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高階秀爾 『西欧芸術の精神』 

「芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」
(高階秀爾 「近代における芸術と人間」 より)


高階秀爾 
『西欧芸術の精神』 



青土社 
昭和54年3月10日 印刷
昭和54年3月20日 発行
518p 索引xiv 
四六判 丸背布装上製本 函
定価3,600円
装幀: 高柳裕



本書「あとがき」より:

「本書は、これまで専門誌、一般雑誌その他に発表された論文、評論十九編をまとめたものである。内容は、ルネッサンス期から現代までの西欧芸術のさまざまな問題にわたっているが、基本的な関心においては、私自身にとって一貫した問題を追求している心算である。」


各編扉および本文中に図版(モノクロ)計50点。本書は1986年に増補版が刊行されています。



高階秀爾 西欧芸術の精神



帯文:

「西欧芸術の本質を考える
芸術家たちは、どのようにして時代の意識につながり、どのようにして芸術の歴史をつくりだしてゆくのか。ボッス、ラファエルロ、ロダン、ドラクロワ、ゴッホらが生きた時代の精神風土を検証しながら、現代美術の思想と動向を探る美の精神史。」



帯背:

「美術史の
新しい地平」



目次 (初出):


マニエリスムにおける歴史と現代 (「すばる」 創刊号 1970. 6)
ヒエロニムス・ボッス――幻想的ヒューマニスト (『ヒエロニムス・ボッス全作品』 中央公論社 1978)
ラファエルロの「小椅子の聖母」 (「美術史」 第60号 1966)
ヴァザーリの歴史観 (「心」 1974. 2)
フランス・ロマン派におけるミケランジェロ (ミケランジェロ学会報告 『ミケランジェロ研究』 平凡社 1978)
ドラクロワとロダン (「国立西洋美術館年報」 1970)
ドラクロワにおける芸術家像 (「研究論文集」 21巻 文科系学会連合 1970)
ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について (「美術史」 第75冊 1969)
町のなかの修道院芸術――ナビ派の歴史と美学 (「美術手帖」 1976. 1)


「詩は絵の如く」の伝統をめぐって (『岩波講座文学 1 文学表現とはどのような行為か』 岩波書店 1975)
絵の中の本――ゴッホとフランス文学をめぐる一考察 (『講座比較文学 8 比較文学の理論』 東京大学出版会 1976)
「サロメ」――イコノロジー的試論 (「美術史」 第51冊 1963)
切られた首――世紀末想像力の一側面 (「季刊芸術」 1974 夏)
マラルメと造形美術 (「無限」 第39号 1976. 7)


のろわれた玩具――不安な状況の予兆 (「美術手帖」 1968. 12)
近代における芸術と人間 (「人間の世紀 3 文化の発見」 潮出版社 1974)
手さぐりする絵画 (「現代の美術 art now 別巻 現代美術の思想」 講談社 1972)
美の冒険 (「現代人の思想 6 美の冒険」 平凡社 1968)
現代美術の思想と動向 (「講座日本の将来 1 現代思想の展開」 潮出版社 1970)

あとがき
人名索引




◆本書より◆


「ドラクロワにおける芸術家像」より:

「今、ドラクロワの全作品のなかから、直接芸術家を主題としたものを拾い出してみると、次ぎのようなものがある。」
「(1)「狂人の家のタッソー」 一八二四年作 チューリッヒ、ビュルレ・コレクション
 (2)「狂人の家のタッソー」 一八二七年作 ウィンテルトゥール、ラインハルト・コレクション
 (3)「娘たちの看護を受けるミルトン」 一八二八年頃作 ウィリアムスタウン・ハミルトン・コレクション
 (4)「蛮族の中のオヴィディウス」 一八四四年作 パリ、ブルボン宮図書室
 (5)「アトリエのミケランジェロ」 一八五一年作 モンペリエ、ファブル美術館」
「これら芸術家を主題とする作品群を眺めて見て、きわめて特徴的なことは、それらがいずれも、社会から見棄てられて、逆境のなかに苦しんでいる芸術家たちを描いているということである。ドラクロワが取り上げた三人の詩人たちは、タッソーは狂人と嘲けられて牢屋で幽囚の日を送らなければならなかったし、オヴィディウスはローマを追われてスキタイ人たちの許に亡命し、故国を憧れながら遂に戻ることが出来なかった。また『失楽園』の詩人ミルトンは、晩年に盲目となって、詩を書く時はもちろん、日常の生活においても、娘たちの世話を受けなければならなかった。彼らはいずれも何らかの意味で不幸な、失意の境遇にあり、苦悩と絶望のうちに毎日を送った人びとなのである。」
「ドラクロワの「文学好き」は、彼の絵画作品の主題から見ると、その作品に惹かれる場合と、その生涯に惹かれる場合とはっきりふたつあって、しかもその生涯に惹かれる場合はつねに不幸な生涯なのである。」
「このことは、一八五一年に描かれた「アトリエのミケランジェロ」において、いっそうはっきりと見られる。」
「「アトリエのミケランジェロ」というテーマにしては、このミケランジェロは、いささか奇妙なポーズを見せている。すなわち、アトリエにおいて一生懸命制作に励んでいるところでもなければ、出来上った作品を前にして満足しているところでもなく、むしろ逆に、きわめて投げ槍に台の上にどっかと腰を下し、頰杖をついた姿で描かれているのである。
 このポーズが、(中略)かなり意図的に「仕事を放棄した」状態を示すものであることは、彫刻家にとって生命とも言うべき大切な道具であるノミが、だらしなく足許に投げ棄てられていることからも、明らかと言ってよい。」
「すなわち、この作品では、ミケランジェロは(中略)、何故か、絶望のあまり仕事も手につかないで茫然としている姿で描き出されているのである。とすれば、このミケランジェロも、ある意味で「失意の芸術家」だと言わなければならない。
 溢れるような創作力を持っていたミケランジェロが、時にこのドラクロワの絵に見るような無気力な状態に陥入ることがあったことは、コンディヴィ以来、多くの証言がある。少くともドラクロワは、(中略)ミケランジェロが時にそのような絶望的な気分に襲われたことを信じていた。先に触れた『パリ雑誌』に掲載された「ミケランジェロ」と題する評論のなかで、ドラクロワは、次ぎのように述べている。

 「…三年か四年の間、ミケランジェロはノミも、絵筆も、クレヨンも手に取ろうとはしなかった。彼はフィレンツェにあって何も仕事をせずに暮し、詩人の作品を読んだり、自分自身で詩を作ったり、旧約聖書を研究したりして日を送った……。
 …おそらく、このような憂欝症に襲われた時には、彼は一度ならず自分自身にこう言って聞かせたに違いない、俺はもう駄目な人間だ、何の創意も湧いて来ない、競争相手の仲間の方が俺よりずっと優れている、なぜなら人びとは奴等の方を褒め上げるではないか。人びとは俺を軽蔑する、多分俺はその通りの人間なのだろう。ああ栄光が何だ、未来が何だ……」

 ここではミケランジェロは、明らかに、世人の無理解という不幸を背負っている悩める芸術家として描き出されている。」
「美術の歴史を大きく動かすほどの大作を次ぎ次ぎと発表しながら、その成果を世の人に理解して貰うことができず、その業績にふさわしい栄誉も報いも受けることができなかったドラクロワは、やはりもうひとりの「失意の芸術家」であった。そのような時、ドラクロワはつねに同じような運命を耐え忍んだ過去の偉大な芸術家のなかに心の友を求め、ひそかな共感と慰めとを味わっていた。」
「そして、ミケランジェロの場合のみならず、タッソーにしても、オヴィディウスにしても、おそらくはドラクロワの心の世界の反映であった。ドラクロワにとっては、自己自身も含めて偉大な芸術家は、つねに世の無理解と自己の内部の疑いとに悩まされ続ける存在なのである。
 そのような内面的な苦悩を背負った芸術家の姿を画面に定着するのに、ドラクロワが、ミケランジェロに頰杖をついたポーズをとらせたということは、はなはだ興味深い。」
「西欧の芸術の表現においては、この特徴的なポーズは、さらにもうひとつ別の意味を与えられていることも、見逃してはならない。それは、一言で云えば、行動する人に対して、思索する人のイメージなのである。
 芸術家は本来、ペンを手にして詩を書いたり、ノミによって石を刻んだりするという実際の制作活動をする人である。それに対し、頰杖をつくというポーズは、逆に活動をしない人間を表わす。したがってそれは、例えば中世の一般的なイメージにおいては、「怠け者」の姿であった。ところが、ルネッサンス期に至って、その「怠け者」のイメージが、思索する人のイメージにまで高められるようになる。頰杖をついた人物像の代表的な例であるデューラーの「メレンコリア」が、思索する芸術家のイメージであることは、パノフスキーが証明した通りである。(中略)そして、ルネッサンス期のこの伝統が十九世紀までずっと生き続けていたことは「思索する人」の典型であるロダンの「考える人」が同じようなポーズをとっており、しかも最初は「詩人」という題名を与えられていたことからも明らかである。」



