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谷崎潤一郎 『吉野葛・蘆刈』 (岩波文庫)

「けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持にさせられる。(中略)殊(こと)にうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の薄靄(うすもや)の中へ吸い込まれてゆきたくなる。」
(谷崎潤一郎 「蘆刈」 より)


谷崎潤一郎 
『吉野葛・蘆刈』
 
岩波文庫 緑/31-055-3 


岩波書店 
1950年8月30日 第1刷発行
1986年6月16日 第12刷改版発行
172p 編集付記1p 
「岩波文庫(緑帯)の表記について」1p
文庫判 並装
定価200円
「吉野葛」写真: 北尾鐐之助
「蘆刈」挿画: 北野恒富



新字・新かな。
「吉野葛」の初出は「中央公論」昭和6年1・2月号、「蘆刈」は「改造」昭和7年11・12月号、付載の水上滝太郎「『吉野葛』を読て感あり」は「三田文学」昭和6年6月号。
巻頭に著者肖像(モノクロ)1点。「吉野葛」に写真図版(モノクロ)19点、その他図版2点。「蘆刈」に挿絵図版6点。

でてきたのでひさしぶりによんでみました。



谷崎潤一郎 吉野葛・蘆刈 01



帯文:

「永遠の理想の女性たる母への思慕をテーマに卓抜な構想力で描いた傑作2篇。創元社版の写真・挿絵を併収。《解説=千葉俊二》(改版)」


目次:

吉野葛
 その一 自天王
 その二 妹背山
 その三 初音の鼓
 その四 狐噲
 その五 国栖
 その六 入の波

蘆刈

『吉野葛』を読て感あり (水上滝太郎)
解説 (千葉俊二)




谷崎潤一郎 吉野葛・蘆刈 02



◆本書より◆


「吉野葛」より:

「私が大和(やまと)の吉野の奥に遊んだのは、既に二十年ほどまえ、明治の末か大正の初め頃のことであるが、(中略)――この話は先(ま)ずその因縁から説く必要がある。
 読者のうちには多分御承知の方もあろうが、昔からあの地方、十津川(とつがわ)、北山、川上の荘(しょう)あたりでは、今も土民に依(よ)って「南朝様(なんちょうさま)」あるいは「自天王様(じてんのうさま)」と呼ばれている南帝の後裔(こうえい)に関する伝説がある。」

「いったい吉野の山奥から熊野へかけた地方には、交通の不便なために古い伝説や由緒(ゆいしょ)ある家筋の長く存続しているものが珍しくない。たとえば後醍醐天皇が一時行在所(あんざいしょ)にお充(あ)てになった穴生(あのう)の堀氏の館(やかた)など、昔のままの建物の一部が現存するばかりでなく、子孫が今にその家に住んでいるという。それから『太平記』の大塔宮熊野落(だいとうのみやくまのお)ちの条下に出て来る竹原八郎の一族、――宮はこの家に暫(しばら)く御滞在になり、同家の娘との間に王子(みこ)をさえ儲(もう)けていらっしゃるのだが、その竹原氏の子孫も栄えているのである。その外更(さら)に古いところでは大台ケ原の山中にある五鬼継(ごきつぐ)の部落、――土地の人はあれは鬼の子孫だといって、決してその部落とは婚姻を結ばず、彼らの方でも自分の部落以外とは結ぶことを欲しない。そして自分たちは役(えん)の行者(ぎょうじゃ)の前鬼(ぜんき)の後裔(こうえい)だと称している。」
「私の知り得たこういういろいろの資料は、かねてから考えていた歴史小説の計劃に熱度を加えずにはいなかった。南朝、――花の吉野、――山奥の神秘境、――十八歳になり給ううら若き自天王、――楠二郎正秀、――岩窟の奥に隠されたる神璽、――雪中より血を噴き上げる王の御首(みしるし)、――と、こう並べてみただけでも、これほど絶好な題材はない。」

「「くず」という地名は、吉野川の沿岸附近に二カ所ある。下流の方のは「葛(くず)」の字を充(あ)て、上流の方のは「国栖」の字を充てて、あの飛鳥浄見原天皇(あすかのきよみはらのすめらみこと)、――天武(てんむ)天皇にゆかりのある謡曲で有名なのは後者の方である。しかし葛も国栖も吉野の名物である葛粉(くずこ)の生産地という訳ではない。葛は知らないが、国栖の方では、村人の多くが紙を作って生活している。それも今時(いまどき)に珍しい原始的な方法で、吉野川の水に楮(こうぞ)の繊維を晒(さら)しては、手ずきの紙を製するのである。」

