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ピエール・ギロー 『言葉遊び』 中村栄子 訳 (文庫クセジュ)

「Un mot de vous et un mou de veau
 「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

(ピエール・ギロー 『言葉遊び』 より)


ピエール・ギロー 
『言葉遊び』 
中村栄子 訳
 
文庫クセジュ 626 


白水社 
1978nen2月20日 印刷
1979年1月8日 発行
178p 
新書判 並装 カバー
定価650円



本書「訳者まえがき」より:

「文例についてはほとんど全部原文とその直訳を掲げ、ついで簡単な解説を施した。訳者の解説はカッコに入れ、活字を小さくしている。(中略)文例の日本語訳にはすべて引用符「 」を付し、原文にある《 》はそのまま再現した。」


Pierre Guiraud: LES JEUX DE MOTS
(Collection QUE SAI-JE ? No 1656)



横組。本文中図版3点。



ギロー 言葉遊び 01



目次:

訳者まえがき

序文 《言葉遊び》とは何か
第1章 代入
 Ⅰ 地口
 Ⅱ 異義復言
 Ⅲ もじり
 Ⅳ なぞ遊び
第2章 連鎖
 Ⅰ いつわりの等位関係
 Ⅱ 同音による連鎖
 Ⅲ 反響による連鎖
 Ⅳ 自己運動による連鎖
 Ⅴ 引出し式なぞ遊び
 Ⅵ 偶然の連鎖
第3章 挿入
 Ⅰ 転換
 Ⅱ 編入
 Ⅲ 内挿
第4章 絵文字遊び
 Ⅰ 判じ絵
 Ⅱ 印書術による判じ絵
 Ⅲ カリグラムと絵文字
 Ⅳ クロスワード・パズル
第5章 副次的遊戯機能: 遊戯以下と遊戯以上
 Ⅰ 言葉の事故
 Ⅱ 文学的機能
 Ⅲ 秘密文書的機能
第6章 遊戯的機能
 Ⅰ 言語誤楽
 Ⅱ 言葉遊びとしゃれ
 Ⅲ 言葉遊び
結論 語源論的考察

訳注
文献目録




ギロー 言葉遊び 02



◆本書より◆


「第1章 代入」「Ⅰ 地口」より:

「地口 calembour とは、この用語の狭い意味では、《おもしろく》しようとする意図による、多かれ少なかれ《濫用》された、音声の類似による両義語である。」
「またこういうのもある
  《Bassompierre, prisonnier à la Bastille, tournait brusquement les feuilles d'un livre: 《Que cherchez-vous, lui demanda le geôlier. ―Un passage, lui répondit Bassompierre, que je ne saurais trouver.》》
  「バスチーユの囚人バソンピエールが本のページを荒々しくめくっていた。《何を探しているのかね。》と看守が尋ねた。バソンピエール答えていわく、《ある条(くだり)(抜け道)だよ。見つかりっこないがね。》」
 (これは名詞 un passage の多義性を利用したしゃれである。この語のもつ多くの意味のうち、ここでは「文章の一節」と「通路」つまり牢獄からの抜け道という意味がかけられている。)」

「実のところ多くの 地口 がほのめかしによって機能している。」
「《Mourir c'est partir un peu》「死ぬとは少し旅立つことなり」(これはpartir c'est mourir un peu 「旅立つとは少し死ぬことなり」を逆にしたものである。)などがそうである。」



「第1章 代入」「Ⅲ もじり」より:

「勘違い pataquès――もじり の形態のひとつに勘違いがある。」
「現在のところは、M.‐C. ギカの『奇語小辞典」と『ことばの魔術』から借用して、もっと凝った言い方のものをいくつか紹介しよう。
  Abdomen: 《Monument mégalithique auprès duquel les peuplades superstitieuses de l'ancienne Gaule croyaient entendre des grondements souterrains et des soupris mytérieux.》
  「腹部: 古代ゴールの迷信的未開人たちが、地鳴りと神秘的なため息の音がそこから聞こえると信じていた巨大な石碑。」
 (abdomen 「腹」を dolmen 「巨石碑」と読み違えた定義である。)」
「  Cyclamen: 《Amateur de bicyclette. Expression originale d'origine anglaise en usage vers 1880: 《Les élégants cyclamens pédalaient dans l'avenue des Acacias》 (Le Gaulois).》
  「シクラメン: 自転車乗り愛好者。1880年頃よく使われた。英語を語源とする独創的表現である。《優雅なシクラメンたちがアカシア通りでペダルを踏んでいた》と『ゴーロワ』紙に見ゆ。」
 (cyclamen (シクラメン)という花の名を英語の cyclist (サイクリスト)「自転車乗り」にあたる言葉だと勘違いしたのである。「~する人」をあらわす接尾語は ist のはずなのに men だろうと思い、さらにそれを単数とみて複数は cyclamens と念を入れている。アカシア通りというのもいかにもイギリス風である。)」



「第3章 挿入」「Ⅰ 転換」より:

「アナグラム anagramme と字なぞ logogriphe――アナグラムは、《1語あるいは1文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味を持った他の一語または数語を構成するようにする》ことである。たとえば ancre 「錨」は nacre 「真珠母」の、onagre 「野生ろば」は orange 「オレンジ」のアナグラムである。
 アナグラムはギリシア語で「文字」をあらわす gramma と、転覆、逆行の観念をあらわす ana (たとえば anachronisme 「時代錯誤」、 anamorphose 「奇形」、anastrophe 「倒置」などの例がある)とを合わせたものである。
 しかしながら、アナグラムにおいては《転覆》は自由に行われ、配置転換された文字はどの場所を占めてもよい(cf. 回文 および 逆さ言葉)。
 そこで同じ1語がいくつものアナグラムを提供することができる。たとえば orange からは onagre が作られるだけでなく、organe 「器官、機関」も作られるのである。
 アナグラム では、変形される語を構成する文字の一部だけを利用する不完全なものもあり、たとえば orange から orage 「嵐」や nager 「泳ぐ」などを引き出すこともできる。しかしそれらは もじり でしかなく、アナグラム作成を容易にするために与えられている許容にすぎない。
 アナグラム は文全体に及ぶことがある。たとえばボナパルト(ナポレオン)のクーデターのとき、『フランス革命』紙にはこう書かれていた。《Un veto corse la finira》「コルシカの拒否権が革命を完成するだろう」(これは Révolution française のアナグラムである)。
 原則として、上記の例にかかわらず、アナグラム は固有名詞に適用されるものであり、これは 固有名詞語源論 étymologie onomastique の一形態なのである。
 固有名詞語源論の場合と同じように、アナグラム も名詞の形態が命名された事物の固有性を反映しているという前提に立っている。しかし前者においては同音関係が明白であるのに対して、後者においては一種のコード化によって隠されており、アナグラム解読者はそのコードを解読しなければならない。
 それ故に アナグラム は占いや秘儀において実行されてきたものであり、それも古代に既に始まっていたことがこの用語の語源がギリシア語であることによって知られる。これはカバラ Cabale (ユダヤ教の神秘的聖書解釈術とそれを伝授する宗教家)にも見いだされ、そこでは、アナグラムによる転換は、名称の背後に、神秘的、予言的な隠された意味を発見する術とみなされている。
 これはまた阿諛(あゆ)や諷刺の手段でもあり、それ故宮廷の遊戯であった。ギリシア時代やラテン時代に既に実行されていたのであるが、ルネッサンスの時期に再びこの形のもとに花咲いた。
 中世はアナグラムの語源論的意義にことさらに敏感であった。たとえば Roma の中に Amor (ラテン語の「愛」)があると考え、そのためローマを(神の)愛の都になぞらえた。他方同音による語源論はギリシア語の rôme 《力、権力》をそこに見いだした。
 紋章や銘文にもアナグラムが利用され、たとえばロレーヌ Lorraine 家の紋章には《alérions》(小さな鷲)が描かれているが、それは alerion が Loraine のアナグラムだからである。
 ルネッサンス時代には宮廷やサロンで アナグラム が大流行であった。Pierre de Ronsard は Rose de Pindare 「ピンダロスのばら」となり、シャルル9世の寵妃 Marie Touchet は Je charme tout 「私はすべてを魅惑する」である。」
「爾来アナグラムは一種の遊戯として扱われているが、現在でも多くの人に対して潜在的な語源論的威力を保ち続けている。」
「古典主義者たちは 地口 に対してそうしたのと同様に アナグラム も非難し、双方とも無益で幼稚な遊戯にすぎないとみた。それにもかかわらずアナグラムは根強く生きのび、超現実主義者たちは見逃さずにこれを楽しんだ。アンドレ・ブルトンは Salvador Dali を Avida Dollars 「ドルに貪欲な男」と呼んだ。」
「アナグラムは今日ではもはや遊戯にすぎない。しかし今でもひとびとはある種のひそかな力がこれに備わっていると考えている。その証拠としてアンドレ・テリヴの奇妙な反省がある。彼は《アナグラムには何か人間の技巧以外のものがあるのではないかと考えたくなる》と言い、《たとえば Révolution française 「フランス革命」のアナグラムである Un veto corse la finira 「コルシカの拒否権が革命を完了するだろう」が偶然に生まれたということがどうしてあり得ようか》と自問している。
 同じようにうまくできている例をいくつかあげよう。
  Frère Jacques Clément → C'est l'enfer qui m'a créé.
  「ジャック・クレマン修道士 → 私を創ったのは地獄である。」
  Napoléon empereur des Français → Le pape serf a sacré un noir démon.
  「フランス人の皇帝ナポレオン → 奴隷たる法王は暗黒の魔王を聖別せり」
 Pétain 「ペタン将軍」 → inapte 「不適格者」、vigneron 「ぶどう作り」 → ivrognne 「酔っぱらい」などは言うまでもないだろう。」

