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土橋寛 『日本語に探る古代信仰』 (中公新書)

「「イノル」が呪詛の意味に用いられるようになったのも、修験道の暗黒面に由来するであろう。平城京址で発掘された夥しい木簡の中には、呪詛のためのものと見られる物が含まれているが、丑の時参りに用いる五寸釘を「ノロヒ釘」とも、「イノリ釘」ともいい、呪詛の対象になっている藁人形の首を、明神さまの境内の立木に釘づけにするのを「イノリ首」というのがそれである。それは「罵(ノ)ル」「イ罵(ノ)ル」につながっている。」
(土橋寛 『日本語に探る古代信仰』 より)


土橋寛 
『日本語に探る
古代信仰
― フェティシズムから
神道まで』
 
中公新書 969 


中央公論社 
1990年4月25日 初版
1992年3月25日 3版
6p+217p 
新書判 並装 カバー
定価640円(本体621円)



本書「Ⅰ」より:

「この本は日本の古代信仰の実情を、各種の儀礼、神話、歌を資料としながら、それらと深く関係している日本語の分析を通じて、明らかにしようとしたものである。」


章扉図版(モノクロ)4点。



土橋寛 日本語に探る古代信仰



カバーそで文:

「日本の古代信仰のもっとも中心的な課題は、霊魂(タマ)の観念であり、それも遊離魂よりはむしろ呪物崇拝(フェティシズム)に見られる霊力呪力(マナ)の観念である。呪力の信仰は言葉にも認められ、言霊(コトダマ)信仰では、めでたい言葉はめでたい結果を、不吉な言葉は不吉な結果をもたらすとする。本書は、各種の儀礼、神話、歌を資料としながら、霊魂や呪物・呪術に関する言葉を、また神名の核となっている言葉を析出し、日本の古代信仰の実相を明らかにする。」


目次:

Ⅰ 呪術・宗教と霊魂観念――日本語は語る
 (一) 原始宗教に関する諸問題
 (二) 霊魂(タマ)と生命(イノチ)
  (A) 「魂振り」と「魂鎮め」
  (B) 霊魂観念のいろいろ
   「タマ」と「カゲ」
   「タマチハウ」と「タマキハル」
   「タマシヒ」
   「ミタマノフユ」
   タマの緒
  (C) 「イノチ」「イ吹き」について
 (三) 神聖とは何か――「イ」「ユ」をめぐって
   「イ」「ユ」の意味
   「イク」「イカシ」の意味
   「イハフ」の意味
   「イム」の意味

Ⅱ 呪物崇拝(フェティシズム)と呪力信仰(マナイズム)
 (一) 自然と人間
 (二) 花見・山見の呪術的意義
 (三) 白鳥・鷺・白馬の呪力信仰
 (四) 邪眼と慈眼
 (五) 呪物崇拝と呪的・宗教的儀礼
   賢木と木綿
   ミアレ木とアレの幡
   領巾
   呪物の神格化と神体化
 (六) 三種の神宝
   ヤサカニの曲玉
   蛇と剣
   八咫の鏡

Ⅲ 日本の神と霊力
 (一) カミとモノ・オニ
 (二) 神社の祭神と司祭者
  ①鷺栖神社
  ②白鳥神社
  ③石神から大洗磯前薬師菩薩神社まで
  ④石上坐布留御魂神社
  ⑤香取神宮、鹿嶋神宮
  (付) 弓削神社
  ⑥大神大物主神社
  ⑦鴨都味波八重事代主神社
  ⑧伊勢大神宮
 (三) 神名の核をなす霊力
  (A) ヒ甲――ヒル、ヒヒル、ヒレ、ヒラ、ヒロメク
  (B) チ――チハフ、チハヤブル
  (C) ニ――ニホフ、ニフブ
  (D) タマ
 (四) 神名の核にならない霊力――カ、ケ、カゲという語

