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谷川健一 『柳田国男の民俗学』 (岩波新書)

「日本には文字記録にない数多くの欠史がある。それを少しでも明らかにすることが民俗学の使命ではないか。」
(谷川健一 『柳田国男の民俗学』 より)


谷川健一 
『柳田国男の
民俗学』
 
岩波新書(新赤版) 736 


岩波書店 
2001年6月20日 第1刷発行
vi 244p 略年譜・主要著作2p
新書判 並装 カバー
定価740円+税



本書「はじめに」より:

「私の民俗学への関心はもっぱら日本人の神と霊魂の問題にあてられてきた。私の考察の対象は、柳田が『民間伝承論』の中で人は神を懐(おも)い死後を信じ得る動物である、そうしてそれ以外の何物でもない――と言うときの神であり、または人間の他界観である。そこで柳田の厖大な研究の中で、その主題がもっとも純粋な結晶をみせている『海上の道』になるべく添う形で本書をまとめることにした。もとよりそこにいたる曲折にみちた過程についても配慮したつもりである。」


本文中図版(モノクロ)5点、章扉図版(モノクロ)8点。



谷川健一 柳田国男の民俗学 01



カバーそで文:

「『山の人生』に描かれた貧しい山民や漂泊民サンカ。『遠野物語』の伝承や『海南小記』の漂海民たち。『海上の道』に登場する黒潮にのって稲作文化とともに北上した人々。さらに古琉球の民俗、常世の国考…。巨人・柳田の学問を丹念にあとづけながら、著者自らの長年の踏査と論考をまじえ、柳田民俗学の鋭さと広がりを新たな切り口から捉え直す。」


目次:

はじめに

第一章 山の漂泊民
 一 新四郎屋敷
 二 新四郎の告白
 三 『山の人生』と「新四郎さ」
 四 自然児重右衛門
 五 観音笹を追って

第二章 山人論の運命
 一 小さきものの世界
 二 山民から山人へ
 三 山人の五分類
 四 国つ神と蝦夷
 五 南方熊楠との論争
 六 東北地方のアイヌ語地名
 七 山の神の原像
 八 山の神と杓子

第三章 漂海民と孤島苦
 一 家船
 二 糸満漁夫の「旅」
 三 海に背を向ける島民
 四 孤島苦

第四章 『海上の道』考
 一 未来へのはなむけの書
 二 宝貝と椰子の実
 三 稲作北上説
 四 柳田説の再評価
 五 幼時体験と民族体験
 六 「古琉球」以前
 七 東海岸の海上交通

第五章 稲の嬰児
 一 シラとスヂ
 二 南島の初穂儀礼
 三 インドネシアの初穂儀礼
 四 稲実公の任務とは何か
 五 新嘗の夜の忌籠り
 六 民間の新嘗と宮廷の新嘗
 七 冬至は暦法の基点
 八 暦なき時代の一年

第六章 稲作一元論をめぐって
 一 祖霊と稲作
 二 さまざまな食習
 三 粟の信仰儀礼
 四 税としての稲
 五 農民のニヒリズム
 六 オシラサマと養蚕
 七 金属と民俗

第七章 海彼の他界
 一 根の国と黄泉国
 二 みみらくの島
 三 東方海上の浄土
 四 海上浄土の方位
 五 冥界の明るさ

第八章 日本人の学
 一 女性の力
 二 女性と酒
 三 感官の民俗学
 四 スプーンで日本を掘る
 五 日本を知るための物さし
 六 開かれた国学
 七 畏き人

あとがき

柳田国男略年譜・主要著作




谷川健一 柳田国男の民俗学 02



◆本書より◆


「第一章」より:

「今から十数年前の一九八九年の夏、私は奥美濃の友人の案内で、岐阜県郡上(ぐじょう)郡大和(やまと)町の古道(ふるみち)という集落から東北にのびる山道をのぼっていったことがある。(中略)標高九百メートルの高さのカラマツ林の蔭に、大小二つの積石塚があった。(中略)案内者の説明では、ここはかつて「新四郎屋敷」と呼ばれていたという。新四郎は柳田国男が『山の人生』の冒頭「山に埋もれたる人生ある事」で紹介した惨劇の主人公の通称である。新四郎は三年の刑期をつとめて特赦されると、どこにも立寄らず、真直ぐにここにやってきて、二人の子供を埋めてある埋葬地の草の中に伏して、泣けるだけ泣いた、と後年告白している。」
「私が最も関心を抱いたのは、柳田が何故この事件に深い興味を抱いたか、ということであった。(中略)柳田が大正十四年(一九二五)一月、『アサヒグラフ』に掲載した有名な『山の人生』の一文をまず掲げておく。

   今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で殺したことがあった。
   女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あつた。そこへどうした事情であつたか、同じ歳くらゐの小娘を貰つて来て、山の炭焼小屋で一緒に育てゝ居た。其子たちの名前はもう私も忘れてしまつた。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかつた。最後の日に空手で戻つて来て、飢ゑきつて居る小さい者の顔を見るのがつらさに、すつと小屋の奥へ入つて昼寝をしてしまつた。
   眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ。二人の子供がその日当たりの処にしやがんで、頻りに何かして居るので、傍へ行つて見たら一生懸命に仕事に使ふ大きな斧を磨いて居た。阿爺(おとう)、此でわたしたちを殺して呉れと謂つたさうである。さうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たさうである。それを見るとくら/\として、前後の考えも無く二人の首を打落してしまつた。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕へられて牢に入れられた。
   此親爺がもう六十近くになつてから、特赦を受けて世中へ出て来たのである。そうして其からどうなつたか、すぐに又分らなくなつてしまつた。私は仔細あつて只一度、此一件書類を読んで見たことがあるが、今は既にあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕ばみ朽ちつゝあるであらう。

 柳田国男の晩年の回顧録『故郷七十年』には柳田は明治三十五年(一九〇二)二月から大正三年(一九一四)まで法制局の参事官をしていたときに、予審調書などの関係資料を読んで特赦に関する事務を扱ったことが記されている。その中で、一番印象の深かった刑事事件の一つが『山の人生』に述べられているものであった。殺人の男は自首して出たが、子供は無意志なので、殺人罪が成り立ち、十二年の長い刑に処せられたが、獄中品行が正しく、殊勝で、環境も憐れむべきものであり、再犯のおそれもないというので特赦にしてほしいと、柳田は印を捺して申し出た、と語っている。
 新四郎が三年の短い刑期で特赦に会ったことが、柳田のはからいによるものであったことがこれで判明する。」
