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佐藤進一 『日本の歴史 9 南北朝の動乱』 (中公文庫)

「吉野地方は古来、失意の人々、都を追われた人々、すなわちアウトサイダーたちが身をよせた隠れ家であり、王朝および幕府をおびやかす陰謀の策源地となることが多かった。」
(佐藤進一 『南北朝の動乱』 より)


佐藤進一 
『日本の歴史 9 
南北朝の動乱』
 
中公文庫 S-2-9 


中央公論新社 
1974年2月10日 初版発行
2005年1月25日 改版発行
2008年7月25日 改版第3刷発行
557p 付記1p
文庫判 並装 カバー
定価1,238円+税
カバーデザイン: 吉田悟美一、山影麻奈(EOS Co., Ltd.)
カバー写真: 騎馬武者像(京都国立博物館蔵)


「一、本書は一九七四年二月に刊行された中公文庫『日本の歴史9――南北朝の動乱』の新装改版です。底本として、一九九七年十月刊の二十五版を使用しました。一、本文は、その資料的価値を維持するために、原則として刊行時のままとしましたが、一部、著者の要請によって訂正した部分があります。
一、写真・図版類は原則旧版と同じものを復元し、収載しました。
一、親本「月報」の「読書案内」を、「図書案内」として収載しました。
一、親本刊行後に進展した、研究の成果や変遷、学界の潮流についての「解説」を新たに加え、その後の「読書案内」を「参考文献」として付載しました。」



本書「解説」より:

「佐藤進一氏の執筆になる『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中略)の初版本は、昭和四十年(一九六五)十月、(中略)中央公論社から刊行された。」


本文中図版(モノクロ)多数。
網野善彦『悪党と海賊』をよんでいたら本書を「不朽の名著」と絶賛していたのでよんでみました。



佐藤進一 南北朝の動乱



カバー裏文:

「宿願の幕府打倒に成功した後醍醐天皇は、旧慣を無視して建武の新政を開始した。しかしそれは、もろくも三年にしてついえ、あとに南北朝対立、天下三分、守護の幕府への反抗の時代がおとずれる。この七十年にわたる全国的動乱の根元は何か。」


目次:

はじめに
公武水火の世
建武の新政
新政の挫折
足利尊氏
南北両朝の分裂と相剋
動乱期の社会
直義と師直
天下三分の形勢
京都争奪戦
南朝と九州
苦闘する幕府政治
守護の領国
名主と庄民
室町殿
王朝の没落
日本国王

図書案内
解説 (森茂暁)
参考文献
年表
索引

新装版・中公文庫『日本の歴史』刊行にあたって (中公文庫編集部)




◆本書より◆


「建武の新政」より:

「護良は新政政府の内部に入って発言する足がかりをもたなかった。かれのもつ兵部卿(ひょうぶきょう)という官はまったくの名目であって、そのような条件をつくり出すのには役立たなかっただろう。武勇のほまれ高く、父後醍醐の烈しい気性の一面だけを受けついだらしいこの貴公子には、政略は苦手であった。かれは失権回復の道をひたすら武力による尊氏打倒にもとめた。
 『太平記』によれば、そのころの護良は、
  「御心ノ儘(ママ)ニ侈(オゴリ)ヲ極(キハ)メ、世ノ譏(ソシリ)ヲ忘(ワスレ)テ、婬楽ヲノミ事トシ給ヒ、……強弓射ル者、大太刀(オホダチ)仕(ツカ)フ者トダニ申セバ、忠ナキニ厚恩ヲ下サレ、左右前後ニ仕承(ジショウ)ス、剰(アマツサヘ)加様(カヤウ)ノソラカラクル者(にせ武芸者)ドモ、毎夜京白河ヲ廻(メグリ)テ辻切(ツジギリ)ヲシケル程ニ……」
というありさまで、そのため児(ちご)法師や女子供の切り殺されること止むときがなかった、これも尊氏を討たんがために、兵を集め武を習わせる所行であった、という。この話は、護良にはすでに軍勢といえるほどの兵力がなくなっていることを語っている。奥州から補給できる兵力とて、その数はいくらでもなかったであろう。無頼の「カラクル者」を使ってできることといえば、一人一殺式のテロしかあるまい。
 護良のテロ計画は建武元年(一三三四)五月ごろから本格化したらしい。その際とくに注目されるのは、『梅松論』に「兵部卿親王護良・新田左金吾義貞・正成・長年等ヒソカニ叡慮ヲウケ、打タ(ウチタツ)事度々ニ及(オヨブ)」とあって、主謀者は護良ではなくて、じつは後醍醐だという点である。
 これは、のちに護良が後醍醐の計略で捕えらえたときに、尊氏よりも父の後醍醐がうらめしいと言ったと伝えられるところとも符合するし、後醍醐からすれば、いずれ尊氏と護良のどちらかと対決しなければならないとしたら、どう見ても劣勢の護良の手で尊氏を倒すことができれば、たいへんぐあいがよいだろう。かりに後醍醐が主謀者でなかったにしても、護良の計画にある程度関係し、承認を与えたことはじゅうぶん考えられることである。」

