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クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 大橋保夫 訳

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。」
(クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 より)


クロード・レヴィ=ストロース 
『野生の思考』 
大橋保夫 訳
 


みすず書房 
1976年3月30日 第1刷発行
1985年11月5日 第13刷発行
vii 366p 別丁図版(モノクロ)8p 
索引・文献30p 著者・訳者略歴1p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,300円
カバー: (表)野生のパンジー/(裏)クズリ



本書「訳者まえがき」より:

「本書は Claude Lévi-Strauss, *La Pensee sauvage* (Paris, Librairie Plon, 1962)の翻訳である。」


本書「訳者あとがき」より:

「本書の直接の主題は、文明人の思考と本質的に異なる「未開の思考」なるものが存在するという幻想の解体である。未開性の特徴と考えられてきた呪術的・神話的思考、具体の論理は、実は「野蛮人の思考」ではなく、われわれ「文明人」の日常の知的操作や芸術活動にも重要な役割を果たしており、むしろ「野生の思考」と呼ぶべきものである。それに対して「科学的思考」は、かぎられた目的に即して効率を上げるために作り出された「栽培思考」なのだ。この分析を通じてレヴィ=ストロースは野生の思考を復権させるとともに、神話の論理の探究への道を開いた。それは人間精神の普遍性の把握にもとづく異文化理解の基礎理論の建設であると同時に、(中略)西欧文化のエスノセントリズムの自己批判でもある。」
「レヴィ=ストロースのタイトルのつけ方が凝ったものであることはよく知られているが、中でも『野生の思考』は特別である。La Pensée sauvage が「野生のパンジー」にかけたものであることは広く知られているが、それではなぜ、一見だじゃれとも見えるようなかけことばを使うのだろうか。」
「たまたまフランス語では pensée が「思考」でもあり「パンジー」でもあるということ、また sauvage という形容詞が人間については「野蛮な」で植物については「野生の」であってその区別がないことを利用して、「思考」という名詞と「野生の」という形容詞との結合が成立したのである。」
「訳注にも記したように、sauvage は「文明人」 civilisé との区別を前面に出す、きわめて侮蔑的な用語であり、その点では進化主義的な primitif 「未開人」をはるかに上まわる。それゆえにこそ現在はおもて向きには用いられなくなっているのであるが、(中略)まさに西欧文化の偏見、自民族中心主義(エスノセントリズム)の凝集とも言える用語なのである。そのような見かたから「野蛮な思考」と考えられてきたものを「野生の思考」に転換させるという本書の直接の目的に、このタイトルはみごとに適合している。そして、その手法自体が本書に取り上げられているブリコラージュそのものなのである。」
「それだけではない。こんどは逆に、(中略)付録においてヨーロッパの民話に使われた「野生のパンジー」を取り上げ、ヨーロッパにおいてもトーテミズムと同じような、自然を利用した具体的思考、すなわち「野生の思考」がごくふつうに働いていることを示している。そしてこの巻末は、そのまま『神話論理』への道に開く出口になっている。」



「訳者あとがき」重版追記より:

「重版にあたり、誤植、原著新版の追加、変更箇所、原著の誤記、不適切な訳語や訳注などを象嵌の可能な範囲で訂正した。」


本文中に図11点。
でてきたのでひさしぶりによんでみました。



レヴィ・ストロース 野生の思考 01



カバーそで文:

「野生の思考 La Pensée sauvage は、1960年代に始まったいわゆる構造主義ブームの発火点となり、フランスにおける戦後思想史最大の転換をひきおこした著作である。
 sauvage (野蛮人)は、西欧文化の偏見の凝集ともいえる用語である。しかし植物に使えば「野生の」という意味になり、悪条件に屈せぬたくましさを暗示する。著者は、人類学のデーターの広い渉猟とその科学的検討をつうじて未開人観にコペルニクス的転換を与え sauvage の両義性を利用してそれを表現する。
 野生の思考とは未開野蛮の思考ではない。野生状態の思考は古今遠近を問わずすべての人間の精神のうちに花咲いている。文字のない社会、機械を用いぬ社会のうちにとくに、その実例を豊かに見出すことができる。しかしそれはいわゆる文明社会にも見出され、とりわけ日常思考の分野に重要な役割を果たす。
 野生の思考には無秩序も混乱もないのである。しばしば人を驚嘆させるほどの微細さ・精密さをもった観察に始まって、それが分析・区別・分類・連結・対比……とつづく、自然のつくり出した動植鉱物の無数の形態と同じように、人間のつくった神話・儀礼・親族組織などの文化現象は、野生の思考のはたらきとして特徴的なのである。
 この新しい人類学 Anthropologie の寄与が同時に、人間学 Anthropologie の革命である点に本書の独創的意味があり、また著者の神話論序説をなすものである。
 著者は1959年以来、コレージュ・ド・フランス社会人類学の教授である。」



目次:


第一章 具体の科学
第二章 トーテム的分類の論理
第三章 変換の体系
第四章 トーテムとカースト
第五章 範疇、元素、種、数
第六章 普遍化と特殊化
第七章 種としての個体
第八章 再び見出された時
第九章 歴史と弁証法
付録

訳注
訳者あとがき

文献
人名・書名索引
事項索引




レヴィ・ストロース 野生の思考 02



◆本書より◆


「具体の科学」より:

「土器、織布、農耕、動物の家畜化という、文明を作る重要な諸技術を人類がものにしたのは新石器時代である。」
「これらの技術はいずれも、何世紀にもわたる能動的かつ組織的な観察を必要とし、また大胆な仮説を立ててその検証を行ない、倦むことなく実験を反復して、その結果捨てるべきものは捨て、とるべきものはとるという作業を続けてはじめて成り立つものである。」
「野生植物を栽培植物に、野獣を家畜にかえ、もとの動植物にはまったく存在しないか、またはごく僅かしかみとめられない特性を発達させて食用にしたり技術的に利用したり、不安定で、壊れたり粉になったり割れたりしやすい粘土から、かたくて水のもれぬ土器をつくったり(中略)、土のない所や水のない所で栽培する技術、毒性をもった種子や根を食品にかえる技術、逆にその毒性を狩猟や戦闘や儀礼に利用する技術、多くの場合ながい時間を要するこれらの複雑な技術を作りあげたりするために必要なのは、疑いの余地なく、ほんとうに科学的な精神態度であり、根強くてつねに目ざめた好奇心であり、知る喜びのために知ろうとする知識欲である。」
「したがって、新石器時代ないし歴史時代初期の人間は、長い科学的伝統の継承者なのである。」

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」 bricolage (器用仕事)と呼ばれる仕事である。(中略)今日でもやはり、ブリコルール bricoleur (器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。ところで、神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるとはいってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである。何をする場合であっても、神話的思考はこの材料を使わなければならない。手もとには他に何もないのだから。したがって神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である。これで両者の関係が説明できる。
 工作面での器用仕事(ブリコラージュ)がそうであるように、知的面で神話的思索が思いがけぬすばらしいできばえを示すこともある。逆に器用仕事(ブリコラージュ)の神話創作的性格もしばしば述べられているところである。たとえば美術でのいわゆる「アール・ブリュット」や「アール・ナイフ」、郵便配達夫シュヴァルの邸宅の幻想的建築、ジョルジュ・メリエスの舞台装置、(中略)」
「器用人(ブリコルール)は多種多様の仕事をやることができる。しかしながらエンジニアとはちがって、仕事の一つ一つについてその計画に即して考案され購入された材料や器具がなければ手が下せぬというようなことはない。彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合で何とかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内部構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。すなわち、いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されているのである。(中略)器用人(ブリコルール)の用いる資材集合は、単に資材性〔潜在的有用性〕のみによって定義される。器用人(ブリコルール)自身の言い方を借りて言い換えるならば、「まだなにかの役に立つ」という原則によって集められ保存された要素でできている。」