「ドラクロワの「ゲネザレツ湖上のキリスト」連作について」より:

「ドラクロワの生涯はたしかに闘いの連続であった。しかしその闘いの真の相手は、アカデミー派や新古典派の画家たちなどではなく、人間世界を超えた何ものかであった。」


「絵の中の本」より:

「ゴッホが、生涯を通じて熱心な読書家であったことは、広く知られている通りである。彼は、絵画なしには生きられなかったと同じように、本なしでもやはり生きられなかった。彼の厖大な書簡集を読んでみれば、ほとんど毎回のように、自分の読んだ本、今読んでいる本、読みたいと思っている本等についての感想や意見が出て来るのに気づかされる。時には彼は、感動した本の一節を何ページにもわたって手紙のなかに書き写したりもするのである。
 ゴッホがいかに「本」を大切なものと考えていたかは、一八八四年に、ヌエネンからパリにいる弟テオに宛てた手紙のなかで、彼が「ある古い伝説」について感動的に語っているところからも明らかである。その「伝説」というのは、人類の先祖は二人の兄弟で、その二人は、あらゆるもののなかから、望むものをひとつだけ選ぶことを許されたという。一人は「黄金」を選び、もう一人は「本」を選んだ。「黄金」を選んだ方は最初は大いに栄えたがやがて没落し、「本」を選んだ方は、はじめは貧しく、孤独であったが、やがて力を得るようになった。

  「これはひとつの伝説に過ぎない。しかし僕にとっては、それは深い意味を持っており、たしかに真実だと思われる。
  〈本〉というのは、文字で書かれたあらゆる本を指すだけではない。それはまた、良心であり、理性であり、芸術でもあるのだ。」

 ゴッホが、この「伝説」の話を弟に書き送った意図は明白である。当時すでに彼は、「黄金」と「本」のいずれを選ぶかという問題に悩まされていた。そしてもちろん、彼は「本」を選ぶ。」
「本は、ゴッホにとって、それほどまで重要なものであった。その内容も、文学はもとより、歴史、宗教、芸術論等、きわめて広い範囲にわたっている。」



「「サロメ」」より:

「中世の諸作品においては、サロメは、何よりもまず若々しく健康で、しなやかな肢体を持った踊り子(引用者注:「踊り子」に傍点)として表現される。きわめて古い時代の作例では、彼女は立ったまま腰をくねらせて、いわゆる「東洋風」の舞踊を見せているに止まるが、十二世紀以降十四世紀頃までの作品においては、非常にしばしば、両手を床について逆立ちしていたり、体を海老のように後にそらせたり、さまざまにアクロバティックな演技を見せながら、自由奔放に踊りまくっている。そこではサロメは、踊り子であると同時に曲芸師であり、官能的な舞踊によってよりもむしろ普通の人には真似の出来ない特異なポーズによってヘロデを始め饗宴の場に列席する人々を楽しませるのである。」
「中世において、何故このようなサロメの図像が好まれたかということを理解するためには、当時きわめて一般的であった旅芸人の存在を思い出さなくてはならない。彼等は、きまった住居を持たず、町から町へと流浪の旅を続けながら、あるいは領主たちの宴席に招かれて座興として芸を披露し、あるいは祭の日に町の広場で道行く人々を相手に曲芸を演じ、歌を歌っては生計を営んでいた。(中略)中世の教会の門扉や柱頭にまぎれこんだあのアクロバット舞踊の踊り子は、実はこれら旅芸人たちのイメージに他ならなかったのである。
 旅芸人の曲芸師と伝説上のサロメとがいつのまにか同一視されていたことは、当時の受難劇において、サロメがしばしば、単に「踊る小娘」 danserelle とか、「跳びはねる小娘」 saulterelle 等の名で呼ばれていたことからも証明される。そして事実、受難劇の上演にあたっては、(中略)例えばヘロデの饗宴の場で、これら旅芸人たちがいわば息抜きのためにその芸を披露したのである。その結果後になると、受難劇中のサロメが単に「踊る小娘」と呼ばれていたのとは逆に、サロメには関係のない純粋な宴席の座興の踊りが「サロメの踊り」という名で呼ばれるようにすらなったのである。」



