と右の目である。静脈は河であり、膀胱は海、髪と毛は星辰であり、歯のきしむ音は雷のとどろきである。そして日・月・河・海・雷などの神々はすべて人間の体内にもまた見いだされる。」
「このような身体内部の神々はきわめて多数である。その数は、骨と関節と鍼のツボの数と同様に、一年の日数と関係がある(なぜなら、暦もまた世界と人体とに同じく対応するからである)。すなわち、その数は三六〇の倍数をもって増大し、一般に三万六千の神々がいるといわれている。(中略)身体に住むすべての神々のなかで、もっとも重要なものは三つの丹田の神々である。丹田は、(中略)生命の中枢であり、身体の三つの部分、すなわち頭部・胸部・腹部の司令部であって、それぞれ一寸四方の九つの室は、神々の住む同数の宮殿にほかならない。
 これらの神々はすべて、かれらの住家となっている器官を守り、そして身体を中からむしばんだり、外から襲いかかったりする悪い精霊や悪い気に対して、身体を守ることを任務としている。」



「西暦初頭数世紀の道教に関する研究」より:

「不死を獲得するためには、道士は二つのことを次々になしとげねばならない。つまり、肉体の老衰と死の原因を除くこと、死せざる精妙な身体をつくること、これである。」

「死の原因となるものは、穀物を常食とする習慣である。実際に、穀物は身体のなかに、その生命力をむしばむ「虫」を生みだす。(中略)それは霊魂とか、精霊とかの範疇に属する超越的な存在である。それは一定の形をもたない。「あるときには悪魔の姿となり、あるときには人間の形をとる」。」
「かれらの数は三つ、つまり「三虫」で、それがおのおの丹田の一つに住んでいる。第一の「青き老人」(青古)は頭の中央の泥丸宮に住む。(中略)第二の「白き姫君」(白姑)は胸のなかの絳宮、すなわち中丹田に住み、(中略)第三のものは「血まみれの屍」(血尸)であって、下丹田にいる。」
「老衰、病弱、疾病をひきおこすものは三虫であり、これはまた「三つの屍」(三尸)とも呼ばれる。これはもっと悪いこともする。(中略)身体の内部にあって人間の行動をスパイし、天にのぼってその罪を告発する。それは、かれらが閉じこめられているところの、そしてそれを監獄だと思っているところの人間の身体から、できるだけ早く解放されるために、その人の生命に許された時間を減らし、かれを早く死なそうとするためである。(中略)体内の精霊は人間が生きることを望むが、三尸は人間が死ぬことを願う。(中略)その結果、かれらは身体内部でほんものの戦争を交える。「悪人と戦っている夢を見るときは、三尸が精霊と格闘しているからである」。
 要するに、三尸すなわち三虫は、人間を永生に到達させまいと努めるところの、体内の悪霊である。(中略)したがって、道士たるものは絶対にこれを取り除かねばならない。」
「このために食餌法に頼ることになる。その第一点は「穀物を絶つこと」(絶穀)、すなわち、中国の食物の根本をなすところの五穀、米・黍・麦・粟・豆を食べないことである。これはまた「辟穀」とか、あるいはまた「休糧」ともいわれる。五穀はもっとも有害な食物で、不死を得させないようにするものである。」
「穀物が非常に危険なものとなるゆえんは、人間が何代もまえからそれを食べていると、その食物の生ずる害が遺伝して、誕生するまえに害が始まるからである。この害は、穀物の精が三尸をたえず作っては育ててゆくことにある。」

