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岡本綺堂 『近代異妖篇 ― 岡本綺堂読物集 三』 (中公文庫)

「『大人に判らないことでも子供にはわかる。人間に判らないことでも他の動物には判るかも知れない。』」
(岡本綺堂 「木曾の旅人」 より)


岡本綺堂 
『近代異妖篇
― 岡本綺堂
読物集 三』
 
中公文庫 お-78-3


中央公論新社
2013年4月25日 初版発行
286p 著者・編者略歴1p 付記1p
口絵(カラー)1葉
文庫判 並装 カバー
定価686円+税
カバー画: 山本タカト
カバーデザイン: ミルキィ・イソベ


「本書は、一九三二年(昭和七)五月に春陽堂から刊行された日本小説文庫『綺堂讀物集三 近代異妖篇』を底本とし、一九二六年(大正十五)十月に春陽堂から刊行された『綺堂讀物集乃三 近代異妖篇』を適宜参照しました。さらに「雨夜の怪談」は初出誌を、「赤い杭」は二〇一二年六月に青蛙房から刊行された『物語の法則』に収載されたものを底本としました。」
「正字を新字にあらためた(一部固有名詞や異体字をのぞく)ほかは、(中略)歴史的かなづかいをいかし、踊り字などもそのままとしました。ただし、ふりがなは(中略)新かなづかいとし、明らかな誤植は修正しました。」



口絵は山本タカト「影を踏まれた女」。
本書はヤフオクで300円(+送料188円)で出品されていたのを落札しておいたのが届いたのでよんでみました。
本書附録「赤い杭」は、たぶん中国の冥府の役人の話(死んだ人から賄賂を取って生き返らせたり、帳簿を書き換えて寿命を延ばしたり、便宜をはかったりする話。『中国怪奇小説集』所収「天使」「悪少年」参照)あたりのパロディでしょう。のちの星新一のショートショートを先取りする作品であるといってよいです。



岡本綺堂 近代異妖篇



カバー裏文:

「名作「青蛙堂鬼談」の拾遺集ともいえる怪談・奇談集。武家屋敷の因縁ばなし、人をひとり殺してきたと告白する藝妓のはなし、影を踏まれるのが怖くて外にでられなくなった娘のはなしなど、江戸から大正期にかけてのふしぎな話をあつめた。附録として単行本未収載の短篇二篇を添える。」


目次 (初出):

近代異妖篇
 こま犬 (「現代」 大正15年1月号/原題「高麗犬」)
 異妖編 
  一 新牡丹燈記 (初出誌未確認/青蛙房版『岡本綺堂読物選集 四』には大正13年6月作「写真報知」とある)
  二 寺町の竹藪 (初出誌未確認/青蛙房版『岡本綺堂読物選集 四』には大正13年9月作「写真報知」とある)
  三 龍を見た話 (「週刊朝日」 大正13年10月26日号)
 月の夜がたり (初出誌未確認/青蛙房版『岡本綺堂読物選集 四』には大正13年10月作「写真報知」とある)
 水鬼 (「講談倶楽部」 大正14年1月号)
 馬来俳優の死 (「大鵬」 大正10年1月号)
 停車場の少女 (「婦人公論」 大正11年2月号)
 木曾の旅人 (「やまと新聞」 大正2年5月24日~6月27日/原題「五人の話」のうちの第四話「炭焼の話」、のち「木曾の旅人」と改題改稿されて『子供役者の死』に収録)
 影を踏まれた女 (「講談倶楽部」 大正15年1月号)
 鐘が淵 (「三越」 大正14年2月号~4月号)
 河鹿 (「婦人公論」 大正10年7月号/原題「隣座敷の声」)
 父の怪談 (「新小説」 大正13年6月号)
 指環一つ (「講談倶楽部」 大正14年11月号)
 離魂病 (「新小説」 大正14年9月号)
 百物語 (「婦人倶楽部」 大正13年7月号/原題「生霊の白い女」)

附録
 雨夜の怪談 (「木太刀」 明治42年10月号)
 赤い杭 (「夕刊大阪新聞」 昭和4年9月1日(推定))

解題 (千葉俊二)




◆本書より◆


「異妖編」「一 新牡丹燈記」より:

「一時(いっとき)か半時前までは土地相応(そうおう)に賑(にぎ)はつてゐたらしい草市のあとも、人ひとり通らないほどに鎮まつてゐた。女房がいふ通り、市商人(いちあきんど)は碌々(ろくろく)にあと片づけをして行かないとみえて、そこらには凋(しお)れた鼠尾草(みそはぎ)や、破れた蓮(はす)の葉(は)などが穢(きたな)らしく散つてうぃた。唐(とう)もろこしの殻(から)や西瓜(すいか)の皮なども転がつてゐた、その狼藉(ろうぜき)たるなかを踏みわけて、ふたりは足を早めて来ると、三四間(けん)先(さき)に盆燈籠(ぼんどうろう)のかげを見た。それは普通の形の白い切子燈籠(きりこどうろう)で、別に不思議もないのであるが、それが往来(おうらい)の殆(ほとん)どまん中で、しかも土のうへに据(す)ゑられてあるやうに見えたのが、このふたりの注意をひいた。
 『熊吉。御覧よ。燈籠(とうろう)はどうしたんだらう。をかしいぢやないか。』と、女房は小声で云つた。
 小僧も立ちどまつた。
 『誰かが落(おと)して行つたんですかしら。』
 落し物も色々あるが、切子燈籠を往来のまん中に落してゆくのは少しをかしいと女房は思つた。小僧は持つてゐる提灯をかざして、その燈籠の正体をたしかに見とゞけようとすると、今まで白くみえた燈籠がだん/\に薄紅(うすあか)くなつた。さながらそれに灯(ひ)が入つたやうにも思はれるのである。さうして、その白い尾を夜風に軽くなびかせながら、地の上からふは(引用者注:「ふは」に傍点)/\と舞ひあがつてゆくらしい。女房は冷い水を浴(あ)びせられたやうな心持になつて、思はず小僧の手をしつかりと摑(つか)んあd。
 『ねえ、お前。どうしたんだらうね』
 『どうしたんでせう。』
 熊吉も息をのみ込んで、怪しい切子燈籠の影をぢつと見つめてゐると、それは余り高くもあがらなかつた。せい/゛\が地面から三四尺(しゃく)ほどのところを高く低くゆらめいて、前にゆくかと思ふと又(また)あとの方(ほう)へ戻つて来る。鳥渡(ちょっと)見ると風に吹かれて漂(ただよ)つてゐるやうにも思はれるが、仮にも盆燈籠ほどのものが風に吹かれて空中を舞ひあるく筈もない。殊(こと)に薄明るくみえるのも不思議である。何かのたましひがこの燈籠に宿つてゐるのではないかと思ふと、女房はいよ/\不気味になつた。」



「異妖編」「二 寺町の竹藪」より:

「お兼ちやんは黙つてゐたが、やがて低い声で云つた。
 『あたし、もうみんなと遊ばないのよ。』」



「水鬼」より:

「僕の土地ではそれを幽霊藻(ゆうれいも)とか幽霊草(ゆうれいそう)とかいふのだ。普通の幽霊草といふのは曼珠沙華(まんじゅしゃげ)のことで、墓場などの暗い湿つぽいところに多く咲いているので、幽霊草とか幽霊花(ゆうれいばな)とか云ふ名を附けられたのだが、こゝらで云ふ幽霊藻はまつたくそれとは別種のもので、水のまに/\漂(ただよ)つてゐる一種の藻(も)のやうな萍(うきくさ)だ。なんでも夏の初めから秋の中頃へかけて、水の上にこの花の姿をみることが多いやうだ。」
「なぜそれに幽霊といふ名を冠(かむ)せられたかと云ふと、所詮はその花と葉との形から来たらしい。花は薄白(うすじろ)と薄(うす)むらさきの二種あつて、どれもなんだか曇つたやうな色をしてゐる。殊(こと)にその葉の形がよくない。細い青白い長い葉で、なんだか水のなかから手をあげて招いてゐるやうにも見える。さういふわけで、花といひ、葉といひ、どうも感じのよくない植物であるから、いつの代(よ)からか幽霊藻(ゆうれいも)とか幽霊草とかいふ忌(いや)な名を附けられたのだらうと想像されるが、それに就(つい)ては又かういふ伝説がある。昔、平家の美しい官女(かんじょ)が壇(だん)ノ浦(うら)から落ちのびて、この村まで遠く迷つてくると、ひどく疲れて喉(のど)が渇(かわ)いたので、堤(どて)から這(は)い降りて川の水をすくつて飲まうとする時(とき)、あやまつて足をすべらせて、そのまゝ水の底に吸ひ込まれてしまつた。(中略)さうして、それから後(のち)にこの川へ浮き出したのが彼(か)の幽霊藻で、薄白い花は彼(か)の女(じょ)の小袖(こそで)の色、うすむらさきは彼の女の袴(はかま)の色だといふのだ。」

