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谷川健一 『賎民の異神と芸能』

「これら異端の永久歩行者は、世の落伍者とさげすまれ、賤民とあざけられながら、自らの生涯を通して、庶民信仰や民間芸能を開花させ、保持し、後世に伝えた。その一端は本書においても感得できるものと信じる。」
(谷川健一 『賤民の異神と芸能』 より)



谷川健一 
『賤民の異神と芸能
― 山人(やまびと)・
浮浪人(うかれびと)・
非人』



河出書房新社 
2009年6月20日 初版印刷
2009年6月30日 初版発行
436p 付記1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円(税別)
装幀: 毛利一枝
カバー画: 「山神絵詞」より


「本書は『季刊東北学』第四号(’05・8)~第十七号、及び十九号(’09・5)連載の「民間信仰史研究序説」、『東北学』第十号(’04・4)の「山の神の原像」に大幅加筆したものです。」



図版(モノクロ)75点。
写真図版は小さすぎてよくわからないです。


谷川健一 賤民の異神と芸能 01



帯文:

「谷川民俗学の
到達点

海の民、山の民。国家から
こぼれ落ちた放浪者が
カミと出会い、芸能を生んだ。
信仰と芸能の
起源と展開を追う、
『季刊東北学』好評連載
「民間信仰史研究序説」
ここに完結。」



目次:

序章 永久歩行者

第Ⅰ章 山の原始
 御窟(みむろ)考 三輪山と天皇霊
 山部と二王子逃亡の物語
 役の優婆塞
 山の神の原像

第Ⅱ章 山からの贈り物
 山人(やまびと)と寄生木(やどりぎ)
 海彼の巫医
 山の民と川の民 ワタリ・タイシ・井上鋭夫批判

第Ⅲ章 終りなき漂泊
 山聖と市聖
 白の放浪者 白比丘尼・大白神・白大夫
 巫女と巫娼

第Ⅳ章 四宮(しく)河原の非人と芸能
 海の翁から山の翁へ
 宿と宿神
 摩多羅神 障礙と祝福の地主(じぬし)神
 地神盲僧と平曲琵琶
 逆髪考 地獄の女王

終章 ケガレとキヨメ




谷川健一 賤民の異神と芸能 02



◆本書より◆


「序章」より:

「折口信夫の『日本芸能史ノート』は次の言葉から始まっている。

  日本の国家組織に先立つて芸能者には団体があつた。その歴史をしらべると、日本の奴隷階級の起源・変化・固定のさまがよく訣る。日本には良民と浮浪民とがある。そのうかれ人(引用者注:「うかれ人」に傍点)が芸人なのである。

 これは驚くべき発言である。日本の国家組織がまだ充分に整わない以前に、芸能者の団体がすでにあり、彼らは良民と異なる浮浪人(うかれびと)であった、と折口は云うのである。(中略)良民と賤民とに腑分けされる以前の日本列島社会で、はやくも定住者と漂泊者の二つの異質の流れが存在したことを折口は認めているのである。」
「折口は、歌舞を職業とする「遊行女婦」(うかれ女)や、偶人劇を演じながら漂泊するクグツのほかに「ほかひ人(びと)」(乞食者)を念頭に置いている。彼らが、先住民の落ちこぼれで、生活の基調を異神の信仰に置いたアウトローの団体であることを強調しているのである。」

「終りなき旅の漂泊者たちは、人間を駆り立てるもっとも深い欲望に促され、旅に生き、旅に死んだのではなかったか。」
「彼らは、土地や主従関係に縛りつけられた定住者の小さな安定よりも、襲いかかる寒さと飢え、盗賊と野獣の危険に満ちた旅の苦難のほうを選んだ。流動こそ生であり、停滞こそ死であるという確信を捨てず、昨日も今日も歩きつづける一所不在の漂泊者を、私は畏敬をこめて永久歩行者と呼ぶ。」
「これら異端の永久歩行者は、世の落伍者とさげすまれ、賤民とあざけられながら、自らの生涯を通して、庶民信仰や民間芸能を開花させ、保持し、後世に伝えた。その一端は本書においても感得できるものと信じる。」



「御窟(みむろ)考」より:

「人間と洞窟とのかかわりは、先史時代までさかのぼる。おそいかかる外敵や野獣、耐えがたい寒気から身を守るためには、洞窟を住居とすることがもっとも安全であった。」
「次に洞窟は埋葬の場所でもあった。(中略)出雲の猪目洞窟からは十数体の埋葬人骨が発見されている。猪目洞窟が黄泉の穴と称されたように、洞窟は他界への通路と見なされた。また洞窟をくぐり抜けることで、他界から帰還した魂が再生するという考えが生まれた。出雲の加賀(かか)の潜戸(くけど)は佐太の大神が誕生したという伝承をもつ岩屋であるが、その潜戸の入口に賽(さい)の河原が置かれていて、そこが死から生へのドラマが展開する舞台であることがはっきりする。賽の河原の賽は遮るという意味でヨモツヒラサカに当たる。
 洞窟は葬地であることから一転して信仰の場となる。」
「洞窟は修行僧にも大いに利用された。室戸岬の洞窟が空海修行の場であったことはあまりに有名である。江戸時代に円空が大峰山系の大普賢岳の中腹にある洞窟「笙(しょう)の窟」で冬籠りしたのはたしかであり、円空は「窟聖(いわやひじり)」と呼ばれたほど、各地の洞窟にこもって修行した。それは洞窟が彼を呼びよせたと考えるほかない。」



「役の優婆塞」より:

「『日本書紀』によると、雄略天皇は四年、五年と二度にわたって葛城山に狩猟に出かけている。五年の春二月の狩猟のときは、怒り狂った猪におそわれている。四年の春二月の狩猟のときには、天皇に面貌容儀のよく似た丈の高い人に出会っている。天皇はこの人は神であるとは知っていたが、あえて誰であるかと問うと、丈の高い人は、自分は現人之神(あらひとがみ)である、と答え、また一事(言)主神であると告げた。天皇と一言主神は一緒に狩猟を楽しんだ。さいごに一言主神は来目水(くめかわ)(高取川)まで天皇を見送ったとある。
 『古事記』にも同様の記事が載っているが、内容はやや異っている。雄略帝は葛城山でふしぎな人と出会った。向い側の山をのぼる人がいたが、その人の行列は天皇の行列と全く同じ格好であった。天皇が誰かと問うと、天皇の問いと同じ答えが返ってきた。天皇が怒って矢をつがえると、「自分は悪事(まがごと)も一言(ひとこと)、善事(よごと)も一言、言い離(はな)つ神。葛城の一言主の大神ぞ」と言った。天皇は「わが大神が現世に姿を現わされた現人神であるのは恐れ多いことだ」と恐縮し、太刀と弓矢を捨て、百官の人たちの衣服を脱がせて礼拝し献じた。一言主大神はよろこんで贈り物を受けた。天皇が帰るとき、大神は山の稜線をわたって、長谷の山頂から朝倉宮に近いところまで降って天皇を送った、という話である。」
「歴史家はこの説話を政治的に解釈する。すなわち大王家と葛城氏との政治勢力が大和盆地の東西で拮抗していた時代の話とする説がある。それに対して、雄略の頃はすでに関東から九州まで大王の支配下にあったのだからそのような説は成り立たないとする反論がある。つまり一言主神を葛城氏という政治勢力のシンボルと捉えているのである。
 しかし私は全く違う見方をしている。一言主神は、雄略帝にかぎって姿を現わした現人神であったのだから、ふだんは姿を見ることはできず、託宣(声)だけを聞くことのできる幽界の神であった。古代人にとって現世と他界は合せ鏡に映すごとく全く相似の世界であった。一言主神が雄略帝に見せたものは、大王の行列や面貌容儀と寸分も違わない他界の光景であった。そこで現世の大王も常世の神には着物を脱ぎ、畏敬の念をもって礼拝し献るほか術はなかった。このことは何を意味するか。他界(常世)と現世とは相似形であるがゆえに、等価であった。現人神である常世の神は、現世の帝王と同等もしくは優位に立ち、すくなくとも劣った存在ではない。そのことを雄略帝はとっさに理解したと思われる。」



「山の神の原像」より:

