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赤坂憲雄 『東西/南北考』 (岩波新書)

「古代蝦夷が縄文人の後裔であることは、たぶん否定できない。それゆえ、蝦夷ははるかな縄文と現代とを繋ぐ、まさに失われた環(ミッシング・リンク)なのである。」
(赤坂憲雄 『東西/南北考』 より)


赤坂憲雄 
『東西/南北考
― いくつもの
日本へ』
 
岩波新書(新赤版) 700 


岩波書店 
2000年11月20日 第1刷発行
2001年4月5日 第3刷発行
xii 199p 
新書判 並装 カバー 
定価660円+税



本文中図版9点、図・地図17点。



赤坂憲雄 東西/南北考



カバーそで文:

「東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に、縄文以来、北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史・文化的な重層性をたどる。新たな列島の民族史を切り拓く、気鋭の民俗学者による意欲的な日本文化論。」


目次:

はじめに
 東西から南北へ
 大相撲と異種格闘技戦
 四角いジャングルへの誘い

第一章 箕作りのムラから
 箕という農具を起点として
 西のサンカからは遠く
 魂の入れ物としての箕
 箕をめぐる民俗史のなかへ
 箕のある風景をもとめて――西と南
 民族史的景観を開くために

第二章 一国民俗学を越えて
 はじまりの一国民俗学へ
 事件としての沖縄の発見
 多元的な文化の否定
 方言周圏論という方法
 国語の偏差としての方言
 文化周圏論の限界から
 「ひとつの日本」への欲望
 東西論の呪縛を逃れて

第三章 東と西を掘る
 試みとしての餅なし正月
 東国方言と西国方言
 東西論の曖昧な揺らぎ
 民俗のなかの東と西
 稲作以前、または官暦以前
 東西論から南北論へ
 文化領域としての東と西

第四章 地域のはじまり
 後期旧石器時代の地域性
 縄文時代の自然環境と地域
 土器様式から見た地域
 北の文化・中の文化・南の文化
 北海道と南島の文化
 ボカシの地帯の発見
 浮かびあがる国家に抗する社会

第五章 穢れの民族史
 穢れと差別をめぐる問いへ
 東北の被差別部落の発生
 菅江真澄の描いた被差別民
 西の民俗学者が見た沖縄
 第一の穢れ――両墓制と屋敷墓をめぐって
 死穢のタブーの稀薄な地域
 縄文と弥生のムラ・住居・墓地
 第二の穢れ――血の忌みと産屋をめぐって
 埋甕から胎盤処理の民俗へ
 第三の穢れ――米と肉の相克のなかで

第六章 東北学、南北の地平へ
 北の蝦夷と南の隼人が呼応するとき
 失われた環としての蝦夷の時代
 東北に残されたアイヌ語地名
 マタギの山言葉に見えるアイヌ語
 丸木舟をめぐる文化領域から
 アラキ型とカノ型、焼畑をめぐって

参考文献
あとがき




◆本書より◆


「はじめに」より:

「東西の軸に沿った戦いは、関ヶ原の合戦を思い浮かべるだけでも、ひとつの土俵・ひとつのルールを互いに認め合った戦いであることがあきらかだ。際限もない殺戮のドラマが演じられるわけではない。それは突き詰めてゆけば、ひとつの種族=文化の内なる領土争いに帰着する。ところが、南北の軸に眼を転じると、様相はたちまちにして一変する。そこには、定められた土俵は存在しない。戦いのルールもまた混沌としている。それは、蝦夷・アイヌ・琉球といった、少なからず種族=文化的な断層を孕(はら)んで対峙する相手との、いわば植民地支配のための戦争である。王化や「日本」化に抗うマツロワヌ異族の人々にたいして、巨大な国家の暴力を背景としつつ、服属を迫るための戦争である。相撲のごとき、儀礼的な予定調和はかけらも見られない。(中略)避けがたく、それは血なまぐさい異種格闘技戦に近接せざるをえない」
「歴史への眼差しそれ自体を、南北の方位へ、それゆえ、「いくつもの日本」に向けて開いてゆきたいと思う。そのとき、この知の戦いの舞台は避けがたく、相撲の円環をなす土俵ではなく、異種格闘技戦の混沌を孕む四角いジャングルとなるだろう。」



