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レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (上)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)

「原始人は夢のうちに知覺するものは、夢であるにもかかわらず(引用者注:「かかわらず」に傍点)信ずるのであると云われている。だが私は、そう云う代りに、原始人は夢なればこそ(引用者注:「こそ」に傍点)夢を信ずるのであると云いたい。」
(レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (上)』 より)


レヴィ・ブリュル 
『未開社会の思惟 
(上)』 
山田吉彦 訳
 
岩波文庫 白/34-213-1 


岩波書店 
1953年9月25日 第1刷発行
1991年3月7日 第10刷発行
284p 引用書目20p
文庫判 並装 カバー
定価570円(本体553円)
カバー: 中野達彦



本書「凡例」より:

「本書は *Les Fonctions mentales dans les Société inférieures*. par Lévy-Bruhl. Paris, 1910 の全譯である。」


旧字・新かな。



レヴィ・ブリュル 未開社会の思惟 上



カバーそで文:

「未開社会人の人格や霊魂、自然観、宗教等いわゆる「原始心性」を多数の資料とフランス社会学派の方法によって論じた名著。(全二冊)」


目次:

凡例
日本版序 (レヴィ・ブリュル)

緒論
  一 集團表象
  二 オーギュスト・コント
  三 イギリス人類學派
  四 イギリス人類學派(續)
  五 心性の諸型
第一部
 第一章 原始人の知覺に於ける集團表象とその神秘的性格
  一 神秘的要素
  二 肖像
   姓名
   影
   夢
  三 特權的知覺
  四 經驗の不滲透
 第二章 融即の法則
  一 表象の聯繋
  二 前論理の心性
  三 個人と社會集團
  四 神秘的作用と反作用
 第三章 前論理の心性の作業
  一 論理と前論理
  二 記憶
  三 抽象
  四 普遍化
  五 原始人の分類法
第二部
 第四章 原始人の言語
  一 數の範疇
  二 具體的表現の欲求
  三 具體的表現の欲求(續)
  四 身振り言語
  五 語彙
  六 語の神秘力
 第五章 原始人の算數
  一 具體的計算
  二 纏め算え
  三 計數法
  四 數の神秘力

引用書目




◆本書より (旧字は新字に改めました)◆


「第一章」より:

「原始人を囲繞する現実界は、それ自身神秘的である。彼等の集団表象では、一つの生物、一つの品物、一つの自然現象も、我々に映る通りのものはない。(中略)彼等はそこに、我々が思い掛けもしない沢山のものを見ている。」
「原始人は何一つとして我々のようには知覚しない。彼等が生活している社会環境は、我々のものとは異っているように、また異っているというそのことのために彼等の知覚する外部世界は、我々の知覚するものと異るのである。」

「原始人は姓名を何か具体的な、実在的な、且つ屡々聖的なものと見做している。(中略)「土人たちは、自分の名を単なる符牒としてではなく、眼や歯と同格に、その個人の明瞭な一部と見做している。彼等は、その名が悪意ある使用を受けると、その軀の一部に受けた怪我と同じく、必ず苦痛を受けなければならないと信じている。この信仰は大西洋から太平洋に至るまでの諸々の部族に見られる。」アフリカ西岸では、「人と名の間には、事実的に、物理的関係が存在する。したがって、名を手段に用いて人を傷つけることもできる‥‥王の実名はそれ故秘密にされている‥‥生れたとき、授けられた名前だけが、その名の持ち主の一部を他に移す力を持っていて、通称が左様でないと信じられているのは、不思議に見えるかも知れない‥‥しかし、土人の考えでは通称はその人に本当に属しているのではないというにあるようである。」
 したがって、あらゆる種類の警戒が必要になってくる。人は自分の名、他人の名を口にしてはならない。特に死者の名は避けられる。(中略)姓名を口にする、それはその名を持つ人自身、或はその名のものに手を触れることである。それは、彼を攻撃し、その人身に暴力を加えることである。また彼の出現を求め、それを強いること、即ち非常な危険を招き得る行為である。故に、人名を口にすることはこれを避ける立派な理由があるのだ。「サンタル人は、狩猟に行って豹や虎を認めたとき、何時も猫とか、或は他の似たものの名を呼んで仲間の注意を求める。」同じくチェロキー族も誰かがガラガラ蛇に噛まれたとは決して云わないで、茨に引掻かれたと云う。儀式のダンス用に鷲を殺したとき、雪鳥が殺されたと云う。これは話を聞いているかも知れない蛇または鷲の精霊を欺くためである。」

