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橋本進吉 『古代国語の音韻に就いて 他二篇』 (岩波文庫)

「例えば「上海(シャンハイ)」の「海」は hai、「漢口(ハンカオ)」の漢は han で、大体日本の現代のハの音と同じです。かような音が古く日本へはいって来た時、もし今日のような「ハ」の音が日本にあったなら、これをそのままハと発音して、「は」にあたる仮名で書いたでしょうに、これをカの音にかえて、「海」をカイ、「漢」をカンと読み、今日まで、その音で伝わっております。そういう点から見ると、古代には、今日のハヒフヘホのような音はなかったことがわかります。それでは今日のハヒフヘホにあたる古代の音は何であったかというに、それは唇をすぼめて発する「ファ」「フィ」「フ」「フェ」「フォ」の音であったと思われます。」
(橋本進吉 「古代国語の音韻に就いて」 より)


橋本進吉 
『古代国語の
音韻に就いて 
他二篇』
 
岩波文庫 青/33-151-1


岩波書店 
1980年6月16日 第1刷発行
190p 
文庫判 並装
定価300円



本書「〔編集付記〕」より:

「本書の底本には『国語音韻の研究(橋本進吉博士著作集4)』(一九五〇年、岩波書店刊)を使用した。」
「本文を現代仮名づかいによる表記に改め、漢字語の一部を仮名書きに変えた。また、送り仮名を加え、読点を補ったところがある。」
「読みにくい語や読み誤りやすい語には適宜新たに振り仮名を付した。」



本書「解説」より:

「本書で橋本進吉博士が述べている、上代特殊仮名遣の研究、あるいは、日本語の音韻の変遷の研究は、明治時代以来の、幾多の日本語研究の中で、将来にわたっても必ず顧みられる重要性を持つものである。」
「本書に収めた「古代国語の音韻に就いて」は、その研究を初学の人々に分りやすいように、橋本博士が講話された記録である。この講話は一九三七年五月、神職講習会において、神職の人々を相手に行われた。」
「「駒のいななき」(一九四四年)は馬の鳴き方についての小論である。現代のわれわれはそれをヒヒンと聴くのが普通だが、(中略)『万葉集』では「馬声」と書いてイの音(おん)を表わしている。このことから考えを進めて行くと、これはヒの音がかつては fi(フィの音)だったと推定する一つの資料となる。そこから進んで、日本語のハヒフヘホの音は fi→hi という変化を経たのだという推論を展開する。」
「「国語音韻の変遷」は、一九三八年に(中略)執筆された、日本語の音韻史の素描である。」



でてきたのでひさしぶりによんでみました。
同じ主題に関するエッセイ、講演、論文が各一篇ずつ収録されています。



橋本進吉 古代国語の音韻に就いて



帯文:

「上代特殊仮名遣はいかにして発見されたか。それは日本語研究にどんな意義をもつか。発見者自らが平易明晰に語る(解説=大野晋)。」


目次:

駒のいななき 
古代国語の音韻に就いて 
国語音韻の変遷 

解説 (大野晋)




◆本書より◆


「古代国語の音韻に就いて」より:

「言語の音は、現在の言語であれば直接我々が耳に聴いて判るものでありますが、昔の言語になりますと、昔の人が話していたのを我々は直接に耳に聴くことは出来ませぬ。(中略)自然、言語の音を文字で写したもの、すなわち音を代表する文字に基づいて研究するより仕方がない訳であります。
 全体この言語の音を研究するについて先ず第一に大切なことは、どれだけの違った音でその言語が組立てられているかということ、つまりその言語にはどれだけの違った音を用いるかということであります。我々が口で発することの出来る音は実に無数であります。随分色々の音を発することが出来る訳でありますが、言語としては、その中の幾つかの或るきまった音だけを用いその他のものは用いないというようにきまっているのであります。(中略)例えば外国語では ti tu という音は何でもなく幾らでも用います。こういう音は外国語では普通の音ですが、日本語では用いないのであります。そういう風に言語の違うによって或る音は或る国では使うけれども或る国の言語では使わないという風の違いがあるのであります。これは単に、相異なる言語、日本語と英語というような全く違った言語の間にそういう違いがあるばかりでなく、同じ言語においてもやはり時代によって違いがある。すなわち古い時代の言語と新しい時代の言語の間には、昔用いておった音が後になると用いられなくなり、また昔用いられなかった音が後になると用いられるようになるというように、色々変って来るのであります。」
「一般に、或る時代の言語に用いられる違った音の数はちゃんと定(き)まっているのであります。」
「それで或る言語においてどれだけの音を違った音として区別するかということが大切な問題となるのであります。」
「古典を研究し古典の意味を解釈するという場合においても、昔の人がどれだけの音を聴き分け、言い分けておったかということを知るのが大切であります。」
「現代語については、(中略)どれだけ違った音を区別するかということは自身が直接にその言語を聴き、また現在その言語を使っている人々に尋ねてみて判るのであります。ところが古代の言語については、昔の人がどれだけの違った音を聴き分け言い分けておったかということは、昔の人の文字に書いたものによって知るほか方法がないのであります。」
「ところが、そういう日本語の音を文字で写した場合に、もし同じ音はいつでも同じ文字で書くというのであるならば、問題は余程簡単になります。(中略)ところが実際はそう簡単には行きません。」
「古い時代の古典は、国語の音は万葉仮名で書いてあります。万葉仮名はどうかと言いますと、(中略)同じ音に対して非常に沢山の違った文字が使ってある。例えば今日我々が「ア」と読んでいる中にでも「阿」「婀」「鞅」「安」のような色々の文字があって、これらの文字を悉(ことごと)く我々は「ア」と読んでいる。「ア」と読んでいるというのは、我々が「ア」だと考え、皆同じ音だと考えてそう読んでいるのであります。」
「例えば「大蛇」というような場合に『古事記』では「遠呂智」と書いてあり『和名抄(わみょうしょう)』では「乎呂知」と書いてある。「惜」は『万葉集』には「嗚思」、「遠志」、「怨之」、「乎之」、こう書いてある。それから「己(オノ)」は「意能」、「於能」、「意乃」。それから機(はた)を織る意味の「織」は「於瑠」、(中略)それから「弟」は「乙登」、「淤登」、「於止」。そういう同じ語を仮名で書いたのを集めてみると、「遠」と「乎」は同じ語の同じ部分に宛ててあるのでありまして、どちらを用いてもよい。(中略)また「嗚」と「遠」と「怨」と「乎」も同様で、同じ処に使ってあって、通用する。結局、「大蛇」のオも、「惜し」のオも同じもので、これを「遠」「乎」「嗚」「怨」というような文字で書いてよく、これらの文字は相通じて用いることが出来るものである。それから「意」「於」「淤」「乙」は同じ語の同じ部分を書いてあるからこれもどれを使ってもよく、互いに通用するものであるということがわかる。こういうものを沢山集めて、それがどういう文字で書いてあるかということを同じ語の幾度も出て来るものについて調べてみると、どの字とどの字が同じ場合に用いられるかが明らかになる。そうして「大蛇」「惜し」の「を」には、いろいろの文字が用いられるが、その文字と「己」「織る」「弟」の「お」に用いられる色々の文字との間には区別があって、「己(オノ)」の「オ」に「嗚」とか「遠」とか「怨」とか「乎」とかを使った例はない。(中略)かように、オに当る文字と、ヲに当る文字との間には区別があって、互いに通じて用いることがないということを契沖阿闍梨が発見したのであります。すなわち、
  を――遠、乎、嗚、怨
  お――意、於、淤、乙」
「契沖阿闍梨の研究によって「いろは」は四十七文字がすべて悉(ことごと)く違った音を代表していたということが解って来ました。前にも言った通り、四十七文字の中、同じ音であるのが三つありました(引用者注:「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」、「お」と「を」)。それは今でこそ同じ音であるけれども、ずっと古い時代において違った音であったとすれば、仮名の違いがやはり音の違いを表わしておったものである(中略)ということが解って来たのであります。
 ところが五十音図によると、五十だけの違った音があり得べきはずであります。四十七まで区別があって、あと三つだけは同じ音であるのは不審である。これも、あるいは昔は何か違った音ではなかったかということが問題になります。それは、
