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丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)

「まことに、(中略)謎の沈黙が始まった一八九四年頃から科学的言語学に絶望して一切の出版活動を停止し、交霊術にのめりこんで、古代インドの王女とマリー・アントワネットと火星訪問者の三つの経験を同時に生きたエレーヌ・スミスなる女性の報告する〈火星語〉の分析に没頭した(T・フルールノワ『インドから火星へ』)後期ソシュールは、自らの内部に狂気、妄想、戦慄(おののき)があふれるような詩人でもあった。」
(丸山圭三郎 『言葉と無意識』 より)


丸山圭三郎 
『言葉と無意識』
 
講談社現代新書 871 


講談社 
昭和62年10月20日 第1刷発行
昭和62年12月8日 第3刷発行
232p 
新書判 並装 カバー
定価530円
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
カバーカット: 荒川修作 “Webster's New Twentieth Century Dictionary”



本書「プロローグ」より:

「明晰(めいせき)にして合理的な言葉、その指示する対象が一つしかない〈信号〉のような言葉が一方にあるとすれば、二重三重の意味をはらみ、確たる対象をもたない〈象徴〉のような言葉が他方に存在するように見えないこともない。しかし私には、数学と神話、物理学と詩のいずれをも表すために用いる言葉は、二つであるように見えて実は一つであると思われる。それは光の秩序を維持するための〈道具としての言葉〉であると同時に、闇の豊饒(ほうじょう)から立ち昇る〈情念の言葉〉でもあるのだ。」
「文化とは、一面こそ秩序と制度からなるディジタルな二項対立の網であっても、同時にアナログな生命の波動でもある。私たちは二千数百年来西欧において支配的であった〈言語〉の桎梏(しっこく)を脱して、もう一度流動的な言葉と文化の問題をとらえなおさねばならないだろう。
 これはまた、意識の表層における言語風景から、意識の深層における言葉の風景へと錘鉛をおろす営(いとな)みだと言えるかもしれない。」
「言葉の探究を意識の深層にまで掘り下げることによって、私たちは文化の底に潜んでいる流動的な力に気づかされる。(中略)言葉とは、意識の表層における三段論法や演繹(えんえき)にもとづく説得の道具(引用者注:「道具」に傍点)だけではなく、人間と人間、人間と万物の交感を可能にする器官(引用者注:「器官」に傍点)でもあるのである。
 とは言っても、あたまから西欧の考え方を否定して東洋の神秘主義に立ち戻ればいいというのではない。私たちは西欧文化を知ることによって自らの文化を相対化するとともに、東洋の叡知(えいち)をテコにして西欧的価値観をも多元化すべきなのではないだろうか。」
「本書は右のような考え方から書き下ろされた小論である。全体は五つの章から構成されているが、その主旋律は、私たちの身(み)を縦に貫く〈意識〉の重層性と、言葉が生み出した〈無意識〉の非人称的な時・空をめぐって奏(かな)でられる。」



本文中図版(モノクロ)10点、図4点。章扉図版(モノクロ)5点。



丸山圭三郎 言葉と無意識 01



カバー文:

「深層のロゴス・アナグラム・生命の波動

現代思想の問いは、
言葉の問題に収斂(しゅうれん)する。
世界を分節し、文化を形成する
「言葉」は無意識の深みで、
どのように流動しているのか?
光の輝き(ロゴス)と闇の豊饒(パトス)が混交する
無限の領域を探照する
知的冒険の書。」



カバーそで文:

「言葉の力――ロゴスとしての言葉は、
すでに分節され秩序化されている事物にラベルを貼りつけるだけのものではなく、
その正反対に、名づける(引用者注:「名づける」に傍点)ことによって異(い)なるものを一つのカテゴリーにとりあつめ、
世界を有意味化する根源的な存在喚起力としてとらえられていたことになる。
くだいて言えば、私の「頭」と魚の「頭」、私の「脚」とテーブルの「脚」は、
それぞれ「頭」と「脚」という言葉によって同じカテゴリーに括られていくのである。
――本書より」



目次:

プロローグ
Ⅰ 情念という名の言葉――ロゴスとパトス
  ●頭と気持●
 1 ロゴスと言葉
  ハイデガーの言語観
  カタログに整理する
  神(エホバ)の言葉とアダムの言葉
  言霊(ことだま)の力
  電車は人間か、人形か?
  ヘレン・ケラーの“最初の一語”
  語る=聞く、書く=読む
  〈読む〉ことは〈創る〉ことである
 2 属性と考えられたパトス
  文化と自然の対立
  〈生ける自然〉観
  歴史的産物としての〈子供〉
  文化化された自然
  情念と受苦
  身体に原因する心の乱れ
 3 ロゴスの重層性
  左脳と右脳
  表層意識と深層意識
  パトスも言葉である
  非人称的活動
  ペーソスとユーモア
  光と闇の文化
  パトスとは〈思ふ〉こと
  影のパトス
Ⅱ ソシュール・人と思想
  ●ソシュールの言語革命●
 1 西欧における言語観の変遷
  ソシュール以前
  契約か、真理の黙示か
  サンスクリットの発見
  音変化の法則に例外なし
  形而上学と科学に共通するアポリア
 2 ソシュールの生涯
  自然科学者と詩人の血を引くフェルディナン
  ライプツィッヒ留学の俊英
  謎の沈黙
  幻の書物
  三回にわたる一般言語学講義と死
 3 一般言語学理論
  『講義』の成立事情
  言語能力と社会制度と個人の実践
  言葉による二重の疎外
  〈体系(システム)〉というキー・コンセプト
  〈現前の記号学〉批判
  記号とは何か
  共同幻想としての文化
  自存的意味の否定
  表層言語=ラング、深層の言葉=ランガージュ
Ⅲ アナグラムの謎
  ●二人のソシュール●
 1 アナグラムとは何か
  文字の入れ換えによる〈言葉遊び〉
  歌織物としての「百人一首」
  水無瀬の里の景観
  亡びゆく王朝への挽歌
 2 詩法としての〈音〉の法則
  古代ローマのサトゥルヌス詩
  従来の詩法――律動(リズム)と諧調(ハーモニー)
  畳韻法(アリテラシオン)ではない音の法則
  アナグラム研究の事実経過と原資料
  現実か、空想の産物か
  パスコリへの手紙
  パラグラム概念の重要性
  アナグラムの具体例
  暗号文(クリプトグラフ)としてのアナグラム
  ソシュールの確信
  浮かび上がる関係者の名前
  フランスの詩に現れたアナグラム
  神話的思考としての詩作
  伊勢物語の“かきつばた”
 3 深層意識の働き
  音楽の双生児
  意識的か、偶然か
  言語=意識の深層
  詩人たちの証言
  〈間テクスト性〉と意味生成
  〈本歌取り〉も間テクストの一種である
  引用の無限の連鎖
  言葉と言葉はエロティックな恋をする
  テクストの裏側に潜む力
  アナグラムとポリフォニー
  謡曲の声や能管の音色の幽玄
 4 複数の主体〈私〉=〈他者〉
  語るものは誰か?
  非人称的空間――マラルメ、ヴァレリー、ニーチェ、アルトー
  私はもう一人の他者である
  〈意味〉の不在
  イエスと葉巻とセックス
Ⅳ 無意識の復権
  ●心の奥にかくれているx●
 1 非合理的なもの
  既視現象・無意識的想起・集合的無意識
  〈光〉の文化としての西欧の伝統
  〈気〉と〈影〉をめぐって
  東洋の優等生たち
  表層の言葉(ロゴス)=ラングのみを対象とする学問
  東洋の言語思想
  唯識派の〈アラヤ識〉
 2 無意識と身体
  理性は万人の狂気である
  精神分析学の登場――フロイトとユング
  無意識は本能的なものか?
  ヒトと動物の間
  ゲシュタルトとは何か
  二つのゲシュタルト
  過剰なシンボル化能力とその所産
  同類殺しをする動物
  逆ホメオスタシス
  言分(ことわ)けられた身(み)
 3 人間存在の重層性
  自覚せざる精神分析学者・ソシュール
  出来事(エヴェヌマン)としての言葉
  ラング=ランガージュと意識=下意識
  言葉の産物である〈無意識〉
  欲動は言葉の産物か?
  カオス・コスモス・ノモス
  コスモスとランガージュの世界
  〈カオスモス〉の現出
  意味化の円環的運動
Ⅴ 文化と言葉と無意識
  ●金(かね)と性(セックス)と死●
 1 心身を蝕む〈物(もの)〉信仰
  貨幣は言葉である
  価値は関係から成立する
  関係が〈物〉を生み出す
  人間の性(セックス)も言葉である
  想像力が生み出す性感
  動物も神も羞恥しない
  自我の崩壊がもたらす羞恥の苦痛と快楽
  関係の産物であるエロティシズム
  〈死〉も言葉である
  最初の神秘である〈死〉の目撃
  人間は二度〈死〉を体験する
  動物は死なない
  万人が〈心の病い〉にかかっている
  管理社会とストレス
 2 無意識の解放
  科学という〈物神〉
  脳死判定と臓器移植
  〈正常〉〈異常〉とは何か
  マーラーの音楽と狂気
  〈表層のロゴス〉の産物
  臨床心理学の治療は抑圧でしかない
  〈カタルシス〉精神療法の効用と限界
  〈昇華〉という存在喚起作用
  〈知る〉ことは〈創る〉喜びをもたらす




丸山圭三郎 言葉と無意識 02



◆本書より◆


「Ⅰ 情念という名の言葉」より:

