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フレイザー 『金枝篇 (五)』 永橋卓介 訳 (岩波文庫)

「したがって未開人はこのような情況のもとでは、その魂を身体から取り出してどこか気に入ったところに置いて安全をもとめ、危険の去った時分に再びそれを身体の中に取り入れようとするのである。あるいはまた、どこか絶対に安全な場所を見つけることができたなら、満足してその霊魂を永久にそこへ置くであろう。」
(フレイザー 『金枝篇 (五)』 より)


フレイザー 
『金枝篇 
(五)』 
永橋卓介 訳
 
岩波文庫 白/34-216-5 


岩波書店 
1952年10月25日 第1刷発行
1967年12月16日 第2刷改版発行
1987年11月16日 第17刷発行
154p 索引107p 
文庫判 並装 
定価450円



全五冊。



フレイザー 金枝篇 五



帯文:

「ネミの森の「金枝」をめぐる奇妙な風習から出発した長い思索の旅だったが、いよいよ終りを告げる。巻末に詳細な索引を付す。」


目次:

第六十三章 火祭りの意味
 一 火祭り概説
 二 太陽説による火祭りの解釈
 三 祓浄説による火祭りの解釈
第六十四章 人間の焚殺
 一 人形を焼くこと
 二 人と動物を火に焼くこと
第六十五章 ボルダーと寄生木
第六十六章 民話における外魂
第六十七章 民俗に現われた外魂
 一 無生物の中の外魂
 二 植物の中の外魂
 三 動物の中の外魂
 四 死と復活の典礼
第六十八章 金枝
第六十九章 ネミよさらば

解説
索引




◆本書より◆


「第六十四章」より:

「ケルト族は、五年目ごとに行なわれる大祭にあたって神々に供犠するため、罪に定められた罪人を養って置いた。このような生贄の数が多ければ多いほど国土の豊饒繁栄も大きくなると信じられていた。もし生贄として供えられる罪人の数が十分でない場合には、この不足を補うために戦争の捕虜が殺された。定められた時期が来ると、生贄はドルーイドすなわち祭司によって供犠とされた。ある者は矢で射殺し、ある者は杙(くい)で刺し殺し、またある者は次のようにして生きながら焼き殺した。すなわち木の枝を編んだり、木と草で編んだりして、巨大な像をいくつもつくる。この中に生きたままの人間、家畜ども、その他の動物をつめこむ。これに火をつける。すると巨像はその中に生きたものを抱いたまま焼け落ちるのである。」

「ドルーイド僧のつくったこの枝編み細工の巨像は、(中略)少なくとも近代に至るまでヨーロッパの春と夏至の祭りにあたってその写しをもっていた。すなわちドゥエイでは少なくとも十九世紀の初葉ころまで、毎年七月七日に最も近い日曜日に行列を行なうことになっていた。この行列の大きな特徴は、キヌヤナギでつくられた高さ二十フィートから三十フィートにも及ぶ「巨人」という名の巨像であったが、これは中に閉じこめられた人々の操る巻軸と繩によって街々をねり歩くのであった。この像は槍と剣、甲と楯でもって騎士のように武装させてあった。同じ様式でただ幾分小さくキヌヤナギでつくられた彼の妻と三人の子供の像が、その後に続いた。デュンケルクでは、この巨人どもの行列は六月二十四日、すなわち夏至の当日に行なわれた。「デュンケルクのバカ騒ぎ」として知られたこの祭りは、無数の見物人を引きつけた。巨人は時として四十五フィートもある枝編み細工の巨大な像であって、長い青色の寛衣と足までとどく黄金色の紐で飾られ、その中には十二人あるいはそれ以上の人々がかくれていて、それを踊らせたり頭を見物人の方へ動かしたりした。(中略)アントワープではこの巨人があまりにも大きすぎて、市のどの城門もくぐり抜けることが出来なかった。」

「その昔パリのプラス・ド・グレーヴで焚いた夏至の火祭りでは、生きた猫どもをいっぱいにつめ込んだ籠や袋などを、祝火の真中に立てた高い棒に掛け、それを焼くのが慣わしであった。(中略)この祝火の燃え切れや灰は幸運をもたらすというので、人々はそれを集めて持ち帰るのであった。」



「第六十五章」より:

「ヨーロッパでは寄生木は遙遠の昔から迷信的崇拝の対象になっていた。プリーニウスの著名な一章から学ぶように、それはドルーイド僧の崇拝するところであった。」


「第六十六章」より:

「本書の初めの部分で、未開民族の考えるところでは、霊魂というものは死をもたらすことなしに、しばらくの間はその身体を留守にすることの出来るのを見た。さまよえる霊魂は敵その他の者の手によってさまざまな危難を被りやすいので、霊魂のこのような一時的不在は怖るべき危険をともなうものとしばしば信じられている。しかし霊魂を身体から遊離せしめるこの力には、他の様相がある。」
「未開人は生命を(中略)、明確な質量をもった形而下的物質的存在であって視ることもできれば触ることもでき、箱や壺に入れて置くこともできるし、傷つけたり破壊したり細かく潰すこともできると考えている。このようなものと観られる生命は、必ずしも人間の中に在るを要しない。身体の外に在りながらも、一種の共感または遠隔からの活動の力によって、なお彼を活かし続けることもある。彼が生命とか魂とか呼んでいるこの存在が健在である限り、人間は健在である。もしそれに危害が加えられたなら彼は病む。もし破壊されたなら彼は死ぬのである。これを他の方面から言って見れば、それが彼の身体の中に在ると外に在るとを問わず彼の生命とか霊魂とか呼ばれる存在が、危害を加えられたのか破壊されたのだ、とこの事実は解釈されるのである。しかしもし生命または霊魂が人間の中に留まっているとすれば、それがどこか安全で秘密の場所にかくされてある場合よりも遙かに危害を受ける危険性が多い立場にあることになるであろう。したがって未開人はこのような情況のもとでは、その魂を身体から取り出してどこか気に入ったところに置いて安全をもとめ、危険の去った時分に再びそれを身体の中に取り入れようとするのである。あるいはまた、どこか絶対に安全な場所を見つけることができたなら、満足してその霊魂を永久にそこへ置くであろう。このようなことをする利益は、霊魂が彼の選んでおいた場所に健在で留まっている限り、その人自身が不死となることである。彼の霊魂はその身体の中にはいないので、何者も彼の身体を殺すことは出来ないのである。
 この原始的信仰の実例は、「身体に心臓のない巨人」という北欧の説話をおそらく最もよく知られた見本とする民話の一形式によって与えられる。この種類の説話は世界中に普及しており、その数のおびただしいことと事件の多様性および主要思想を含む内容の多様性とから見て、外魂の観念が歴史の初期において人間の心を強くつかんでいたものの一つであったことを知ることが出来よう。」
「まず第一に、外魂にかんする説話は、ヒンドゥスターンからヘブリデスに至る全アーリア人によって、種々様々な形で語られている。その極めて一般的な形は次のようなものである。すなわち魔法使い、巨人その他おとぎ話の国の者どもは、どこか遠方の秘密な場所に霊魂をかくしてあるために不死身であるばかりでなく不死である。しかし彼がかどわかして魔法の城に幽閉してある麗しい姫君が彼からその秘密を探り出してこれをある英雄に告げ知らせると、英雄は魔法使いの霊魂、心臓、生命、あるいは死(いろいろと呼ばれている)を探りあて、それを破壊することによって同時にその魔法使いを殺してしまうのである。」
「たぶんインドに由来すると思われるシャムの説話あるいはカンボジアの説話では、セイロン王であるトッサカンもしくはラヴァナは、戦争に行く時には魔法の力によって自分の霊魂を身体から取り出し、それを箱にしまって家へ残して置くことが出来たという。このようにして彼は戦争中は不死身であった。」
「ベンガルの説話では、ある王子が遠国へ旅立とうとするとき、父王の宮殿の庭に自ら一本の木を植え、両親に向かってこう言う。――「この木は私の生命です。この木が緑でいきいきしているのをごらんになったら、私も同じように健在だと思って下さい。この木のどの部分かが色褪せたなら、私が危険に直面していると御承知下さい。そしてこの木の全体が色褪せてしまった時は、私はもはや亡き者と御考えねがいます」と。」
「またメガラの王ニーソスは頭の真中に一本の紫または黄金色の髪の毛をもっていたが、これが抜きとられると王自身は必ず死亡するように運命づけられていた。」
「他のドイツの説話では、年老いた魔法使いが乙女と二人きりで、広々とした淋しい森林の真中に住んでいる。魔法使いは年老いているのでやがて死んで行くが、そうなると乙女は森林の中に独り残されるのでそのことを怖れている。しかし彼は乙女に言いきかせるのである。――「子供よ、わしは死ぬことなんかないのじゃ。わしの胸には心臓がないからね」と。乙女は彼の心臓がどこに在るか教えてくれるようしつこくせがむ。これに答えて彼は次のように言う。――「ここから遠い遠い名も知れぬ淋しいところに、大きな教会堂がたっている。この教会堂は鉄の扉で厳重に固められ、まわりに広くて深い壕をめぐらしている。教会堂の中には一羽の小鳥が飛んでいるが、わしの心臓はその小鳥の中に在るのじゃ。小鳥が生きている限りわしも生きている。小鳥はひとりでに死ぬことはなく、そのうえ誰もそれを捕えることは出来ない。だからわしは死ぬことなんかない。心配しなくてもよいのじゃ」と。」
「北欧の「身体に心臓のない巨人」という説話では、巨人が虜(とりこ)にした姫君に向かって「遠い遠いところの湖の中に島があり、その島の上に教会堂がたっており、教会堂の中に井戸があって、その井戸にアヒルが浮かんでおり、アヒルの中には卵が一つあって、その卵の中に俺の心臓があるのだ」と言う。」
「カバイル族の説話では、一人の食人鬼が自分の運命はある卵の中にあり、その卵は一羽の鳩の中にあり、その鳩は一匹の駱駝の中におり、駱駝は海の中にいると言う。一人の英雄がその卵を探しあてて両手で潰すと、食人鬼はたちまち死んでしまう。」