  ア行  い う え
  ヤ行  い - え
  ワ行  - う -
 かように、「い」「う」「え」の三つが重複している。五十音図では別々になっているが、仮名は同じことであります。仮名では書きわけられないが、五十音図で別々になっているということは、音として違ったものだということを示すものであります。それ故、それは、いつか古い時代にあった二つの違った音が、後に区別を失って一つになったのではないかという疑問が起るのであります。」
「これについて調べたのが奥村栄実(おくむらてるざね)という人で、(中略)これも契沖と同じような方法でもって調べたのでありまして、古い書物に出て来る「イ」にあたる万葉仮名と、「エ」に当る仮名と「ウ」に当る仮名との実例を集めて、そうして同じ語において「イ」に当るものはどんな字を用いているか、そうしてどういう字とどういう字は通用するかということを調べたのであります。その結果として次のようなことが判りました。
 イウエの三つの中で「イ」と「ウ」とは全部通用する。すなわち、イにあたる種々の万葉仮名は、その中に区別がなく、どんな場合にも同様に用いられる。ウにあたる仮名も同様で、その中に区別がない。しかるに、エにあたる種々の仮名は二類に分れ、同類のものは相通じて用いるが、異類のものは互いに通じて用いない。こういうことを発見したのであります。このエの二類の別は後世の普通の仮名では書き分けないのでありますが、万葉仮名では区別があります。すなわち次の通りです。
  甲の類 衣、依、愛、哀、埃、英、娃、翳、榎、荏
  乙の類 延、要、曳、叡、江、吉、枝、兄、柄」
「そうして、この二つのエの区別は、五十音にあるのであって、すなわちア行の「エ」とヤ行の「エ」にあたるのであります。」
「そうなって来ると、その他の仮名においても、また何かこのような区別がありはしないか、すなわち、これまで多くの万葉仮名を「か」とか「き」とか読めば、それで意味がわかるから、それを皆「か」の音とか「き」の音とかを表わすものと無雑作(むぞうさ)に考えて来たが、その「か」または「き」にあたる万葉仮名の中にまた区別があるのではなかろうかという疑いが当然起るべきはずであります。そういう疑いが起って来ると、どうしても、一切のあらゆる万葉仮名について、それがどういう場合に用いられるかということを調べてみなければならぬ訳になります。」
「ところがこういう風の調査をあらゆる万葉仮名についてしたものがあったことがわかったのであります。それは本居宣長翁の弟子の石塚龍麿(いしづかたつまろ)という遠江(とおとうみ)の学者であります。」
「龍麿が調べてみると「許」と「古」は『古事記』においては立派に区別せられていて、単に「彦(ヒコ)」なら「彦(ヒコ)」という語においてそのコにいつも「古」を用いて「許」を用いないというだけではなくして、我々がコと読んでいる一切の語の中において、或る語には「許」を書いて「古」を書かない。或る語には「古」を書いて「許」を書かない。例えば「子(コ)」、「彦(ヒコ)」のコは「古」を書いて「許」を書かない。「心(ココロ)」のコは「許」を書いて「古」は書かないというように、あらゆる「こ」を含んでいる語が「許」を書くか「古」を書くかの二つに分れている。また「こ」にあたる万葉仮名の方も多くの仮名があるが、それが二つにわかれて、
  古――故、固、枯、孤、庫
などは「古」と同じように用いられ、
  許――己、去、巨、拠、居
などは「許」と同じように用いられ、しかも「古」の類と「許」の類とは決して同じに用いることなく、この二つの類の間いは、はっきりした区別があるということがわかったのであります。」
「それならば、こういうような区別があらゆる仮名にあるかというとそうでもないのであります。むしろ比較的少数の仮名においてのみ、かような区別があるのでありまして、先ず普通は十三の仮名に当る万葉仮名が、おのおの二類に分れているのであります。そうしてその区別は普通の仮名(平仮名や片仮名)では書き分けることが出来ないのであります。(中略)かような区別は、左の十三の仮名に当る万葉仮名にあるのであります。
  エ、キ、ケ、コ、ソ、ト、ヌ、ヒ、ヘ、ミ、メ、ヨ、ロ
 これだけの仮名に当る万葉仮名が、おのおの二つの類に分れているのであります。」
「以上挙げたものを総計すると、十三の仮名におのおの二類があるから二十六類、その濁音七つのうち、五つだけが二類にわかれ、二つはおのおの一類であるから濁音はすべて十二類、以上合計三十八類、次に清音四十七の内から右の十三を除いた三十四およびその濁音十三はおのおの一類であるから合計四十七類、これを前の合計と加えれば総計八十五類となります。つまり奈良朝のあらゆる万葉仮名は、以上八十五類に分れることになったのであります。なお『古事記』の仮名だと、他のものよりも「チ」と「モ」と「ヒ」がそれぞれ一類ずつ多いことになっていますから総計八十八類になります。」
