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『プルースト文芸評論』 鈴木道彦 訳編 (筑摩叢書)

「「文体というものは、ある人びとが考えているのとちがって、いささかも文の飾りではありません。技術の問題でさえありません。それは――画家における色彩のように――ヴィジョンの質であり、われわれ各人が見ていて他人には見えない特殊な宇宙の啓示です。一人の芸術家がわれわれに与える楽しみは、宇宙を一つ余分に知らせてくれるということなのです。」」
(「プルーストによる『スワン』解説」 より)


『プルースト
文芸評論』 
鈴木道彦 訳編
 
筑摩叢書 244 


筑摩書房 
1977年9月30日 初版第1刷発行
2p+293p 図版(モノクロ)2p 
四六判 並装(フランス表紙)
カバー ビニールカバー
定価1,300円
装幀: 原弘



本書「あとがき」より:

「プルーストの文芸評論を筑摩書房の第一次世界文学大系のために翻訳したのは、かれこれ二十年近くも前のことである。今回その翻訳を一冊にまとめてほしいという提案があったのを機会に、新たに三篇の新訳をつけ加えて本書を編んだ。新しく訳出したのは第三部の「晦渋性反説」、第四部の「プルーストによる『スワン』解説」ならびに「献辞(その二)」である。」
「今回の改訳に当り、訳者はこれに大幅に手を加え、部分的には新たに訳稿を作り直し、以前は省略した原註を訳出もしたので、これはほとんど新訳と考えていただいて差し支えない。」



マルセル・プルースト文芸論集。「註」「解題」は二段組。「ジョン・ラスキン」に別丁モノクロ図版2点。



プルースト文芸評論



帯文:

「『失われた時を求めて』の作家は、批評家であることによって小説を書き得た作家だった――ボードレール論、フローベール論、ラスキン論、読書論など生前に公刊された代表的評論を四部構成に編集。本邦初訳「晦渋性反説」他を含む。」


目次:


ボードレールについて
フローベールの「文体」について
 フローベールの文体に関するマルセル・プルーストへの手紙 (アルベール・チボーデ)
或る友に(文体についての覚え書)


ジョン・ラスキン
読書の日々


晦渋性反説


プルーストによる『スワン』解説
献辞(その一)
献辞(その二)


解題
あとがき




◆本書より◆


「ボードレールについて」より:

「ああ、文字どおりの苦悩のなかで次のような明晰さを維持し、悪魔的な詩篇のなかでこれほどに宗教的な調子を保つためには、おそらくボードレールのように、間近に迫った死を自らのうちにかかえ、失語症におびやかされていなければならないのでしょう。

  年老いた猟人に 獲物は酬いをせねばならぬ……
  Il faut que le gibier paye le vieux chasseur...

  本当に信じていたのか、不意を打たれた偽善者たちよ、
  主人をあざけり、欺きおおせると?
  また天国に行き、富める身にもなるという、二つの褒美を
     受けるのが当然のことだと?
  Avez-vous done pu croire, hypocrites surpris,
  Qu'on se moque du maître et qu'avec lui l'on triche,
  Et qu'il soit naturel de recevoir deux prix,
     D'aller au Ciel et d'être riche ?

ヴィクトル・ユゴーには絶対に見出せなかったろうと思われる死に関する見事な詩句をボードレールが書きえたのは、おそらく、死に先立つおそろしい疲労を感じたことがあったからにちがいありません。

  貧しく裸の者たちの寝床を整えてやる〔天使〕。
  Et qui refait le lit des gens pauvres et nus.

