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『太平記 (五)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)

「汗馬(かんば)の馳(は)せ違(ちが)ふ音、太刀の鍔音(つばおと)、天に光り、地に響(ひび)いて、或いは引つ組んで頸(くび)を取るもあり、取らるるもあり、或いは弓手(ゆんで)馬手(めて)に相付けて、切つて落とすもあり、落とさるるもあり。血は馬の蹄(ひづめ)に蹴上(けあ)げられて、紅葉(もみじ)にそそく雨の如く、尸(かばね)は野径(やけい)に横たはつて尺寸(せきすん)も余さず。」
(『太平記』第三十一巻「武蔵小手指原軍の事」 より)


『太平記 (五)』 
兵藤裕己 校注
 
岩波文庫 黄/30-143-5 


岩波書店 
2016年4月15日 第1刷発行
532p 
文庫判 並装 カバー
定価1,320円+税
カバー: 中野達彦
カバー図版: 佐々木秀詮兄弟、摂津国神崎で南軍に討たれる(第三十六巻)/『太平記絵巻』第十一巻より



本書「凡例」より:

「本書の底本には、京都の龍安寺所蔵(京都国立博物館寄託)の西源院本『太平記』を使用した。」


本文中地図2点、脚注に参考図版3点。



太平記 五



カバーそで文:

「観応二年(一三五一)二月高師直・師泰が討たれた。延文三年(一三五八)四月には足利尊氏も病死し、十二月に義詮が将軍に就任した。康安元年(一三六一)には京都で大火・疫病・大地震が発生、南朝軍が進攻した。「神霊矢口渡」や佐々木道誉の挿話とともに、バサラの時代が語られる。(第三十―三十六巻)(全六冊)」


目次:

凡例
全巻目次

第三十巻
 将軍御兄弟和睦の事 1
 下火仏事の事 2
 怨霊人を驚かす事 3
 大塔若宮赤松へ御下りの事 4
 高倉殿京都退去の事 5
 殷の紂王の事、并 太公望の事 6
 賀茂社鳴動の事、同 江州八相山合戦の事 7
 恵源禅閣関東下向の事 8
 那和軍の事 9
 薩埵山合戦の事 10
 恵源禅門逝去の事 11
 吉野殿と義詮朝臣と御和睦の事 12
 諸卿参らるる事 13
 准后禅門の事 14
 貢馬の事 15
 住吉の松折るる事 16
 和田楠京都軍の事 17
 細川讃岐守討死の事 18
 義詮朝臣江州没落の事 19
 三種神器閣かるる事 20
 主上上皇吉野遷幸の事 21
 梶井宮南山幽閉の御事 22

第三十一巻
 武蔵小手指原軍の事 1
 義興義治鎌倉軍の事 2
 笛吹崇軍の事 3
 荒坂山合戦の事、并 土岐悪五郎討死の事 4
 八幡攻めの事 5
 細川の人々夜討せらるる事 6
 八幡落つる事、并 宮御討死の事、同 公家達討たれ給ふ事 7
 諸国後攻めの勢引つ返す事 8

第三十二巻
 芝宮御位の事 1
 神璽宝剣無くして御即位例無き事 2
 山名右衛門佐敵と為る事 3
 武蔵将監自害の事 4
 堅田合戦の事、并 佐々木近江守秀綱討死の事 5
 山名時氏京落ちの事 6
 直冬と吉野殿と合体の事 7
 獅子国の事 8
 許由巣父の事、同 虞舜孝行の事 9
 直冬上洛の事 10
 鬼丸鬼切の事 11
 神南合戦の事 12
 東寺合戦の事 京軍と号す 13
 八幡御託宣の事 14

第三十三巻
 三上皇吉野より御出の事 1
 飢人身を投ぐる事 2
 武家の人富貴の事 3
 将軍御逝去の事 4
 新待賢門院御隠れの事、付 梶井宮御隠れの事 5
 細川式部大輔霊死の事 6
 菊池軍の事 7
 新田左兵衛佐義興自害の事 8
 江戸遠江守の事 9