「『今夜もこれから市野君のところへ行くんですか。』と、僕は空(そら)とぼけて訊いた。
 『実はもう少し前まで一緒にゐたんですが……。もう今頃(いまごろ)は死んでしまつたでせう。』
 僕もおどろいた。なにぶんにも暗いので、彼(か)の女(じょ)がどんな顔をしてゐるか、どんな姿をしてゐるか、勿論(もちろん)判断は付かないのであるが、平気でそんなことを云つてゐるのを見ると、おそらく発狂でもしてゐるのではないかと疑(うたが)つてゐると、相手はまた冷(ひやや)かに云つた。
 『わたくしはこれから警察へ行くんですよ。』
 『なにしに行くんです。』
 『だつて、あなた。人間ひとりを殺して平気でもゐられますまい。』」



「木曾の旅人」より:

「『あんな山奥にゐたら、時々には怖(おそろ)しいことがありましたらうね。』と、年(とし)の若い私は一種の好奇心にそゝられて訊きました。
 『さあ。山奥だつて格別に変(かわ)りはありませんよ。』と、かれは案外平気で答へました。
 『怖しいのは大風雨(おおあらし)ぐらゐのものですよ。猟師はとき/゛\に怪物(えてもの)にからかはれると云ひますがね。』
 『えてもの(引用者注:「えてもの」に傍点、以下同)とは何です。』
 『なんだか判(わか)りません。まあ、猿の甲羅(こうら)経(へ)たものだとか云ひますが、誰も正体をみた者はありません。まあ、早くいふと、そこに一羽の鴨(かも)があるいてゐる。はて珍しいと云ふのでそれを捕らうとすると、鴨めは人を焦(じら)すやうについ(引用者注:「つい」に傍点)と逃げる。こつちは焦(あせ)つて又追つて行く。それが他(ほか)のものには何(なん)にもみえないで、漁師は空(くう)を追つて行くんです。その時にほかの者が大きい声で、そら えてもの だぞ、気をつけろと怒鳴(どな)つて遣(や)ると、猟師もはじめて気が付くんです。なに、最初から何にもゐるのぢやないので、その猟師の眼にだけそんなものが見えるんです。それですから木曾の山奥へ這入る猟師は決して一人で行きません。屹(きっ)とふたりか三人連れで行くことにしてゐます。ある時にはこんなこともあつたさうです。山奥へ這入つた三人の猟師が、谷川の水を汲んで飯(めし)をたいて、もう蒸(む)れた時分だらうと思つて、そのひとりが釜(かま)の蓋(ふた)をあけると、釜のなかから女の大きい首がぬつ(引用者注:「ぬつ」に傍点)と出たんです。その猟師はあわてゝ釜の蓋をして、上からしつかり押さへながら、えてもの だ、えてもの だ、早くぶつ攘(ぱら)へと怒鳴(どな)りますと、連(つれ)の猟師はすぐに鉄砲を取つてどこを的(まと)とも無しに二三発つゞけ撃ちに撃ちました。それから釜の蓋をあけると、女の首はもう見えませんでした。まあ、斯(こ)ういふたぐひのことを えてもの の仕業(しわざ)だと云ふんですが、その えてもの に出逢ふものは猟師仲間に限つてゐて、杣小屋(そまごや)などでは一度もそんな目に逢つたことはありませんよ。』」

「『お父(とっ)さん。あの人は何処(どこ)へか行つてしまつたかい。』と、太吉は生返つたやうに這い起きて来た。『怖い人が行つてしまつて、好(い)いねえ。』
 『なぜあの人がそんなに怖かつた。』と、重兵衛はわが子に訊いた。
 『あの人、屹(きっ)とお化(ばけ)だよ。人間ぢやないよ。』」