「古代から名称にまつわる神話や伝説は少なくない。たとえばエジプト神話には、太陽神ラーがそれまでひたすら隠していた本名を女神イシスに知られてしまったために、イシスがその力を奪って全能となる話がある。イギリスの民俗学者・J・G・フレーザーによれば、現代でも、オーストラリア南部に住むユイン族にあっては、父親は入団儀式の際に息子にだけ自分の名を打ち明けるが、他の人びとには隠し続けるという。
 また、その名を口にすると危険な動物が出て来て害をなすことを恐れるあまり、熊のことを「蜜蜂」(スラヴ語)とか「褐色のもの」(古代高地ドイツ語)という仮(かり)の名で呼んだ慣習も珍しくない。これはすべて「名が対象と同じ力をもつ、もしくは対象を出現させる」という言霊(ことだま)思想であり、アッカド語では「存在する」と「命名する」とはシノニムなのである。」
「世界のロゴス化とは、それまで分節されていなかったマグマの如き生体験の連続体に区切りを入れて、これを観念なり事物なりのカテゴリーとして存在せしめることなのである。(中略)同じ名づけ(引用者注:「名づけ」に傍点)と言っても、カテゴリー自体を生み出す命名作用(世界の分節)のような一次的機能と、生まれた犬に「ポチ」と名づける二次的命名作用(ラベルの貼付)としての機能の二つがあるのである。第一の命名作用について、フランスの現象学者・メルロ=ポンティは次のように言っている。

  「事物の命名は認識のあとになってもたらされるのではなくて、それは認識そのものである」(『知覚の現象学』)。」



「Ⅱ ソシュール・人と思想」より:

「フランスの言語学者・E・バンヴェニストによれば、それはパリ時代の生き生きした生産的ソシュールと対比される謎の沈黙であり、あるいはたまにその沈黙を破る言葉があるとすれば、知的絶望感の表白でしかない沈痛な表情のソシュールであった。

   「かなり早い時期に沈黙のなかに消えていった彼の人生をめぐっては、いささかの謎がある。(……)この沈黙は一つのドラマを秘めていて、そのドラマは苦痛に満ちたものであったらしく、年とともに重くのしかかり、出口を見出すこともできないものであった」(『一般言語学の諸問題』)。

 確かに一八九四年頃からのソシュールは、学術論文の発表はおろか、友人への手紙さえ書かなくなり、自ら〈書簡恐怖症(エピストロフォビー)〉と名づけて無音(ぶいん)を詫びている。」
「この謎の沈黙に加えて、ソシュールが言語学とは直接関係のないように見えるニーベルンゲンの詩(うた)といったようなテーマに没頭したのは何故か。ロマンド地方におけるゴルゴンド族についての民俗学的研究に惹(ひ)かれた理由は何か、さらには、アナグラムとかイポグラムと呼んだ詩の謎解きにのめりこんだのは何故か。」
「彼のドラマは何よりもまず「思想上のドラマ」であった。そしてこのドラマは、自らが構築した一般言語学理論自体がはらむ〈体系〉的学問への疑問からくる苦しみであり、言葉によって言葉を語る矛盾、さらには言語化することのできない〈非-知(ノン・サヴォワール)〉を執拗(しつよう)に言語化せんとする闘いであって、その底を照らし出す暗い光線の束は、一八九四年という年に収斂(しゅうれん)されるように思われる。この年の一月四日付のメイエ宛の手紙では、次のような苦渋に満ちた言葉が書き連ねられているのである。

   「(……)言葉の事象に関してまともに意味の通ずるようなぐあいに何か書こうとするのは、ただの十行だけでもまず困難なことで、これにもつくづく嫌気がさします。(……)そしてまた同時に、結局のところ言語学がなし得ることの大きな空しさもわかってきました。(……)しかし、こういったことは、結局のところ私の意に反して一冊の書物になるでしょう。その書物のなかで、感動もなく、何故言語学で用いられている術語の一つたりとも私には意味があると思われないかを説明するでしょう。正直なところ、そのあとになってはじめて、私の仕事を放り出してあるところから、また始めることができるでしょう。」」

「一九一二年夏、ソシュールは病いに倒れて学年度の終りをまたずに一切の講義活動を中断する。(中略)死ぬ数ヵ月前から始めていたのは中国語の研究だったという。この、インド=ヨーロッパ諸語とは本質的に異なったエクリチュールをもつ東洋文化の研究が、彼の思想にどのような影響を与え、どのような展開を見せたであろうかということは、すべての研究者の興味を惹(ひ)く問題であるが、彼の死によってそれを知る手掛りが一切失われたのはまことに残念なことと言わねばならない。」