「周知のごとく、美術家は科学者と器用人(ブリコルール)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はある物体(オブジェ)を作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)でもある。(中略)科学者と器用人(ブリコルール)の相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、器用人(ブリコルール)は出来事を用いて構造を作る。(中略)クルエの手になる女性の肖像画を見よう。そしてレースの襟飾りが綿密に糸一本一本まで実物と見まがうばかりに描かれていて、それが説明のつかぬ(と思われる)大へん深い感動をひき起こす理由を考えてみよう。」
「周知の通り、彼は実物より小さく描くことを好んでいた。したがって彼の絵は、箱庭やミニカーや壜の中の船のように、器用人(ブリコルール)の用語でいう「模型」なのである。」

「芸術哲学にとって本質的な問題は、作家が材料や製作手段に「話し相手」の資格を認めるかどうかを知ることである。(中略)美術が、(中略)われわれを感動させるとすれば、(中略)偶然性を作品にもり込み、それによって物それ自体としての尊厳を作品に与えることが条件になる。アルカイック美術、未開美術、および初期段階のプロ美術だけが古くさくならないのは、偶然事を生かして製作に役立てるからである。すなわち、与えらえた生のものを意味づけの経験的材料として完全に使おうとするからである。」



「トーテム的分類の論理」より:

「民俗思考で意味を付与されている存在は、人間とのあいだに何らかの類縁性をもつと見られている。オジブワ族は超自然的存在の世界を信じている。

    「……しかしながら、これらを超自然的存在と呼ぶのはインディアンの考えかたをいささか曲げることになる。それらも人間と同じように、世界の自然的秩序の中にはいっているのである。すなわち、知能と情意を備えているという点でそれらは人間に似ている。人間と同様にそれらにも雌雄があり、なかには家族をもちうるものもある。あるものははっきりきまった地点に定着し、あるものは自由に移動する。インディアンに対しては、好意的なものもあるし、敵意をもつものもある。」(Jenness *2*, p. 29)」

「現地人自身も時には自分たちの知の「具体」性について鋭い感情をもっており、それを白人の知につよく対立させている。

   「われわれは動物が何をしているか、海狸(ビーバー)や熊や鮭やその他の動物が何をもとめているかを知っている。それは、むかし人間の男は動物と結婚し、妻とした動物からその知識を得たからである。……白人はこの土地に暮すようになってからまだ日が浅い。したがって動物のことをあまりよく知らない。ところがわれわれは何千年も前からここに住んでおり、ずっと昔から動物に教えてもらっている。白人は何もかも本に書きとどめて忘れないようにする。ところがわれわれの先祖は動物を妻とし、彼らの習性をことごとく覚え、その知識を代々伝えてきたのである。」(Jenness *3*, p. 540)」

「現代人の中にも、好みや職業から、動物に対して、(中略)むかし狩猟民すべてに共通であった立場にわれわれの文化が許す範囲で非常に近い立場にある人たちがいる。それはサーカスや動物園で働く人びとである。(中略)チューリッヒの動物園の園長がはじめてイルカと差し向い――もしそう言ってよければ――になったときの話ほど示唆に富むものはない。(中略)著者はつぎのように自分の感動を記している。

   「フリッピーは魚とはまるっきり違う。一メートルに足りない距離からきらきら光る目で見つめられると、これがほんとうに動物なのかと自問せずにはいられない。まことに思いもおよばぬ、不思議な、まったく神秘な動物であって、魔法にかけられて姿をかえた人間かと思いたくなるほどであった。残念なことに動物学者の頭脳は、冷ややかな、いまの場合ほとんど苦痛でさえある事実から切り離して考えることができない。学名で言えばそれは *Tursiops truncatus* でしかないのだ……」(Hediger, p. 138)

 科学者の筆になるこのようなことばは、必要とあらば、つぎのようないろいろのことを明らかにするのに十分だろう。理論的知識が感情と両立しえぬものではないこと、認識は同時に客観的でも主観的でもありうること、さらに、人間と動物の具体的関係がときには、とくに学問が全面的に「自然科学」であるような文明において、科学的認識の世界全体を情的色合で彩っていることを。(中略)動物学者の意識の中に分類学と愛情が仲よく同居しうるとしたら、いわゆる未開民族の思考の中でこの二つの態度が結びついていることを説明するのに別の原理をひっぱり出す理由はないのである。」