「次に、私が心附きました、龍麿の研究の間違っている点だけを申しておきたいと思います。(中略)龍麿の研究によると、奈良朝におけるあらゆる万葉仮名は八十五類にわかれることになるのでありますが、これにはすこし誤りがあります。先ず、龍麿が濁音の仮名で二類に分れているのは五つであるとしたのは間違いであって、これは七つにおいてそうなっているのであります。前に述べた十三の仮名の中で濁音があるのは「キ、ケ、コ、ソ、ト、ヒ、ヘ」と七つあります。(中略)龍麿は「ケ」と「ソ」だけの濁音は共に二類を認めず、すべて一類にしましたが、やはりこれはそれぞれ二類に分れているものと考えます。そうすると「ケ」と「ソ」との濁音が二つふえまして総数が八十七類となります。これが奈良朝時代において互いに違った類の仮名として区別せられておったものであると私は考えているのであります。それから『古事記』では龍麿は八十八類を認めたようでありますが、(中略)その中「チ」は間違いで、「チ」は『古事記』でも一類です。また「ヒ」を三類に分れるとしたようでありますが、これは間違いで、「ヒ」もやはり二類であります。すなわち『古事記』が他のものと異なる点は「モ」が二類に分れるだけでありますから、総数が一つふえて八十八類になります。」
「それから、龍麿の研究では「ヌ」が二類に分れることになっていますが、私はそうではなく「ノ」が二類になるのだと思います。(中略)『古事記』に「怒」で書いてある「野」「角」「偲」「篠」「楽」などの語は、今でも「ヌ」の音と見て「ヌ」「ツヌ」「シヌブ」「シヌ」「タヌシ」と読んでおりますが、後世の言語ではこれらはみな「ノ」になっております。完了の助動詞の「ぬ」、「沼(ヌマ)」「貫(ヌク)」「主(ヌシ)」「衣(キヌ)」などの「ヌ」は「奴」の類の文字で書いて、前の「怒」の類の文字では書かず、別の類に属する。また助詞の「の」「登(ノボル)」「後(ノチ)」「殿(トノ)」などの「ノ」は「能」の類の文字を用いて、勿論(もちろん)以上の二つと別である。つまり、「怒」の類、「奴」の類、「能」の類、と三類にわかれているのでありますが、龍麿は「怒」と「奴」とを共に「ぬ」に当るものとし「能」だけを「の」に当るものとして「ぬ」に二類あるものと見たのでありますが、前申したごとく「怒」の類は平安時代以後の言語ではすべて「の」になっているのでありますから、これを「能」と共に「の」にあたるものとし、「奴」は平安朝以後も「ぬ」に当りますから、「の」が二類にわかれ「ぬ」は一類であるとする方が穏やかであろうと思います。」
「そうだとすれば、「怒」類で書いてある諸語も、「の」「つの」「しのぶ」「しの」「たのし」と読んでよいことになります。」
「さてこれまでは主として仮名の使い分けの問題として考えて来たのでありますが、そういう使い分けがあったということは何故であるかと考えてみますと、それはどうしても単に仮名だけで使い分けておったのではないと思うのであります。(中略)やはり発音上そういう区別があったため、その音の違いが文字の上に現れているのだというように考えられるのであります。」
「例えば「月(ツキ)」の「キ」には「紀」(またはこれと同類)の仮名を書き、雪(ユキ)の「キ」には「伎」(またはこれと同類)の仮名を書く。この「つき」のキと「ゆき」のキとは後世においては同音になったが、その時代においてはそれぞれ違った音であった。(中略)とにかく同じ音ではなかったと考えられる。(中略)それで発音が別だから、(中略)両者の用い場所が自然に分れて、混同することがなかったのであります。」
「そうしますと、今まで述べたように、奈良朝時代において万葉仮名が八十七類に区別せられているということは、つまり音として八十七の違った音を用いておった、それだけの音を言い分け、聴き分け、使い分けておったと言ってよいのであります。そうしてもう少し古くなれば八十八の音を区別しておった(すなわち『古事記』の言語はそういう状態であります)。それが、奈良朝には数が少なくなって八十七になり、平安朝に入ると、先ず「エ」以外の十二の仮名とこれに対する七つの濁音の仮名とに当る音が、それぞれ二つずつあったのが、それぞれ一つになってしまったのであります。そうすると前よりも十九だけ減じて六十八音になります。その中の濁音を除いて清音の仮名だけ取れば四十八になってしまいます。これが前に述べた「天地(あめつち)の詞(ことば)」によって代表せられている訳であります。その次には、エの音がア行のエとヤ行のエと分れていたのが混同して一つの音となったため、清音が四十七、濁音を加えれば六十七、それだけの音の区別がある。それの清音四十七が「いろは」によって代表せられるのであります。」



そして、「かような事実を知っておくことが、古典研究の上にどんな効果を齎(もた)らすか」として、「古典の本文を校定する場合に、どちらが正しいかということを判断する標準になる」「古典の文を解釈する場合にも(中略)役に立ち」「『万葉集』の訓を附ける時にも(中略)役立つ」「語源を考える場合に役立つ」「古い時代の書物の著作年代をきめることが出来る場合がある」等があげられています。






こちらもご参照ください:

佐竹昭広 『古語雑談』 (岩波新書)
新村出 『新編 琅玕記』 新村徹 編 (講談社文芸文庫)
高津春繁・関根正雄 『古代文字の解読』
中野美代子 『砂漠に埋もれた文字』 (ちくま学芸文庫)





























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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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