 これを書いた者が、寝台を整えてもらうというおそろしい欲求をまだ感じたことがなかったとすれば、彼にこのような詩句を書かせたのは、その無意識の「予想」であり、運命の予感なのでしょう。だから私は、ポール・ヴァレリーの次のような意見に、完全には同意できません。彼は、『エウパリノス』のすばらしい一節のなかで(芸術家がはっきりとした意図のもとに作り上げた胸像を、海がいく世代を経て一つの岩の上に知らず知らず彫り上げた胸像と対置しながら)、ソクラテスをして次のように語らせています。「思考に照らし出された行為は」とヴァレリーは、ソクラテスの名をあげて言っています、「自然の運行を短縮する。人は安心しきってこう言うことができる、一人の芸術家は十万年、千万年、あるいはそれ以上に価する」と。だが私は、ヴァレリーにこう答えましょう、「よく調和のとれた思慮深い芸術家たちが、自然の盲目的な仕事に比べて十万年に価するとしても、彼ら、たとえばヴォルテールのような人物は、ボードレール、あるいはむしろドストエフスキーのような病人に比べて、無際限の時を構成するものではない。これら病人たちは、単に健康というにすぎない千人の芸術家を擁する一族が代々にわたってただの一項目すら作りえないようなものを、ことごとく癲癇(てんかん)やその他の発作の合間に、三十年間で創造してしまう。」」

「さて、いま述べた感情――苦痛や死やへり下った友愛などの感情――のために、ボードレールは、民衆と彼岸にとって自分たちのことをもっともよく語った詩人となるのであり、これに対してヴィクトル・ユゴーは単にそれらをもっとも多く語った詩人にすぎないのです。ユゴーの使う大文字や、神との対話などといった多くの大仰な騒ぎは、哀れなボードレールが苦しんでいる彼の心と体の内奥に発見したものには遠く及びません。その上、ボードレールの発想は、ユゴーのそれから何も受けてはおりません。大聖堂を飾る彫刻者にもなりえた詩人、それは偽の中世詩人ユゴーではなく、詭弁好き(カジュイスト)の、ひざまずき、顔をしかめ、呪われている、不純な信仰者、ボードレールなのです。」



「フローベールの「文体」について」より:

「『シルヴィ』の第一部はある舞台の前でくりひろげられ、一人の女優に対するジェラール・ド・ネルヴァルの恋を描き出す。突然、彼の眼が一つの広告の上に落ちる、「明日、ロワジーの射手たちは……。」この言葉が或る思い出を、というよりむしろ幼時の二つの恋を喚起する。たちまち物語の場が移動する。この記憶現象は、偉大な天才ネルヴァルに場面転換の役を果たしたのであって、私が最初自分の作品の一つにつけた標題『心の間歇』は、ネルヴァルの全作品の標題ともなりうるだろう。彼の場合、とくに作者が狂人であったという事実のために、心の間歇はまた別な性格を持っていたと言う人もあろう。だが文芸批評の観点からいえば、映像相互のあいだ、観念相互のあいだにあるもっとも重要な関係の正しい知覚を成立させる状態を(いわんや、その関係を発見する感覚をとぎすませ方向づける状態を)、狂気と呼ぶことは適当でない。この狂気とは、ほとんど、ジェラール・ド・ネルヴァルのふだんの夢想がいうにいわれぬものとなる瞬間のことにすぎないのだ。そのとき彼の狂気は、彼の作品の延長のごときものである。彼はやがてそこから逃れて、ふたたび書きはじめる。そして前の作品から招来される狂気は、次の作品の出発点に、その素材そのものになる。われわれが毎日眠ったからとて顔を赤らめはしないように、(中略)詩人はもはや過ぎた発作を恥とすることはないのだ。そして彼は、次々と生起する夢を、分類し、描写することに意を注ぐのである。」


「或る友に(文体についての覚え書)」より:

「あらゆる芸術において、才能とは表現すべき対象への芸術家の接近のことであるように思われる。そのあいだに隔たりがある限り、仕事は完成していないのだ。いまヴィオロニストは、巧みにヴァイオリンの一節を弾いている。だがその効果は眼に見え、人はそれに喝采する。彼は達人(ヴィルチュオーズ)である。これらすべてがついに消え失せ、演奏者がヴァイオリンのこの一節に完全に溶けこんで一つになってしまうときに、奇蹟が起こったことになるのであろう。十九世紀以外の時代には、対象と、その対象について説くすぐれた精神たちとのあいだに、いつも一種の距離があったようだ。だがたとえばフローベールの知性は、もっとも偉大な知性の一つとはおそらく言えないだろうが、汽船の震動や、苔の色や、湾のなかにある小島に、なりきろうとしている。そのとき知性が(フローベールのありきたりの知性でさえも)見えなくなってしまう一瞬がくる。そして、「打ち返す波でゆらゆら揺れはじめた筏に出会いながら」進んで行く船が眼前にあらわれる。このゆらゆらする動き、それは変形されて物質のなかに体現された知性なのである。知性はまた、ヒースや、ぶなや、森の下草の沈黙や光にまで到達する。このエネルギーの変貌――そこでは思索する者が姿を消して、もの(引用者注:「もの」に傍点)だけがわれわれの前に連れてこられる――それこそ作家が文体に向かって行なう最初の努力ではなかろうか。」