「近代における芸術と人間」より:

「ロマン派時代のドイツの画家ルードヴィッヒ・リヒテルの『生涯の回想』のなかに若い頃の思い出を語った次のようなエピソードがある。彼がイタリアに学んでいた頃、ある日、三人の仲間といっしょにティヴォリに写生に出かけた。その時、四人の画家たちは目の前の自然の姿を、いずれもそっくりそのまま描き出すよう申し合わせ、事実皆、できるだけ忠実に自然を再現するよう努めた。ところが、それにもかかわらず、出来上がった作品は同じ自然を描きながら四枚ともまるで違ったものになっていたという。このことから、リヒテルは、色とか形の把握は人によってそれぞれに異なるものであり、客観的な視覚像というものは存在しないと結論を下している。」
「同じ対象を、同じように忠実に再現しようという意識に導かれて写し出しながらなお、そこに異なった結果が生まれて来るとすれば、とりもなおさず、それこそが芸術の本質なのではないか。逆にいえば、われわれがひとつの芸術作品を前にして心動かされるのは、他の誰のものでもないその芸術家の見た世界が表現されているからではないか。」
「ゾラの言葉を借りるなら、芸術は「ある気質を通して見た自然」にほかならないのであり、われわれは、何よりもその「気質」に、芸術というものの根を見ようとするのである。」

「「世界は、われわれのすべてにとって真実でありながら、一人一人にとって皆違っている。……ひとつの世界があるのではなく、何百万という世界が、毎朝目覚める人間の瞳と知性とほとんど同じ数だけの世界が存在しているのだ……」

というプルーストの言葉は、おそらくそのまま、現代芸術にもあてはまるものであろう。芸術家はいずれも、一人一人、自分自身の世界を持っている。それを表現することこそが、芸術家の役割だというのである。とすれば、当然のことながら、それは「個性」を反映したものにならざるを得ないのである。」

「われわれはここで、もう一度あの冒頭に引いたリヒテルのエピソードに立ち戻ってみる必要があるだろう。四人の画家が、皆できるだけ忠実に眼の前の同じ自然を再現しようとして、しかもお互いにまったく違った結果を生み出したとしたら、その理由は、当然一人一人の芸術家のものの見方、ないしは自然の把握の仕方の違いによるものといわなければならない。美の普遍性に対する信頼が支配的であった時代なら、その違いは、万人共通の「理想の美」に至るステップとして、いわば程度の差に過ぎないと考えられたであろう。しかし、その違いにこそ芸術の本質があると考えるなら、それはもはやどのようにしても解消することのできない絶対的な違いとなる。とすれば、その当然の結果として、「理想の美」は成立し得ないことになる。「個性の美学」は、「理想の美」を否定することによってはじめて確立されるものなのである。
 それは、別のいい方をすれば、「理想の美」を支えていた人間の普遍性への信頼が失われたということでもあるだろう。人間はさまざまの違いにもかかわらずやはり同じ人間だという考え方に代わって、今や人間は同じ人間でありながら一人一人皆違うのだという考えがクローズアップされて来たといってもよい。そして、おそらくそれこそが、新古典主義の美学に対するロマン主義の美学の最も大きな対立点となるものなのである。
 事実、ロマン主義の芸術家たちは、その鋭敏な感受性によって、自分自身と他人とのあいだに、越えることのできない深い深淵があることを、本能的に感じ取っていた。人は誰しも自己の内部に、沈黙のうちに生まれ、沈黙のうちに死んで行くひとつの世界を持っている、とミュッセは語っているし、ドラクロワは、その日記に、「私の魂と私に最も親しい友人の魂の間にも、越え難い障壁がある」と書き記した。ジャン・ジャック・ルソー以来の「孤独な」魂が、芸術家たちのものになったのである。」