「第一章」より:

「まさに、この箕という農具にひっそりと刻まれた歴史は、気が遠くなるほどに深い。そこに埋もれた時間を掘り起こすことによって、列島の民族史的景観の一端は、確実に読みほどかれてゆく。箕のはここで、いくつかのことを教えてくれるはずだ。この弧状なす列島には、出自や系統を異にする地域文化が重層的に存在してきたこと、複数の文化的な裂け目が見え隠れしていること、そして、それぞれの地域文化はアジアに向けて開かれていること、などである。いわば、「いくつもの日本」を射程に繰り込むことなしには、この列島の歴史や文化を根底から読み抜くことはできない、ということだ。箕はむろん、ほんの一例にすぎない。」


「第二章」より:

「ある位相にあっては、柳田民俗学は疑いもなく、「ひとつの日本」を抱いた思想の結晶である。そこには、「ひとつの日本」をめぐる原風景が、たいへん純化されたかたちで見いだされる。それゆえに、深々と「ひとつの日本」への欲望に囚われた戦後社会のなかで、柳田民俗学が広く受容されたのである。柳田は好んで、南北の一致や東西の一致について語った。そうして、柳田にとっての「日本」の輪郭が定められた。アイヌを視野の外に祀り棄て、沖縄を特権的な、はじまりの場所として選びとりながら、北は津軽・下北から、南は奄美・沖縄にいたる版図(はんと)のもとで、ひとつの均質な言葉・民俗・文化によって満たされた、まさに「ひとつの日本」が浮き彫りにされていった。文化周圏(しゅうけん)論と名づけられた、柳田に固有の方法は、列島の内なる多元的な文化の否定のうえに成り立つものであった。」

「国家としての「日本」が「天皇」と対になって登場したのは、古代七世紀の末であった。そこに成立したヤマト王権は、みずからの国家的アイデンティティを賭けて、北の蝦夷と南の琉球にたいする征服支配の欲望を表明した。眼前には、あきらかに「いくつもの日本」があった。弧状なす列島の、南/北のはるかな彼方には、マツロワヌ異族の土地=異域が茫漠と広がっていたのである。ヤマト王権の誕生以来の千数百年の歴史は、それら異族と異域を征討し、「ひとつの日本」の版図の内に収めるために費やされた時間でもあった。むろん、この「ひとつの日本」への欲望が成就されるのは、明治以降の近代、国民国家としての日本が生成を遂げてゆくプロセスにおいてである。」
「ヤマト王権の成立以前、いや稲作の渡来以前に、あらためて眼を凝らす必要がある。津軽海峡という名の「しょっぱい河」が、東北/北海道を分かつ境界となったのは、弥生以降である。稲作前線の北上がもたらした結果にすぎない。縄文の東北/北海道はむしろ、ひとつの文化圏に属していたらしい。」



「第三章」より:

「列島一円に分布していた採集・狩猟文化のうえに、畑作農耕が、次いで稲作農耕がかぶさってゆく。そして、さらに国家を背負った均質の時間を強いる官暦が広がることで、この弧状なす列島の民俗=文化地図は、じつに多様かつ多元的な、まだら模様の錯綜状態を呈することになった。」


「第四章」より:

「縄文時代はおよそ一万三千年まえからはじまる。その二千年ほど前から、列島は急激な温暖化とともに、大きく自然環境を変貌させつつあった。」
「こうした自然環境の激変によって、南北に細長く、海に囲まれ、変化に富んだ地形をもつ列島のなかには、地域ごとに複雑にして多様な気候・植生などが成立してくる。
 温暖化は南から進んだ。クリ・クルミ・ドングリ類を実らせる広葉樹の豊かな林を中心として、縄文的な自然環境が形成される。それは一万年前には、黒潮に洗われる南関東にまで広がったが、北海道や東北北部、東北南部の山岳から中部高地にかけては、いまだそうした縄文的環境となっていない。この南北の環境における差異が、生業や文化に見られる地域差を生みだす。(中略)安定した生業・定住に根ざす縄文社会は、九千年前の南九州にはじまった。前期(約六千年前~)にいたって、豊かな森をもつ縄文環境はようやく東日本に移り、そこに縄文文化が花開くことになる。」
「つねに語られる、縄文文化の「東高西低」はそうして形作られていった。(中略)少なくとも前期から中期(約五千年前~)にかけての時期には、東の縄文は西の縄文と比べたとき、圧倒的に豊かでヴァラエティに富んだ文化をもっていた。(中略)縄文時代の早期から晩期まで、人口における東日本の圧倒的な優位は動かない。(中略)あきらかに、東日本は縄文人にとって暮らしやすい環境が広がる、文化的にも「先進地域」だったのである。」