「アナグラム から派生し、同じように文字の配置転換にもとづいているのが 字なぞ である。(中略)それはアナグラム化された語が定義と同じ役割を果たし、なぞ遊びと同じように、これも多くの場合韻文で書かれた判じ物を構成しているのである。
 字なぞ logogriphe はギリシア語の logos 「論述」と griphos 「網」から来ている。つまり《なぞの形をとった、難解な、ひっかかりやすい論述》なのであり、その名称が示すとおり、ギリシア・ローマ時代に既に知られていた。
 なぞ遊び が全体を音節に分解するのに対して、字なぞ は文字の配置がえ、または削除によってアナグラムを引き出す。」
「しかし『19世紀ラルース辞典》も次のように指摘している。
 《本当の字なぞは、とりわけ通俗文学で花咲いた形としては、もっと複雑である。いくつかの例をあげてみよう。
   私より古く、私ほど美しいものはありません。
   私の名の綴字から3番目の字を消しなさい。
   年老いても若くても私はひどく醜いのです。
   きみの手で各瞬間に2番目の字を取り除けば
   私はきみの意志に反してふえるのです。
   きみの当惑はお気の毒さま、
   きみは私を一度も水、私を知ることができません。
   だがすくなくとも私の前半分を認めなさい。
   きみはそれが死に、再び生まれるのを見ました。
 なぞの語は ange 「天使」である。この語の3番目の字を除去すれば âne 「ろば」となり、2番目の字を除去すれば âge 「年齢」となる。またこの語の前半を分離すれば an 「年」が得られる。」

「換字地口 contrepèterie――換字地口 は昔 もどり歌 antistrophe と呼ばれていたもので、1語ないし数語の文字の配置転換を行なって、その語尾同音 consonance は変えずに意味を変えるという一種のアナグラムである。たとえば
   Un sot pâle et un pot sale
   「蒼白い馬鹿と汚いつぼ」
   Vendre votre terre et tendre votre verre
   「あなたの土地を売る、とあなたのコップをさし出す」
   Un mot de vous et un mou de veau
   「あなたの一言、と子牛の肺臓」」