「蝮や狼は人間に畏怖を与える「可畏きもの」であった。」
「日本列島に水田耕作が開始され、それが主要な農作となっていく過程で、人間の力が自然力に卓越していく様子が、『常陸国風土記』の行方(なめかた)郡の条にうかがわれる。
 芦原を開拓し、水田を新しくきずいた麻多智(またち)の計画を、夜刀(やつ)(谷)の神の蛇が妨害した。麻多智は怒って、山の入口のところに境界の印の杖を立て、これから上の山の部分は蛇神にまかせるが、その下は人が田を作る土地とすると宣言し、それを恨んで祟ることがないようにと念を押した、という話が載っている。
 住み分けを強制された蛇に、かつての「可畏きもの」としての面影はない。やがて蛇や狼や猪は「山の神」の眷属または配下の地位に甘んずることを余儀なくされる。
 しかし私共はこれらの動物を、海の生物との関係を通すことで、もう一度見直し、原初の姿にかえさねばならない。」
「南方熊楠(みなかたくまぐす)によると、紀州の山奥では狼を忌詞(いみことば)で山の神と呼んだ。平凡社版『南方熊楠全集(第二巻)』の口絵に「山神(やまのかみ)絵詞」が掲げられている。この絵を見ると、狼の姿をした山の神が、鹿や猪や兎などの動物をしたがえて上座に坐っており、狼のとなりにオコゼが十二単衣の宮女のような格好で坐っている。」
「千葉徳爾は山の神がオコゼを好むのは(中略)、オコゼを仲立ちに山の神と海の女神が婚姻したことをあらわしたものだとする(『続狩猟伝承』)。」
「大林太良は『太平記』(巻第三十九)に「我滄海(そうかい)の鱗(うろくづ)に交(まじ)りて、是を利せん為に、久しく海底に住み侍(はべ)りぬる間、此貌(このかたち)に成(な)りて候也」とあるところから海底から現れ出た磯良(いそら)の奇怪な姿は、魚類の主の姿だったのである、といっている(『東と西 海と山』)。
 折口信夫は「此(これ)は人ではなく、海の中に住む神―精霊―であった」(『上世日本の文学』)と述べている。
 「磯良」は古代海人族の阿曇氏の先祖と称せられているもので、『八幡愚童訓』には、ながく海中に住んでいたので、磯良の顔に牡蠣やヒシ、藻が取り付いて見苦しい姿であった、とある。
 僧袋中(たいちゅう)の『琉球神道記』には、鹿島(かしま)明神はもと武甕槌(たけみかつち)命であるが、人面蛇身であり、海底にいて一睡十日という具合だったので、顔に牡蠣が付着していたとされ、磯にいたので磯良という、とある。武甕槌命の槌はツツ(ツチ)で、蛇をあらわしている。
 藪田嘉一郎は磯良は「鮫人(こうじん)の姿を、文字通り竜蛇か鰐(わに)か鮫(さめ)に似たものと解して空想したのではなかろうか」と言っている。とすれば、海蛇がもっともふさわしいが、磯良の醜い顔つきから自然に連想されるのはオコゼであろう。このオコゼを阿曇磯良(あずみいそら)のイメージの原形であると考えると、オコゼは魚の主もしくは海の神そのものである。つまり山の神とオコゼの関係は山の神と海の神の婚姻をあらわすが、千葉がいうようにオコゼは仲立ちの役ではなく、むしろ当事者の海の神ということになる。」
「『日本書紀』の「欽明天皇即位前紀」には、秦大津父(はたのおおつち)が狼を「汝(いまし)は是貴(かしこ)き神にして、麁(あら)き行(わざ)を楽(この)む」といった話が記されている。かしこき神とは邪悪と怜悧さを兼ね備えており、そのために人間から畏怖される神という意である。『日本書紀』でかしこき神と呼ばれた動物は、狼のほかには蛇と虎しかいない。とくに狼の怜悧さはきわ立っていた。そこで狼は山の神としてあがめられる一方、「大口(おおくち)の真神(まかみ)」と畏怖された。」
「私は一九五〇年代の半ば、はじめて遠野を訪ねたとき、土地の古老から「昔は、狼がこわいから、夕方になると早く雨戸を閉めたものだ」という話を聞いたことがある。その時、私の眼には夕暮の迫る静まりかえった遠野の風景が浮びあがった。」
「私はこの小論で「山の神」の古形をもっとも単純で原初的なかたちに還元してみた。」



「山聖と市聖」より:

「平安京の風葬地としては北の蓮台野、東の鳥辺野と共に、西の化野(あだしの)が有名であった。アダシノのアダには「別の」「異なる」「他の」という意味がある。これにしたがえば、アダシノは他界、異界ということになる。また徒花(あだばな)というように「はかない」「むなしい」という意味をもっていて、死者の世界にふさわしい。化野の北西にそびえる愛宕(あたご)山も、もと風葬地であったことは『宇治拾遺物語』に、あるヒジリが愛宕の山で、大石を四隅に置き、その上に亡母の柩(ひつぎ)を置いて、三年間、陀羅尼を誦(じゅ)したという話が載っているのでも分かる。」


「白の放浪者」より:

「伝説的無限放浪者としてまず第一に挙げられるのは、若狭の八百比丘尼である。八百比丘尼は白比丘尼とも呼ばれているが、これにまつわる伝説として、木崎正敏の『拾椎(しゅうすい)雑話』(宝暦七年)は次のような奇怪な話を載せている。「昔、勢(せい)村(現小浜市)に高橋長者という富豪がいた。時々、小浜(おばま)の金持連中と一緒に集まることがあったが、その中に海辺の者が一人まじっていた。この海辺の者は、皆を招待したいと申し出、約束の日に迎えの舟を出してくれた。皆がその舟に乗ると、舟は水の中を潜(くぐ)りながら進んでほどなく目的地に着いた。招かれた客たちが主人に案内されたのは、すばらしい家であった。しかし、客人たちが、家の台所をそっとのぞいてみると、おどろいたことに『小女』をまないたにのせて料理をしていた。その様子を怪しんでいると、主人は炙物(あぶりもの)を出した。招待客は誰も炙物に箸をつけなかった。別れ際に主人が云うには、今日の一番の御馳走をどなたも食べていただけなくて残念です、と土産に炙物をもたせた。さて皆がまた舟に乗ると、水中を潜って、もと来た場所に着いた。高橋長者の家では、帰りがけに土産に貰った炙物を、長者の娘がこっそり食べてしまった。そのお蔭で、娘は数百年たっても一向に年を取ることがなかった。八百比丘尼というのは、その娘のことである。さきに海辺の者といったのは、実は竜宮の人で、炙物は人魚であった」とあり、この話は、勢村(せいむら)の古老たちが世々申し伝えてきたものであると述べている。
 この話の中の「小女」というのは、人魚が小女に見えたのである。人魚はジュゴンのことで、若狭には江戸時代に大飯(おおい郡の音海(おとみ)の海岸に、人面魚体の怪物が漂着したという記録があることから、南海産のジュゴンが黒潮に乗って、まぎれこんで流れ着いたことがあったのはたしかである。」

「八百比丘尼がいつ迄も年を取らない若々しさを誇示するのを考えると、白には若返りとか、不老長寿の意味がふくまれていると思われる。奥三河の花祭では、白山(しらやま)という仮小屋をこしらえて、死装束した人びとが籠る。夜明けに鬼が白山を壊すと、中の人びとが飛出す。これがウマレキヨマルですなわち擬死再生の儀礼である。それを白山の「白」があらわしているのである。
 沖縄ではシラは産とか誕生を意味する語である。産室をシラヤー、産婦をシラビトと云う。奄美でおこなわれる成巫式は、新しく巫女になる女性が、泉の水を浴びる儀礼であるが、これをシロミズアミ(白水浴)と呼んでいる。」



「宿と宿神」より:

「シュクの神が単なる邑落の境の神ではなく、被差別部落の人々に祀られた神であることは明白である。」
「明治四年十二月の、被差別部落の祭神に関する高知県から神祇省への伺書によると、穢多村には必ず「シュクジノ神」の祠があるとのことである。土佐国だけでなく、伊予の宇和郡でも多くの被差別部落でシュク神が祀られている。」
「乞食、癩者、非人、屠者などの集まる被差別部落に宿神が祀られるのは、西日本に多く見られるが、その理由は柳田のシュク=地境説だけでは解決がつかないことは明らかである。これら宿神は、神社明細帳にも記載されていない小祠であり、個々のシュク部落独特の祭神である。」
「蟬丸が琵琶を弾いた四宮(しく)河原(山科郷四宮河原)は、ほかならぬ浮浪人などの寄り集まる場所であった。蟬丸が延喜帝の第四の宮であったから、この逢阪の関のあたりを四宮河原と云うと『源平盛衰記』にあるが、それはもとより付会の説であり、四宮はシュクに由来するというのが本筋である。京都の糺(ただす)河原や四条河原がそうであるように、河原は勧進田楽や猿楽などの芸能興行のおこなわれる場所でもあった。」
「伊勢には諸国を巡ってあるく太神楽(だいかぐら)なるものがあった。彼らは村々に入るとまず楽を奏し、家々に札を配り、また獅子の面をかぶって、刀剣をひらめかせ、お祓いをおこなう。その後で町や村の広場で余興を演ずるが、それには猿楽を演じたり、剣を呑むとか、球を投げるとか、獅子舞をしたりする。これらは剣手神妙と褒められた呪師の技を伝えたものであり、祓除(ふつじょ)をおこなうのは、呪師の本領であった。」