「採集・狩猟・漁撈を生業とする社会と、水田稲作農耕を基盤とする社会とのあいだには、その後にそれぞれが辿った歴史からもあきらかなように、根底的な隔たりがある。弥生時代とは何か、あらためて問わねばならない。」

「あらためて、弥生時代とは何か。「中の文化」の西側では、弥生の訪れとともに、稲作農耕社会が急速に広がり、金属器の製作や使用が行なわれるようになる。階級が分化し、権力を握る者が現われ、やがて群小のクニが並び立って争う時代がはじまる。その国生みの時代を経て、瑞穂(みずほ)の国を統(す)べる王である「天皇」が登場し、ついに「日本」という国号をいただく古代律令国家が生成を遂げる。西日本を舞台とした歴史であり、それが長いあいだ、「正史」として語られてきた。しかし、思えばそれは、列島のまったくかぎられた地域の辿った歴史にすぎない。たんなる地方史のひと齣でしかない。
 それでは、中の「ボカシの地帯」をはさんで、東日本にはいかなる社会や文化が展開されていたのか。稲作農耕はすでに早く、最北端の青森まで到達しているが、それは東北が稲作農耕社会となったことを意味するわけではない。縄文以来の、採集・狩猟や雑穀農耕を複合的に組み合わせた生業のうえに、あらたな農耕の技術として稲作を取り入れたのである。気候変動につれて、稲作前線は南へ後退し、定着ははるか後代に遅れる。東日本の多くの地域では、依然として、台地での畑作を中心とした、縄文的な伝統の強い農耕文化が営まれていたのである。」
「古代東北の、のちにエミシと呼ばれる縄文の末裔たちが、部族連合の域を越えて、ついに国家を造ることがなかったことは、いかにも象徴的である。ついでに言い添えておけば、北海道のアイヌ社会もまた、国家以前の段階に留まったし、沖縄で国生みの戦いがはじまるのは、十一、二世紀以降のグスク時代になってからのことである。列島の東や北、また南には、フランスの文化人類学者ピエール・クラストルのいう「国家に抗する社会」が、根強く存在しつづけたのではなかったか。逆にいえば、王や国家を避けがたく産み落とした西日本の、稲作農耕を支配のシステムの根幹に据えた社会こそが、(中略)特異な社会だったことになるのかもしれない。」

「いずれであれ、弥生時代を均質な「ひとつの日本」が成立した画期と見なす、地政学的な無意識による呪縛を解きほぐさねばならない。瑞穂の国はひとつの幻影である。弥生のはじまり、稲作農耕の大陸からの渡来こそが、列島に幾筋もの亀裂を走らせ、「いくつもの日本」の発生へと突き動かしてゆく原動力となった。やがて、その、多元化への道行きを辿りはじめた列島の社会=文化を、あらたに政治的な支配/被支配の網の目をもって統合しようという欲望が、西の弥生文化の内側から芽生える。幾世紀かにわたる戦乱の時代を経て、その欲望の運動はついに、畿内に「天皇」という名の王/「日本」という名の国家を産み落とした。この天皇をいただく古代国家こそが、「ひとつの日本」という幻想を避けがたく、みずからの支配の正統性を賭けて追い求めてゆく主体となる。」



「第五章」より:

「この列島の広やかな民族史的景観のなかでは、つねに「ひとつの日本」は幻影にすぎなかった。それを公的な欲望の対象としたのは、古代の律令国家「日本」と、近代の国民国家「日本」であった。ともに、瑞穂の国という意匠を凝らし、稲の王としての天皇をいただく国家であったのは、むろん、偶然ではあるまい。問題を解きほぐす鍵は、おそらくそこに、あらかじめ埋め込まれている。もはや、「ひとつの日本」の命脈は尽きた。「ひとつの日本」を自明の前提として、日本・日本人・日本文化について語ることはできない。歴史語りの作法それ自体が、いま、根底からの変更を求められている。」