「普遍化と特殊化」より:

「未開社会は人間の範囲を部族集団の中だけに限り、その外のものは異人、すなわち汚らわしく野蛮な亜人間としか考えないし、極端な場合は危険動物ないし亡霊といった非人間と見る場合さえあると言われてきた。それは根拠のない話ではないし、また正当な場合が多い。しかしながら、トーテム的分類法の本質的機能の一つはまさにこの集団の閉鎖性を打開して、無限界に近い人類観を促進することであるという点がそこでは無視されている。この現象は、いわゆるトーテミズム組織なるものの古典的地域とされてきたところではどこでも確認されている。西オーストラリアのある地方では、「全氏族とそのトーテムを部族の枠を越えていくつかのトーテム区分に分類する族際的体系」が存在する。」
「アメリカでもスー族やアルゴンキン族について同じような観察がなされている。アルゴンキン族に属するメノミニ・インディアンは、

   「……同じ部族に属して共通のトーテムをもつ個人の間だけでなく、別の部族でも、また話す言語が違った語族のものであっても、同じトーテムによって命名されている人間どうしの間には共通の関係が存在すると広く一般に信じられている。」(Hoffman, p. 43)」



「種としての個体」より:

「フランス語では、雀はピエロ、おうむはジャコ、カササギはマルゴ、アトリはギーヨーム、ミソサザイはベルトランもしくはロベール、水鶏はジェラルディーヌ、コキンメフクロウはクロード、ワシミミズクはユベール、カラスはコラ、白鳥はゴダール、というように呼ばれる。最後にあげたゴダールという名は社会的に意味のある条件にも関係している。すなわち十七世紀には、産褥にある妻をもつ夫をこの名で呼んでいたのである。*」
「* このように小さくて単純な系列でも、さまざまな論理レベルに属する項を含んでいることは、大きな意味をもつ。「ピエロ」は、たとえば「バルコニーにピエロ(雀)が三羽いる」と言えるから、クラス指標になりうる名である。しかし「ゴダール」は呼びかけ名である。トレヴーの辞書(一七三二年版)のこの項の筆者がみごとに記しているように、「ゴダールは白鳥につける名である。白鳥に呼びかけ、自分の方へ来るように言うとき、『ゴダール、ゴダール』とか、『おいで、ゴダール、こっちへおいで』とか、『ほら、ゴダール』というようにこの名を使う。」ジャコは、そしておそらくマルゴも、その中間的役割を果たすように思われる。」

「他のクラスの動物より鳥類の方が種ごとに人間の名をとりやすいのは、まさに、鳥が人間とは異なっておればこそ人間になぞらえてよいからなのである。鳥は羽毛に覆われ、翼があり、卵生であるし、また生理的にも、空気中を飛びまわれるという特権があって人間社会とは分離している。
 この事実によって鳥類は、人間のコミュニティから独立した別のコミュニティを形成している。しかし、そのコミュニティは、まさにその独立性そのもののゆえに、別個ではあるがわれわれの社会と相同の社会であるように思われるのである。鳥は自由を愛する。すみかを作って家庭生活をし、子供を育てる。同じ種の他の成員と社会関係をもつこともしばしばである。そして相互に、人間の言語を思わせる音響的手段でコミュニケーションを行なう。
 したがって、鳥の世界を人間社会の隠喩と考えるためのあらゆる条件が客観的に揃っている。それにまた人間社会は、別のレベルにおいて、鳥の世界と文字どおりパラレルなのではないか? 神話や民間伝承には、この表現様式が頻繁であることを示す無数の例がある。」



「再び見出された時」より:

「私にとって「野生の思考」とは、野蛮人の思考でもなければ未開人類もしくは原始人類の思考でもない。効率を昂めるために栽培種化されたり家畜化された思考とは異なる、野生状態の思考である。栽培思考は地球上のあるいくつかの地点に、歴史上のあるいくつかの時期に現れたものであって、(中略)今日のわれわれには、この両者が共存し、相互に貫入しうるものであることがもっと理解しやすくなっている。それはちょうど、野生の動植物と、それを変形して栽培植物や家畜にしたものとが、(中略)共存し交配されうるのと同じである。もっとも、栽培植物や家畜の存在は(中略)野生種を絶滅させるおそれがあるけれども。しかしながら、(中略)野生の動植物と同じく、現在なお野生の思考が比較的よく保護されている領域がある。芸術の場合がそれであって、(中略)また、社会生活の中にも、まだ開拓が進んでいなくて、とりわけてこれによくあてはまる領域がたくさんある。そこには、(中略)野生の思考が依然として繁茂している。
 私が野生の思考と呼びコントが自発的思考とするものの例外的性格は、とくにそれが自らに定める目的の広大さにある。この思考は分析的であるとともに同時に綜合的であろうとし、また両方向の極限にまで進むことを目指しつつ、同時にその両極間の調停能力を保有しようとする。」

「真実のところ、効率のある実際的活動と有効性のない呪術的儀礼的活動との差異は、世間で考えられているように両者をそれぞれ客観的方向性と主観的方向性とで定義してつかみ得るものではない。それは事がらを外側から見るときには本当らしく見えるかも知れないが、行為主体の立場から見れば関係は逆転する。行為主体にとっては実際活動はその原理において主観的であり、その方向性において遠心的である。(中略)それに対して呪術操作は、宇宙の客観的秩序への附加と考えられる。その操作を行う人間にとっては、呪術は自然要因の連鎖と同じ必然性をもつものであり、行為主体は、儀礼という形式の下に、その鎖にただ補助的な輪をつけ加えるだけだと考える。」

「未開人と呼ばれる人々が自然現象を観察したり解釈したりするときに示す鋭さを理解するために、文明人には失われた能力を使うのだと言ったり、特別の感受性の働きをもち出したりする必要はない。まったく目につかぬほどかすかな手がかりから獣の通った跡を読みとるアメリカインディアンや、自分の属する集団の誰かの足跡なら何のためらいもなく誰のものかを言いあてるオーストラリア原住民(Meggitt)のやり方は、われわれが自動車を運転していて、車輪のごくわずかな向きや、エンジンの回転音の変化から、またさらには目つきから意図を推測して、いま追い越しをするときだとか、いま相手の車を避けなければならないととっさに判断を下すそのやり方と異なるところはない。(中略)われわれの能力がとぎすまされ、知覚が鋭敏になり、判断が確実性をますのは、(中略)まさにそれが記号であるがゆえに理解を要求するため、われわれが懸命に解読しようとするからである。」

「私はほかの所で、「歴史なき民族」とそれ以外の民族を分けるのはまずい区別であって、それよりも、(中略)「冷い」社会と「熱い」社会とを区別する方がよかろうという考えを述べておいた。冷い社会は、自ら創り出した制度によって、歴史的要因が社会の安定と連続性に及ぼす影響をほとんど自動的に消去しようとする。熱い社会の方は、歴史的生成を自己のうちに取り込んで、それを発展の原動力とする。(中略)さらに、史的連鎖にもいくつかの型を区別しなければならない。ある種の史的連鎖は、持続〔時間〕の中にあるとは言うものの、回帰性をもっている。たとえば四季の循環、人間の一生の循環、社会集団内の財物と奉仕の交換の循環などがそれである。これらの連鎖は、持続の中で周期的に繰返されてもその構造は必らずしも変わるわけではないので、問題とはならない。「冷い」社会の目的は、時間的順序が連鎖それぞれの内容にできるだけ影響しないようにすることである。」
「この点に関しては、あらゆる社会が歴史の中にあり発展してゆくものだということを証明するために論拠を積み上げたところで、おもしろくもないしまた何の役にも立たない。それは自明のことである。ところが、こういう余計な証明に一生懸命になっていると、この共通の条件に対する人類社会の対応のしかたが非常に多様であることを見落してしまう危険性がある。好んでかしぶしぶかは別としてこの条件を受け入れ、意識化することによってそのおよぼす結果(自らに対する、また他の社会に対する)を異常に増幅する社会もあるが、他方それを無視して、発展過程の中で「初原的」と考えられる状態を巧みに――われわれはその巧みさを過小評価している――可能な限り恒常化しようとする(そのためにわれわれが原始的と呼ぶ)社会もある。」
「あと解明すべき問題は、野生の思考が(中略)、いわば通時態を手なずけて共時態と協力させ両者の間に新しい軋轢が起らぬようにして、この矛盾を統一性のある体系を作り上げるための材料にしてしまうやり方である。
 儀礼があるおかげで、神話の「離接的」過去は、一方で生理的季節的周期性に、他方で全世代にわたって生者と死者とを結ぶ「連接的」過去につながる。」



