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種村季弘 『増補改訂版 怪物のユートピア』

「大衆映画には新機軸の必要もなければ、近代化も必要ではない。それはむしろ旧態を墨守すべきなのだ。(中略)黒沢椿三十郎や五社左膳にくらべて、もっとも不自由な座頭市がもっとも自由な空間を可能にしたのはなぜなのか。そういう問題を手がかりにしながら、かつて非人の大道芸人によって厚顔無恥に提示され、ペテンと知りつつも観衆に受け入れられていたあの共通の原理、共通の強迫観念をどう取戻すかについて考えなくてはならないだろう。」
(種村季弘 「大衆映画は旧態を墨守せよ」 より)


種村季弘 
『増補改訂版 
怪物のユートピア』



発行: 西澤書店 
発売: 名著刊行会
266p 
A5判 丸背紙装上製本 
カバー ビニールカバー
定価2,500円
装幀: 谷川晃一



本書「あとがき」より:

「旧版の奥付を見ると一九六八年が発行の日付になっている。だが大半は単行本収録時より数年前、したがって今を去る十二年前頃から書かれた。読み返してみて、若書きの、肌に粟を生ずるような勇み足もないではない。しかし、同時に、私は、ほぼ十年間をへだてて、気質的には全然進歩の跡のない人間であることをもあらためて確認せざるを得なかった。当時から私は、人間よりも人形や怪物を、素顔よりは仮面を、本音よりは修辞を好んでいたらしい。そしてこの本に断片的に顔をのぞかせているいくつかのモチーフは後に独立した単行本の表題となった。吸血鬼だの、ナンセンス詩だの、ゴーレムだの、悪魔だの、錬金術だの。
 どうやら私は最初にこれと思った以外のものには興味がないようだ。つまり、私の好きなのは珍らしいものであって、新らしいものではないのである。」
「旧版を起すに当っては、誤記、固有名詞の表記を訂正するのみにとどめた。」



本書はまえにもっていたのですがうっかりして処分してしまったので日本の古本屋サイトで郡司正勝『芸能の足跡』と一緒に注文しておいたのが届いたのでよんでみました。送料込計2,820円(1,000円+1,300円+送料520円)でした。



種村季弘 怪物のユートピア 01



帯文:

「『怪物のユートピア』を推す
     澁澤龍彦
 種村季弘の思想の核は、一言でいえば、この本の表題になっている「怪物のユートピア」という言葉に端的に示されているごとく、アンチ・ヒューマニズムに立脚したユートピア待望の情念である。すなわち人間は変身しなければならず、この世は顚倒されなければならない、――これが彼の信念だ。」



目次:

怪物のユートピア――ミノタウロスから怪獣映画まで


ジョン・フランケンハイマー論――あるいは物質の喜劇からの逃亡
催眠術師とあやつり人形――『怪人マブゼの挑戦』と怪奇映画の系譜
管理社会のなかの永久革命者――ロマン・ポランスキー『水の中のナイフ』
映像死滅理論の魔笛奏者――フェリーニ『8 1/2』
不条理演劇と現代映画――F・デュレンマット『老貴婦人故郷へ帰る』の映画化をめぐって
仮面劇の復活――トニー・リチャードソン『ラブド・ワン』
失楽園から星雲都市まで――SF映画論
土に溶ける機械文明――ケネス・アンガー『スコピオ・ライジング』
換骨奪胎の思想――ベルイマン『ペルソナ』の詐術


石堂淑朗――ある巨人症の蟻の想い出
吉田喜重――幻花の栽培者
鏡が死児を育てる――吉田喜重『情炎』
花と暗黒世界との隠し通路――鈴木清順『河内カルメン』
偽りと解放軍思想との間――加藤泰『骨までしゃぶる』
滅亡愛の楽園――若松孝二『胎児が密猟する時』
「存在と無」から「存在と十円」へ――中島貞夫『任侠柔一代』
怪奇映画の早すぎた埋葬――中川信夫『東海道四谷怪談』
暗殺者たちのポートレート――わが暴力論
大衆映画は旧態を墨守せよ――ヒーローについて
恐怖を飼う市民たち――ヒューマニズムについて


