FC2ブログ

レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (下)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)

「死者は越えがたい深い淵によって距てられているのではない。そうではなく死者は絶えず生者と交通している。」
(レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (下)』 より)


レヴィ・ブリュル 
『未開社会の思惟 
(下)』 
山田吉彦 訳
 
岩波文庫 白/34-213-2 


岩波書店 
1953年10月5日 第1刷発行
1991年3月7日 第9刷発行
221p 総索引・引用書目30p
文庫判 並装 カバー
定価570円(本体553円)
カバー: 中野達彦



旧字・新かな。



レヴィ・ブリュル 未開社会の思惟 下



カバーそで文:

「文明人と未開人の心性を根本的に異質なものとした本書は、単に文化人類学や社会学の領域だけでなく児童心理学や精神病理学の分野にも大きな影響を与えた。」


目次:

第三部
 第六章 原始諸制度と前論理の心性
  一 狩
  二 漁
  三 戰
  四 Intichiuma 式祭儀
  五 懐胎行事
 第七章 原始諸制度と前論理の心性(續)
  一 A 病気/B 診斷/C 治療藥/D 藥物
  二 死の原因/それの傍、だからそれのため
  三 卜占/呪術
 第八章 原始諸制度と前論理の心性(終)
  一 生者と死者
  二 一番葬式
  三 死の完了
  四 死者の財物
  五 出産/幼兒殺し
  六 入門式
  七 巫醫の入社式
第四部
 第九章 上級型への過渡
  一 前論理的、神秘的型
  二 精神の個人化
  三 神話
  四 概念への發展
  五 前論理的要素の強靭性

あとがき
引用書目
總索引




◆本書より (旧字は新字に改めました)◆


「第六章」より:

「チェロキー族は、「殺された動物を慰めるための呪文を持ち、狩人は、キャムプに帰ったとき、鹿の主(ぬし)が彼の家まで、後をついて来られないように(そして、彼を病、殊にリウマチスムにかからせないように)、通り過ぎた途に火をつける。」カナダでは、「熊を殺したとき、狩人はパイプの口を、熊の歯の間に入れてがん首を吹き、その口と喉とを煙で満たし、精霊に、痛い目に合わしたからと云って怒らないように、また将来狩の首尾を害わぬように、歎願する。」――ヌートカ・サウンドの土族の間では、「殺したときには、普通熊の身体についている塵と血とをよく清めてから、首長の前に持って行って真直ぐに坐らせる。熊は、首長の帽子を被らされ、その毛は、白い柔毛で蔽われる。熊の前には食物の卓が据えられ、言葉と身振りで食物を食うように勧める。」狩で殺した動物にかかる尊敬を払うことほど一般的なことは他にない。」
「かかる儀式によって、狩人の属する社会と殺された動物の集団との間の常規の関係が改めて結ばれるのである。殺戮は帳消しにされ、もはや復讐は恐れるに及ばない。」

「漁夫は、狩人と同じように、前以て禁食したり、浄めの式をしたり、禁戒期間を守ったり、要するに、神秘的準備を受けねばならない。」



「第七章」より:

「フィジ島土民が病気を我々のように考えると信じてはならない。土人の心では、病気は液体のようなもの、病人にのしかかり、患者に取り憑く外部的な作用力である。この液体、この作用力は神からも悪霊からもまた人からも出てくる。そして寒暑のような自然原因から発することは殆どない。‥‥フィジ島民にとっては病気の自然的原因などというものはない。彼等はそれを自然の外の秘密界、即ち我々の住む世界と並んで存在する不可視の世界に求めている。」ルウヂエ神父のこの表現は注目に値するものである。実際、我々の考え方からは、この不可視の世界は我々が自然と呼んでいるものと並んで、しかも外部的に存在しているとしか考えられない。」
「病気に関してのこの神秘的表象から診断に関する諸々の習俗が直接に出てくる。病人に取りついた邪悪の力或は影響は何か、どんな呪法が彼にかけられたか、生者の誰或は死者の誰が彼の命を欲しがっているのかを見極めねばならない。この診断は後のすべてのことの基礎となるもので、これは神秘的な力や精霊と交通する資格のあるそして、それらの力や精霊と戦ってそれを追い祓えるほど強い人でなければならない。で先ず第一番の仕事は巫医――或はシャーマン、巫呪、博士、悪魔祓いだのと名前はどうでもそうした者のところへ駆けつける。かかる術師の最初の治療は、(中略)これらの力或は精霊と交通するため、彼が常に可現的に持っている力を有効にこれらのものに働きかけようと特殊な状態に自分自身を置くことである。それから五六時間、或は一夜もつづく一聯の予備的儀式が生れてくる。これには断食、酩酊、特殊の衣裳、呪術的装飾、呪唱、疲労と過度の発汗を伴う踊りが含まれ、しまいには「博士」は、意識を失うか或は、「われにもあらず」の状態になる。それから、二重人格と呼んでよいことが起る。彼は、その周囲のすべてのものに無感覚になるが、他方彼は、触れ得ぬ見得ぬ実在の世界、精霊の世界に移されたと感ずる、或は少くとも、それと交通する。このとき診断が直観的に、したがって誤謬の心配なしになされる。病人とその周囲のものは、盲目的にその診断を信ずる。」
「病気の原因が隠されているのは体内でもなければ、眼に見える器官の中でもない。病気に罹っているのは霊或は精霊である。」

「土人のポーターが非常な不承不承さを示したり、できれば出発を拒むことがある。白人旅行者は――これはミス・キングズレーの記述である――自分の使用人の心理によく通じていなければ、この場合、怠惰、不柔順、破約、仕様のない不誠実以外の何ものもを認めないであろうが、実際はそれは、全く異った或るものであることが多いのである。多分目醒めたとき、一人の黒人が自分にとって、或は一行全部にとっての悪い前兆を夢見たというようなことがあるかも知れない。そのために云うことを聞かないのである。」

「戦や、狩のときなど個人或は集団の活動が或る目的を追う場合には殆ど何時も、卜者、巫医、呪師の幸先よい意見がなければ、何事もなされない。」
「戦場にあるとき、ダイヤク族の行動はすべて、前兆で左右される。彼等は、前兆がものを云うまでは、前進も、退却も、攻撃も、位置を変えることもできない。」

「カッシングによれば、ツニ族の遊戯の多くは一種の卜占的な性質を持っている。」
「或る数の遊びは雨を降らせるための宗教的、呪術的な目的も持っている。」



「第八章」より:

「彼等の眼からは死者は越えがたい深い淵によって距てられているのではない。そうではなく死者は絶えず生者と交通している。」
「ミス・キングズレーはこんなことを述べている。一人の黒人が、彼女には見えない相手と話でもしているように独り言を云っているのを聞いた。調べて見るとその黒人は、そこに居合わせた死んだ母親と話していたのだ。原始人の知覚は物の存在を、我々が経験と呼ぶものによって確かめ得る可能性に従属させていない。それどころか、彼等には一番実在的であると思われているものは、触れ得ない見得ないものでさえある。なお死者は自己の存在を人の感覚に示さないではいない。彼等が姿を見せる夢、そして前に述べたように特権的な稀有な知覚である夢のことは云わずとも、死者は幻影、亡霊として視覚にもまた聴覚にも現われてくる。それは言葉には云えない、だが強い、それでいて質量性のない接触感を生者に与えることが多い。時には人は風の中に死者の呼び声を聞く。「それは眼に見えない、何かしら風のようなものである。実際彼等はこう云っている。棕櫚の葉の静かな戦ぎは亡霊が起すのだ。つむじ風が埃、葉、藁等を捲き上げるのは亡霊が遊んでいるからだ」と。(中略)劣等社会の人々は彼等を囲繞する生者と生活しているように、死者とも生活しているのである。死者は、多種の融即を持つ社会の成員、その集団の集団表象がそれを一員としている共存社会の成員、しかも、非常に重要な成員である。」
「原始人の心にはあの世とこの世とは、ただ一つの同じ存在、同時に表象され感ぜられ体験されるものを造っている。」
「西アフリカの黒人は、「死ぬということは、その人が単に、眼に見える身体の厄介払いをし、住居を変えるだけのことと考えている。他のことはすべて、以前のままである。」ドルセーによれば、北アメリカのシウー族の間では、「死者は、どの点からも生者と似ている。‥‥彼等は、生者に何時も見えるというわけではない。人間と一緒に小屋にいても、時には耳には聞えても、眼には見えないことがある。彼等は形体を取り、生きている。夫或は妻を娶り、飲食し喫煙し、普通の人間と同様に振舞うこともある。」――「一人の若いダコタ人が、相愛の少女と結婚するすぐ前に死んだ。少女は喪に服した。‥‥亡霊は帰って来て彼女を娶った。部族が、夜宿営するときは何時でも、その亡霊の妻は、他の人々より少し離れてテントを張り、人々が彼等のキャムプを移すときは、少女と夫とは、群から少し離れてついて行った。亡霊は何時も妻に何をせねばならぬか教えた。そして規則正しく獲物を持って来てくれた。‥‥人々は、亡霊を見ることも聞くこともできなかったが、彼等は、彼の妻が彼に話しかけるのを聞いた。彼は何時も、強い風、或は激しい雨が予想されるとき部族にそれを予報した。」イロコイ族の伝説は、自分の娘と物語りに来て忠告を与える一人の死者の話を伝えている。」
「だからして、もし我々が、死者に関する原始人の諸々の表象と習俗とを正しく理解するためには、できれば「生」とか、「死」とかの普通の概念から脱却した方がよい、また「霊魂」という概念を用いない方がよい。我々にとっては、生と死との概念は肉体的な、客観的な、そして経験的な要素によって定義しないではいられないが、原始人の間でこれに相当する表象は、本質に於て神秘的である。かくして彼等は、論理的思考が如何ともなし難いと考える一つのディレンマを感ぜずにいる。我々には人間は、生きているか、死んでいるか、何れかである。どっちつかずということはない。けれども前論理の心性にとっては一人の人間は死んでも或る状態に於ては生きている。現在生活している人間の社会に融即しながら、彼は、しかも同時に死者の社会に加わっている。もっと正確に云えば、彼はそれぞれの融即が彼にとって存在するか、しないかの程度によって、彼は生きているか或は死んでいるのである。現存している者が彼に関して取る行動の仕方は、全く、これらの融即が存続しているか、破壊されてしまったか或は破壊されんとしているかによるのである。」

「蘇生した一人の巫医からボアスは次のような非常に興味ある話を聞いた。それは彼の死後数日間に彼がどんな経験をしたかについてであった。「私が死んだとき、苦痛を少しも感じなかった。自分の屍の側に坐って私は、私の屍が埋葬の準備をされるのを、また、我々の紋章を私の顔に書かれるのを見た。‥‥四日の後、夜も昼もないように感じた。」(中略)「私は、私の身体が運び去られるのを見、家にとどまっていたかったのではあるが、どうしても一緒に行かねばならないように感じた。で私は考えた、《私は死んだに違いない、誰にも私の声は聞えないし、火に投げられた食物が私を満足させるのだから》と、私は霊魂の国へ行く決心をした。」この巫医は、彼の話を聞く人々と同様、霊魂は生者の間に住むことを欲し、実際、もし葬儀のため霊魂が屍にしたがうように強いられなければ霊魂は生者の間にとどまっている筈だと云うことを疑っていない。」

「一人の子供が生れるとき、一つの限られた個人性が再び現われて来る。或はより正確に云えば、再び形づくられてくる。一切の出産は再生である。」
「だからして出産は、死と同じように、単に一つの生活形態から他の生活形態への通過でしかない。死は少くともその直後では個人にとって生活條件と住所の変更に過ぎず、他は万事前々通りであるが、それと同じく、出生もまた両親を仲介とするこの世への場所変えでしかない。」







こちらもご参照ください:

レヴィ・ブリュル 『未開社会の思惟 (上)』 山田吉彦 訳 (岩波文庫)
小松和彦 編 『民衆宗教史双書 30 憑霊信仰』
フィリップ・アリエス 『図説 死の文化史』 福井憲彦 訳
アナトール・ル=ブラース 『ブルターニュ 死の伝承』 後平澪子 訳
















































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本