「初期のソシュールはまず人間のもつ普遍的な言語能力・シンボル化活動を〈ランガージュ〉と呼び、これをその社会的側面である〈ラング〉(=社会制度としての言語)と個人的側面である〈パロール〉(=現実に行われる発話行為)とに分けた。」
「ある特定のラングのなかにあっては、音声の組み合わせかた、語同士の結びつきなどに一定の法則があり、この法則の総体がラングであってこれはあくまでも超個人的な抽象的条件であるとする。そうしてこれは一つの社会制度にほかならない。なぜならば、ラングは社会生活の所産であり、生理器官の本能的使用とは本質的に異なるその社会固有の価値観をもつ構造であり、社会成員の暗黙の契約のごときものにもとづいているからである。
 一方、現実の発話に現れた言行為は、特定の話者によって発せられた具体音の連続であり、ソシュールはこれをパロールと呼んだ。ラングはパロールの条件であり規則の体系であっても、パロールによってしか顕在化しない潜在構造である。」
「特にマス・コミュニケーション手段が途方もなく豊富になった現代にあっては、不特定の相手に一方的に送り出されるマス・メディアにのった言葉は、その非相互性によって大衆の意識操作の手段と化し、人びとはかえってその情報過剰によるディスコミュニケーションに悩まされる。」
「マス・メディアは、物質的生産の支配者に所有され管理されていて、国家レベルでの公教育やマス・コミ文化によって上から、外から与えられ、押しつけられるものとなっている。まことに「言語はもっとも巧妙に内部に滲透する抑圧の武器となる」(サルトル)のである。
 このような言語状況は、実は言葉自身のもつ宿命的ともいうべき二重の疎外現象の結果である。第一に、人間を他の動物から截然と分かつ分節言語=ランガージュは、その間接性、代替性、非現実性によって人間の一切の文化的営為を可能にしたが、(中略)人間は言葉をもったその瞬間からモノとの疎隔(引用者注:「疎隔」に傍点)の道をたどりはじめたのである。幼時、モノの名を知らなかった頃のあの新鮮なモノとの交流、(中略)欲動とみずみずしさは言語習得とともに失われ、あるいは抑圧されていく。
 第二に、これがラングの次元にいたると、その社会制度的性格から、言語による疎外(引用者注:「疎外」に傍点)はより深刻な様相を呈するのである。(中略)制度のなかにその自発性をほとんど死物化させてしまう惰性化と平行して、〈構成された構造〉は個を規制するものとして働き出す。いわば類(引用者注:「類」に傍点)としての人間の創造物である言葉が、個(引用者注:「個」に傍点)としての人間にとっては既成の支配物となって立ち向かってくる。メルロ=ポンティも言うように、「私たちは言葉が制度化している世界のなかに生きている」(『知覚の現象学』)のである。」
「アナグラム研究以前の前期ソシュールは、右のような言語という物神の解明と批判から出発した。そのために構造主義の祖とみなされたソシュールは、しかしながら、〈構造〉という術語を用いなかった。彼が依って立つキー・コンセプトは〈体系(システム)〉であり、これには次のような、従来とは異なった意味がこめられている。
 彼の考えた〈体系(システム)〉とは、個々の要素が相互に関わりあっている総体ではあっても、個は自存的実体ではなくて他の個との共存と全体との関連によってはじめて存在する関係態なのである。私(引用者注:「私」に傍点)という個人も、社会・歴史的な関係の網目の産物としての間我(引用者注:「間我」に傍点)にほかならない。また生産物それ自体が有するかに見える使用価値も、実は交換価値と同じようにその社会内の関係に媒介されてのみ存在する。しかし現実にはその関係が物化された形で現れ、私たちはこれを自存的実体と錯覚してしまうのである。
 言語の本質を闡明(せんめい)することによって文化一般の記号性とその物象化現象を明るみに出す方法を示唆したソシュールの戦略は、まずその第一歩として、古典ギリシア以降の西欧形而上学、キリスト教神学、近代科学のいずれをも否定し、一切の実体論的思考を解体することをめざした。そしてその内実は(中略)〈現前の記号学〉批判であった。
 〈現前の記号学〉とは、言葉をその典型とする記号を、実在の表象ないしは代行・再現物とみなす記号観をその根にもつ記号学のことである。くだいて言えば、(中略)「本物をゆびさす代用品」と言ってもよい。」
「ソシュールの記号観が従来のそれに対するラディカルな批判とみなされるのは、「実在とその表象」なる図式が、すでに言語や用具による分節が行われた後に歴史的化石となっている特定共時的文化現実内においてしか成立せず、汎時的視点から見た文化とは、そもそも本能図式に存在しなかった過剰物としての言葉によって生み出された〈記号の世界〉(=共同幻想)であると考えた点にある。」
「これはまた、自存的・超越的〈意味〉の否定でもある。つまり(中略)個々の辞項の〈意味〉は、それがおかれる顕在・潜在的な場に織りなされるテクストのなかにおいてのみ生ずるという考え方であって、これはドイツの哲学者・L・ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論や、イギリスの分析哲学者・J・L・オースティンの言語行為論をも包摂した意味論に近いと言えよう。」
「また「言語のなかには差異しかない」というソシュールのテーゼは、制度化した文化における〈構造的差異と同一性〉のメカニズムを解明し批判する装置である。私たちは、意識の表層面でこそ同じ構造のなかにいるように思えても、深層においては独自の生を特殊な体験として生きているにもかかわらず、恣意的分節である言語の網にからめとられ、その結果、各人の価値観が等質化・画一化されている現実に気づかないからである。」