巨人ゴーレムの謎――大地崇拝から終末論の恐怖へ
肉体について――性的消費と畸型の肉体
フランツ・カフカ――ある迷路体験
マニエリスムの発見――G・R・ホッケ『迷宮としての世界』をめぐって
マニエリスム文学の復権――G・R・ホッケ『文学におけるマニエリスム』をめぐって
悲喜劇の出生――F・アラバールと迷宮演劇
退化人間の処刑場――『ゲルニカ』と『迷路』
アンチ・エロチカーの世界――若年様式と老年様式と
F・フェリーニの白い文章体――『8 1/2』をめぐって

あとがき




種村季弘 怪物のユートピア 02


見返し。



◆本書より◆


「怪物のユートピア」より:

「怪物が実生活を支え、実生活が怪物を必要としていたこのいわば幸福な関係は、近代科学の登場によって全面的に破壊された。近代の動物学と進化論は、すべての怪物を進化系統樹の中へと分解還元してしまう。怪物はそこでは生物学的不可能として説明される一方で、整然たる分類項の中に生体解剖されたまま封じこめられてしまう。精神分析が幅をきかせている間に、想像力は系統樹の無限に分枝する分解運動の中で、かつての果敢な冒険の夢を見失う。」
「ますます平俗化する大衆社会の中で、怪物に怪物性をとり戻す試みは、かつての大旅行家たちに匹敵する無謀な冒険の様相を呈する。少数の冒険家たちは想像力の空間の中にふたたび怪物を復権させようと企てている。」

「ゴジラやガメラのような古典的な怪獣のように、それ自身の存在だけで禁制侵犯の恐怖でも誘惑でもあった怪物が、善神と悪しき巨人(獣)に分れて戦うギガントマシーの二元論に分裂していくのは、あるいはもはや怪獣物の衰弱現象を物語っているのかもしれない。それにしても、これらの白日の下にさらされた意識下の純粋な力学が猫かぶりの人情劇などより数等高級な代物であることに変りはなく、さればこそテレビ嫌いのわたしでさえも、(中略)機会さえあればこれを見逃したことはない。」



「ジョン・フランケンハイマー論」より:

「フランケンハイマーの人物たちは、たえずある無感覚に支配されているようにみえる。たとえば『影なき狙撃者』の主人公レイモンド・ショウは、外界とのコミュニケーションを完全に絶たれた催眠性夢遊病という拘束状態の中で、いわば意味の不在という甲冑をかぶっていた。『終身犯』では道徳的無感覚が主人公を世界から孤絶させている。」
「この無感覚への監禁状態を、フランケンハイマーはくりかえし、一種博物学的なビーヘイヴァーとして映像化する。独房に監禁された『終身犯』の囚人は、どことなく蟹やヤドカリのような甲殻類を思わせるし、『大列車作戦』でも主人公たちがもぐりこむあの黒光りする機関車や装甲列車には、グロテスクな昆虫類の拡大写真的なイメージがふんだんにみられたはずだ。硬質の光に冷たく輝く甲殻や甲冑のイメージ・ウッチェルロの画面を思わせるようなこの甲冑への耽溺は、フランケンハイマーが好んで戦闘場面をとりあげる動機を、雄弁に物語っているようにみえる。」
「ガストン・バシュラールは、幼児的な懊悩がたえず「苦痛の道具を空想する」ことを指摘して、つぎのように言っている。
 「たとえば、どんなに注意して住居を清潔に風通しよく快適に仕立てることができたにしても、ある種の幼児的不安は、たえず狭苦しさのイメージ、地下世界のイメージをつくりあげるだろう。」
 この「苦痛の道具」である鉄の甲冑(中世の拷問器具「鉄の処女」を思い浮べるがよい)や狭苦しい密室が、いかにしてマゾシックな快楽の道具に転化するかを、さらにオットー・ランクはあざやかに指摘している。
 「マゾヒズムは、出産の疼痛(叩かれる空想)の快適な感覚への転換である。これはマゾヒズム的空想の他の典型的な要素からも理解できる。たとえばよくみられる緊縛の空想は、子宮内における運動不能な快楽状態の部分的な再現である。」
 巨大な甲虫の甲殻の中に閉じこもったカフカの『変身』の主人公を思い浮べるがいい。胎内回帰願望の祖型は、しかしすでにヨナの神話にみえる。ヨナは、戦いの召命を避けて「大いなる魚」の胎内に入った。いらい、わたしたちはこのモチーフにくり返し立ち会うことになろう。ダンテやヴァージルの胎内めぐりについてはいうまでもない。バシュラールのようなひとは、メルヴィルからジュール・ヴェルヌの水中船にいたるヨナ・コンプレックスのおびただしい例を枚挙している。
 ヨナ・コンプレックス! しかし、どよめく外界を逃れて完璧に遮断された密室に隠遁するというこの虚構は、最初から、あるときがたい二律背反をはらんでいるのだ。すなわち、外敵の脅威にそなえていよいよ堅固に、いよいよ厚く、壁を塗りこめていくとき、この難攻不落そのものが逆に彼を監禁し、さながら生きながらにして埋葬してしまう。『終身犯』の主人公もまた、カフカのある作品の人物についてバシュラールが言ったように、「同時に被保護者であるとともに囚人である。」」

