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丸山圭三郎 『ソシュールの思想』

「ソシュールの学問にとっては、広く浅い総花的知識と、深く狭い専門馬鹿的研究といった対立は存在しない。深く特殊化すればするほど、その掘り下げる道は広くなり、ついには地下水の如きエピステーメーに達するのであり、資料体(コーパス)の量がいかに多くとも、タクシノミー的方法にたつ限り、データ外の予見が不可能であるという、のちの科学経験主義的学問に対する批判でもあった。」
(丸山圭三郎 『ソシュールの思想』 より)


丸山圭三郎 
『ソシュールの思想』



岩波書店 
1981年7月15日 第1刷発行
1985年11月20日 第8刷発行
xvii 352p+32p 
A5判 並装(フランス表紙) 
機械函
定価3,600円



本書「まえがき」より:

「ソシュールの思想はさまざまな変奏の形をとるとはいえ、絶えずその底にはくり返し一つの主旋律が流れている。それは本来的に自由であるはずの人間が自らの手で非自由の世界を創り出し、その世界の虚像性に脅え真の実践の意味を見出せずにいる人間に、再び自由への道を奪回させようという営みであり、文化の中に自然法則的絶対性を見る幻想を打破することであり、バルト風に言えば、私たちから収奪されたコトバを再び「盗み」返すプロメテ的冒険への誘(いざな)いである。ソシュールは「開け、胡麻」を唱えてあまりにも早く世を去った。その宝庫の発掘は私たちに残された大きな義務の一つではあるまいか。」


本文中図版(モノクロ)5点。章扉図版(モノクロ)3点。

でてきたのでひさしぶりによんでみました。



丸山圭三郎 ソシュールの思想



本体そで文:

「ソシュールの思想
近代言語学の父、ソシュール。だが広く流布したその像をこえて、彼の仕事は何処に全体像を結ぶのか。言語機能と人間精神の関係への多様な思索は、人間諸科学の方法論と認識に実体(引用者注:「実体」に傍点)概念から関係(引用者注:「関係」に傍点)概念へというパラダイム変換を促し、構造主義以降現代まで、20世紀後半の思想の共通基盤を造った。本書は「一般言語学講義」原資料に拠って、原初の記号理論と思想の本質を明らかにする。精密な実証的裏付けと、神話やアナグラム研究の初の紹介とは、ソシュール研究の決定版として今後の眺望を拓くことになろう。」



目次:

まえがき

Ⅰ ソシュールの全体像
 第一章 ソシュールの生涯とその謎
  1 家族と幼年時代(一八五七―一八六九)
  2 処女作「諸言語に関する試論」と《鳴鼻音》の発見――中等学校時代(一八六九―一八七五)
  3 『覚え書』と学位論文――大学時代(一八七五―一八八〇)
  4 パリ時代(一八八〇―一八九一)
  5 ジュネーヴ時代(一八九一―一九一三)
 第二章 『一般言語学講義』と原資料
  1 ソシュール批判
  2 『講義』の成立事情と、原資料
 第三章 ソシュール理論とその基本概念
  1 言語能力と社会制度と個人
   ランガージュとラング
   ラングとパロール
  2 体系の概念
   価値体系としてのラング
   連辞関係と連合関係
   共時態と通時態
  3 記号理論
   言語名称目録観の否定
   シニフィアンとシニフィエ
   形相と実質
   言語記号の恣意性
   記号学と神話・アナグラム研究
 註

Ⅱ ソシュールと現代思想
 第一章 ソシュールとメルロ=ポンティ――語る主体への還帰
  1 ムーナンのメルロ=ポンティ批判
  2 コトバの非記号性
  3 経験主義批判
  4 主知主義批判
  5 真の命名作用
 第二章 ソシュールとテル・ケル派――貨幣と言語記号のアナロジー
  1 ソシュールの用いた比喩
  2 テル・ケル派の解釈と批判
  3 ラングの価値とパロールの価値創造
 第三章 ソシュールとバルト――記号学と言語学の問題をめぐって
  1 バルト批判
  2 ソシュールの記号学
  3 《原理論》としての記号学と、《構成された構造》の記号学
 第四章 ソシュールとサルトル――言語の非記号性と意味創造
  1 非記号の記号化と、記号の非記号化
  2 言語に内在する意味
  3 外示(デノテーション)と共示(コノテーション)
 註