「Ⅲ アナグラムの謎」より:

「ところで、ソシュールの関心をひいたアナグラムは、従来のそれのような文字(引用者注:「文字」に傍点)や詩句の配置がえの〈言葉遊び〉ではなく、古代ローマ詩のなかに聞きとられた詩の成立の原因そのものとみなされる音の法則(引用者注:「音の法則」に傍点)であった。
 彼はこの隠された技法を、慣習的言語コードの制約からの解放とみなし、詩人たちは神話的思考がそのイメージを構成するのと同じやり方で詩作するのではないかと考えたのである。」
「彼の仮説によれば、詩のなかでは、すべての音的要素が偶数のペアに分けられて相呼応する内的(引用者注:「内的」に傍点)な〈対化(ついか)の法則〉と、その詩の主題(多くの場合固有名詞、とくに神の名)となる語が、あらかじめいくつかの音に分解される外的(引用者注:「外的」に傍点)な〈テーマ語の法則〉の二つがある。後者は、語句の発想と成立にとっての母型がミニアチュアのような形をとって詩のなかに象嵌(ぞうがん)されている〈主題象嵌(ミーズ・アン・アビーム)〉(A・ジイドの用語)とも言うべきものである。」

「広義のアナグラムは、
 ① アナグラム(テーマ語がいくつかの単語に分けられて散在するもの)
 ② アナフォニー(右の不完全な形)
 ③ イポグラム(テーマ語がいくつかの複音に分けられて散在するもの)
 ④ パラグラム(テーマ語が、アナグラムよりも広い範囲、すなわちテクスト(引用者注:「テクスト」に傍点)中に散種(引用者注:「散種」に傍点)されているもの)
 の四種類に分類され、このうちでもパラグラムが最も重要な形とみなされた。」
「現代文学や思想に大きな影響を与えたのは、詩における〈テーマ語の散種〉が意味するものであた。(中略)パラグラムの概念は、テクストの背後にもう一つのテクストを同時存在せしめることによって、表層言語の線状性(引用者注:「線状性」に傍点)をゆるがし、深層言語のポリフォニー性(引用者注:「ポリフォニー性」に傍点)を回復させるからである。」

「アナグラム研究においてソシュールが到達した一応の結論は、レヴィ=ストロースがのちに言うところのブリコラージュ、すなわち神話的思考がそのイメージを作るのと同じやり方で詩人が詩をつくるという考えであった。つまり、作品の言葉は、これに先立つ他の言葉から生ずるのである。
 詩句のすぐうしろ側にあるのは何か? それは無から有を生み出す創造者ではなく、詩人を誘導する言葉である。とはいっても、ソシュールが芸術家の主体性の役割を消し去ろうとまでしたのではない。ただその主体性も、前(プレ)‐テクストを通過しなければテクストを生み出せない、と彼には思われたのであった。」

「ソシュールの期待もしくは確信は、アナグラムが詩人の意識的行為であることだった。(中略)ソシュールには知る由もなかったろうが、彼にはアナグラムが、我が国の文学にあらわれる「かきつばた」であってほしかったのである。」
「またソシュールにとってアナグラムは〈本歌取り〉であって欲しかったのだろう。」

「言葉が言葉を紡(つむ)ぎ出す。そこには意識的主体の明確な意図もなければ、まったくの偶然もない。詩を含めたすべてのテクストが生産される力域は、ソシュールが考えていたような意識の表層においてではなかった。」
「ヤーコブソンも言う通り、ソシュールの第二の革命は、「詩的言語が、本質的かつ普遍的に多声音楽的(ポリフォニーク)・多義的(ポリセミーク)性格をもつことを明らかにしたのであるが、これはメイエが見てとったように、当時のアカデミズムの通念であった合理主義的芸術観への挑戦であった」(『詩学の諸問題』、一九七三年)。」
「このパラグラマティスムが、ロシアフォルマリスト・M・M・バフチンやソヴィエトのタルトゥ学派の記号論者・L・メルの対話理論と結びついて、クリステヴァの〈間テクスト性〉なる概念を導いた道筋は容易に想像できよう。この考え方によれば、すべてのテクストは、これに先行する諸テクストとの連関において書かれ、かつ読まれる(引用者注:「書かれ」「読まれる」に傍点)。現に存在する現象(引用者注:「現象」に傍点)としての〈表層のテクスト(フェノテクスト)〉の背後には、このテクストを可能ならしめた発生(引用者注:「発生」に傍点)としての〈深層のテクスト(ジェノテクスト)〉が、「常に、すでに」存在するからである。」