「原始人は人の知るように、名、或は肖像に劣らず、自分の影についても心配している。万一影をなくすると、救いのない危難に陥ったと考えるであろう。影を傷つけるものは彼自身をも傷つける。影が他人の権力内に落ちると、彼は一切の危険を覚悟せねばならない。すべての国の民譚は、この種の事実を膾炙させている。(中略)フィジ島では、(中略)他人の影の上を歩くことは、致命的な侮辱である。西部アフリカでは、人の影に小刀または針を刺すことによる殺人が時々行われる。もしその現行中を抑えられた場合には、犯人は即刻死刑に処される。この事実を報告しているミス・キングズレーは、西アフリカの黒人がどの程度まで、影のなくなるのを心配しているか明かに語っている。「太陽が輝きわたっている暑い昼前、森や草地の上を全く愉し気に歩いている人が、不思議なことには森の空地や村の四角い広場へ行くと、決してそこを横切らないで迂回する。これを見て人は喫驚するがやがて彼等がそうするのは正午だけで、これは影をなくなすのを心配しているのだと解ってくる。或る日私は、このことについて特に注意深い一バクウィリ土人に出逢ったので、何故夕方になって彼等の影が周囲の暗の中に消えるときには、影をなくすことを心配しないのかと訊ねて見た。それは、と彼等は答えてくれた、差支えはない。夜すべての影は大神の影の中に憩い、そして元気を取り戻すのである。私は、人、木、または大山そのものも、朝立つ影が、いかに強く長いかを見ることがなかっただろうか。」
 デ・フロートは、シナでこれに似た用心のあることを摘記している。「棺の上に将に蓋が置かれようとするとき、近親者でない他の列席者は大部分何歩か退き、或は傍の室へ退きさえする。というのは、棺の中に影を閉じ込められることは、健康によくなく、不吉な兆であるから。」」

「如上の考察は、他の系統の事実で、原始人の心に重要な位置を占めているもの、則ち夢についても同様に云える。(中略)先ず彼等は夢に覚醒時の知覚と同じく確実な現在知覚を見ている。しかし彼等にとって、それは就中未来の予見、精、霊、神との交通、その個人的な護神と接し、それを見出す手段でさえもある。彼等が、夢を通じて知ったことの実在性については、全幅の信頼を持っている。(中略)オーストラリアでは、「一人の男が毛髪、彼の食べる物、袋鼠の皮の被布、一言で云うと彼のものの何かを、誰かに取られる夢を数回つづけて見ると、彼はもう疑うことはない。そして友人を呼び集め、余り《その男》の夢を見すぎるからきっと何か彼のものを持って行っているに違いないと語る。時によると土人は夢に見たという記憶のために徒らに自分の脂肉の細る思いをする。」
 北アメリカの土人の間では、自然に或は作為的に見る夢は、この上誇張のしようのないほどの重要性を持っている。「時にはそれは彷徨い歩く理性霊であって、そのとき感覚霊が身体を活気づけている。時にはそれは、これから起ろうとしていることについてよい考えを知らせる役神であり、時には夢にみたものの霊の来訪である。しかしながら夢はどんな風に理解されているとしても、夢は常に聖なるもの、神々がその心を人に知らせるために用いる一番普通の方法とされている。屡々夢は精霊からの命令である。」ル・ジューヌ神父の『新フランス報告』では、「夢は野蛮人の神である」と云われ、そして現代の一観察者は次のように述べている。「夢は原始人にとって、我々に対する聖書のようなもので、神の啓示の源である。――ただ彼等は夢を手段としてこの啓示を随意に持てるという重要な相違が加わっている。」それ故、土人は夢の中で命令され、または単に指し示されたことを直ちに実行しようとする。ムーネイは云っている、「チェロキー族では、一人の男が蛇に噛まれた夢を見ると、真実に蛇に噛まれた場合と同じ手当をしなければならない。何となれば、彼を噛んだのは蛇霊で、手当をしなければ数年経た後でさえも、実際の咬傷のように腫れたり膿んだりする惧れがある。」『新フランス報告』の中には次のことが読まれる、「一人の武者は戦争で捕虜になった夢を見た。こんな夢の致命的結果を避けようと、彼は目が醒めるとあるだけの友人を呼び集めてこの不幸を切り抜けるために力を貸してくれるように切願し、そして友達甲斐があるなら彼を仇敵として取り扱ってくれるようにと頼んだ。そこで友人たちは彼にとびかかり、すっかり裸にしてしまって縛りつけ、そんなときにやる罵り声をあげ、町中を引き歩いた。そしてから彼を斬首台の上に登らせた‥‥彼はこの作りごとの捕虜ごっこで真実の捕虜になる難を逃れたと信じて、友人たちに心から感謝した。‥‥も一人の男は、自分の小屋が火事になった夢を見て、その小屋が真実に焼けるまで落ちつかなかった。‥‥(中略)」
 サラワクのマレー人は夢で見た動物と血のつながりがあると信じて疑わない。「ワンの曽祖父は一匹の鰐魚と血つづきの兄弟になった。ワンは夢で五六度この鰐魚に遇った。或る時彼は夢で鰐魚の沢山いる川に落ちた。彼は一匹の鰐魚の頭に登った。それは彼に「心配することはない」と云って岸に連れてきてくれた。ワンの父は鰐魚がくれた護符を持っていた。そしてどんな場合でも、鰐魚を殺すことを承知しなかった。ワン自身も明かに鰐魚一般を近い身内と考えている。」
 簡単に、スペンサー=ギレンの、特にうまい用語で結語しておこう、「野蛮人が夢で知ったものは、覚醒時に見るものと同じく本当である。」