Ⅲ ソシュール学説の諸問題
 第一章 ラングとパロールと実践
  1 ラング概念の多様性
  2 パロール概念に見られる矛盾
  3 《構成された構造》と《構成する構造=主体》
  4 《構成原理》の次元
  5 個人的実践とパロール
 第二章 シーニュの恣意性
  1 パンヴェニストのソシュール批判
  2 外的必然性と記号学的恣意性
  3 分節言語の自立性と恣意性
 第三章 言語における《意味》と《価値》の概念
  1 二重のソシュール現象
  2 『講義』自体に見出される疑問点
  3 ビュルジェの仮説
  4 二つの実現
  5 価値と意義(シニフィカシオン)と意味(サンス)
 註

参考文献
ソシュール手稿目録
ソシュール著作目録
事項索引
人名索引




丸山圭三郎 ソシュールの思想 02



◆本書より◆


「ソシュールの生涯とその謎」より:

「デュショザル Duchosal もその思い出のなかで、「ソシュールは白墨を手にして教室に入るや否や、一度も腰かけることなく、一切ノートに頼らずに、大きな黒板をありとあらゆる種類の単語で埋めつくした」と書いている。そして説明の合間には、「時として高窓から視線を空に向け、忘我の境に陥ること」も少なくなかったという。」
「一九〇〇年前後からはスイス・ロマンド地方およびスイス近隣のフランス領における方言研究やブルグンド族の研究に身を入れたり、ニーベルンゲンの詩に代表されるいくつかの伝説、神話の研究にもとりかかった。前者の俚言調査に関してはあまり知られていないので、ちょっとしたエピソードを紹介しておくのも無駄ではないかもしれない。或る日のこと、この高名な言語学教授は、フランスの片田舎でスパイと間違えられ大いに迷惑したことがあったのである。この小さな事件は、ソシュールの俚言調査ノートに日付入りで記されている。
                     一九〇一年十一月二十日
   セニー〔ジュラ山脈のふもとにあるフランス領 Segny〕にて俚言の調査中、そこの道路工夫からスパイ活動容疑で告発された。まもなく噂は宿屋中にひろまり、上記の語を私に提供した道路工夫は、「つい話に引きずりこまれちまったんだ。知らぬ間に祖国を売り渡していたようなもんだ」とくりかえす。
   彼らは、ほとんど脅かすようにして立ち去る。「お前さんは許可を貰っているのかね?」という質問である。「お前さんは百姓をまるきりの薄馬鹿だと思ってるだろうが、もしここに田園監視員がいたら、お前さんの身分証明書を無理矢理にでも出させてやるんだが。」
 ソシュールの受けたショックはかなり大きなものだったらしく、すぐさま村長あてに弁明の手紙を書いており、その下書きは今でも保存されている。」

「さて、右にそのおおよそを見て来たジュネーヴ時代には、どのような問題が潜んでいるのであろうか。それはまず第一に、パリ時代の生き生きとした生産的ソシュールと対比される謎の沈黙であり、あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールである。
   かなり早い時期に沈黙の中に消えていった彼の人生をめぐっては、いささかの謎がある。……この沈黙は一つのドラマを秘めていて、そのドラマは苦痛に満ちたこのであったらしく、年とともに重くのしかかり、出口を見出すこともできないものであった。
   彼の晩年の風貌は、威厳を保ちながらも少し疲れたような、年老いた貴人の品位を感じさせるものであり、その夢みるような、不安なまなざしの中には問いかけがあって、彼の人生はその後この問いかけの上に自らを閉ざしてしまうのであった。
 ソシュールがその沈黙を破るのは、時折パリ言語学会や友人たちの記念論文集に寄せるかなり短い研究ノートぐらいのものであった。しかしこれも一八九四年の東洋語学者会議での口頭発表を最後に、あとは深い沈黙の世界に閉じこもる。」



「ソシュール理論とその基本概念」より:

「このようなごく身近な日常の言語現象への疑問から出発して、ソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・抽象能力・カテゴリー化の能力およびその諸活動をランガージュ langage とよび、個別言語共同体で用いられている多種多様な国語体をラング langue とよんで、この二つを峻別した。前者はいわば《ヒトのコトバ》もしくは《言語能力》と訳せる術語で、これこそ人間文化の根柢に見出される、生得的な普遍的潜在能力である。まことに、ヒトが homo faber であり homo sapiens であるためには、まず homo loquens である必要があったし、ランガージュの所有は、その間接性、代替性、象徴性、抽象性によって人間の一切の文化的営為を可能にせしめた。レヴィ=ストロース Lévi-Strauss は、自然と文化の境界線を《道具》の存在の中に見る従来の定説をくつがえし、《コトバ》の所有のうちにこそ、人間の真の飛躍があると言っているが、この考え方はソシュールの次の発言に照応している。
   ランガージュは、人類を他の動物から弁別するしるし(引用者注:「しるし」に傍点)であり、人類学的な、あるいは社会学的といってもよい性格をもつ能力と見做される。
 これに対して、ラングは一応《言語》という訳があてられる概念で、ランガージュがそれぞれの個別の社会において顕現されたものであり、その社会固有の独自な構造をもった制度である。(中略)ランガージュは自然に対置された人間文化 la culture の源であり、ラングは社会との関係において歴史的、地理的に多様化している個別文化 les cultures にあたるのである。」

「さて、ソシュールがランガージュとラングを峻別した視点に立つ限り、前者は潜在的(引用者注:「潜在的」に傍点)能力であるのに対し、後者は顕在的(引用者注:「顕在的」に傍点)社会制度であった。ところが、この顕在性も、決して物質性を表わすものではない。つまり社会制度としてのラングは、社会的実現という意味で顕在化していても、決して具体的・物理的な実体ではない。これは、母国語であれば幼年期に、第二言語であればもっとのちに個人の頭脳に作られる心的な構造であって、人々はこれによって自己の生体験を分析し、発話の際に必要な選択と結合を行うことが可能になる。すなわち、ある特定の言語にあっては、音声の組み合わせ方、語の作り方、語同士の結びつき、語のもつ意味領域等々には一定の規則があり、この規則の総体がラングであって、これはいわば超個人的な制度であり条件である。そうすると、現実の発話に現われる個々の言語行為とラングとを同一視することはできない。ソシュールが、特定の話し手によって発話される具体的音声の連続をパロール parole とよんでラングと区別したのは、右のような考えからであった。したがってラングとパロールの区別という視点に立つと、今度は前者が潜在的(引用者注:「潜在的」に傍点)構造であり、後者はこれを顕在化(引用者注:「顕在化」に傍点)し具体化したものと言うことになろう。」

「ソシュールにとっては、言語は社会的産物であると同時に歴史的産物以外の何物でもなく、換言すれば全くの人為(引用者注:「人為」に傍点)であり、文化の産物であり、恣意的価値体系なのである。」