「Ⅳ 無意識の復権」より:

「一般に、「ヒトと動物の間」をめぐって次のような二つの極端な考え方がある。第一のものは、キリスト教と近代ヨーロッパ精神と進化説とを見事に結びつけ、動物の世界から人間の世界への移行を、〈生物圏〉という茎の上に咲いた〈精神圏〉なる大輪の花として描くテイヤール・ド・シャルダン的オプティミズムであり、これは、人間を「動物プラスα」として捉える人間文化礼讃論もしくは万物の霊長としての人間至上主義である。
 第二のものは、その正反対に、人間を欠陥動物すなわち「動物マイナスα」とみなす人間文化否定論であり、「自然に還れ」式の発想から短絡的に文化破壊論へと通ずる立場である。」
「私がソシュールの示唆を受けて立つ立場は、人間が「動物プラスα」であることを認めながらも、この「プラスα」という自然からのはみ出し、過剰としての文化自体の非実体性、共同幻想性を知るべく、ランガージュというシンボル化能力にその原因を見ようとするものである。つまり人間は、ランガージュの所有によって〈関係する動物〉となり、二つのまったく質を異にする構造、すなわち種(引用者注:「種」に傍点)のゲシュタルトと文化のゲシュタルトのなかに生きているという考えから出発する。」
「〈ゲシュタルト〉とは、(中略)「要素に分割し得ない全体としてのまとまり、ないしは構造」のことである。」
「第一の分節が生み出す構造は、種(引用者注:「種」に傍点)のゲシュタルトで、これは人間が他の動物と共有する(中略)〈身分(みわ)け構造〉である。」
「「〈身分(みわ)け〉は、身(み)によって世界が分節化されると同時に、世界によって身(み)自身が分節化されるという両義的・共起的な事態を意味する」(市川浩、『〈身(み)〉の構造』)。」
「右の用語を借りた私の理論においては、一旦は、わざと(引用者注:「わざと」に傍点)〈身〉の概念を人間と動物に通底する生物学的な意味に解し、〈身分(みわ)け〉とは動物一般がもつ生(引用者注:「生」に傍点)の機能による種(引用者注:「種」に傍点)独自の外界のカテゴリー化であると考える。」
「そこでは身体的個体は定位されても自我(引用者注:「自我」に傍点)はなく、言葉以前の感覚=運動的な分節が行われる。人間を含めた一切の動物は、この本能図式にもとづく網の目によって、沸々と湧出する生のエネルギーを過不足なく掬(すく)いあげ、生存のために有用/無用、有害/無害、等々を弁別し、安全な道を選びとっているのである。」
「しかし、人間だけが右に見たような本能図式に加えて、もう一つのゲシュタルトを過剰物(引用者注:「過剰物」に傍点)としてもってしまったところに、人間の栄光と悲惨の原因があるのではないだろうか。これが第二の分節の結果生ずる〈言分(ことわ)け構造〉であり((中略)〈言(こと)〉すなわち言葉によるゲシュタルト)、このおかげで人間特有の文化が登場した。この文化は、記号・用具・制度によって身(み)を一定の環境から解放(引用者注:「解放」に傍点)する一方、身(み)の方もこれに組みこまれて支配される拘束(引用者注:「拘束」に傍点)という両義性をもっている。」
「それでは、その〈シンボル化能力〉としての言葉によって生み出されたものが何故過剰(引用者注:「過剰」に傍点)なのか。
 まず第一にそれは身の延長(引用者注:「身の延長」に傍点)だからである。」
「サルとかライオンには、(中略)時間意識がない。また彼らにとっては、視界から消えた動物は端的に存在しない。私たちは、視界から姿を消したものも、「さっきいたのだからまだどこかにいるはずだ」と考える、延長された空間意識をもつ。換言すれば、人間は言葉によって「今、ここ」という時・空の束縛からのがれ、「約束する動物」、「嘘をつく動物」となった。」
「第二に、シンボル化能力の産物は、そもそも生物体としての人間にとっては存在しなかった〈意味〉を文字通り身(引用者注:「身」に傍点)の延長である人工的道具によって拡大生産するからこそ、過剰(引用者注:「過剰」に傍点)である。望遠鏡や顕微鏡がなければ人間にとっての〈意味〉たり得ないほど遠方にある事物や微小なるものが、人間の生体的な閾(しきみ)を超えて現出する。」
「同類同士で殺しあいを演じる動物は人間だけだ、と言ったのはK・ローレンツであった。」
「では、何故であろうか。それは〈言分(ことわ)け構造〉の基底にあるものが、〈欲求〉ではなく〈欲望〉だからなのだ。
 まことに、欲望は生理的欲求とは違って限りなくふくれあがり、そのとどまるところを知らない。(中略)すべての欲望の根源には、言葉の産物である〈自我〉がある。パスカルもつとに指摘しているように、〈三つの邪欲〉すなわち官能欲、知識欲、支配欲は、〈自我(エゴ)〉の欲望なのであり、〈自己(セルフ)〉の生命維持活動とはまったく質の異なるものであろう。」
「外なる自然の征服は、内なる自然の破綻(はたん)を呼ぶ。文化は本能が退化したためにこれを補填(ほてん)すべく作り出されたものではなく、その逆に、人間は文化をもったが故に、本能の歯車を狂わせた。〈言分(ことわ)け〉の歴史は、〈身分(みわ)け〉破綻の歴史と併行的だったのである。」
「ところで、〈身分け構造〉というものが下方にあり、〈言分け構造〉というものがその上にあって、二つが重箱のように重なりあっている、と考えてはならない。(中略)実際に生きている私たちは〈言分(ことわ)けられた身(み)〉以外の何ものでもないのである。」
「言葉をもつことによってヒトとなった人間には、もはや無垢(むく)の生物性だとか感覚=運動的次元における純粋知覚などというものを基準に立てることができない。(中略)〈身分(みわ)け構造〉は、「常に、すでに」変形され破綻しているのである。」