Ⅳ コトバの呪術と宗教
 (一) 呪詞とその起源
  (A) 先呪術的言語
  (B) ヨゴト、ホカヒ、ヨム
  (C) 言霊信仰と修辞法
  (D) トコヒ、カシリ
 (二) 言語呪術としてのウケヒ
  (A) 卜占・裁判の方法としてのウケヒ
  (B) 誓約とウケヒ
  (C) 祈禱とウケヒ
  (D) 諸民族におけるウケヒ
 (三) 祝詞――神にイノル言葉
  (A) 「イノル」と「ノル」「ノロフ」
  (B) 「イ罵り」から「祈り」へ
  (C) 「神を祈る」
  (D) 『延喜式』の祝詞について
   祈年祭祝詞
   六月晦大祓詞
   大殿祭祝詞


あとがき




◆本書より◆


「Ⅱ」より:

「古代においては年中行事としてばかりでなく、日常的にも生命力を強化する目的で山の花や青葉を見、また幼児が泣きやまない時も、それを見せて泣きやませようとした。垂仁天皇の皇子ホムツワケの皇子は、八拳鬚(やつかひげ)が生えるまで泣いてばかりいて、物を言うことができなかったので、尾張の相津の二俣杉で作った二俣小舟に乗せ、市師の池、軽の池に浮かべて遊ばせたといい(『古事記』垂仁)、出雲の大己貴(おおなむち)の命の子アヂスキタカヒコの命も、八握鬚が生えるまで夜昼泣いてばかりいて、物を言うことができなかったので、舟に乗せて八十島を漕ぎ廻って「うらがし」たという(『出雲国風土記』仁多郡三沢郷の条)。「うらがす」というのは、心を浮き立たせるという意味で、島々の青葉や花を見せたら、心が浮き立って泣き止むだろうと考えたのである。」
 花や青葉を「見る」ことの呪術的意義は、『万葉集』の歌にもよく現れている。
  ①み諸(もろ)は 人の守(も)る山
   本辺は 馬酔木(あしび)花咲き
   末へは 椿花咲く
   うら妙(くは)し 山ぞ 泣く児守る山  (万13、三二二二)
右の「み諸(モロ)」は「森(モリ)」と同源の語で、木の茂った森・山を意味し、神が宿っている山とか、神が天降る山とかではない。「人の守る山」は、人が見守る山という意味である。次の「本辺は 馬酔木花咲き 末へは 椿花咲く」は、人が山を見守る理由を説明した句で、人々はその山の馬酔木の花や椿の花を見るのである。「泣く児守る山」は、「人の守る山」の繰返しで、「泣く児も見守る山」の意であるが、その具体的な意味は、幼児が泣いて泣き止まない時、母親がその山を見せて泣き止むようにする山、という意味で、山讃めの歌ではあるが、エリートの山の山讃めとは違って、「見る」対象に馬酔木や椿の花を挙げているのは、見て美しいからというよりも、それらの花に人の生命力を強化するタマフリの呪力があると考えたからである。馬酔木の花にタマフリの効果があると考えたのは、房状の花序が群がって咲く姿に生命力の強さを見たからであって、「馬酔木なす栄えし君」(万7、一一二八)とか、「わが恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり」(万10、一九〇三)の表現も、同じ観念から生まれてくる。椿(山椿)は、その花の真紅の色や艶のある葉の茂り拡がっている姿が、生命力の強さを印象づけるのであり、そのために椿はよく寿歌に取上げられて、「葉広 斎(ゆ)つ真椿」と讃えられ、「花の照る」姿や「葉の広」がっている姿が、天皇の繁栄の象徴として歌われており(記、57・101)、また椿の木で椎(つち)を作って、武器にもしたのである(「景行紀」十二年十月条)。」

「白鳥や鴨などの水鳥を「見る」ことが、人の生命力を強化すると考えられたのは、それらの水鳥には霊力があるという信仰に基づくものであって、「見る」ことを通してその霊力が人間に感染し、人の生命力を強化するという、いわゆるタマフリの信仰によるのである。タマフリは衰えている人間の生命力を強化することであるが、人間の心が怒りなどのために荒れると、そのタマ(生命力)は不安定になることもあるのであって、そのタマを鎮める(タマシヅメという)ためにも、水鳥や魚を「見る」ことが有効であった。」