「親父とわたしとは顔を見あはせて少時(しばらく)黙つてゐると、宿の亭主が口を出しました。
 『ぢやあ、その男のうしろには女の幽霊でも附いてゐたのかね。子供や犬がそんなに騒いだのをみると……。』
 『それだからね。』と、重兵衛さんは仔細(しさい)らしく息をのみ込んだ。『おれも急にぞつとしたよ。いや、俺にはまつたく何にも見えなかつた。弥七にもなんにも見えなかつたさうだ。が、小児(こども)は顫(ふる)へて怖がる。犬は気狂ひのやうになつて吠える。なにか変なことがあつたに相違ない。』
 『そりやさうでせう。大人に判らないことでも子供にはわかる。人間に判らないことでも他の動物には判るかも知れない。』と、親父は云ひました。」



「影を踏まれた女」より:

「影を踏むといふ子供遊びは今は流行(はや)らない。今どきの子供はそんな詰(つま)らない遊びをしないのである。月のよい夜(よ)ならばいつでも好(よ)さゝうなものであるが、これは秋の夜にかぎられてゐるやうであつた。秋の月があざやかに冴(さ)え渡つて、地に敷(し)く夜露(よつゆ)が白く光つてゐる宵々(よいよい)に、町の子供たちは往来に出て、こんな唄(うた)を歌ひはやしながら、地にうつる彼等(かれら)の影を踏むのである。
 ――影や道陸神(どうろくじん)、十三夜(や)のぼた餅(もち)――」

「まことに他愛(たわい)のない悪戯(いたずら)ではあるが、たとひ影にしても、自分の姿の映(うつ)つてゐるものを土足(どそく)で踏みにじられると云ふのは余り愉快なものではない。それに就(つい)てこんな話が伝へられてゐる。
 嘉永(かえい)元年九月十二日の宵(よい)である。芝(しば)の柴井町(しばいちょう)、近江屋(おうみや)といふ糸屋の娘おせきが神明前(しんめいまえ)の親類をたづねて、五(いつ)つ(午後八時)前に帰つて来た。あしたは十三夜で、今夜の月も明るかつた。(中略)宇田川町(うだがわちょう)の大通りに五六人の男の児(こ)が駈けまはつて遊んでゐた。影や道陸神(どうろくじん)の唄の声もきこえた。
 そこを通りぬけて行きかゝると、その子供の群(むれ)は一度にばら/\と駈けよつて来て、地に映(うつ)つてゐるおせきの黒い影を踏まうとした。はつと思つて避けようとしたが、もう間にあはない。いたづらの子供たちは前後左右から追取(おっと)りまいて来て、逃げまはる娘の影を思ふがまゝに踏んだ。かれらは十三夜のぼた餅を歌ひはやしながらどつと笑つて立去つた。
 相手が立去つても、おせきはまだ一生懸命に逃げた。かれは息を切つて、逃げて、逃げて、柴井町の自分の店さきまで駈けて来て、店の框(かまち)へ腰をおろしながら横さまに俯伏(うっぷ)してしまつた。」

「『おまへは一体どうしたんだよ。』と、母のお由は待ちかねて又訊いた。
 『あたし踏まれたの。』と、おせきは声をふるはせながら云つた。」

「今夜は幾たびも強い動悸(どうき)におどろかされて眼をさました。幾つかの小さい黒い影が自分の胸や腹の上に跳つてゐる夢をみた。」

「今まで、おせきは月夜を恐れてゐたのであるが、その後のおせきは、昼の日光をも恐れるやうになつた。日光のかゞやくところへ出れば、自分の影が地に映(うつ)る。それを何者にか踏まれるのが怖(おそろ)しいので、かれは明るい日に表へ出るのを嫌つた。暗い夜(よ)を好み、暗い日を好み、家内(かない)でも薄暗いところを好むやうになると、当然の結果として彼女(かれ)は陰鬱な人間となつた。
 それが嵩(こう)じて、あくる年の三月頃になると、かれは燈火(あかり)をも嫌ふやうになつた。月といはず、日といはず、燈火といはず、すべて自分の影をうつすものを嫌ふのである。かれは自分の影を見ることを恐れた。」
「『おせきにも困つたものですね。』と、その事情を知つてゐる母は、とき/゛\に顔をしかめて夫にさゝやくこともあつた。
 『まつたく困つた奴だ。』
 弥助も溜息をつくばかりで、どうにも仕様がなかつた。
 『やつぱり一つの病気ですね。』と、お由は云つた。
 『まあさうだな。』」