「気の循環は、この時代(すなわち唐代以前)においては、何よりも呼吸の特殊なやり方ということにその本質がある。(中略)つまり、空気こそは人間の生命力の気なのであって、これを三つの丹田へ通さねばならないのである。」
「「胎息」(中略)の原理は、母の胎内における胎児の呼吸を再現することである。(中略)すなわち、まず息を吸って、それをできるだけ長く閉じこめておくことであり、次に、からだのなかに閉じこめられたこの気を呑み、呼吸器から消化管のなかへ通して、気から滋養をとるようにこれを利用することである。(中略)完全なやり方で胎息を実践する人は、普通の食物を必要としない。そういう人は、「気で身を養う」(服気)という道教の理想を実現した人である。」
「胎息の重要性は、人間の身体が気から作られているということに由来する。(中略)人間の身体は、大地を形成した不純な気から作られている。しかし、人間に生命を与えるところの生気は、天地の間に循環している純粋な気である。人間が不死となりうるためには、不純な気を純粋な気によって完全にとりかえねばならない。これがまさに、胎息のめざすところである。」

「道教徒は他のあらゆる啓示宗教の信者とはちがった、全く特殊な立場にある。」
「各人はみずから師を求める義務がある。(中略)このような師と関係を結ぶには二つの方法がある。一つは外的な方法である。すなわち、仙人が好む山々の寂しいところへ探しに行くこと。もう一つは内的な方法である。つまり、自分自身の内部、すなわち仙人の住み家であるところの、自分の身体のいろいろな局部で、仙人にまでとどくように努力すること、これである。これまで何度も引用した《紫陽真人内伝》の著者は、このことを印象的なやりかたで示している。主人公の周義山は最高の三神たちを求めて、山に登り、洞窟をさぐり、長い年月をついやして世界を歩きまわった。最後に、かれは神を見いだして、そのまえに平伏した。
  そのときかれは目をとじて、自分自身の内部を仔細に見つめた。しばらくすると、(頭部の部屋の一つである)東(ママ)房の中に、(三神のうちの)二人の偉大な神々がいて、空山(山の洞窟の中)にいたのと全くおなじ様子をし、おなじ衣服をつけているのを、たしかに見た。
  黄老君はカラカラと笑って言った。「妙なるかな! 玄なるかな! 冥想を行なえ! これぞ白日に昇天する方法なのだ!」と。
 要するに、世界じゅう神々を求めて骨を折るのではなく、心得のある人はかれ自身のなかでこそ神々を求めることができるのであり、そこで神々を見いだすのである。なぜなら、神々は常にかれのなかに住んでいるからである。
 かれは冥想と忘我とによって、つまり「一者に集中する」あるいは「かれの一者を集中させる」といわれる方法によって、神々を求め、神々を見いだす。当時の道教のすべての神々と同様に、一者は人間の外と内とに同時に存在する。この言い方の文字どおりの意味は「一を守る」(守一)ということである。」



「老子と荘子における聖人と生の神秘的体験」より:

「生の神秘的経験を実践するということは、実際、老子と荘子の学派の偉大な発見である。中国ではかれらがはじめてその路をたどり、そのすべての段階を記述したのである。
  私はあなたの教えを聞いてから、(私のたどった状態は次のとおりです。)一年で素朴となり、二年目に従順となり、三年にして道理を悟った(これは悟り(イリュミナシオン)である)。四年目に、私は自己を外物と同じだと考え、五年してさらに進み、六年にして霊が私のなかに入った(すなわち忘我(エクスターズ))。七年にして私は神的なものとなり、八年たつと、私は死んだのか生きているのか、もはや分からなくなり、九年目に、私は「大妙」を得た。
 もう一つの章には、右の簡潔な文が曖昧なままにしているところを正確にのべている。
  三日すると、(卜梁倚(ぼくりょうい)は)外界から超脱することができた。私はさらにかれを見守っていた。七日たつと、かれは身近な物から超脱することができた。さらに私は見守りつづけた。九日たつと、かれは自己の存在から超脱することができた。こうしてかれは、自己の存在を超脱したのち、朝の光のような明徹さを獲得した。朝の光のような明徹さを得たのち、かれは「唯一なるもの」(道)を見た。唯一者を見たのち、かれは現在も過去もない状態に到達することができた。現在も過去もない状態に到達したのち、かれは生も死もない境地に達した。
 西方のキリスト教と回教の神秘主義者たちが記述した、あの神秘主義における生の経験の三つの大きな段階が、ここで明瞭にあらわれている。すなわち、外界からの離脱、つまり、ある期間の抛棄の時期(顔成子游(がんせいし ゆう)においては五年、卜梁倚においては九日)は、キリスト教神秘主義者のいう「浄めの道」 voie purgative に対応する。ついで忘我 extases の段階がくる。それはあるときには、霊が「巫」に乗りうつったときの恍惚状態を意味する世俗的な表現、すなわち「鬼が入る」という言い方で示され、またあるときには、見神そのもの、すなわち「かれは唯一なるものを見る」という言い方によって表わされている。最後に「合一」という段階がくる。これがすなわち「大妙」である。
 われわれは、道家において、この種々の段階を詳細にあとづけることができる。キリスト教や回教におけると同じく、道家においても、まずはじめに真の回心があり、そこにおいて初心者は自分が実際に変わるように感ずる。」
「道家は、主体の意識が全く変わるという印象によく注意した。これはきわめて特徴的なものである。
  顔回が叫んだ。「まだそれを得なかったときの顔回という人は、まさしくこの私・顔回です。が、それを得たとき、私は以前には存在しなかったような顔回でありましょう」と。
 これは、アルフォンス・ラティスボンヌが使った次の言葉とほとんど同じである。「私はどこにいるのか分からず、私がアルフォンスなのか、ほかの人なのかも分からなかった。私は自分が変わったと感じ、私が他のものになったと思った。私は自分自身のなかに私をさがしたが、見つからなかった」と。」
「しかし、回心は神秘的生体験への入口にすぎない。」
「超脱の努力は人によって異なった表われ方を示す。(中略)あるものはすべてを捨てて、隠遁の生活を選ぶ。荘子が想定したところの、回心後の孔子の生活がそれである。
  孔子は知人をすて、弟子たちをかえして、大きな沼地に隠れた。かれは皮と毛の衣をきて、トチの実と栗の実を常食とした。かれが野獣のあいだを通っても、その群れを乱さず、鳥のなかを通っても、その往来を乱さなかった。
 これはちょうどアシジの聖フランシスのようなものである。しかし他方では、十字架の聖ヨハネのように、超脱とは「物の不在ということではない。なぜなら、もし欲望が残るならば、物がなくてもそれは超脱ではないからだ。そうではなくて、超脱は欲望を抑え、快楽をさけることにある」ということを知っていた人もいた。かれらは、人けなき荒野で暮らす必要はないと考え、かれらの家で家族のなかにいて、浄化に専念した。
  列子は家に帰った。三年のあいだ、かれは外へ出なかった。かれは妻のために炊事をし、人に食を給するのと同じように、(鄭重に)豚を養った。そしていかなることにも参加せず、不自然な虚飾をさけて、全く自然の素朴にかえった。かれは一塊の土に同じくなり、無心のなかに専一となって、生涯を終るまでかくのごとくであった。」
「それがすんで、初心者がついに「虚」に達すると、忘我(エクスターズ)の時期が開ける。」
「(私の)内なるものと外なるものとが互いに貫通した。私は、眼も耳と同じように、耳も鼻と同じように、鼻も口と同じように知覚した。すべての感覚は同じであった。私の心は集中し、私の身体は分散し、骨と肉は融けあった。私の身体が何によりかかっているのか、私の足が何をふんでいるか、もはや感じなかった。風のまにまに東へ西へと行くさまは、ちょうど木の葉のごとく、また、ひからびた茎のごとく、とどのつまりは、風が私を乗せるのか、私が風を乗せるのか、もはや分からないほどになった。
 この忘我の時期は、気がつかないうちに、絶対者との完全な合一、すわなち「大妙」に導かれる。」