「『山の人生』の中の男が「眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であつたと謂ふ」という箇所からは、小屋の入口に晩秋の夕日がカッと照っている光景がまざまざと浮ぶ。この夕日の描写があればこそ、この光景は生きたものとなる。」
「新四郎は柳田の言のごとく獄中では模範囚であり、出獄したあとは篤信の門徒として善光寺参りを欠かさず、念仏三昧(ざんまい)で八十八年の生涯を終えた。」
「「わがこころのよくてころさぬにはあらず。
 また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし」
 「歎異抄」の中のこの言葉は、牢獄の男は私たちみんなだ、と言っている。私たちはただ人を殺す業縁(ごうえん)に出会わなかっただけで、「塀」の外にいる身なのだ。石器時代と寸分ちがわない竪穴の山小屋でかつがつ暮し、いっぺんも人をだましたことのない正直者の新四郎に、事もあろうにわが子を殺すという業縁が降りかかった。(中略)柳田はそれを人間の実存にふかく迫る「偉大なる人間苦」の記録と呼び、同情をよせることを惜しまなかった。」
「柳田は「山に埋もれたる人生ある事」の文章を「今では記憶して居る者が、私の外には一人もあるまい」という書き出しから始めている。しかし彼の想像に反して柳田がそう記した大正末からはるか後まで、その事件は現地で記憶されていた。それによれば柳田が「西美濃の山の中」としたのは奥美濃のまちがいで、季節も秋の末ではなく、春のはじめのことであった。私はこの事件のてんまつが金子貞二著『奥美濃よもやま話 三』の中に「新四郎さ」と題して二篇収録されている事実を、一九七九年に知らされておどろきを禁じ得なかった。「新四郎さ」の話は、(中略)金子信一氏の話を金子貞二氏が書きとめたものである。特赦にあって出獄した後、新四郎は金子信一氏宅に作男として出入りしていた。金子信一氏は新四郎から身上話を昭和初年に打ち明けられていたが、ながく胸中に秘めていた。それを昭和四十五、六年頃、金子貞二氏が聞いて記録し、『奥美濃よもやま話 三』に収めたのであった。新四郎の事件が起きたのは、明治三十七年(一九〇四)四月五日のことであるから、昭和四十五、六年頃まで七十年近く経っていた。新四郎が金子信一氏に打ち明けたという話は『山の人生』の話と、殺人にいたる動機がちがっている。
 新四郎は二人の子供を抱え、妻に先立たれた。そこで明方村寒水にある柿洞(かきぼら)という屋号の家で十歳になる娘を使ってもらうことにした。(中略)その家には分かりのよい主人夫婦の下に十八歳になる惣領息子と二十四歳になる姉女房がいた。新四郎の娘は奉公先の家族からかわいがられたが、数年経った頃から、急に息子の嫁にきらわれるようになる。
 嫁は新四郎の娘が自分の夫を好きになったのではないかと疑い、邪慳(じゃけん)にあたり散らす。ある日娘は嫁の巾着を盗んだという疑いをかけられた。巾着は娘の荷物から発見された。それは嫁が仕組んだものであったが、娘は柿洞の家にいられなくなり、寒水から峠をこえて、山にいる炭焼の父のところにかえっていき、娘に同情した父と、姉の弟が一緒に死ぬことを決心する。
 新四郎が金子信一氏に打ち明けた一家心中にいたる動機は、娘が奉公先で濡れ衣を着せられて解雇され、父にむかって死にたいと洩らしたからである。」
「「新四郎さ」では新四郎は「警察の調べに、オレは、なんにも言うことはないし、こうじゃろう、と言われや、首を縦に振るだけでの」と金子信一氏に答えている。また金子貞二氏は「新四郎は、取調べに対して、一切弁解せず、真意を述べることをはばかり、係官の言うがままに肯定し、その結果が調書に載ったまま」であった。その調書を柳田は読んだのであったと言っている(『郡上』第九冊「「新四郎さ」後日談」)。」