「筆者の理論における〈コスモス〉発生の現場にあってランガージュが差異化するその対象は何か? (中略)そこで差異化され、意味化され、つまりは言語(ロゴス)化されるものは、すでに破綻した〈身分(みわ)け構造〉に生きざるを得ない人間の生体験(ル・ヴェキュ)であり、これが私のいう〈カオス〉なのである。」
「カオスなどというものはもともと(引用者注:「もともと」に傍点)存在しなかった。〈言分(ことわ)け構造〉をもたぬ動物たちは、これをコスモス化せねば生きていけないようなカオスを知らないのである。生のエネルギーは、ヒトがヒトとなる以前には、完全であったはずの〈身分(みわ)け構造〉の網によってきれいに分節され掬い上げられていたのだから、カオスなどは存在しなかったと考えてよいだろう。
 コスモスと共起するカオスはまた、エロスとタナトスの欲動(トリーブ)であり、リビドーである。「リビドーと呼ばれるものも〈一つの本能〉などではない」(メルロ=ポンティ、『知覚の現象学』)。そして筆者が、表層意識・下意識・潜意識と共起的(引用者注:「共起的」に傍点)と考える無意識も、また〈カオス〉なのである。この〈無意識〉は(中略)、実は言葉の産物(引用者注:「産物」に傍点)であった。」
「人間の一生は、身(み)が言(こと)によって壊される歴史であり、身(み)が言分(ことわ)けられる度に裂け目はますます大きくなってカオスが増大し、私たちはそのカオスを再び言分(ことわ)けていかねばならない。そして人間は、言葉をもったために生じたカオスへの恐怖と、それをまた言葉によって意味化する快楽に生きる。」
「このように、「今、ここ」でこそ、カオスが絶えずコスモス化されていても、カオス自体はコスモスの産物であり、しかもカオスが再びコスモス化されることによってしか新たなカオスは生じないという円環運動が起きている。だからこそ、〈外部〉は〈内部〉の産物として共起するし、アラヤ識を含めた一切の根源の如く見えるものも、逆に意識の表層・深層にわたる言葉(ロゴス)が生み出していると言えるのである。」



「Ⅴ 文化と言葉と無意識」より:

「さて、〈心身症〉やその他の心の病いの原因は何であろうか。」
「人びとは高等教育を受ければ受けるほど科学という名の〈物神〉信仰に陥り、その病状を悪化させていることは否めまい。」
「フランスの社会学者・H・ルフェーヴルによれば、世紀末から二十世紀にかけて起きた〈知〉の転換は、〈自然〉をめぐる二つの考え方の間に見られる移行のプロセスとして説明されるという。
 第一の考え方は(中略)機械論的かつ目的原因論的なものであり、身体の領域にあっても、精神の領域にあっても、ある目的を達成するためには最小の手段による経済性(エコノミー)が要求された。(中略)人間を含む物質的自然は機械的システムからできていて、常に自発的に安定を保とうとし、攪乱(かくらん)が度を超さない場合には必ず自らの均衡を回復する。
 第二の考え方は、ニーチェやバタイユの美学に属していると言えるだろう。すなわち、人間をも含めた生ける自然とは、驚くべき繁殖、過剰、とめどもない浪費であって、存在し生きること以外には何の目的ももたない。それは何よりもまず〈生〉であって、生きる能力と活動であり、絶えまない戯れであり、さまざまな形をとる奢侈(しゃし)であり、〈死〉すらもこのような豊饒(ほうじょう)の一つの側面に過ぎないのである。それ故、このような存在に対しては内的均衡やエコノミーの法則を当てはめることはできない。