「父の怪談」より:

「父は天保(てんぽう)五年の生(うま)れで、その廿一歳(にじゅういっさい)のなつ、安政元年(あんせいがんねん)のことである。麻布(あざぶ)龍土町(りゅうどまち)にある某大名(ぼうだいみょう)――九州の大名で、今は子爵(ししゃく)になつてゐる――の下屋敷(しもやしき)に不思議な事件が起(おこ)つた。こゝは下屋敷であるから、前藩主(ぜんはんしゅ)のお部屋様(へやさま)であつた婦人が切髪(きりかみ)になつて隠居(いんきょ)生活を営(いとな)んでゐた。場所が麻布で、下屋敷であるから、庭のなかは可(か)なりに草ぶかい。この屋敷で先(ま)づ第一に起(おこ)つた怪異は、大小の蛙(かえる)がむやみに室内に入(い)り込(こ)むことであつた。座敷と云はず、床(とこ)の間(ま)といはず、女中部屋といはず、便所と云はず、どこでも蛙が入り込んで飛びまはる。夜になると、蚊帳(かや)のなかへも入り込む、蚊帳の上にも飛びあがるといふので、それを駆逐(くちく)する方法に苦(くるし)んだ。
 しかし最初のあひだは、誰もそれを怪異とは認めなかつた。邸内(ていない)があまりに草深いので、こんな事も出来(しゅったい)するのであるといふので、大勢の植木屋(うえきや)を入れて草取りをさせた。それで蛙の棲家(すみか)は取払はれたわけであるが、その不思議は依然(いぜん)として止(や)まない。どこから現れて来るのか、蛙の群(むれ)が屋敷中(じゅう)に跋扈(ばっこ)してゐることは些(ちっ)とも以前とかはらないので、邸内一同もほと/\持余(もてあま)してゐると、その怪異は半月ばかりで自然に止(や)んだ。おびたゞしい蛙の群が一匹も姿をみせないやうになつた。
 今までは一日も早く退散(たいさん)してくれと祈(いの)つてゐたのであるが、さてその蛙が一度に影を隠してしまふと、一種の寂寥(せきりょう)に伴ふ不安が人々の胸に湧(わ)いて来た。何か又、それに入れ代(かわ)るやうな不思議が現れて来なければいゝがと念じてゐると、果(はた)して四五日の後(のち)に第二の怪異が人々をおびやかした。それは座敷の天井から石が降(ふ)るのであつた。」

「月のない暗い夜であつた。田町(たまち)の方から一つの小さい盆燈籠(ぼんどうろう)が宙(ちゅう)に迷ふやうに近づいて来た。最初は別になんとも思はなかつたのであるが、いよ/\近づいて双方が摺(す)れ違つたときに、父は思はずぎよつ(引用者注:「ぎよつ」に傍点)とした。
 ひとりの女が草履(ぞうり)をはいて、稚(おさな)い児(こ)を背負つてゐる。盆燈籠はその児の手に持つてゐるのである。それは別に仔細(しさい)はない。唯(ただ)不思議なのは、その女の顔であつた。彼女(かのじょ)は眼も鼻もない。俗に云(い)ふのつぺらぼう(引用者注:「のつぺらぼう」に傍点)であつたので、父は刀の柄(つか)に手をかけた。しかし又考へた。広い世間(せけん)には何かの病気か又は大火傷(おおやけど)のやうなことで、眼も鼻もわからないやうな不思議な顔になつたものが無いとは限らない。迂闊(うかつ)なことをしては飛んだ間違ひになると、少しく躊躇(ちゅうちょ)してゐるうちに、女は見返りもしないで行き過ぎた。暗い中に草履の音ばかりがぴた(引用者注:「ぴた」に傍点)/\と遠くきこえて、盆燈籠の火が小さく揺れて行つた。
 父はそのまゝにして帰つた。」