「ジョン・ラスキン」より:

「小説家の主題、詩人のヴィジョン、哲学者の真理は、ほとんど必然的に、いわば彼らの思想の外部から彼らに課せられるものである。このヴィジョンを表現し、この真理に近づくことを精神に強いるときに、芸術家は本当に自分自身になるのだ。」

「われわれの生のいくつかの時期が永久に閉ざされ、自分が力と自由を持っているように思える瞬間でもその時期の扉をひそかに開けることはもうできないようなとき、われわれが長いあいだおかれていた状態にほんの一瞬たりともふたたびもどることは不可能なとき――、そのようなときになって初めてわれわれは、しかじかのものが完全になくなってしまったと考えることを自らに拒否するのである。(中略)過去の焰をよびさますことはできないとしても、少なくともその灰を集めたいとわれわれは思う。もはやわれわれは蘇生の力を持っていないから、これらのものに関する冷やかな記憶――つまり事実の記憶、われわれに「お前はこんなふうだったよ」と言いはするがわれわれをその状態にもどしてはくれないし、また失われた楽園の現実を主張するばかりで、それを思い出のなかに返してはくれない記憶――、その冷やかな記憶を頼りにわれわれは少なくともこの楽園を描き、その正確な知識を構成したいと考える。」



「読書の日々」より:

「読書は精神的生活の入口にある。われわれをそこに導いてはくれるが、精神的生活そのものを形作りはしないのだ。」
「この上もなく高尚な会話やきびしい忠告も、直接それが独創的活動を作りえない以上、彼には何の役にも立つまい。だから必要なものは何かといえば、他人の介入によってもたらされながら、われわれ自身の奥底で形成されるものである。それはまさに、別な精神からやって来て、しかもこちらの孤独の真只中で受けとめられる衝動に違いない。」
「読書がわれわれをうながすものであり、その魔法の鍵が、入りこむこともできないわれわれ自身の奥底にある住居の扉を開いてくれるものであるかぎり、実人生のなかで果たしている読書の役割は有益である。ところが各人の精神生活にわれわれを眼ざめさせてくれる代りに、読書がその精神生活にとって代わろうとするとき、(中略)読書の役割は危険なものとなる。」



「晦渋性反説」より:

「作品においても人生におけると同様に、人物はどんなに普遍的であろうとも強烈な個性を持たねばならない(中略)。その人物たちはわれわれ各人と同様、彼らがもっとも自分自身であるときにもっとも広く普遍的魂を実現していると言うことができる。」
「詩人はもっと自然から想を汲まねばならぬ。自然においては、いっさいのものの根底が単一かつ晦渋であるとしても、いっさいのものの形態は個別的であり明瞭である。自然は生命の秘密によって、晦渋性への蔑視を詩人に教えるであろう。自然はわれわれに対して太陽を隠すであろうか? むき出しで輝いている無数の星、燦然と光を放ちながらたいていの者の目には見分けのつかないあの星たちを、自然は隠しているであろうか? 自然はわれわれをして、荒々しくまたあからさまに、海や西風の力にふれさせないであろうか? 自然はわれわれ各人がこの地上に滞在しているあいだ、生と死のこの上もなく深い神秘を明瞭に表現することをわれわれに許すのである。」






こちらもご参照ください:

サミュエル・ベケット 『ジョイス論/プルースト論 ― ベケット 詩・評論集』 高橋康也 他訳
岩崎力 『ヴァルボワまで』
井上究一郎 『ガリマールの家』
ジル・ドゥルーズ 『プルーストとシーニュ 〔増補版〕』 (宇波彰 訳/叢書・ウニベルシタス)
マルセル・プルースト 『楽しみと日々』 窪田般彌 訳

























































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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

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