「『風姿花伝』も『明宿集』も秦河勝の霊が近隣の諸人に憑いて祟り荒れたので大荒神と称せられたと述べている。これは河勝が不遇の晩年を送り、失意のまま世を去ったため、その死後世人に禍をもたらしたことを意味するのではないかと私は考えている。「化人跡を留めぬ」とか「世ヲ背キ」という言葉には、世間から容れられずに隠遁したことが背景として存在する。」
「秦河勝を祀るといわれている大酒(大避)神社は広隆寺の守護神の役割をもっており、実は地主神にほかならなかった。地主神は敬意を払われないときは障礙神(しょうがいしん)として妨碍(ぼうがい)するおそろしい神であった。この場合秦河勝は宿神であり、大避神社の地主神としての摩多羅神と一体化した「大荒神」であったと考えることができる。シュク神は在来の土地の神として荒神の側面を備えている。荒神は外来の悪霊の侵入を防ぐと共に、自分の占める土地を主張し、自分を恭敬しないものに対しては敵対者、すなわち障礙神としてふるまう。摩多羅神は芸能神としての宿神であり、また荒神としての宿神であったと思われるのである。
 柳田は『石神問答』の中で、「社寺の境内に荒神を祀るは地主神の思想に基くものなること疑なしと存じ候。(中略)荒神の字義は単に荒野の神と云ふことかとも存じ候へども、やはり『荒ぶる神』と云ふ古称に基くものと再考致し候、(中略)思ふに此島先住民の頭目にして帰順和熟する者は即ち国つ神(地祇)と称せられ、新住民に抵抗する者は即ち之を荒神と云ひしなるべく、之に向つて地を乞ふ者は常に地主を恭敬せざる能はざりし次第と存じ候」と荒神の本質を衝く発言をしている。
 播磨の坂越にある大避神社は太秦の大酒神社を勧請したもので、その祭日は、広隆寺の牛祭の日と合致していることから推して、この日が秦氏の祖神としての摩多羅神の祭日であったと思われる、と服部幸雄は述べている(「宿神論」)。
 そうだとすれば、『風姿花伝』や『明宿集』に、播磨で不遇の死をとげた秦河勝の霊が見境なく人に取り憑いて大いに荒れたとあるのも、障礙神としての摩多羅神の仕業かも知れない。」



「摩多羅神」より:

「摩多羅神の正体は明らかではない。本田安次は『神楽』の中で出雲の鰐淵寺(がくえんじ)について「天台の寺であるだけに、常行堂に摩多羅神をまつっているが、その信仰は今も固く、常行堂は常の日も、調査団から希望が出ても、扉を開けることもしない。摩多羅神の名を口にのぼすことさえも恐れられていたようである」と云っている。このように摩多羅神が恐れられるのは、それが障礙神の一面をもつからである。障礙というのは、人に幸福を与えるのではなく、障りや災いをもたらす神ということである。」
「東寺講堂の裏に今も残る夜叉堂も摩多羅神が祀(まつ)られていたとされる。この神が一面において忿怒(ふんぬ)神、夜叉神、行疫神として怖れられる存在であったということは、強力な霊の発現を生じるからである。
 毛越寺(もうつうじ)の摩多羅神祭(常行三昧御本地供)では、神前に進んで摩多羅神に祝詞(のりと)を奏上したあと、極秘の足踏みがおこなわれる。これは反閇(へんばい)で、摩多羅神の顕現を仰ぎ、神威の発動をうながし、魔縁の邪鬼悪鬼を踏みつけるためにおこなう。
 菅江真澄は天明八年(一七八八)正月二十日、(中略)毛越寺の常行堂で摩多羅神の祭を見にいっている。摩多羅神の御堂には、阿弥陀如来のうしろにそっとこの神を祀っていた、と述べているが、魔多羅神を実際に見たかどうかは分からない。常行三昧をおこなった後、そのあと、田楽など舞があった。また「黒き仮面かけて、うら若き衆徒が出て、あらぬふりして、うち戯れ」たが、そのさまは猿楽の狂言のようであったとも述べている。
 常行堂の扉の開閉は「神秘あり」とされて、最長老の僧以外はこれをつとめることができないことになっていた。摩多羅神の神像については、昔から秘して拝見をゆるさず、三十三年目ごとの御開帳のときすら、身代りを出して、その姿は秘されていた、とされていた(服部幸雄「宿神論」)。」
「文保年間(一三一七~一九)に比叡山の口伝や記録を蒐集した『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』には「常行堂摩多羅神の事」という一項がある。それには次のことが記載されている。
 唐で引声念仏を学んだ慈覚大師(円仁)が船で帰朝するとき、船中において虚空に声があり、自分の名は摩多羅神で、障礙神である。私を崇敬しない者は、往生したいという日頃の志を遂げることはできない、と云われたという。
 摩多羅神とは摩訶迦羅天(大黒天)のことである。また吒枳尼(だきに)天でもある。この神は人が臨終のとき、その肝臓を食うのである。そうすると人は臨終に正念を得て往生を遂げるが、もし吒枳尼天あるいは摩訶迦羅天が人の肝臓を食わないと、人は正念を得ず往生を遂げることができないとされている。
 比叡山の摩多羅神と同類とされる大黒天も吒枳尼天も人の精気を奪って死にいたらしめる「奪精鬼(だっしょうき)」とされている。とはいえ、これらの神は障礙神としての否定的な機能を発揮することがあっても、その神通力のゆえに、転じて福神に変わるという道筋をたどる。この不思議な逆転の役まわりを演ずるのは、魔多羅神も同様である。障礙神のもつ負のエネルギーを利用して、修行を妨げる天魔や天狗などを除去する立場に転換する。つまり、魔多羅神は、自分に不敬があれば人間の往生を障礙する神であるが、一方では往生を引導するという両面をもつ神である。それでは摩多羅神の障礙神から福神への変貌はどのような契機でおこなわれるかを見ることにする。」
「この摩多羅神は天台寺(慈覚寺)の寺院の常行堂の後戸に、仏法の守護神として祀られた。摩多羅神を祭るのは修正会の行事の中でおこなわれた。毛越寺(もうつうじ)は正月二十日、多武峰では正月五日、伊豆山権現でも同じく正月五日ときまっていた。日光山輪王寺では正月一日から七日間であった。輪王寺では三日目と五日目の初夜を「顕夜(けんや)」と呼び、摩多羅神を迎え、狂宴がくりひろげられた。中世の猿楽芸能民に関係のふかい摩多羅神であり、宿神でもあった。その宿神は翁となって示現した。」
「これをみれば、酒をくらい、意味不明の猥褻(わいせつ)な言葉を吐き散らし、後戸で跳ね踊って乱舞し、見境もない狂態を演じ、あたかも天狗が憑(つ)いたかのような格好をすることの狙いが明らかになる。そうすることで日頃は幽暗な秘処に祀られている摩多羅神の目をさまさせ、引き摺り出し、悪霊=天狗を怖(おど)す(=慴伏(しょうふく)させる)ことを狙ったものなのである。摩多羅神自身が障礙神であり、荒神であるのだから、摩多羅神は大天狗にほかならぬ。」
「つまり、夷を以って夷を制することで、障礙神の摩多羅神を福神へと転ずる契機をつかんだのである。」

「しかし摩多羅神は「荒神」と云って済ますには芸能の世界に深く入りこんでいることに特徴がある。そのとき、摩多羅神が手にもって打つ「あやかしの鼓」はどのような音色を発するのだろうか。それを知る術(すべ)はもはやない。」







こちらもご参照ください:

川村湊 『闇の摩多羅神 ― 変幻する異神の謎を追う』
山本ひろ子 『異神 ― 中世日本の秘教的世界』
中沢新一 『精霊の王』
兵藤裕己 『琵琶法師 ― 〈異界〉を語る人びと』 (岩波新書)
守屋毅 『中世芸能の幻像』
早川孝太郎 『花祭』 (講談社学術文庫)

















































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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