「原始人の知覚と我々の知覚との間の他の相違が更にこの神秘的性質から生れている。我々にとって一知覚の客観的価値を認むる基本的な標識は、知覚された存在或は現象が、同一条件の下にすべての人に等しく現われるということである。例えば、もし数人一緒にいる中の一人だけが或る声を数次聞き、或は数歩のところに物を見るとする。我々は、その人が幻想の下にあり、或は強迫観念に陥っていると考える。(中略)しかし、反対に原始人にあっては、生物または器物は、一緒にいる他の人々を差し措いて、或る人々にだけ現われるということが常に起る。そして誰もそれに驚きを感ぜず、それを極く当り前のことと考えている。例えばハウィットは、「勿論 ngarong は wirarap 巫呪を除いて誰にも見えなかった」と書いている。修業中の或る若い巫医は、入社式のことを述べて次のように云っている。「その試練の後、私は母親に見えないものを見られるようになった。お母さん、あそこにあるのは一体何でしょうか、何か歩いている人のようなものは。――母は、お前、何も無いではないか、と答えた。それは私に見えるようになった jir (亡霊)であった。」」
「東シベリアにも同じ信仰が見られる。「イクルーツク省のアラルスク県では、プリアト人はもし子供が病気で危いと、土龍、または猫の形をした小さな獣 Anokoi に頭の天辺を食われたのだと考える。‥‥巫医を除いて、誰もこの獣を見ることはできない。」
 北アメリカのオレゴン州のクラマス族の間では「kinks (巫医)は、病人の家から呼ばれると或る種の動物の精霊に相談しなくてはならない。この方面の修業に、五年間身を入れた者だけが精霊を見られる。しかも彼等には、我々が周囲の器物を見ると同じように明瞭にそれが見えるのである。」‥‥「一寸法師は、秘法を伝授された人々のほか誰にも見えない。」タラヒュマル族の間では、大蛇が山に住んでいて、それは巫医にしか見えないと信ぜられている。それ等の蛇は角が生えていて、非常に大きな眼を持っている。「偉大なる Hikuli (人格化された聖木)は、巫医と食卓を共にし、彼とその同職者だけがそれを見られる。」」