「護良はやがて流罪ときまり、尊氏の手で鎌倉に護送されて、直義の監視下に禁錮の身となる。そして翌年七月、直義の手にかかって、非業の最期をとげる。」



「足利尊氏」より:

「もう一つ注目すべき点は、常識をもってはかりがたいかれのいくつかの行動である。もっとも顕著な例をあげれば、のち(一三五一年)のことだが、弟直義と争って、戦いに敗れた尊氏が、和睦ということで、ようやく体面を保つことができた際に、直義側の部将細川顕氏(あきうじ)が拝謁を望んだところ、敗残者であるはずの尊氏は「降参人の分際で何をいうか」と怒って、謁見を拒んだ事実がある。負けていながら、勝ったと思いこんでいるふしがある。
 こんなことをいろいろ並べて考えると、尊氏は、性格学でいう躁鬱質、それも躁状態をおもに示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。かれの父貞氏(さだうじ)に発狂の病歴があり、祖父家時(いえとき)は天下をとれないことを嘆いて自殺したという伝えがあり、そのほかにも先祖に変死者が出ている。子孫の中にも、曾孫の義教(よしのり)を筆頭に、異常性格もしくはそれに近い人間がいく人か出る。尊氏の性格は、このような異常な血統と無関係ではないだろう。
 派手ずきで、新しがりやで、好んで強気な言動に出る後醍醐が、こういう性格の人間に魅力を感じたとしても、いっこう不思議はない。後醍醐と尊氏の間には、政治構想のちがいはそれとして、個人的には案外強い親愛感があったかもしれない。」



「南北両朝の分裂と相剋」より:

「吉野山は金峰山(きんぶせん)を主峰とする重畳たる山岳群の一つであって、金峰山の北の入口に位置する、比較的低い一峰である。山の北麓を東西に流れる吉野川を利用すれば、西は紀伊、東は伊勢と連絡することはさほど困難ではない。また西北に進めば楠木の本拠河内に達し、北に下れば奈良盆地に進出することができる。しかも南方には金峰山の山々がそびえて、攻撃を受けにくい利点があった。も一つ、伊勢の前衛に当たる伊賀の南部には、後醍醐に従って山門にたてこもった黒田庄の土豪と庄民の集団があった。かれらは一三世紀後半以来、領主である東大寺および幕府・守護にたいして執拗な反抗と自立の活動をつづけており、元弘の乱直前のころ後醍醐の供御人(くごにん)(宮廷に食物を貢納する人々)となって身分的な特権を獲得するとともに、戦力として後醍醐に奉仕するようになったのである。
 また金峰山から南の熊野にかけて一帯の山岳は、平安以来、修験者(山伏)の道場として知られるが、かれら山伏はあるいは武力集団として、あるいは諸国への連絡役として期待することができた。当時、密使に使われたのは僧侶か山伏か商人であり、それ以外のものが密使に立つ場合には、この三種のいずれかに扮装することが多かった。
 も一つ、これは修験道の発達と関係があるらしいが、吉野地方は古来、失意の人々、都を追われた人々、すなわちアウトサイダーたちが身をよせた隠れ家であり、王朝および幕府をおびやかす陰謀の策源地となることが多かった。(中略)後醍醐が吉野に仮りの皇居を定めて、この地を足利打倒運動の中心拠点としたのは、これらの諸条件を考慮したうえでのことであったろう。」