「聖人は道に順応するために、「無為」を実践しなければならない。かれは宇宙を変革しうる能力を与えられながら、それを行使しない。」
「働きかけることは、不変なる道と異なるがゆえに、よろしくない。したがって、世界を礼によって正そうとする儒家の学派は、善をめざすがゆえに間違っている。善は悪と同様に悪いのである。なぜなら、それはいずれも無心なる道から離れているからである。人間をあるがままにしておかねばならぬ。人間はその根源的な素朴、すなわち「樸」によって、道と順応してゆき、道と同じようになって、善も悪も無視するであろう。したがって、すべての教えは、人をこの原初的な素朴から遠ざけるがゆえに、よくない。聖人は「知っていても、その知識を用いない」〔荘子・徳充符〕のである。」
「つまり、知識を去り、欲望を抑えることによって、原初的素朴に、したがって真の智慧と真の実在の唯一の根源たる「道」にかえるのである。」

「道家にとっては、人間そのものが幻としてのこの世の一部であって、生と死はこの幻の継起的な姿にしかすぎない。生も死も意味のない言葉であり、あるいはむしろ同じ意味の言葉である。列子は弟子の一人に言う。「私とこの髑髏とは、実際に生もなく死もないことを知っている」と。そしてさらに独断的に、「死と生とは一つの往きと帰りである。だから、ここで死んでいることが、あちらで生きていることでないと、どうして分かるだろうか」という。生と死は継起する不可避の様相である。」
「仏教と道教ではともに、自我の実在性というものはなく、一つの生から他生へと伝わってゆく人格は存在しないと考えるけれども、しかし仏教では、この生と他生との二つの継起する存在のあいだに、きずな〔縁〕があることを認める。それは一種の道徳的な残滓(中略)であって、つまり、前生におけるあらゆる行為の結果を総和したものであり、これが次の新しい存在を条件づけるのである。かくて、執念ぶかい道徳律が一つの存在からもう一つの存在への転変をいやおうなしに支配する。ところが、道家にはこの種の観念は何もない。かれらにおいては、ある生物、またはある物を形成するために一時的に結合した諸要素は、「道」の外面的な仮りの顕われにすぎないのであって、その生物の死、またはその物の破壊とともに分離する。そしてそれらが離散することによって、今度は他の要素とともに、他の同じように不安定な組み合わせを形成する。しかし、いかなる法もこの気まぐれな変容を支配しないし、これらの種々の組み合わせにはいかなる道徳的必然性のきずなも伴わない。」



「道教の神々」より:

「道教においては、中国人が常にそうであったように、世界はそれ自身でおのずから完全に統治されており、神々がそれにかかわり合う必要は何もないと考えていた。天は生あるものや生なきものを生じ、地はそれを養い、四季は規則正しくくりかえし、五行は相勝ちつつ入れかわって無限に循環し、陰と陽は互に交代してゆく。万物はそれ自身で非常にうまくいっている。紀元前三世紀に荘子がすでに説いたように、もし誰かがあえてこれを管理しようとするならば、何もかもうまくゆかないであろう。時たま大きな災害が起こるとしても、その罪は人間にある。人間は善く振舞うことも、悪しく振舞うこともできる。つまり天に順応して振舞うことも、順応しないで振舞うこともできる。天に順応しない場合、このような反抗が世界の全秩序に反応を及ぼす。これが大洪水・日月の触・地震・火事・氾濫などをひきおこすものである。したがって神々や聖人やえらい仙人たちは、世界を支配する力をもっていたであろうが、しかし世界をしてその運行するにまかせ、そのメカニズムを乱さないようにする。」





こちらもご参照ください:

C・G・ユング/R・ヴィルヘルム 『黄金の華の秘密』 湯浅泰雄・定方昭夫 訳
『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』 (中国古典文学大系)
『老子』 蜂屋邦夫 訳注 (岩波文庫)
『列子 (上)』 小林勝人 訳注 (岩波文庫)
『荘子 内篇』 森三樹三郎 訳注 (中公文庫)
中野美代子 『西遊記の秘密』 (福武文庫)







































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