「このように劣等社会の人々は、我々が認識する属性のほか神秘的な作用力を持つ生物と器物に囲まれて生活し行動している。原始人にとっては、それらのものの感覚的属性はも一つのものと混合している。彼は把握できず殆んど常に眼に見えないで、しかも常に恐ろしい数々のもの、死者の霊とか、明かには人格の限定されていない精霊に囲まれていると感じている。少くとも大部分の観察者、人類学者からはそう云われ、彼等は霊魂説的な語句を使用している。フレーザーはこの事実が劣位の社会に普遍的であることを示す例を夥しく集めている。幾つか例を挙げる必要があるとすれば、例えば、「オラオン族土人の空想は怖(おび)えながら幽霊の世界をさ迷っている。岩、道、川、藪のうち一つでも幽霊に憑かれていないものはない。‥‥なお到るところに鬼神が棲んでいる。」サンタル族、ムンダ族及びコタ・ナグプールのオラオン族のように、「カダール族も、目に見えない沢山の力に囲まれていると信じている。そのうちの或るものは死んだ祖先の霊で、他のものは淋しい山、川、森が未開人の空想を充たしているあの漠然とした神秘感、不安感以上に定った形を持っているとは思えない。それらの名は、非常に多いが、属性は殆ど知られていない。」朝鮮では、「鬼神は遍く空に、また地の隅々まで占めている。それは、路のほとり、木の中、岩の上、山の中や谷の中、小川の中で人間を待伏せしている。昼も夜も少しの休みもなく見張っているのである。‥‥それは常に人の周囲、前後にあり頭上を飛び、地から呼びかける。人は自家にあってさえもそれから逃れることはできない。そこでも鬼神は壁の漆喰の中に塗り込められ、または梁に縛られ、壁にとりついている。その遍在性は、神の遍在性の稚拙な模倣である。」シナでも、昔時の教義によると、「宇宙には、遍く「神」と「鬼」が満ちている。‥‥存在しているあらゆる生物と物体は、「神」或は「鬼」により、またはその二つによって生命を与えられているのである。」西アフリカのファング族では、「鬼神は、到るところ、岸、木、森、小川の中にいる。実際ファング族にとっての人生とは、有形又は無形の精霊との不断の戦いである。」」



「第二章」より:

「私はこれらの表象の繋ぎ合わせ方及び既成聯繋を支配している「原始」心性特有の原理を、他により適当な言葉がないので融即律(引用者注:「融即律」に傍点)と呼ぶことにしよう。」
「私はこう云おう、「原始」心性の集団表象に於ては、器物、生物、現象は、我々に理解し難い仕方により、それ自身であると同時にまたそれ自身以外のものでもあり得る。また同じく理解し難い仕方によって、それらのものは自ら在るところに在ることを止めることなく、他に感ぜしめる神秘的な力、効果、性質、作用を発し或はそれを受ける。
 換言すれば、この心性にとっては一と多、同と異等の対立は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない。この対立は二次的な興味しかない。時としてそれは知覚される。また知覚されないことも多い。それは我々の思考では不合理とならずしては混同できない諸存在の間の本質の神秘的共通性の前では全く消滅することが多い。例えば、「トルマイ族(北部ブラジルの土族)は、自分等は水生動物であると云っている。――ボロロ族(前者と隣れる土族)は、自分等は金剛いんこ(引用者注:「いんこ」に傍点、以下同)であると誇っている。」これは単に、死んでから彼等が金剛いんこになるとか、金剛いんこを変形したボロロ人として扱わねばならぬとかいうだけを意味するのではない。問題は全く異ったものである。フォン・デン・シュタイネンは最初はそれを信じようとはしなかったが、遂に彼等の断定的な確言にしたがわねばならなくなった。彼は言っている。「ボロロ族は彼等が現在金剛いんこであると真面目に云って聞かせる。それは、ちょうど毛虫が自分は蝶であると云うのと同様である。」それらは彼等が自身に与えた名ではない。また彼等が云っているのは親縁関係でもない。彼等がそれによって意味させようとしているのは、本質上の同一性である。彼等が同時にいま存在している通り人間であり、紅色の羽毛の小鳥であるということをフォン・デン・シュタイネンは、考えられないこととしている。しかし融即の法則に支配される心性にとっては、そこには何の困難もない。トーテムの形式を持つ社会はすべて、そのトーテム集団の個々の成員と、トーテムとの間にこれに似た同一性を含む同系の集団表象を内包している。」