「もともと地唄の文句には辻褄(つじつま)の合わぬところや、語法の滅茶苦茶(めちゃくちゃ)なところが多くて、殊更(ことさら)意味を晦渋(かいじゅう)にしたのかと思われるものが沢山ある。それに謡曲や浄瑠璃の故事を蹈(ふ)まえているのなぞは、その典拠を知らないでは尚更(なおさら)解釈に苦しむ訳で、「狐噲(こんかい)」の曲も大方別に基づくところがあるのであろう。しかし「いたはしや母上は花の姿に引き替へて」といい、「母も招けばうしろみ返りて、さらばと云(い)はぬばかりにて」といい、逃げて行く母を恋い慕う少年の悲しみの籠(こも)っていることが、当時の幼(いとけな)い自分にも何とはなしに感ぜられたと見える。その上「野越え山越え里打ち過ぎて」といい、「あの山越えて此の山越えて」という詞には、何処か子守唄(こもりうた)に似た調子もある。そしてどういう連想の作用か、「狐噲」という文字も意味も分るはずはなかったのに、そののち幾たびかこの曲を耳にするに随(したが)って、それが狐に関係のあるらしいことを、おぼろげながら悟ようになった。
 これは多分、しばしば祖母に連れられて文楽座や堀江座の人形芝居へ行ったものだから、そんな時に見た葛(くず)の葉(は)の子別れの場が頭に沁(し)み込んでいたせいであろう。あの、母狐が秋の夕ぐれに障子の中で機(はた)を織っている、とんからり、とんからり(引用者注:「とんからり」「とんからり」に傍点)という筬(おさ)の音。それから寝ている我が子に名残(なご)りを惜しみつつ「恋ひしくば訪(たず)ね来てみよ和泉(いずみ)なる――」と障子へ記すあの歌。――ああいう場面が母を知らない少年の胸に訴える力は、その境遇の人でなければ恐らく想像も及ぶまい。自分は子供ながらも、「我が住む森に帰らん」という句、「我が思ふ/\心のうちは白菊岩隠れ蔦がくれ、篠の細道掻(か)き分け行けば」などという唄(うた)のふしのうちに、色とりどりな秋の小径(こみち)を森の古巣へ走って行く一匹の白狐(びゃっこ)の後影を認め、その跡を慕うて追いかける童子の身の上を自分に引きくらべて、ひとしお母恋いしさの思いに責められたのであろう。」

「自分の母を恋うる気持は唯漠然(ばくぜん)たる「未知の女性」に対する憧憬(どうけい)、――つまり少年期の恋愛の萌芽(ほうが)と関係がありはしないか。なぜなら自分の場合には、過去に母であった人も、将来妻となるべき人も、等しく「未知の女性」であって、それが眼に見えぬ因縁の糸で自分に繋(つな)がっていることは、どちらも同じなのである。けだしこういう心理は、自分のような境遇でなくとも、誰にも幾分か潜んでいるだろう。その証拠にはあの狐噲(こんかい)の唄の文句なども、子が母を慕うようでもあるが、「来るは誰故ぞ、様故」といい、「君は帰るか恨めしやなうやれ」といい、相愛の男女の哀別離苦をうたっているようでもある。恐らくこの唄の作者は両方の意味に取れるようにわざと歌詞を曖昧(あいまい)にぼかしたのではないか。」

「徳川時代の狂言作者は、案外ずるく頭が働いて、観客の意識の底に潜在している微妙な心理に媚(こ)びることが巧みであったのかも知れない。(中略)この場合、母が狐であるという仕組みは、一層見る人の空想を甘くする。自分はいつも、もしあの芝居のように自分の母が狐であってくれたらばと思って、どんなに安倍(あべ)の童子を羨(うらや)んだか知れない。なぜなら母が人間であったら、もうこの世で会える望みはないけれども、狐が人間に化けたのであるなら、いつか再び母の姿を仮りて現れない限りもない。」

「有りていにいうと、彼の青春期は母への思慕で過ぐされたといってよい。行きずりに遇(あ)う町の女、令嬢、芸者、女優、――などに、淡い好奇心を感じたこともないではないが、いつでも彼の眼に止まる相手は、写真で見る母の俤(おもかげ)に何処か共通な感じのある顔の主(ぬし)であった。」




谷崎潤一郎 吉野葛・蘆刈 03



「蘆刈」より:

「むかしわたしは始めて『増鏡』を読んだときからこの水無瀬のみやのことがいつもあたまの中にあった。見わたせばやまもとかすむ水無瀬川ゆふべは秋となにおもひけむ、わたしは院のこの御歌がすきであった。あの「霧に漕(こ)ぎ入るあまのつり舟」という明石(あかし)の浦(うら)の御歌や「われこそは新島守(にいしまもり)よ」という隠岐(おき)のしまの御歌などいんのおよみになったものにはどれもこれもこころをひかれて記憶にとどまっているのが多いがわけてこの御うたを読むと、みなせがわの川上をみわたしたけしきのさまがあわれにもまたあたたかみのあるなつかしいもののようにうかんでくる。」