「ところで柳田が花袋の作品の中で最も評価したのは「重右衛門の最後」であった。」
「ところでその作品の筋というのは――
 長野県の上州境にある塩山村の地主の家に生まれた重右衛門は、腸の一部が睾丸に下りている生理的欠陥の持主で、そのために祖父母はふびんに思って寵愛したが、村人からはバカにされた。しかし年頃になって湯田中の遊廓で放蕩の味をおぼえ、一度は嫁を貰ったが、それも束の間、離縁したあとはまた遊興三昧。あげくの果は、抵当にとられた自分の家に火を放(つ)けて投獄され、六年してから出てきたが、賭博でまた一年臭い飯を食うことになった。そのあとは手のつけられない悪行で、村の家ごとにゆすり歩いた。そればかりではない。重右衛門は孤児の娘と同棲していたが、その娘に言いつけて村の家に次から次へと火を放けさせた。思案にあまった村人たちは酒に酔った重右衛門を池に投げこんで溺れ死させてしまう。それが重右衛門という悪漢の最後であった。
 重右衛門の死骸は同棲した娘が背負って引きとっていき、小屋をこわして薪にし、裏山で火葬にした。その翌日、全村をほとんどやきつくした火事が起り、その中に重右衛門と同棲していた娘の焼死体が見つかった。こうして厄介者を始末した村はもとの平穏な生活にかえった。
 という荒筋である。手のつけられない悪漢が放蕩や放火などの果に自滅していく姿を花袋は描いたが、その作品の真意と思われるものを作者の述懐の形で挿入している。
 花袋は重右衛門を自然児として同情をそそいで次のように言う。
 「自然児は到底(たうてい)この濁つた世には容(いれ)られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備へ、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業(わざ)もなく、徒らに敗績(はいせき)して死んで了(しま)ふのであらうか。」
 「けれど、この自然児! このあはれむべき自然児の一生も、大いなるものの眼から見れば、皆なその必要を以て生れ、皆なその職分を有して立ち、皆なその必要と職分との為めに尽して居るのだ! 葬る人も無く、獣のやうに死んで了つても、それでも重右衛門の一生は徒爾(いたづら)ではない!」
 「重右衛門の最期もつまりはこれに帰するのではあるまいか。かれは自分の思ふ儘(まま)、自分の欲する儘、則ち性能の命令通りに一生を渡つて来た。もしかれが、先天的に自我一方の性質を持つて生れて来ず、又先天的にその不具の体格を持つて生れて来なかつたならば、それこそ好く長い間の人生の歴史と習慣とを守り得て、放恣なる自然の発展を人に示さなくつても済むだのであらうが、悲む可(べ)し、かれはこの世に生れながら、この世の歴史習慣と相容(あひい)るる能はざる性格と体とを有(も)つて居た。」
 「重右衛門に対する村人の最後の手段、これとて人間の所謂(いはゆる)不正、不徳、進んでは罪悪と称すべきものの中に加へられぬ心地するは、果して何故だらう。自然……これも村人の心底から露骨にあらはれた自然の発展だからではあるまいか。」」
「花袋は、重右衛門が生理的欠陥のために、自然児としての本能を歪(いび)つな形で暴発せざるを得なくなり、自滅に追い込まれる、という設定をして、逆に人間における自然とは何かという問いを浮彫りにしようとしているが、その狙いは効果をあげている。重右衛門も、その手下の野性的な娘も、また重右衛門の悪行に手こずって、溺死させた村人たちも、大自然からみれば、インノセントな心情の持主であった、と花袋は言いたげである。そう考えると、柳田が「重右衛門の最後」に心を動かされた理由もおのずから理解できる。
 重右衛門は牢獄に二度も入り、出所しても放火してまわるという反社会的な男だから、無罪の――という意味の、インノセントにはまったく当らない。しかし、インノセントのもう一つの意味、無邪気の、天真爛漫の、頑是(がんぜ)ない、お人好しの、という言葉が自然児にあてはまる形容詞とすれば、重右衛門はインノセントである。インノセントであるために、罪を犯すというのは社会生活の上では背反しているが、人間も大自然の一部であるという見方に立てば、矛盾してはいない。そのもっとも適切な例が新四郎一家の悲劇ではなかろうか。彼らは文明社会の手垢のつかないインノセントな人々であった。それだけに文明社会の狡智に太刀打ちする術を知らなかった。重右衛門のように社会に復讐しようとしたところで、自滅の墓穴を掘ることで終った。いずれにしても、文明社会に対する自然児の敗北は必至であった。それは山人や漂泊民の運命にもつながるものである。」