「語順転換 antimétabole あるいは語彙転換 contrepètrie lexicale」
「次のは作者不詳である。
   On entre on crie
   Et c'est la vie
   On crie on sort
   Et c'est la mort.
   「人は入場し泣き叫ぶ
   それが生だ
   人は泣き叫び退場する
   それが死だ。」」



「第5章 副次的遊戯機能」「Ⅲ 秘密文書的機能」より:

「思考を伝達するために作られている言語は、ある状況のもとでは、思考を隠蔽することもある。軍事上、外交上の秘密コードがそれにあたり、その場合メッセージはその構成要素の転換や代入によって作成される。
 同様に神話、呪文、技法伝授、予言などは隠された形式のもとに正体をくらます。たとえば錬金術の原典はひとつの象徴体系としてわれわれに伝わっているのであるが、その体系を正確に知ることができないためわれわれには閉ざされたままである。
 ヘルメス学は秘密のないところでは秘密を探究してそれらしきものを設定する。たとえばカバラは聖書のコード化術であり、聖書の文字や語句の代入と転換によってそこに秘密の意味を探索し、発見する。
 固有名詞語源論は、既にのべたとおり、原則として表面上の意味の下に隠されている真の意味を見破ることを目的とする占いの術なのである。宗教、神話、道徳、さらには技術さえもがなぞと判じ物の形のもとにその真理を語ることをやめなかった。
 昔から言語をもてあそんできたこのヘルメス学的思索は、言葉の下に思考を隠す方法を想像しうる限りことごとく動員した。代入、転換、挿入、なぞ、判じ絵、魔術の方陣などである。」
「そこで、繰り返して言えば、遊戯的機能と秘密文書的機能との間には深い類縁関係が見られる。
 事実、ある条件のもとではこの2つは混同されることあがる。政治的状況や世情によって 2重の意味 が要求されている時代には特にそうである。
 それ故に 言葉遊び は独裁政権のもとでは政治的諷刺の主要な武器となる。それは宗教戦争、大革命、占領下の時代に、さらに身近なところでは大部分の警察国家において花開いた。」
「束縛やタブーに対して嘲笑を動員するということが遊戯的機能の主要素のひとつなのである。」



「第6章 遊戯的機能」「Ⅲ 言葉遊び」より:

「言語の壊乱――遊戯の無償性を強調しながらも、一般的に多くの遊戯が、とりわけ多くの 言葉遊び が諷刺と嘲笑の機能をもっていることを指摘しないわけにはゆかない。この特色はごくひんぱんに発揮されるので、このジャンルに内在するものとみなすことができる。」
「無教養でばかげた言述は、子供のしかめっ面や、おしやつんぼのまねをしてからかう人の嘲弄と同じように、話相手にさし向けられる鏡である。(中略)《これはばかげたことだが、おまえにはちょうどよい》と言っていることになる。だからこれに対する古典的な返答は、ばかばかしさの度合いをさらに強めた物言いをすることである。
 それと同時に不統一は、発言者自身によって、彼の身上だとされている卑俗さに徹しようと決意して採用されることがある。地口という(悪)趣味は、強迫的、錯乱的な加-被虐趣味の形をとることがある。それはシャルル・クロの「燻製にしん」のように、《まじめな、まじめな、まじめな人たちを激怒させる》ために作られたもので、《軽薄さ》の免状を獲得する一方法なのである。」
「さて、《悪趣味》(中略)は実際の社会的機能を持つことがある。それはベル・エポック時代に(アルフォンス・アレやジャリなどによって)、ブルジョアの侮蔑の的であった芸術家(芸術家のほうでもブルジョアを軽蔑していたのだが)がこの悪趣味という評判を受けて立っていた社会において花咲いた。それは《良い趣味》という概念が(《良き慣例》や《洗練された態度》と同じように)本来相対的なものであり、ある階級の支配が承認されている社会ではその支配階級の趣味に合致するものであるゆえにますますそういう事態になるのである。
 そこでこの《悪趣味》に階級闘争の武器とまではゆかずとも、とにかく風俗、慣例、趣味に対する有効にして重要な異議申し立ての一方法を見ることが許されるであろう。
 それ故に悪趣味はそれを看板にしている作家たちによって正当性を主張されている。《われわれのしるしは、狂った精神、時宜はずれの時宜、的をはずれた冗談、なれあいの謹厳さ、凝った地口、微妙に露骨な悪趣味である》とジュリアン・トルマはその『幸福感促進法』で宣言している。そしてこの言葉を引用しているリュック・エチエンヌは結論する。《なぜ悪趣味はよい趣味と同じほどに、おそらくはそれ以上に洗練されていないというのか》と。
 それは、究極のところ、問題にされているのが事物や人間ではなく、言語であり、さらに言語を通じて言語が媒体の役を果たしている社会制度なのだからである。同時に言語は社会制度の中でも最も重要な制度のひとつなのである。
 言語は機能を停止した瞬間に滑稽なものとなり、言語とともに修辞学、コード、文書(codex=écrits)、原則、論理、概論など、言語がそこに現われるものはみな滑稽なものとなる。その点をジードは『架空会見記』の中でジョイスに関して極めて適切に見抜いている。《ジョイスの投石は制度や風俗に向けられているというよりむしろ言語の形態に向けられており、思想や感情に向けられるのではなく、その表現に向けられている。思想や感情は世上の事物以上にわれわれを欺くのである。ジョイスは外被と外見を引き裂き、現実を裸にする。》
 それ故に言葉遊びをする人たちの術策は伝統的な成句表現や、スローガンや特にことわざに対して働きかけることをやめなかった。」

「ご覧のとおりに笑いは遊戯的機能の根底をなすものであるが、必ずしも無邪気なものとは限らない。事実これは壊乱的な笑いなのである。そして笑いは、(中略)人物や、制度や、紋切型や、社会秩序の表現を、その主たる保証人である言語を通じて攻撃するのである。」
「この観点からすれば、禁制とタブーに対する闘いにおいて 言葉遊び がどのような位置を占めるかが明らかである。
 われわれは既に、この本の途中において、宗教抗争や、革命や、占領下や、警察国家において 言葉遊び が果たす役割を見た。そういう状況が現われるたびに 言葉遊び はしばしば同じ姿のもとに花咲いたのである。現代のあらかた民主化された社会ではその鋭鋒はなまっているが、それでも『鎖につながれたあひる』のようないくつかの政治的新聞が今日でもその伝統を保持している。
 それに反して、最近になって攻撃の矢面に立ってはいるが、相変わらず根強く生き残っている禁制のカテゴリーがある。それは性と排泄に関するタブーである。」
「しかし 言葉遊び の本当の機能はもっと深く、もっと油断のならない、もっと猥褻なタブーと闘うことである。便器を展示するマルセル・デュシャンは芸術のイメージそのものを破壊し、その本質とその目的を俎上にのせる。」
「同様に地口も、論理や、文学や、修辞学や、既成秩序とその権力の独断的教養や画一主義に奉仕している言語を俎上にのせるのである。」








こちらもご参照ください:

「風の薔薇」 5 特集: ウリポの言語遊戯
丸山圭三郎 『言葉と無意識』 (講談社現代新書)
塚本邦雄 『新装版 ことば遊び悦覧記』
シルヴィー・ヴェイユ、ルイーズ・ラモー 『フランス故事・名句集』 田辺保 訳
鈴木棠三 『ことば遊び』 (中公新書)
レーモン・ルーセル 『アフリカの印象』 岡谷公二 訳 (平凡社ライブラリー)























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