「わたしがここで提示してみたいのは、被差別部落というかたちで顕われている、穢れと差別のシステムは、畿内を中心とする西日本に固有の問題ではなかったか――という、もうひとつの問いである。東北の中世以前、沖縄、そしてアイヌには、被差別の民や被差別部落が存在しなかった。そこには少なくとも、穢れと差別が繋がれるような風景は見られなかった。」


「日本人は穢れを忌(い)み、清浄を尊ぶ民族である、としばしば語られてきた。日本人とは誰か、穢れとは何か、清浄とは何か、それがまず問われなければならない。「ひとつの日本」は幻影である。「いくつもの日本」を視野に繰り込むとき、これまでの日本人や日本文化にかかわる言説の大方は、根拠を喪失して漂いはじめる。たとえば、東北の中世や沖縄・アイヌにおける、穢れと差別をめぐる風景の不在といった、ささやかにすぎる現実ひとつを突きつけてやればいい。」

「縄文時代の、とりわけ中期(約五千年前~四千年前)の典型的なムラのかたちは、環状集落であったと想定されている。(中略)中央の広場はおそらく、祭祀が行なわれる場であると同時に、先祖につらなる死者たちが眠る墓域であった。(中略)こうした死者を内に抱いたムラをいとなんだ縄文人が、死の穢れを忌み遠ざける習俗と無縁な人々であったことは、否定しがたいだろう。」
「ここではあえて、以下のような推測を、論証抜きに、はじまりの問いとして書き留めておきたいと思う。弥生時代の訪れとは、死を穢れとして忌み遠ざける種族=文化の、いわば本格的なはじまりを意味したのではなかったか、と。」
「この列島の種族=文化的な古層には、死穢を忌むことの少ない文化が横たわっている、という想定は十分に成り立つにちがいない。辺境にこそ、古い文化が残存しているのである。まさに文化周圏論の避けがたい帰結である。平安貴族に源を発する、死穢の禁忌やイデオロギーの肥大化と拡散、そして、祭場と葬地の分断といった現象は、(中略)中心/周縁・辺境の同心円的な構図の内なる風景そのものと言っていい。」

「「ひとつの日本」を自明の前提として、(中略)血の忌みを列島の全域に広がっていた民俗と見なすことは、やはり留保が必要である。」
「木下(引用者注:木下忠)の仮説の核心は、とりあえず以下のようなものである。出産や月経のときの別火があり、産屋・月経小屋をもつ、強い血の忌み習俗の分布地域は、胎盤を床下や浜辺に埋め、海に流す習俗の分布と重なっている。そして、この血の忌み習俗は、胎盤を戸口や道の辻に埋める習俗が濃密に分布する、関東西部や南佐久(みなみさく)地方には及んでいない。こうした分布のありようは、強い血の忌み習俗が、弥生時代に新しく渡来した農耕漁撈民によって持ち込まれた文化であり、それ以前の縄文の種族=文化は、それほど血の忌みを強く意識していなかったことを示唆している、という。
 たとえば、出雲地方はその東部が胎盤を戸口に埋める地域、中・西部が道の辻に埋める地域、北部の漁村だけが海辺に埋める地域となっている。床下に埋める地域に囲まれながら、その影響を受けていない。それゆえ、出雲は縄文人が比較的純粋なかたちで残存した、数少ない地域のひとつではないか、とされる。出雲方言が東国方言に酷似していることにも、注意が促されている。(中略)これにたいして、南東北から北・東関東は、胎盤を床下に埋める習俗が優勢な地域である。この一帯は、弥生時代に、東日本ではもっとも早く稲作文化がもたらされ、弥生人が占拠した地域と見られる、という。」