「実をいえば、表現するに先立って、現実をまず「見る」時に、芸術家の想像力が働くのである。想像力こそが「あらゆる能力の女王」であると考えていたドラクロワは、そのことをよく知っていた。(中略)「個性の美学」の優れた実現者であったばかりでなく、またその理論家でもあったドラクロワは、二十六歳の時の日記に、自己の進むべき道を明確にした生涯のプログラムを、こう書きつけている。

  「お前は、それぞれに独自なやり方で自然を眺めた多くの魂にもうひとつ別の魂をつけ加えることができる。彼らは、眼に見える事物を描きながら、実は自分たちの魂を描いた。お前の魂もまた、お前に同じことを望んでいる。」

 そしてさらに、晩年になってから、彼は同じ思想を別のいい方でこう述べている。

  「偉大な芸術家たちにおいて創造と呼ばれているものは、自然を眺め、秩序づけ、表現する際の、それぞれの人に特有なやり方のことにほかならない。」」

「印象派から後期印象派を経て、フォーヴィスム、キュビスムと続く絵画の「前衛運動」が、歴史上どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらあらためて指摘するまでもなく明らかである。しかしそれと同時に、これらの多くの優れた試みが、当時の人びとからいかに手酷しい批判と嘲笑を受けたかも、またあまりに有名である。もともと、「印象派」にしても、「フォーヴィスム」、「キュビスム」にしても、その名称自体が彼らに対して与えられた悪口に基づいていることは、しばしば指摘されている通りである。そして、何回受験しても遂に美術学校に入学することのできなかったセザンヌや、そのセザンヌとともに生涯ほとんど作品を売ることのできなかったシスレーやゴッホから、珠玉のような美しい作品を数多く残しながら、貧窮のどん底で世を去った放浪画家モディリアニにいたるまで、世間の無理解に苦しめられた芸術家の悲劇は、例を挙げだせばほとんどかぎりがない。」
「だが、それらの興味深い多くのエピソードは、単に歴史に多少の彩りを添えるいわばこぼれ話であったのではない。世に容れられない芸術家というのは、おそらくどの時代にもいたに違いないが、歴史の流れを大きく変えるような重要な働きを演じた主要な芸術家たちが揃って世に容れられなかったというような事態は、この時代までかつてなかったことだからである。」