「北海道胆振国虻田のアイヌの首長が伝えていた伝承に、次のような話がある。熊祭りをして、育ててきた子熊をその本国に送り出してやった夜、首長の夢にその子熊が現れて言うには、「私は人間の父さん母さんに可愛がって育てられましたが、ふだんから体が弱くてずいぶん御心配をかけました。それは戸外の庭の隅に悪い魔物がいて、日が暮れると檻越しに私の方をじっと見ていて、一晩私は見つめられていましたので、そのために元気を失ったのです。だから今後熊の子を飼う時は、西の方に垣でも作って、日が暮れたら垣に布か何かをかぶせて、塞いでおくように教えてやって下さい」と。
 人が死んだ時、その顔に布をかぶせることは、今日でも日本の風習として行われていることであるが、中国でも古くから行われていたらしく、『儀礼』の士喪礼ではその布を「幎目(べきもく)」と言っている。これは死者の邪視を防ぐためにすることで、悪魔や死者に「見」られると、その邪霊の作用によって、人は病気になると信じられたのである。
 「邪視」(イヴル・アイ)というのは、強力なマナが「見る」ことを通じて相手に作用し、これに危害を加えることであるが、そのような強いマナを持っているのは魔物だけでなく、英雄とか神もこれをもっているのであって、英雄や神の闘いは、武力による戦いに先立って、「目」の力の闘いから始まった。」

「人の霊力は「見る」ことを通じて相手に善悪の影響を及ぼすのであるから、山林修業によって優れた霊力を身につけた高僧は、「見る」ことを通じて病人を治すことができた。」

「呪力のある植物は呪的儀礼はもちろん、神祭りにも、祭場に立てたり、祭りに従事する人々の挿頭、鬘、手繦(たすき)として用いられた。それは儀礼の場や儀礼に従事する人を聖化するためで、神聖とは元来生命力に満ちた状態を言うのである。」

「神祭りでは、賢木の小枝に木綿垂でまたは御幣(ごへい)を付けたものを、神主が振る。(中略)一般にこれを「お祓(はら)い」というのは、「穢(けが)れ」を払うことと考えているからであるが、「ケガレ」の語源は「気(ケ)涸(か)れ」でケ(霊力)の涸渇した状態を意味し、木綿垂でを振るのはこれに霊力を与えるタマフリの呪法であったはずであるが、「気涸れ」の状態が何らかの災厄や不法行為(これを「罪」という)に原因すると考える場合は、気涸れは「穢れ」となり、タマフリの呪法は「お祓い」の呪法に変わるのである。」

「弥栄霊(ヤサカニ)の曲(勾)玉は、玉が内蔵する霊力を造型した呪物で、円形の頭部が玉であり、尻尾の部分が玉の霊力(ニ)の表現である。それはインドの宝珠とその火焰(実は霊気)に該当するデザインであり、また中央アジアに発源すると言われる「巴(ともゑ)」の紋様も、同じ意味をもつデザインである。その「弥栄霊の曲玉」をたくさん緒に貫き連ねたものが「八尺勾璁の五百箇御統(いほつみすまる)の玉」(『古事記』)で、「スマル」は多くの玉が一本の緒に集まっている意の動詞である。スマルは「スバル星」(昴星)のスバルの音訛で、他動詞「統(ス)ブ」に対する自動詞が「統(ス)バル」である。
 弥栄霊の勾玉は、そのような玉の呪力を表現した呪物であったから、衰えた太陽に霊力を与えるタマフリの呪宝として、天岩戸の神話にも登場し、また天孫にも与えられたのであった。」



「Ⅲ」より:

「「記紀」や風土記の神話、『延喜式』の祝詞や神名帳に登場する神々の名は、古代の日本人がどんなものを神と考え、また祭って知る上での貴重な資料である。神の名前はもちろん多種多様であるが、注目されることは、それらの神名の中には共通の語が核になっている場合が少なくないことで、われわれは核になっている共通語が表す観念を明らかにすることによって、古代の神の観念の重要な部分を明らかにすることができるであろう。
 便宜上結論を先にいうと、神の名前、言いかえると神の観念に共通する核の言葉は、一音節の「ヒ甲」「チ」「ニ」および二音節の「タマ」である。次にそれらの語、およびそれを語根とする動詞を検討することによって、神名の核になっているものが霊力(引用者注:「霊力」に傍点)であることを明らかにしたいと思う。」








こちらもご参照ください:

豊田国夫 『日本人の言霊思想』 (講談社学術文庫)
西郷信綱 『日本の古代語を探る』 (集英社新書)
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)




















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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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