「アフリカ西岸の若干例に限るとしても、エリス大佐はタイラーの定義した霊魂の観念とは、少しも一致していないと同大佐自身が特に断っている諸々の集団表象を採集している。エリス氏によると土人は kra と srahman とを区別している。kra は人の誕生以前に、多分、長い一系の個人の kra として存在し、その人の死後も独立的に存在をつづける。それは新しく生れた子供、或は動物の仔の中に入り、或は sisa 即ち住居を持たない kra の形の下に世界を漂泊する。普通に考えられているところでは sisa は常に人の身体に戻って再び kra になろうとし、自分の住居を手に入れるためには、他の kra が一時住居を空にした隙に乗ずることさえある。‥‥ kra は自分の住む身体を随意に離れられ、またそこに戻られる。普通にはそれは睡眠中に身体を離れ、そして夢はこの離れた kra の仕事と信ぜられている。srahman 或は亡霊は、肉体が死んだときやっとその生活を開始し、それは死者の国でその人の生存中に送っていた生活を単に継続しているだけである。それ故我々は、一、生きた人間、二、その中にとどまっている生霊 kra、三、亡霊または srahman (これは亡霊の形の下での一つの継続に過ぎないものであるが)を区別して考察する必要がある。
 この区別は存在しているすべてのものにあてはまる。藪が引き抜かれ、または枯れると、その藪の kra は芽生えかけた種子の中に入りそして藪の亡霊は死者の国へ行く。同じく羊の kra は、その羊が殺されると新しく生れた小羊の中に入り、その亡霊は人の亡霊に仕えるために死者の国へ行く。‥‥死者の国そのもの、その山、森、川は、以前に現世に存在していた存在の亡霊である‥‥と Tshi 語を話す黒人は信じている。」
「kra は或る点では守護の天使に似ている。しかしそうはいうもののそれはより以上のものである。それと人との密接な関係は、それが夜、身体を離れているときの仕事が、目醒めた人に記憶されていることによって証明されている。人は kra の行動の影響を肉体的に感じさえもする。(中略)‥‥それは、恐らくは亡霊のような形をしていて正確に人の形と外観とを具え、人の精神も身体もこの kra の行動によって影響され、その行動を記録する。kra がその滞留している人の身体を離れるとき、その人は、肉体的に何の損害も受けない。kra は人の睡眠中、人に気づかれずに他所に出掛けて行く。そしてもし、人が目醒めているときに離れることがあれば彼は、噴嚏か欠伸によってそれが出て行ったことを知る。しかし霊魂、「人の個々の生存の運搬器」が、もし身体を離れると、忽ちにしてその身体は、活動を停止された状態に陥る。身体は冷たくなり、脈搏は止り、明かに死の状態にある。時には、極く稀ではあるが、霊魂は再び戻り、人はただ失神の状態にあったわけになる。多くの場合それは戻って来ない、そして人は死んだのである。」
 個人とその kra ――これはエリス大佐の云っているように確かにその霊魂ではないもの――との関係はいかに理解さるべきであろうか、kra が彼自身であり、彼自身ではないということは、二つながら正しくはない。それはその個人ではない、それは彼以前に存在し、彼以後にも存在するであろうから。しかしながらそれはまた彼自身でもある。覚醒したとき、彼は夜中に kra が為したこと、受けたことを記憶しているのだから。(中略)個人は、生きている間彼の中に住んでいる kra に融即する。即ち彼は或る意味でこの kra であり、同時に kra でないのである。(中略)死の瞬間にこの融即は終るのである。」