「離魂病」より:

「その晩である。西岡の屋敷でも迎(むか)ひ火(び)を焚(た)いてしまつて、下女のお霜(しも)は近所へ買物に出た。日が暮れても蒸暑(むしあつ)いので、西岡は切子燈籠(きりこどうろう)をかけた縁(えん)さきに出て、しづかに団扇(うちわ)をつかつてゐると、やがてお霜が帰つて来て、お嬢さんはどこへかお出かけになりましたかと訊いた。いや、奥にゐる筈(はず)だと答へると、お霜はすこし不思議さうな顔をして云つた。
 『でも、御門(ごもん)の前をあるいておいでなすつたのは確(たしか)にお嬢さんでございましたが……。』
 『お前になにか口をきいたか。』
 『いゝえ。どちらへいらつしやいますと申しましたら、返事もなさらずに行つておしまひになりました。』
 西岡はすぐに起(た)つて奥をのぞいて見ると、お福はやはりそこにゐた。彼女(かれ)は北向きの肱掛(ひじか)け窓に寄りかゝつて、うと/\と居睡(いねむ)りでもしてゐるらしかつた。」

「『妹がどうした。』と、西岡もあわたゞしく訊きかへした。
 『いつの間(ま)にか冷たくなつておいでのやうで……。』
 西岡もおどろいたが、叔父も驚いた。ふたりは佐助と一緒に西岡の屋敷の門(もん)をくゞると、下女のお霜も泣顔(なきがお)をしてうろ/\してゐた。お福は奥の四畳半の肱かけ窓に倚(よ)りかゝつたまゝで、眠(ねむ)り死(じに)とでもいふやうに死んでゐるのであつた。」



「百物語」より:

「いよ/\百物語をはじめることになつた。先(ま)づ青い紙で行燈(あんどう)の口をおほひ、定(さだ)めの通りに燈心(とうしん)百(ひゃく)すぢを入れて五間(いつま)ほど距(はな)れてゐる奥の書院に据(す)ゑた。そのそばには一面(いちめん)の鏡を置いて、燈心をひと筋(すじ)づつ消しにゆくたびに、必ずその鏡のおもてを覗(のぞ)いてみることゝ云ふ約束であつた。勿論(もちろん)、そのあひだの五間には燈火(ともしび)を置かないで、途中はすべて暗がりのなかを探り足でゆくことになつてゐた。」
「なにしろ百箇条の話をするのであるから、一つの話はなるべく短いのを選(えら)むといふ約束であつたが、それでも案外に時が移つて、彼(か)の中原武太夫が第八十三番の座に直つたのは、その夜ももう八(や)つ(午前二時)に近い頃であつた。中原は今度で三度目であるから、持ちあはせの怪談も種切(たねぎ)れになつてしまつて、ある山寺の尼僧(にそう)と小姓(こしょう)とが密通(みっつう)して、ふたりともに鬼になつたとか云ふ紋切型(もんきりがた)の怪談を短く話して、奥の行燈(あんどう)の火を消しに行つた。
 前にもいふ通り、行燈のある書院までゆき着くには、暗い広い座敷を五間通りぬけなければならないのであるが、中原は最初から二度も通つてゐるので、暗いなかでも大抵(たいてい)の見当は付いてゐた。かれは平気で座を起(た)つて、次の間の襖(ふすま)をあけた。暗い座敷を次から次へと真直(まっすぐ)に通つて、行燈の据ゑてある書院にゆき着いたときに、ふと見かへると、今通つて来たうしろの座敷の右の壁に何やら白いものが懸(かか)つてゐるやうにぼんやり(引用者注:「ぼんやり」に傍点)と見えた。引返してよく見ると、ひとりの白い女が首でも縊(くく)つたやうに天井(てんじょう)から垂(た)れ下(さが)つてゐるのであつた。
 『なるほど、昔から云ひ伝へることに嘘はない。これこそ化物といふのであらう。』と中原は思つた。」








こちらもご参照ください:

岡本綺堂 『探偵夜話 ― 岡本綺堂読物集 四』 (中公文庫)


























































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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