「わたしはやしろの境内を出るとかいどうの裏側を小径(こみち)づたいにふたたびみなせ川の川のほとりへ引き返して堤の上にあがってみた。(中略)それは峨々(がが)たる峭壁(しょうへき)があったり岩を嚙(か)む奔湍(ほんたん)があったりするいわゆる奇勝とか絶景とかの称にあたいする山水ではない。なだらかな丘と、おだやかな流れと、それらのものを一層やんわりぼやけさせている夕もやと、つまり、いかにも大和絵(やまとえ)にありそうな温雅で平和な眺望なのである。なべて自然の風物というものは見る人のこころごころであるからこんな所は一顧(いっこ)のねうちもないように感ずる者もあるであろう。けれどもわたしは雄大でも奇抜でもないこういう凡山凡水に対する方がかえって甘い空想に誘われていつまでもそこに立ちつくしていたいような気持にさせられる。(中略)ちょっと見ただけではなんでもないが長く立ち止まっているとあたたかい慈母のふところに抱かれたようなやさしい情愛にほだされる。殊(こと)にうらさびしいゆうぐれは遠くから手まねきしているようなあの川上の薄靄(うすもや)の中へ吸い込まれてゆきたくなる。」

「わたしはいまおぼろげな記憶の底をさぐってそれらの文章のところどころをきれぎれにおもいうかべながら冴(さ)えわたる月のひかりの下を音もなくながれてゆく淋しい水の面をみつめた。人には誰にでも懐古の情があるであろう。が、よわい五十に近くなるとただでも秋のうらがなしさが若いころには想像もしなかった不思議な力で迫ってきて葛(くず)の葉の風にそよぐのを見てさえ身にしみじみとこたえるものがあるのをどうにも振りおとしきれないのに、ましてこういう晩にこういう場所にうずくまっていると人間のいとなみのあとかたもなく消えてしまう果敢(はか)なさをあわれみ過ぎ去った花やかな世をあこがれる心地(ここち)がつのるのである。『遊女記』の中には、観音、如意(にょい)、香爐、孔雀(くじゃく)などという名高い遊女のいたことが記してあり、そのほかにも小観音、薬師、熊野(くまの)、鳴渡(なると)などという名が伝わっているがそれらの水の上の女どもの多くは何処へ行ってしまったのであろうか。かのおんなどもがその芸名に仏くさい名前をつけていたのは婬(いん)をひさぐことを一種の菩薩行(ぼさつぎょう)のように信じたからであるというが、おのれを生身(しょうじん)の普賢(ふげん)になぞらえまたあるときは貴(とうと)い上人(しょうにん)にさえ礼拝されたという女どものすがたをふたたびこの流れのうえにしばしうたかたの結ぼれるが如く浮かべることは出来ないであろうか。(中略)その女どもは今は弥陀(みだ)の国に生れていつの世にも変らぬものは人間のあさましさであることを憫笑(びんしょう)しているのであろうか。」

「と、そのとき近くの葦(あし)の葉がざわざわとゆれるけはいがしたのでそのおとの方を振り向くと、そこに、やはり葦のあいだに、ちょうどわたしの影法師のようにうずくまっている男があった。こちらはおどろかされたので、一瞬間、すこし無躾(ぶしつけ)なくらいにまじまじと風態(ふうてい)を見すえるとその男はべつにたじろぐ気色(けしき)もなくよい月でござりますなとさわやかなこえで挨拶(あいさつ)して、いや、御風流なことでござります、じつはわたくしも先刻から此処におりましたなれども御清境のおさまたげをしてはと存じてさしひかえておりましたがただいま琵琶行をおうたいなされましたのを拝聴しまして自分もなにかひとくさり唸(うな)ってみたくなりました、御迷惑でござりましょうがしばらくお耳を汚させてくださいませぬかという。」

「時に、と、こんどはわたしが尋ねた、あなたは大阪のお方であればこのへんの地理や歴史にお委(くわ)しいことと存じます、とすると、お伺いしたいのはいまわたしどもがこうしているこの洲のあたりにもむかしは江口の君のような遊女どもが舟を浮かべていたのではないでしょうか、この月に対してわたしの眼前にほうふつと現れてくるものは何よりもその女どものまぼろしなのです、わたしはさっきからそのまぼろしを追うこころを歌にしようとしていたのですけれどうまいぐあいに纏(まと)まらないので困っていたのです。されば、誰しも人のおもうところは似たようなものでござりますなとその男は感に堪(た)えたようにいって、いまわたくしもそれと同じようなことをかんがえておりました。わたくしもまたこの月を見まして過ぎ去った世のまぼろしをえがいていたのでござりますとしみじみとそういうのである。(中略)人間はとしをとるにつれて、一種のあきらめ、自然の理法にしたがって滅んでゆくのをたのしむといった風な心境がひらけてきて、しずかな、平均のとれた生活を欲するようになるのですね、ですから花やかなけしきを眺めるよりも淋(さび)しい風物に接する方が慰められ現実の逸楽をむさぼるかわりに過去の逸楽の思い出にふけるのがちょうど相応するようになるのではありますまいか、つまり、往時をしたう心持は若い人には現在と何のかんけいもない空想にすぎませんけれども老人にとってはそれ以外に現在を生きてゆくみちがないわけです。」




谷崎潤一郎 吉野葛・蘆刈 04















































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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