  「後者の考え方は道徳的であるとはいえないが、正直に言って、私の好みに合うのである。病的なもの、そして怪物的なものですら、生きている自然のとめどもない奢侈(しゃし)の一部をなしている。(……)この考え方は、精神病者と呼ばれる人が、必ずしも最も精神病的であるのではなく、正常な人間、平均的な社会的な人間も多分同じように精神病的であると考えることを強いる」(アンリ・エー編『無意識』)。

 右に引いたルフェーヴルの考察は、ジェイムズ・ヒルマンにその典型を見るアメリカの臨床心理学者が考えている精神病者像とは正反対のものである点において特に興味深い。ヒルマンは「患者たちは皆、デカルトが仮想的に創造して見せた、あの、擬似事物界に住んでいるんです。そこでは、物は一様に、無機的な死物で、本来的に無意味な〈res extensa (延長をもった物体)〉にすぎない。患者は、まさに、そのことになやまされているんだと、私は思うんです」(井筒俊彦対談集『叡知の台座』)と言うが、こうした状態にあるのはむしろ健常とみなされている私たち、つまりは物象化した表層意識の世界に生きている一般人の方ではないのか。患者はその反対に、深層意識の流動的世界に住んでいるのではないのか。」
「ヴェニス生れの作曲家・指揮者であるジュゼッペ・シノポリは、好んでマーラーの曲を指揮するが、さるインタビューに答えて次のように述べている。

  「マーラーは二度ほどフロイトの診断を受けたことがあります。フロイトとの出会いはそれ以上発展しませんでした。フロイトの直感のようなものがそうさせたのだと思います。私も精神分析医としてマーラーを治療しようとはしなかったでしょう。なぜなら、本来マーラーの音楽は、彼の症状の現れだったからです。
 彼の偏執狂の症状だと言ってもよいと思います。そして彼の音楽を生み出したこの症状を治療してしまったなら、マーラーはもはや作曲できなかっただろうと思います。
 ですから、フロイトが彼を早く治療しなくてよかったと思っています。(……)マーラーの音楽は、テクノロジーによって支配されている現代社会ではますますその重要性をもつことでしょう。」

 まことに、京大教授・木村敏氏(精神病理学)も言うように、何を〈正常〉と呼び何を〈異常〉と呼ぶのか。「異常とは普通、正常が変化した状態、つまり正常の変種と考えられています。が、逆に正常を異常の変種と考えることはできないか。当たり前なのはむしろ異常の方であり、私たちが正常であることは実はそう当たり前ではない、と考えられないか」(「〈正常〉〈異常〉とは何か」、毎日新聞、一九八六年五月二十六日付)。」
「私たち健常人とみなされている人びとの心に巣くう病いの原因である〈デカルト的世界像〉は、一見近代以降のもののように考えられる。」
「しかし、科学的事実信仰の根はさらに深いのである。」
「私たちの病いの根はさらに深く、ヒトがヒトとなって以来もってしまった言葉、一切のドクサに先行するウア・ドクサとしての言葉にまでその源をさかのぼらなければならないのである。
 私たちの心の病いの真の原因は、恐らくは二百万年ぐらい以前から現代に至るすべての時代に汎通する言葉の〈ある状態〉がもたらすものなのであって、それは「関係でしかないものが実体と錯覚される」言語(ラング)の状況であり、これまで数章にわたって解明してきた言葉の物象化現象であり、〈表層のロゴス〉の産物以外の何ものでもないと言えるであろう。
 そうしてみると、いわゆる〈治療〉というものに対する考え方も、従来の発想を百八十度転換させねばならないように思える。」

「それ以上に問題とせねばならないのは、多くの臨床心理学者が治療の目的として「患者の社会復帰」という錦の御旗をたてる発想自体である。もし豊饒な生の働きをおさえて、均衡のとれた社会的人格を強制するのが治療であるとすれば、これは治療というよりは科学による新たな抑圧であるといわねばならないだろう。彼らが目指すところは、(中略)〈複数の自己(ゼルプスト)〉の対話を禁じ、〈私(イッヒ)〉の擬似同一性を錯視させることでしかない。こうした深層意識の抑圧による〈デカルト的世界像〉の押しつけこそ、心の病いの原因そのものなのだから、たとえ一時的には平均的ノモス人間に復帰できても、病状はさらに悪化の途をたどることになりかねないのである。
 もし治療(引用者注:「治療」に傍点)というものがあり得ると仮定しての話だが、私たちは従来の発想を逆転して、ノモスの抑圧から深層意識と無意識を解放することを目指さねばならないのではあるまいか。」







こちらもご参照ください:

丸山圭三郎 『ソシュールの思想』
ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)
井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (岩波文庫)
豊田国夫 『日本人の言霊思想』 (講談社学術文庫)
Th・W・アドルノ 『アルバン・ベルク』 平野嘉彦 訳 (叢書・ウニベルシタス)
狩々博士 『ドグラ・マグラの夢』










































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うまれたときからひとでなし
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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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