「いわば母たちにかこまれて眠気を催すような胎生の単調で安逸な安息の中に漂っている同じ瞬間に、この天国的な環の外側にはさらにもうひとつの環があって、彼は父たちの暴力に裸でさらされているのだ。」
「狭い産道の彼方には父と母。そこに「外部」があるなら、それはあまねく父の権力が支配する専制世界にほかならない。したがって、単に外界に出て行くことは、母の子宮の環から父の力の環に移行することにすぎないはずだ。「外部」への誕生が解放を意味するためには、誕生が同時に父親殺しでなければならないことになる。」

「だが、人間的感覚の不在にもかかわらず、いやまさにそれゆえに、自動人形は高次の可能性をはらむ特権的存在であることを銘記してほしい。自動人形崇拝の歴史は古い。すでに百五十年前、ハインリッヒ・フォン・クライストは、マリオネット(物質)や熊(動物)や子供のような、蒙昧な、それゆえに天使的に無垢な存在の、反省意識にたえず干渉される人間にたいする優越を語っている。「有機的世界では反省意識が晦冥をきわめ、弱まればそれだけ、ますます優美さが燦然とたちあらわれるのです。」(『マリオネット芝居について』)
 物質や動物や幼児の条件反射的な行動の正確さが、人間的誤謬にみちみちた成人行動にたちまさること数倍であるのは、ことわるまでもない。」



「催眠術師とあやつり人形」より:

「ところで、表現派映画にかずかずの素材を提供した怪奇作家マイリンクやエーウェルスの故郷プラーハが、またカフカやカレル・チャペクを生んだ街でもあることは、周知の事実であろう。」
「そしてマイリンクからカフカ、チャペクにいたるプラーハの怪奇文学に関するかぎり、錬金術と人形芝居がこのヨーロッパ有数の古都のお家芸だったことを思い出しておくのは無駄ではない。グスタフ・マイリンクは二十世紀に錬金術による賢者の石製造の可能性を信じてやまなかった狂信者であり、さらに、人形劇について言えば、プラーハはかつてヨーロッパ最大の人形劇団を擁していた街である。」

「神話やフォークロアの中に伝承された「ある種の物語」はかくのごとくしぶといのである。
 ドイツ表現派映画のスクリーンに殺到したさまざまの操り人形や怪物は、その意味ではかならずしも過去のものではない。「始源的思考はことごとく映像の中で起こる」とショーペンハウエルが言った意味で、それは古くて、同時にもっとも新しい映像である。失われた始源的思考を回復するための、それはひとつのすくなくとも糸口の役を果たすものではないだろうか。」



「不条理演劇と現代映画」より:

「だが、一人の作家の幼時体験、いや、ひとつの時代の芸術の幼時体験というものはそれほどあてにならないものではあるまい。時代精神が公認の学校式教育なんぞに培われるはずがないのは、わかりきった話である。たとえばマリアンネ・タールマンのようなひとは、ドイツ・ロマン派の洞穴学嗜好や迷宮崇拝の源流を、一五四〇年~一六六〇年に猖獗をきわめた一連の恐怖小説、いわゆる「俗流マニエリスム」の続きもの通俗小説の流行に仰いでいる。俗流マニエリスムはオリエント紀行の異国趣味において全盛を誇ったあと、地下に潜入して生きつづける。それは『鉄仮面』、『死のたいまつ』、『血塗れの姿』といった聞くだにゾクゾクするような題名の通俗小説として、光り輝く啓蒙時代の背後を暗流のように生きつづけ、ロマン派詩人たちの読書体験を通じて、たとえばティークの『ウィリアム・ロヴェル』のような傑作にふたたび開花するのである。
 俗悪な形式が高い形式を刺戟していくこの芸術上の「下剋上」は、それほど珍らしい現象ではない。フォークロアや童話や大道芝居や通俗小説は深部的に「時代」の幼時体験を決定して、つぎの時代の形式を用意する。」

「大衆芸術のある種のインファンテリスムや大衆催眠現象が触発する白日夢という「裏側の道」を通って――かつてハインリッヒ・フォン・クライストが悲劇的に希求したように――しかも喜劇的に、わたしたちはふたたび光り輝くギリシャに到達できるかもしれないのである。たとえば、ギリシャ人が平然と受け入れていたあの「非現実的な」デウス・エクス・マキナのようなものを、同じ平静さで受け入られる場所は、大衆劇場や映画(中略)をおいて、今日ほかにないのである。」



「暗殺者たちのポートレート」より:

「すくなくとも『剣鬼』の主人公(市川雷蔵)にはそんなケチな復讐意識はないようにみえる。彼はひたすら草花を愛し、野原を馳けまわる。出生にベスティアリテの暗い秘密があり、犬っ子とさげすまれているが、大して気にする様子もない。天才的な花つくりの名人で、黙々としてみずから楽しんでいる。御殿女中の母親が犬と交って産んだ子だから、それも当然かもしれないのだ。」
「雷蔵の暗殺者には正義の一かけらもない。小姓頭の命ずるがままに、狂人の主君のために進歩派を皆殺しにしてしまうだけだ。が、最後に敗北した保守派の築工小姓頭が逃亡を企てて、彼を誘っても応じもしない。小姓頭のように利害関係の中で動くすべを知らないからだ。暗殺者でないときの彼は、妹か幼な馴染の少女のように性の匂いのまったくない恋人と野原一面を花で埋め、森の中を馳け廻るだけだ。(中略)所詮は小悧巧な悪人にすぎなかった小姓頭も、最後にはこの男の無気味さに尻尾を巻いて逃げてしまう。裏切りや煽動や陰謀は政治ゲームのルールの中にあるが、この盲目的な無垢性はもはやルールというルールそのものを認めていないからだ。この青空のように澄み切った眼の持主はただもう底なしに無気味なのである。」

「くり返し言えば、わたしは『かも』の悪バーテンと善大学生の二人を截然と区別するが如き、独善的な正義感にまったく何の興味も覚えない。そして自称リアリズムを支えるこの偽善的な虚構こそは「暴力映画」の面汚しであると考える。暴力の本当の顔は、正義や復讐のかげにはない。」



「恐怖を飼う市民たち」より:

「だいたい、怪奇映画ほど機械にコッてしかるべきなのさ。生産性の論理にがんじからめになっていた機械が、そこではじめてブロッケン山の妖怪さながら百鬼夜行し、いわばアニメーテッドされるのだからな。そういえばたしか渥美清太郎というひとは、鶴屋南北の怪談がヒットしたのは、世態風俗のリアルな描写や怪奇残虐の趣きはもとより、廻り舞台や居所変りの新機軸、舞台一面に漲らせた本物の水、怪猫空中飛行の新趣向、といった大道具の改良にもまつところが多かったのだ、と断言している。怪奇映画の祖先にあたるマニエリスム演劇やバロック演劇しかり、舞台上には噴水や仕掛花火やさまざまの機械が花と咲き乱れ、恐怖にいちだんと趣きをそえた。」


「肉体について」より:

「もうおわかりだろう。今日、肉体について語るとすれば、(中略)畸型やかたわものや変質者、要するに怪物について語るほかないということが。彼らの肉体こそは天使的情熱の純一無垢の外観なのである。」


「マニエリスム文学の復権」より:

「マニエリストの多くは、呪われた詩人、挫折者、酔いどれ、麻薬常習者、性的に曖昧な人物、殺人者、犯罪愛好者、狂人、自殺者であった。彼らのあらゆるものは生前においてすでに不治の挫折に苦しむか、現実に裁かれていた。あるものは死後すみやかに忘れられた。「地下世界」の住人たちは、その生涯も作品もともに未決である。そして「地下世界」そのものも、(中略)未決であり、その未決さゆえに妖しい魅惑を語りつづけている。とすれば、この小文を結ぶにあたって、現代ウィーンのマニエリスム絵画について語ったウィーラント・シュミートの美しいエッセイの末尾からつぎのホーフマンスタールの一句を借りることは、いささかも不似合いではないだろう。
 「このこよなく魅惑的な流れ。たましいは瞼を閉じて、この流れに身を委ね、あるときは血の色に、石の灰色に、貝殻の薔薇色に、あるときはまたその下にひそむ深淵の暗黒の色にそめられた水の上を往く、魅せられた一艘の小舟にも似て、これを渉り行くのだ。」」



「悲喜劇の出生」より:

「遠近法的なトリックと並んで、マニエリスム演劇はすでに自我の迷宮を知っていた。ホッケの引用にしたがえば、十七世紀英国のある悲喜劇の主人公はつぎのようにひとりごちる――「わたしはひとつの迷宮。」さらにシェイクスピアの『間違いつづき』の双生児の中の一人のセリフには、「ぼくはほんとのぼくなのかしら?」デュ・リエのある牧歌的な芝居の登場人物も言う、「苦悩と背理のこの暗い迷宮のなかで、わたしは自分がだれであるのかわからない。」双生児、一人二役、男装の女(『ヴェニスの商人』)、女装の男は当時十八番のテーマだった。
 「マニエリスム文学は〈双面〉をいやというほどかかえこんでいる。ロニルーの『ゾシー』(一六三八年)という戯曲では、すべてが二重になっている。二人の人間がそっくり〈瓜二つ〉になる。そしてその混乱のなかでたがいに〈身分けがつかなく〉なり、〈重なり合って〉しまうのである。当時のあまたの戯曲のなかで、一人の主人公が同時に二役を演じている。彼は自分自身の二重像である。彼はたしかに〈唯一人〉の人間でありながら、まるで〈二人いる〉ように見える。ドラマの平面がもうすこし高くなると、結局あらゆるものがぼやけて、ほとんど登場人物ぜんぶが〈双面〉をもつ。たとえばマニエリスムのもっとも大がかりな文学作品『以尺報尺』の中でそうであるように。」(G・R・ホッケ『迷宮としての世界』)
 あらゆる人間があらゆる人間に変身する。男が女に、王子が乞食に、貴族が泥棒に(中略)。人間と人間ばかりではない。ハーディの『アルフェ』では一人の人間がまず岩になり、ついで泉になり、樹木になり、最後にもとの自分にもどる。変身の技。あらゆるものがあらゆるものに変身可能であり、この無限の変身の連鎖から巨大な迷宮世界が紡ぎだされる。」



「アンチ・エロチカーの世界」より:

「つまり、犯罪者の素質のないやつはいい童話作者にはなれないのです。」


「F・フェリーニの白い文章体」より:

「わたしもまた世界を「巨大な幼稚園」に見立てたネオ・プラトニストの世界認識を愛する。それはさまざまの対立物を固着させることなく、対立のままにひとつの宇宙的な綜合へともたらす夢想の表現だからだ。」

「おびただしいフラグメントの中に解体し、漂流物となって浮遊する世界。」

「ダンテの同国人であるフェリーニはここでさながら天国篇第三十三歌の幻視を垣間見る。

 私は宇宙全体に紙片のごとくばらばらに散っていたものが、その光の奥に愛の力で一巻の巻物にまとめられているのを見た。(野上素一氏訳)」

「接合の媒体は「愛の力」である。ちなみに、この「愛」は近代のヒューマニズムではなくて、グノーシス派的な愛、錬金術的な「化合力」を指す。」







こちらもご参照ください:

郡司正勝 『芸能の足跡』
Stephen Skinner &c. 『Splendor Solis』
湯浅泰雄 『ユングとヨーロッパ精神』
グスタフ・マイリンク 『ゴーレム』 今村孝 訳 (河出海外小説選)






























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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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