「我々の生活世界は、コトバを知る以前からきちんと区分され、分類されているのではない。それぞれの言語のもつ単語が、既成の概念や事物の名づけをするのではなく、その正反対に、コトバがあってはじめて概念が生れるのである。たとえば、「牛」はフランス語では boeuf、英語では ox と呼ばれているから、第二の言語を学習することは、すでに知っている事物や概念の新しい呼び名を学ぶことであり、すべての概念は各言語に共通していると考えがちである。ところが、「牛」と bœuf と ox とは、それぞれに異なった意味範囲をもつ概念であり、それぞれの語が生れる以前は存在しなかった概念なのである。フランス語の bœuf は ox ばかりか beef をも包摂しているし、また例えば日本語の「木」は、机などを作っている材料でもあれば、庭の青々とした樹木でもあるが、英語では前者が wood、後者が tree だることは中学生でも知っている事実である。それでは材木の意味の「木」と wood が完全に重なりあう概念であるかというと、これもそうはいかない。wood には「森」という意味も含まれているからである。
 それぞれ「犬」と「狼」という語で指し示される動物が、はじめから二種類に概念別されねばならぬという必然性はどこにもないのと同様に、あらゆる知覚や経験、そして神羅万象は、言語の網を通して見る以前は連続体である。親族構造にしても、父母、祖父母、叔(伯)父母、兄弟、姉妹、子、孫、等々という概念は実に自然なもので、いかにも言語外にある血縁関係を反映しているように思われる。ところが、ヴァイスゲルバーの報告によれば、オーストラリア中部のアランタ族の言語の purula という語は「①父方の祖母の兄弟、②母方の祖母の兄弟の娘の息子、③自分の姉妹の息子の息子」を合わせたものを指し、ngala という語は、「①母方の祖父、②母方の叔父の息子、③自分の姉妹の息子」のいずれをも指すという。また、我々にとって、太陽光線のスペクトルや虹の色が、紫、藍、青、緑、黄、橙、赤の七色から構成されているという事実ほど、客観的で普遍的な物理的現実に基づいたものはないように思われる。ところが、英語ではこの同じスペクトルを purple, blue, green, yellow, orange, red の六色に区切るし、ローデシアの一言語であるショナ(Shona)語では(中略)三色、ウバンギの一言語であるサンゴ(Sango)語では vuko と bengwbwa の二色、リベリアの一言語であるバッサ(Bassa)語でも、hui と ziza の二色にしか区切らないという事実は何を物語っているのであろうか。言語はまさに、それが話されている社会にのみ共通な、経験の固有な概念化・構造化であって、各言語は一つの世界像であり、それを通して連続の現実を非連続化するプリズムであり、独自のゲシュタルトなのである。
 さらには同一言語を用いている人々ですら、はたしてどこまで同じプリズム、同じゲシュタルトを通じて現実を見ているか、という問題も残るであろう。ムーナンも指摘しているように、「樹木一般しか知らず、何でも木と呼ぶ都会人は、柏、クマシデ、ブナ、ハンノキ、樺、栗、トネリコを区別して知っている農夫と同じゲシュタルトを通じて世界を見てはいない」からである。この問題は、(中略)ここでは、「コトバは認識のあとにくるのではなく、コトバがあってはじめて事象が認識される。もしくはコトバと認識は同一現象である」という命題を提起するにとどめておこう。」
「ソシュール以前は、コトバは《表現》でしかなく、すでに言語以前からカテゴリー化されている事物や、言語以前から存在する純粋概念を指し示す道具と考えられていたが、ソシュール以後の考え方では、コトバは《表現》であると同時に《意味》であり、これが逆に、それ自体は混沌たるカオスの如き連続体に反映して現実を非連続化し、概念化するということになる。たとえば、「愛」という一般的普遍的純粋観念があらかじめ存在していて、日本人が「愛」、フランス人が amour、英米人が love というラベルを貼るのではなく、異なったいくつかの精神的態度の多様性を集めて一つの概念とするのは、この語があってはじめて可能となる。言語に先立つ観念はなく、言語以前には、何一つ明瞭に識別されない。」

「言語記号が表現と意味を同時にもつ二重の存在であることがはっきりしたため、ソシュールは前者をシニフィアン signifiant、後者をシニフィエ signifié と名づけた。」
「周知の如く、シニフィアン、シニフィエともに signifier (意味する)という動詞のそれぞれ現在分詞と過去分詞から作られており、前者の直訳は「意味するもの」、後者の直訳は「意味されるもの」である。我国における定訳は、長い間小林英夫氏の「能記」、「所記」であったが、著者らはその意味を勘案して「記号表現(シニフィアン)」、「記号内容(シニフィエ)」と訳したこともある。いずれにせよ、ソシュールがこの用語を最終的に用いた理由は、二つの項の相互依存性を強調したかったからにほかならず、他の用語では、別々の存在である二項が結合して記号(シーニュ)を構成するかの如き誤った考え方に立つ危険性があると考えたからであろう。」

「第一の点は、シニフィアン、シニフィエの相互依存性である。」
「第二に、これは第一の相互性の論理的必然として、シニフィアン、シニフィエの不分離性を挙げることができるだろう。」
「第三の点は、両者ともに心的存在でありラング内の要素であって、前者を言語外現実ないしは指向対象だとか、後者を物質音だなどと考えてはならないことである。たとえば、日本語の「ヤマ」という音声が「山」のシニフィアンで、言語外現実の山が「山」のシニフィエだなどと考えてしまうことは大きな誤りであり、言語命名論への逆もどりである。」

「くり返し述べるように、言語は一つの自立体系であって、その辞項の価値は言語外現実のなかに潜在的に存在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は、あくまでもその言語社会において歴史的・文化的に定められたものであり、自然法則にはのっとっていないのである。」