「北アメリカでは霊魂の複数性が通則である。「彼等は、同じ一つの身体の中に幾つかの霊魂を区別する。一人の老人が我々に次のような話をしたことがあった。或る土人は二つか三つの霊を持っている。彼自身のは、二年以上も前に死んだ両親と一緒に彼を離れて行ってしまって、いまでは自分の身体の霊だけしか持っていない。これは彼と共に墓に行くべきものであると。(中略)」マンダン族は、各人は、自己の中に住んでいる数個の精を持つと考えている。その一は白色、二は褐色、三は淡い色でこれだけが、生命の主の許に帰るのである。ダコタ族は、四つの霊魂を認めている。即ち、一、身体の霊、これは身体と共に死ぬ。二、身体と共に或はその傍に常に在る精。三、身体の行為に責任のある霊、これは或る人に云わすと東に他の人に云わすと西に行ってしまう。第四の霊は常に死者の髪の小さな束とともに残る。(中略)或るシウー人は、五つの霊魂をさえ認める。イギリス領コロムビアでは、人は四つの霊を持つと信ぜられる。その主位の霊魂は極く小さい人形(じんけい)をしている。他のものはこれの影である。」

「トーテム集団の祖先は今日存在する動物と正確に同じではなく、同時に動物性及び人間性を神秘的に享有している。それらの動物には、その社会集団とそのトーテム動物との結合を構成する融即が加えられていると云ってよかろう。例えばイギリス領コロムビアで、「私は彼(いつもの報告者)から、彼等の部族は獺族の名を持っているが、彼等は獺をその血縁者として考えているか、また彼等はこの動物を崇めて、殺したり狩ったりしないかどうかを知ろうとした。この間に彼は微苦笑して頭を振った。そしてその後で次のように説明した。彼等は遠い祖先が獺であったことを、確かに信じてはいようが、その獺は、今日いるものと同種だとは考えていない。彼等の祖先の獺は獺人であって今日の獣類ではない。獺人は、男女の人形(じんけい)から獺の雌雄に変形する力を持っていた。古い時代の動物はすべてかようで、普通今日見られる動物ではなく、少しもそうではなかった。それは人間でもあって、自由自在に人の形にも動物の形にも動物の毛皮を着けたり脱いだりして変形することができた‥‥トムソン族は、これらの神秘的生物を、普通の動物と区別するため特別な用語を持っている。」

「原始人のこの表象に於て、すべては神秘的である。彼等はその人が、人でなくなって虎になり、その後で、最早虎ではなくなって人間に返るのかどうかは全く意に介していない。彼等が関心を持っているのはマルブランシュの言葉を借りると、一定条件の下でこれらの人々を、同時に虎と人間に、融即する神秘的な力である。そしてそれは人でしかない人より、また虎でしかない虎よりも、その人をはるかに畏怖すべきものとする。」



「第三章」より:

「スペンサー=ギレンは、オーストラリア土族について云っている。「多くの関係の下で彼等の記憶は神技に類する。」土人は、あらゆる鳥獣の足跡を見別けるばかりでなく、どんな穴でもそれを検査して、最後の足跡の向いている方向から推して、その動物が穴にいるか否かを当てる‥‥不思議に思われるかも知れないが、土人は、知人の一人一人の足跡を識別する。オーストラリアの初期の探険者も既にこの奇蹟的な記憶力を述べている。例えば、グレーは、三人の賊が、その足跡によって見つけられた話をしている。「私は Moyee-e-nan という怜悧な土人を雇い入れ、彼を連れて馬鈴薯を盗まれた菜園に行った。彼は三人の土人の足跡を見出し、誰が通ったかを足形から推量して当てるあの能力を働かして、三人の盗賊は一土人の二人の妻と‥‥ Dal-be-an という男の子であると、私に告げた。」エイアーは、「彼等が、自分等の住む国の隅々までも、細々と詳しく知っていて、俄雨が降ると彼等は少しばかりの水がよく採集されそうな岩、また水が一番長く保つ穴を知っている。‥‥夜、露が豊富に下りると、彼等は、水を沢山集められるような一番長い草の生えた場所を知っている」ことに、驚いている。」
「原始人の間にこのように発達した記憶の特に注目すべき一形態は、一度通った場所の形状を微細な点に至るまで覚えていることだ。このため彼等は、ヨーロッパ人を驚倒させるほどの確実さで元の道を辿って戻られる。地形のこの記憶は北アメリカ土人の間では実際に神技である。」