「動乱期の社会」より:

「また元弘三年(一三三三)三月、赤松則村が六波羅探題を攻めて敗れ退いた後で、隅田(すだ)・高橋ら、探題側の武士が京中をかけまわって手負(ておい)・死人(しにん)の首を取り集めた。六条河原に並べられた首は八七三あったが、それらは、戦いもせぬ武士が、在家人・町人・旅人などの首を打って、適当な名を書きつけて出したもので、赤松則村と書かれた首が五つあったという。」


「直義と師直」より:

「ここに紹介した師直兄弟の言動の真偽を一々確かめることはできないけれど、こういうタイプがまったく突然変異的に生まれたものでないことは注意しておく必要がある。たとえば青野原の戦いで奮戦して幕府の危急を救った美濃の守護土岐頼遠は、康永(こうえい)元年(一三四二)九月、京都で光厳上皇の行列に行きあって、「院の御車ぞ。下馬せよ」と注意されると、
 「何(ナ)ニ、院(イン)ト云フカ。犬(イヌ)ト云フカ。犬ナラバ射テヲケ」
と、上皇の車を取りかこんで、矢を射かけて去った。そのうえ、事件が問題になると、幕府の許可なくかってに本国に引き上げた。幕政を主宰する直義は事件を重大視して、頼遠を召喚して斬罪に処した。
 また近江の守護佐々木の一族で尊氏に属して数ヵ国の守護にまで成り上がった佐々木導誉(どうよ)(高氏)にも同様な事件がある。暦応(りゃくおう)三年(一三四〇)十月、導誉と子の秀綱が東山で鷹狩りをしての帰途、光厳・光明の兄弟で当時天台座主であった妙法院宮亮性(りょうしょう)法親王の邸に、些細(ささい)なことから焼き打ちをかけて、重宝を奪いとった事件である。叡山はさっそく、導誉父子を死罪に処すべしと抗議したが、幕府は導誉の権勢をはばかって極刑に処するわけにいかず、けっきょく、導誉は出羽、秀綱は陸奥に流罪ときまった。その流罪もまったくの申しわけで、導誉は見送りと称して三百余騎の従者をつれて、配流地に旅立ったが、
  「道々ニ酒肴(シュカウ)ヲ設(マウケ)テ、宿々ニ傾城(ケイセイ)ヲ弄(モテアソ)ブ」
という調子であった。もちろん予定地まで行く気もなければ行きもしなかったのである。
 こう見てくると、師直兄弟も頼遠も導誉も古い秩序と権威の束縛から解放された人間ということができようが、このことは、かれらが古い秩序の中では運命を切り開く機会をもてそうもない人々であったということと無関係ではない。鎌倉幕府の下では、師直兄弟は一守護の家来、頼遠は源氏の流れとはいえ美濃の土豪にすぎず、事あれば守護北条氏ににらまれ、圧迫されていた。導誉もまた名門とはいえ佐々木の庶流であって、権勢の地位はおろか、守護になる可能性もなかった。
 それが、磐石のごとくに見えた鎌倉幕府は音を立てて崩れ去り、一統政府もまた天皇・貴族の無力を天下に暴露しつつ自壊した。いや自壊ではない、師直も導誉も頼遠もそれぞれにその解体に手をかしたのである。つまり師直らの古い秩序と権威の否定は、かれら自身の力にたいする信頼によって裏打ちされているのである。軽薄で反倫理的ですらあるかれらの言動の中に、人間肯定の激しい息吹きをきくことができる。師直のこういう性格は、先天的なものに根ざしているのはもちろんだが、かれの幕府での地位や政治的な立場によって、よりいっそう助長された。つまり外的な条件が人間的な特徴を決定づけたといえるだろう。そしてこれはひとり師直に限らない。直義・尊氏そして後醍醐についても同様である。」

 





こちらもご参照ください:

網野善彦 『異形の王権』 (イメージ・リーディング叢書)
川村二郎 『日本文学往還』
『夢窓国師 夢中問答』 佐藤泰舜 校訂 (岩波文庫)
谷崎潤一郎 『吉野葛・蘆刈』 (岩波文庫)









































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