「そもそもアナグラムとは「一語あるいは一文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味をもった他の一語または数語を構成するようにすること」の謂(いい)である。(中略)ソシュールはこの技法を慣習的・閉鎖的言語コードと記号関係の制約からの逃避もしくは解放とみなし、神話的思考が既存のイメージを用いたブリコラージュであるのと同様に、詩人たちはまさしく神話的思考がそのイメージの体系を構成するようなやり方で詩作するのではないかと考えたのである。当然ソシュールのアナグラムは単なる文字表記上の変綴ではなく、その音的要素の転倒やちりばめが問題となる。(中略)ソシュールがおそらく出版を頭において書いたアナグラム研究の手稿のうち、「前置きとして読むべき第一のノート」という題を付された用語法によると、
 アナグラム anagramme (キー・ワードがいくつかの単音に分けられて散在するもの)
 アナフォニー anaphonie (右の不完全な形)
 イポグラム hypogramme (キー・ワードがいくつかの複音に分けられて散在するもの)
 パラグラム paragramme (キー・ワードがアナグラムよりも広い範囲、すなわちテクスト中に隠れているもの)
の四種に分けられた。(中略)また、アナグラムの前後には、キー・ワードの頭音と末音から成る特定の語群が存在し、ソシュールはこれを《主座 locus princeps》とか《マヌカン mannequin》と呼び、アナグラム出現の指標と見做したのである。」

「ソシュールが達した一応の結論は、文学作品の諸語は先行する他の諸語から生成され、詩の背後に存在するものは、コトバを生み出すコトバ、テクストを生み出す前(プレ)テクストである、ということであり、(中略)言語の既成性を逆手に用いた新たなる関係の樹立であった。」
「そしてこのアナグラムによる言語破壊活動は、少なくとも次の諸点において従来の詩的言語観を超えるものであった。すなわち、これまでのレトリックの最大の焦点は、連合軸からの特異な《選択》によるメタフォールと連辞軸の特異な《結合》ないし《脱落》によるメトニミー的手法の相乗作用から生れる両義性に当てられていたが、ソユールのアナグラム研究によって浮彫りにされたものは、コトバの二つの基本原理である①シニフィアンとシニフィエの相互依存性と、②シニフィアンの線状性自体の破壊であり、(中略)これは詩的言語研究に未曾有の展望を拓くものなのである。②に関してのみ言えば、マラルメの「骰子の一擲」やアポリネールの「カリグラム」で試みられたと言えるかも知れないが、ソシュールにおいては、そういった活字の大小とか絵画化という《実質》の次元ではなく、《形相》の次元においてシニフィアンと連辞(サンタグム)の単線を複線化し、語の下に語を潜ませることによって音楽の如きポリフォニー化の可能性が指摘されたことに注目すべきである。換言すれば、この新しい手法によって、エクリチュールとレクチュールの二重性のもとに線的展開が対位法的な空間の場に変えられるのであり、更には一連の神話研究によって明るみに出された前述のブリコラージュの発展として、エクリチュールともう一つのエクリチュールの二重性、すなわち同時代や前の時代の文化のコンテクストという複数のテクスト間の対話をも示唆しているのである。こうしてディスクール活動は単に既成の語を新たな関係のもとに置くのみならず、記号化したコトバが閉じこめられている線(引用者注:「線」に傍点)的世界から空間(引用者注:「空間」に傍点)へ、そして空間から時間(引用者注:「時間」に傍点)へと次元を広げることによって言語を破壊し、言語化以前の欲動の世界(自然)と「構成された構造」(文化)の間を絶えず上向・下向運動を繰返しながら、クリステーヴァの言うル・セミオティークの再活性化によってル・サンボリークな体系の再布置化を可能にさせるものとなる。ソシュールの考えたコトバの本質は、まさにこの《意味形成性の運動過程》にほかならないからである。そうしてみると、ソシュールを挫折させたかに見えた詩人側の無意識性の問題も、アナグラム理論の否認どころか、コード違反によって得られるパラグラム的読解というレクチュールの視点のもとに、コトバと無意識の領域の法則に新たな照明が当てられる契機となったと言えるかも知れない。」



「言語における《意味》と《価値》の概念」より:

「一方から見れば、《意味》は《意義》に依存し、《意義》は《価値》から生まれるのも事実であるが、パロール活動によって産出される大きなシーニュは、「既成のものによってつくられたかつて存在しない関係」という逆説をはらむ言表であり得るのであるから、そこから生まれる《意味(サンス)》は、逆に《意義》の中心をずらし、改変させ、それらの《意義》が今度は《形相としてのラング》における関係をずらし、《価値》自体を変革する可能性も存在する。真の言語における創造性は、ソシュールのシーニュ理論自体の中に見出されるのである。」







こちらもご参照ください:

丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
佐竹昭広 『古語雑談』 (岩波新書)
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)














































































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