「ミス・アリス・フレッチャーは、wakanda と称する神秘力を叙述して、次のように彼等の生命の連続の観念を記載している。「彼等は生あるもしくは生なきすべての形、すべての現象を共通の生命――それは連続的で、彼等が意識している意志的な力に類するもの――によって滲透されたものとして考えている。この神秘的な力はすべてのものの中に存在し、彼等はそれを wakanda と呼んでいる。そしてこれを仲介としてすべてのものは人間に、またそれ相互間に結びつけられている。この連続の観念によって見えるものと見えないもの、死者と生者、また、欠片とその総体との間に、一つの聯繋関係が維持されている。」この場合、連続とは、我々が融即と呼んでいるものを意味する、」

「「黄金海岸の黒人が物霊を指すための種別的名称は wong である。これらの空想的存在は、祠、小屋に住み、供物を食い、僧侶の心に入って霊感を与え、人の間では健康、疾病の原因となり、有力な天の神の諸々の命令を遂行する。しかしそれら存在の一部或は全部は、物質的なものと結合され土人はこの川、木或は寿符の中に wong があると云っている。‥‥この地方の wong 中には、川、湖、泉、或る地域、白蟻の塔、樹木、鰐魚、猿、蛇、象、鳥等が算えられる。」タイラーがこの話を取って来たのは一宣教師の報告からである。」



「第四章」より:

「マオリ族は、ニュー・ジーランドの分布植物の驚くほど遺漏のない語彙を持っている。「彼等は木の性を知り、‥‥或る種の木の雌、雄を示す別々の名称も持っている。彼等は、成育のそれぞれの時期に葉の形の変る植物には、その時期毎に別々な名前を与えている。多くの場合彼等は樹木と草の花を別々に表わす特殊な名詞、また未だ開かない若芽、また漿果についても別々な名称を持っている。‥‥ koko 或は tui 鳥は季節にしたがって変る四つの名を持っている(うち二つは雄鳥、二つは雌鳥)。鳥の尾、獣類、魚類の尾もそれぞれ異った語を持っている。kaka (鸚鵡)の鳴き声に三つの名詞がある(怒ったとき、恐れたとき、平時)。
 南アフリカのバヴェンダ族では、「各種の雨に特殊の名称がある。‥‥地理的特徴も彼等の注意から逃れていない。彼等は各々の種類の地形、各々の種類の石、岩のそれぞれに特殊の名を持っている。あらゆる種類の木、灌木、植物の種類のどれ一つとして、彼等の言葉にその名称を持っていないものはない。彼等は草の種類の一つ一つさえ異った名称で区別する。」
「北アメリカ土人は、殆ど科学的と云ってよいくらい明確な表現を多く持っていて、雲がよく見せるさまざまな形や空の模様のいろんな特徴を指している、それは全く訳出不能である。それに当る文字をヨーロッパ語に求めても得られないであろう。例えばオヂブウェー族は二つの雲の間に輝いている太陽のためまた空の中、黒雲の間に時折見える小さい青いオアシスのため特殊の名を持っている。」
「西部オーストラリアでは、土人は、「すべて目につく星、土地の自然の形状、丘、沼、川の屈曲その他のための名を持っているが、川という普通名詞は持っていない。」」



「第五章」より:

「北アメリカ土人社会の大多数では、四は他のどんな数より勝れた神秘力を持っている。」
「シウー族の間では、力の神 Takuskanskan は、四つの風の中に住み、そして夜の四つの黒い精が、彼の命を遂行するとされている。‥‥四つの風は「動く何ものか」によって送られる。また彼等の間では、雷神が、四人のと云えなければ少くとも外部へ顕われる四つの異った形を持っている、というのはそれらの本質は一であるのだから。(中略)「一つの形は黒、も一つは黄、も一つは深紅、も一つは青である。彼等は、世界の端の高い山上に住んでいる。住居は、地の四方位に向いて開き、各々の戸口には、見張りが置かれている。東の入口には蝶、西口には熊、北口には鹿、南口には海狸。」」








こちらもご参照ください:

レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (下)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)
フレイザー 『金枝篇 (一)』 永橋卓介 訳 (岩波文庫)
マルセル・モース 『贈与論 他二篇』 森山工 訳 (岩波文庫)
ヴァールブルク 『蛇儀礼』 三島憲一 訳 (岩波文庫)
ル・クレジオ 『悪魔祓い』 高山鉄男 訳 (岩波文庫)






















































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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