「最後に、肉食や皮革の処理にまつわる、第三の穢れを取り上げることにする。
 西日本の差別の制度の根底には、死牛馬の処理をめぐる穢れの観念やタブーが存在する。」
「あらためて問いかけてみる、被差別部落という名の穢れと差別のシステムは、畿内を中心とする西日本に固有の種族=文化であり、その現われではなかったか、と。」
「肉食の忌避とは、稲作への社会的な偏重の深まりと背中合わせに起こった、ひとつの歴史的な現象にすぎない。それは古代から中世にかけて、仏教の罪障観や神道の穢れ観によって増幅されながら、しだいに広く深く浸透してゆくが、肉食そのものは食文化の周縁に根強く残される。米/肉の対立はいつしか、清浄/穢れの対立に置き換えられ、その結果として、牛馬の処理や肉食にかかわる人々や、狩猟をつねとする人々に向けての卑賤視が強まっていった。」
「古代の東北には、西のヤマト王権の支配に抵抗する、マツロワヌ異族の民・蝦夷(エミシ)の大地が広がっていた。かれら縄文の末裔たちは、ヤマトの正史の片隅に、獣の肉を喰らい・血をすすり・毛皮を身にまとう姿をもって登場してくる。かれらに「毛人」の字が当てられたのは、むろん偶然ではない。八世紀になれば、農耕民化した「田夷」と狩猟民的な「山夷」への分化がはじまる。俘囚(ふしゅう)として関東以南に移された蝦夷は、そこでも狩猟を行ない、肉食の風習を手放さなかったために、しばしば紛争を惹き起こしている。西の人々が東北の蝦夷と遭遇する現場には、つねに稲作の民/狩猟の民のあいだの文化衝突があり、それは稲作を基盤とする社会の側の眼差しによって、固有のゆがみと粉飾を織りまぜ、文字の記録に留められた。
 そうした縄文以来の、蝦夷のなかにも濃密に見いだされた、狩猟文化の伝統は、いまもなお東北の山あいの村々に受け継がれている。」
「東北の山村やアイヌ・沖縄の島々に見られる、獣を殺して皮を剝ぎ、解体し、その肉や内臓を喰らい、血を飲むといった習俗は、まさに「肉の世界」に属している。この「肉の世界」にあっては、獣の屠殺や皮剝ぎなどは、たんなる暮らしと生業の技術にすぎない。沖縄を訪れた折口信夫が、ここでは「皮屋も、屠児も嫌はない」と驚きをもって記していたことには、すでに触れた。それがどこまでも、西の「米の世界」の人ゆえの驚きであったことが、いまにしてはっきりとわかる。「肉の世界」で屠殺や皮剝ぎにしたがう人々が、差別の対象となることはありえない。そこにはそもそも、獣を殺し皮を剝ぐ行為にまつわる穢れの観念やタブーが存在しないのである。」
「それにしても、たしかにこれまで、さまざま分野で膨大な研究が行なわれてきた。その大半はしかし、東西論の枠組みに意識することなく呪縛されながら、西の種族=文化を自明に、その「先進性」をもって範型とする議論であった。問いそれ自体を、南/北の地平に開いてやることが必要である。この弧状なす列島の東や、北や南には、西とは異なる種族=文化があり、歴史がある。やがて、「いくつもの日本」の方法的な優位が確認される時代が、幕を開けるにちがいない。」



「第六章」より:

「産声をあげたばかりの東北学はこうして、いくつもの東北をめざす。くりかえすが、ひとつの東北は、とりわけ稲に覆い尽くされたひとつの東北は、西の文化によって去勢された幻の風景にすぎない。東北はむしろ、多元的な種族=文化が交わる、南/北の地平へと豊かに開かれたカオスの土地である。そこには、いくつもの東北が埋もれている。その掘り起こしはやがて、北へ、西へ、南へと繋がりながら、この弧状なす列島の民族史的景観そのものを根底から変容させてゆく。それはさらに、「日本」という国家の版図を踏み越えて、眼差しをアジアへと広げてゆかねばならない必然を孕んでいる。」
「いくつもの東北から、いくつもの日本へ、そして、いくつものアジアへ。わたしたちの歴史の総体が、そうして再審の場へと誘(いざな)われてゆくにちがいない。」






こちらもご参照ください:

網野善彦 『東と西の語る日本の歴史』 (講談社学術文庫)
網野善彦 『日本の歴史 第00巻 「日本」とは何か』
高橋富雄 『もう一つの日本史 ― ベールをぬいだ縄文の国』















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