「「創作の自由」は、それまでの社会において欠けていたからこそ、強く求められたのである。そして、その「自由」への憧れが、「個性」の自覚と密接に結びついていたことは、いうまでもない。」
「「サロン」と呼ばれる公の展覧会は、すでに見たように、アカデミーが主催するものであるので、個々の芸術家は自由に自分の好きな作品を出品することができるといっても、表現様式の上でアカデミーの考える基準に合わないものは拒否された。(中略)印象派の画家たちが、自分たちの仲間だけのグループ展を企てたのも、結局はそのためであった。」
「しかしながら、印象派のグループ展は、まだ完全な意味で「自由な」展覧会ということはできなかった。なるほど、各メンバーは、自分の好むところの作品を展示することができたが、しかし誰でもが自由にメンバーになれるというわけではなかったからである。」
「とすれば、この枠をも否定して、完全に「自由な」展覧会が求められるようになるのも、充分うなづけるところであろう。印象派グループの第一回展からちょうど十年ほど遅れて結成された「サロン・デザンデパンダン」、いわゆる「アンデパンダン展」というのは、まさにそのようなものであった。(中略)この展覧会は、文字通り誰でもが自由に出品できるという点で、印象派のグループよりもさらに徹底した「個性」尊重の催しであるといってもよい。(中略)例えばアンリ・ルソーのような素人(と一般には考えらえていた)画家が十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、まったくの型破りの作品を世に公開することができたのは、この「アンデパンダン展」のおかげだったのである。」
「もちろん、だからといってルソーのような画家でさえ、ともかくも作品を発表する場所をもち得たということは、芸術に対する社会の理解と関心が深まったからだと簡単に断定するわけにはいかない。むしろ社会との関係からいうなら、それは芸術に対する社会の無関心がいっそう強まった結果だといえないこともない。」
「アンリ・ルソーの時代において、ルソーのような「自由な」表現が許されたのは、芸術がそれだけ社会から遠いものとなったためである。エドガー・ヴィントは、『芸術と狂気』において、近代におけるこのような芸術の社会的状況を、「芸術が社会の中心から周辺の部分に追いやられてしまった状態」といういい方で指摘している。芸術の方からすれば、なるほど芸術家は自己の作品の自由な創造主になることによって自分自身の王国を作り上げることができたが、その王国は、現実の社会のなかには、ほとんどその領土をもっていないという結果になってしまったのである。」
「社会から離れた芸術家たちは、創作にあたってまったく自己の自由を享受することが出来るようになったが、それにともなって、社会のなかでそれだけ不安定な立場とならざるを得ない。(中略)というよりも、芸術家が「自由に」自己の個性を主張すればするほど、社会から隔絶され、疎外されるということは、歴史が物語る通りである。ドラクロワはサロンに出品した作品に対して強い批判を受けたが、マネや印象派の画家たちは批判以上に社会の憤激を買い、アンリ・ルソーは憤激以上に嘲笑を浴びせかけられた。芸術家は「個性」を武器として手に入れた自由にちょうど見合うだけの代償として、社会からの非難や無理解を覚悟しなければならなかったように見える。」



「手さぐりする絵画」より:

「「現実」というものがもしどこかにあるとしても、それはわれわれの手の届く範囲にあるのではなく、われわれは単に感覚を通してその「幻影」を受け取るにすぎない。その「幻影」は、文字通り実体のない「幻影」でしかないかもしれない。少くとも、その「幻影」と「現実」とを結びつけてくれるものは、何もなくなってしまったのである。」

「外部にある「現実」をもはや信ずることができないとすれば、自らそれを創り出す以外に方法はない。そして、セザンヌにとっては、それは「描く」ことによってしか成し得ないものであった。
 セザンヌがそれほどまでして「現実」を創り出そうとしたのは、ひとつには、彼が生活の面においても、「現実」と和解することができなかったからであるかもしれない。たとえばモネは、セザンヌから「ひとつの眼に過ぎない」と言われても、その自己の眼が受け取る感覚世界の彼方に「現実」があることを信じて疑わなかった。それは、認識論の問題というよりも、ほとんど生活感覚に根ざすものである。(中略)だがその種の生活感覚は、セザンヌにはまったく欠けていたのである。
 セザンヌのそのような性格については、彼と接した人びとが皆口をそろえて証言している。ヴォラールがセザンヌの女性に対する無知をからかっているのは有名な話だが、女性はもちろんのこと、男の仲間に対しても、彼は病的なほど臆病であり、対人関係においては、子供のような無邪気さと猜疑心とを合わせ持っていた。若い頃、ゾラのすすめで無理に父親を説得してパリに出てきた時も、カフェやアトリエでの仲間たちの議論に加わることができず、決まって急に怒り出したり、場違いなことをしでかしたり、わざと突慳貪になったりするのであった。彼のこの生まれつきの性向は、年とともにいよいよ激しくなり、後半生においては、たまにパリに出てきた時でも、知っている人が見えると、急いで自分から身を隠したという。エミール・ベルナールは、晩年のセザンヌを訪れていっしょに歩いていた時、何かの拍子でセザンヌがよろめいたので思わず手を差しのべてセザンヌを支えると、セザンヌが急に激しく怒り出したという話を伝えている。晩年のセザンヌは、どのようなものでも、他人との「接触」は病的なまでにこれを嫌悪した。このような極端なまでの人間嫌い、「人間との柔軟な接触の喪失、新しい状況に対処してそれを支配することに対する無力さ、習慣の世界への逃避、理論と実生活との激しい対立」等の性格は、病理学的に言えば分裂症的性格を思わせる、とメルロー=ポンティは指摘している。そして、メルロー・ポンティは、さらにそれに続けて、