「歴史と弁証法」より:

「野生の思考の特性はその非時間性にある。それは世界を同時に共時的通時的全体として把握しようとする。野生の思考の世界認識は、向き合った壁面に取りつけられ、厳密に平行ではないが互いに他を写す(そして間にある空間に置かれた物体をも写す)幾枚かの鏡に写った部屋の認識に似ている。多数の像が同時に形成されるが、その像はどれ一つとして厳密に同じものはない。したがって像の一つ一つがもたらすのは装飾や家具の部分的認識にすぎないのだが、それらを集めると、全体はいくつかの不変の属性で特色づけられ、真実を表現するものとなる。野生の思考は、imagines mundi (世界図――複数)を用いて自分の知識を深めるのである。この思考がいくつかの心的建造物を作り上げると、それらが世界に似ておれば似ているほど、世界の理解が容易になる。この意味において、野生の思考を類推思考と定義することができたのである。
 しかしまたこの意味において、野生の思考は家畜化された思考と区別される。歴史認識はこの家畜的思考の一面を構成するものである。」

「野生の思考で取り扱いうる特性は、もちろん科学者の研究対象とする特性と同じではない。自然界は、この二つの見方によって、一方で最高度に具体的、他方で最高度に抽象的という両極端からのアプローチをもつのである。言いかえれば、感覚的特性の角度と形式的特性の角度である。しかしながらこの二つの道は、少くとも理論的には、(中略)当然合流して一つになるべきものであった。これによって理解できるようになるのは、この二つの道がどちらも、時間および空間の中において相互に無関係に、まったく別々であるがどちらも正方向の、二つの知を作り出したことである。一方は感覚性の理論を基礎とし、農業、牧畜、製陶、織布、食物の保存と調理法などの文明の諸技術を今もわれわれの基本的欲求に与えている知であり、新石器時代を開花期とする。そして他方は、一挙に知解性の面に位置して現代科学の淵源となった知である。」
「科学精神は、そのもっとも近代的な形において、科学精神のみに予見しえた出会いにより、野生の思考の原理の正当化とその権利の回復に貢献しうるものである。それを認めることはすなわち、野生の思考の教えへの忠誠をまもることにほかならない。」



「付録」より:

「「むかし『三色スミレ』〔野生のパンジー〕は『三月スミレ』(ニオイスミレ)よりも甘美な香を放っていた。その頃は小麦畑の中に生えていたので、摘みに来る人たちがみな小麦を踏みつけた。スミレは小麦がかわいそうになり、香をなくして下さるようにと聖三位一体に懇願した。その願いは聞き届けられた。そのため、この花は『三位一体花』とも呼ばれる。」(Panzer, II, 203 - Perger, p. 151 の引用による。)」

「「ある日のこと、両親の知らぬ間に、兄が自分の妹と(妹であるとは知らないで)結婚してしまった。心ならずも罪を犯したと知って二人があまりに歎き悲しむので、神様は哀れに思し召され、二人をこの花(パンジー)の姿に変えておしまいになった。それ以来この花は bratky (キョウダイ)と呼ばれている。」(ウクライナ地方の伝説。*Revue d'Ethnographie* (ロシア語) t. III, 1889, p. 211 [Th. V.])」








こちらもご参照ください:

レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯 上』 川田順造 訳
多田智満子 『鏡のテオーリア』
大林太良 『葬制の起源』 (中公文庫)
谷川健一 『黒潮の民俗学』















































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分野: パタフィジック。

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