「「大正四年の京都の御大典の時は諸国から出て来た拝観人で、街道も宿屋も一杯になつた。十一月七日の車駕御到着の日などは、雲も無い青空に日がよく照つて、御苑も大通りも旱天から、人を以て埋めてしまつたのに、尚遠く若王子の山の松林の中腹を望むと、一筋二筋の白い煙が細々と立つて居た。はゝあサンカが話して居るなと思ふやうであつた。勿論彼等はわざとさうするのでは無かつた。」
 これは柳田が大正四年(一九一五)に京都でおこなわれた大嘗祭に奉仕したときの文章である。(中略)彼は宮中のもっとも厳重な儀式に参加しながら、他方ではサンカの煙のあがるのを見落さなかった。(中略)サンカのあげる煙は、一切の意味付けから離れている。もっとも重要な意味をこめた大嘗祭の儀礼からもっとも遠いのがサンカの煙であり、それは無心に秋の青空の中に溶けていく。柳田はさきにあげた文章の末尾に「勿論彼等はわざとするのではなかつた」と記しているが、心にくいこの一行の文章に、いかめしい大嘗祭の意味を無化する存在のあることを仄めかしているのである。」



「第二章」より:

「柳田は『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』と矢継ぎ早やに刊行したが、その三つの書物に共通するものは、それまで他の学問の顧みることのなかった「小さきもの」たちへの共感であった。」
「これらの著作に出てくる山民または山の神や山男・山女の話の背後に、柳田は先住民の子孫としての山人(やまびと)のおぼろげな像をみとめた。そのことは柳田をさらなる主題へと進ませることになった。後来の平地人との角逐にやぶれ、山住みを余儀なくされている残存の山人たちへの共感は、すでに『遠野物語』の序の中にはっきり示されている。柳田は「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と言い放っている。これは自分は断乎として山人に味方するという宣言にほかならなかった。」

「山人への関心は、平地人である日本人とは異質の民族文化への傾斜であり、日本列島の歴史を異質の文化も含めた複合体として把握しようとする視点にほかならなかった。その意図が挫折したあとは山人の対象となるアイヌや蝦夷などの存在も、柳田の目標からはずされ、ふたたび復活することはなかった。」



「第六章」より:

「柳田国男にひきいられる日本民俗学は、稲作慣習の調査には力を尽したが、金属に関わる伝承を研究の対象とするのに熱心ではなかった。したがって、金属伝承の核心を理解することができなかった。稲に魂(アニマ)を見出し、一定の土地に定住し、季節の推移を生活のリズムとしてきた稲作民の対極にあるのが、金属を精錬する人たちであった。金・銀・銅・水銀などの鉱物には、動植物に内在する霊魂(アニマ)を認めることができない。また金属精錬に従事する人たちの生活には、農民、漁民、山民の生活のように、季節をめぐる一定のリズムがない。さらには、彼らは漂泊者の心情を多分にもち、定住性が乏しい、ということなどが考えられる。その数も定住民に比べて遥かに少なく、それゆえに農漁民や山民が大部分を占める社会では例外的な存在と見なされた。こうしたことから彼らは日本民俗学の視野の埒外に置かれてきた。」
「ふりかえってみれば、弥生時代とそれに先行する縄文時代を区分する二つの大きな指標は、稲作の開始と金属器の登場であった。この二つは密接な関係をもっている。鉄製の農具が日本の稲作を飛躍させ、その蓄積のもとに、国家の原始的な萌芽が形成された。(中略)稲作文化と金属器文化は弥生以降の二大支柱として、支配層はいうまでもなく、民間社会の中にも根を下ろしていた。しかし時代を経るにしたがって、日本国家の支配層が稲作に依存する率は絶大となり、金属精錬に従事する人々は、特殊な技術者であるがゆえにかつて神としてあがめられた存在から一転して社会から疎外されて生きることを強いられた。かくて支配階級の作為にとどまらず、日本の常民の意識も徐々に変化し、農民の心情をもって一般の常民の心情とすることが怪しまれもせず通用する時代が訪れた。こうしたことから日本の常民の信仰――それは農民の信仰でもあるが――を信仰一般として取扱ったという点にも問題がある。柳田は祖霊と稲作のむすびつきに固執するあまり、職業が異なるにつれて、それぞれ信奉する神もちがうということを深く配慮することがなく、また金属のもつ呪力にも思いを致すことが足りなかった。かくして柳田の民俗学は稲作文化一元論と言われるような偏向を犯す結果を生んだのである。」



「第八章」より:

「「涕泣史談」では、現代は人間の泣くことが少なくなった時代である。しかし以前はそうではなかった。しかも泣くことはけっして悪徳であるときめつけられなかった、と柳田は言う。」
「『食物と心臓』から一つの例をあげてみると、瞼に生じる腫物をどうしてモノモライと呼ぶか。柳田はあれこれと各地の方言を穿鑿して、モノモライという名前の起りは、この疾病を治す手段として、人の家の物を貰って食べる習慣があったためである、と推断している。つまり、平生食物を共にしない人々と、一緒に何かを食うという行為には、それを通して大きな力を借りるという意味がこめられてあった、と考えるのである。」
「声を出して泣くことも、また他人から食物を貰うことも、すべて他人との交流の手段であって、そうした共同生活を前提として成り立っている社会が昔は存在していた、という事実は、現代の孤立した個人の集合にすぎぬ社会の袋小路を脱出するのに、なにがしかの手がかりを与えるのではなかろうか。」






こちらもご参照ください:

岡谷公二 『柳田国男の青春』
中沢新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 (ちくまプリマー新書)
















































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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