  「自然と色彩に対するセザンヌの極端なまでの集中、彼の絵画の非人間的な性格(彼は、人間の顔も物体のように描かなければならないと言った)、視覚世界に対する彼の没頭も、実は人間世界からの逃避、彼の人間性の異常さの表われにすぎなかったのかもしれない……」

と言っている。」



「美の冒険」より:

「レンブラントも、ゴヤも、ドラクロワも、社会の「無理解」のためにいかに苦しんだかというのが、多くの伝記者の筆をきわめて語るところである。しかしながら、十九世紀以前、もう少し正確に言って印象派以前の歴史における芸術家のそのような「反社会性」と、印象派以後の近代芸術家たちの示す「反社会性」とは、本質的に性質の違うものである。ミケランジェロにしてもレンブラントにしても、あるいはゴヤやドラクロワにしても、たしかにいろいろな点で社会の「無理解」に悩まされたには違いないとしても、少くとも彼らが優れた芸術家であるということは当時からはっきりと一般に認められていた。彼らを世間には容れられない孤高の天才にしたものは、あるいはその人づきあいの悪い個人的性格であり、あるいはその政治的立場であり、あるいは芸術家にありがちな処世術のまずさであり、(中略)決して彼らの芸術に対する当時の社会の根本的な不信ないしは無理解ではなかった。事実、彼らはいずれも、教皇、国王、同業者組合、共和国政府等の権力者、保護者の庇護や注文を受けて活躍しており、むしろ芸術家としては十分に恵まれた環境にあったとすら言えるのである。少くとも、生前に一点しか絵が売れなかったというヴァン・ゴッホや、満足に作品を見せることもできなかったセザンヌの場合とは、はっきりと違っている。ゴッホやセザンヌは、生前は優れた芸術家どころか、単なる芸術家とさえ認められなかったのである。
 あるいは、こういう言い方をしてもよいかもしれない。フランスの例を引くと、ルイ十四世の治世以来、フランスには国家的組織としてアカデミーというものがあり、アカデミーの主催する官展(サロン)があり、国立の美術学校があった。このことは、王制が共和制になった現在でも、基本的には変わらない。国立の美術学校で学んで最優秀者に与えられるローマ賞を取り、官展(サロン)で作品を発表してやがてはアカデミーにはいるというのが、社会に認められた芸術家のコースである。十九世紀の中ごろにいたるまで、フランスの美術の歴史は、ごく少数の例外を除いて、ほとんどこれら社会に認められた芸術家たちによって作られてきた。ところが、印象派以降、歴史の担い手となったのは、いずれも美術学校や官展(サロン)とはほとんど縁のない芸術家たち、すなわち、社会には認められていない人びとであった。(中略)現在でもなお、たとえば地方の公共自治体が戦没者記念碑と建てるというような場合には、ローマ賞受賞者とかアカデミー会員とかに注文するのが普通である。つまり彼らは依然として社会的には認められた芸術家である。ただ、彼らは、二十世紀の美術の歴史にはほとんど参加していない。つまり、近代になってはじめて、社会に一般に認められた芸術家と、歴史を作って行く創造的芸術家とのあいだに、はっきりと分裂が生じたのである。
 とすれば、十九世紀末以来の現代芸術の歴史が、社会の無理解と芸術家の反抗というパターンをとるようになったのも、当然の成行きと言わねばならないであろう。二十世紀においては芸術家は、好むと好まざるとにかかわらず、もし真に創造的活動を行なおうとすれば、さまざまなかたちで社会と衝突しなければならないのである。」
「芸術家の側からの「反抗」ないしは「挑発」がある前に、まず一般社会の方に芸術家たちに対する根強い反感があるのである。」







こちらもご参照ください:

高階秀爾 『十二人の芸術家』 (講談社現代新書)
若桑みどり 『イメージを読む ― 美術史入門』 (ちくまプリマーブックス)
ヴァザーリ研究会 編 『ヴァザーリの芸術論』
W・S・ギブソン 『ボス 光と闇の中世』 佐渡谷重信 訳
井村君江 『「サロメ」の変容 ― 翻訳・舞台』
マリオ・プラーツ 『記憶の女神ムネモシュネ』 前川祐一 訳



































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うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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