「第六十八章」より:

「すでにのべたように、カシワの樹の生命が寄生木にあるという観念は、冬になってカシワの樹そのものは葉をふるってしまうのに、寄生木が樹上に青々と繁っているのを観察して、おそらくは示唆されたものであろう。しかしその植物の生えている位置――地上に育たないで樹幹または枝に生えるということ――が、この観念を確かなものとしている。未開人はカシワの樹の精霊が彼自身と同じように、その生命をどこか安全な場所にあずけることをのぞみ、この目的で寄生木を危害からもっとも安全だと思われるところの、地上でもなく天上でもない場所に投げ上げたのだと考えたに違いない。われわれは前のある章で、未開人が彼らの人間神の生命を、地上において人間の生命を包囲する一切の危険にさらされることの最も少ない場所として選んだ天と地の間に、うまく吊して置くことによって確保しようとするのを見た。」
「伝承の語るところによれば、パースシャーの一領地、エロールのヘイ家の運命は、あるカシワの巨木の上に繁る寄生木に結ばれていた。」
「この古い俗信は、伝説的にトーマス・ザ・ライマーに帰せられている詩に記録されている。――

  エロールのカシワの樹に寄生木しげり
  カシワの樹しかと大地にたつかぎり
  ヘイの代は栄えて、そのめでたき灰色タカは
  疾風の前にもたじろぐことあらじ。
  されどカシワの樹の根は枯れ
  その凋(しな)びたる胸に寄生木の萎えるとき
  エロールの家の炉には青草しげり
  ワシの巣にはオオガラスうずくまるべし。

 かの「金枝」は寄生木であった、というのは新しい説ではない。」



「第六十九章」より:

「われわれの長い発見の航海は終り、ついにわれわれの船は港に入って、よれよれになった帆を降した。いまひとたびわれわれはネミへの道を歩く。夕暮れである。アルバの山をさしてアッピア街道の長い斜面を登りながら振り返って見れば、大空は夕焼けに赤々と燃えて、金色の輝きは聖者の後光のようにローマの上にかかり、サン・ペテロのドームは火に照りはえている。この光景は一度見れば決して忘れることは出来ない。再びくびすをめぐらして、すでに夕闇の迫る山添いの道を歩きつづけると、やがてネミへ辿りつく。深い窪地にたたえた湖を見おろせば、早くも夕べの帳(とばり)に覆いかくされていた。この聖森でディアーナが信者の祈りをうけて以来、場所は全く変わってはいない。この森林の女神の神廟はもとより失せ果て、もはや「森の王」は「金枝」を護って夜もすがらそこに立ってはいない。だがネミの森林は今なお太古そのままの緑であり、日がその上を西に傾いて落ちるころ、アンジェラスの鐘の音が風のまにまにアリキアの寺から聞こえて来る。アヴェ・マリア! 快く荘重に遠くの町から鳴りひびき、広いカムパニアの平野の彼方に韻々と消えてゆく。Le roi est mort, vive le roi! Ave Maria!」






こちらもご参照ください:

フレイザー 『金枝篇 (一)』 永橋卓介 訳 (岩波文庫)
J・G・フレーザー 『火の起原の神話』 青江舜二郎 訳 (角川文庫)

















































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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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