第三十四巻
 宰相中将殿将軍宣旨を賜る事 1
 畠山道誓禅門上洛の事 2
 和田楠軍評定の事 3
 諸卿分散の事 4
 新将軍南方進発の事 5
 軍勢狼藉の事 6
 紀州龍門山軍の事 7
 紀州二度目合戦の事 8
 住吉の楠折るる事 9
 銀嵩合戦の事 10
 曹娥の事 11
 精衛の事 12
 龍泉寺軍の事 13
 平石城合戦の事 14
 和田夜討の事 15
 吉野御廟神霊の事 16
 諸国軍勢京都へ還る事 17

第三十五巻
 南軍退治の将軍已下上洛の事 1
 諸大名仁木を討たんと擬する事 2
 京勢重ねて天王寺に下向の事 3
 大樹逐電し仁木没落の事 4
 和泉河内等の城落つる事 5
 畠山関東下向の事 6
 山名作州発向の事 7
 北野参詣人政道雑談の事 8
 尾張小河土岐東池田等の事 9
 仁木三郎江州合戦の事 10
 

第三十六巻
 仁木京兆南方に参る事 1
 大神宮御託宣の事 2
 大地震并びに所々の怪異、四天王寺金堂顚倒の事 3
 円海上人天王寺造営の事 4
 京都御祈禱の事 5
 山名豆州美作の城を落とす事 6
 菊池合戦の事 7
 佐々木秀詮兄弟討死の事 8
 細川清氏隠謀企つる事、并 子息首服の事 9
 志一上人上洛の事 10
 細川清氏叛逆露顕即ち没落の事 11
 頓宮四郎心替はりの事 12
 清氏南方に参る事 13
 畠山道誓没落の事 14
 細川清氏以下南方勢京入りの事 15
 公家武家没落の事 16
 南方勢即ち没落、越前匠作禅門上洛の事 17

付録
 系図(清和源氏系図(一)/清和源氏系図(二))
 『太平記』記事年表5

[解説5] 『太平記』の時代――バサラと無礼講




◆本書より◆


「義詮朝臣(よしあきらあそん)江州(ごうしゅう)没落(ぼつらく)の事」より:

「細川讃岐守(ほそかわさぬきのかみ)(脚注:「頼春。」)は討たれぬ。陸奥守(むつのかみ)(脚注:「細川顕氏。」)はいづちとも知らず落ち行きぬ。今は重ねて戦ふべき兵なければ、宰相中将義詮朝臣(さいしょうちゅうじょうよしあきらあそん)、わづかに百四、五十騎にて、近江(おうみ)を指して落ち給ふ。
 儀峨(ぎが)、高山(たかやま)(脚注:「儀峨、高山は、滋賀県甲賀市水口町。」)の源氏ども(脚注:「近江に住んだ清和源氏の山本一族。かつて六波羅探題に仕え、一族の多くが近江番場で自害した。第九巻・7、参照。」)、かねて相図(あいず)を定めて、勢多(せた)の橋(はし)(脚注:「琵琶湖の南端、瀬田川にかかる橋。大津市瀬田。」)をば焼き落としぬ。船はこなたに一艘もなし。山門(さんもん)(脚注:「比叡山延暦寺。」)へも大慈院法印(だいじいんのほういん)(脚注:「大塔の僧正忠雲の弟、任憲。」)を天王寺(てんのうじ)より遣(つか)はされて、山法師(やまほうし)(脚注:「山門の僧。」)皆君(きみ)(脚注:「後村上帝。」)の御方(みかた)になりぬと聞こえつれば、「落ち行く所を幸ひと、勢多へも定めて懸かるらん。ただ都にて討死(うちじに)をすべかりつるものを。きたなくここまで落ちもて来て、尸(かばね)を湖水の底に沈め、名を外都(がいと)の土(脚注:「郡から離れた地。」)に埋(うず)まん事、心憂かるべき恥辱(ちじょく)かな」と、後悔せぬ人もなかりけり。敵の旗見えば腹を切らんとて、義詮朝臣を始めとして、鎧をば皆脱(ぬ)ぎ置(お)き、腰の刀(脚注:「腰の帯にさす鍔(つば)のない短刀。切腹に用いる。」)ばかりにて、白沙(しらす)の上に皆並(な)み居(い)給ふ。
 ここに、相模国(さがみのくに)の住人、曾我左衛門(そがのさえもん)(脚注:「神奈川県小田原市曾我に住んだ武士。」)と云ひける者、水練(すいれん)の達者なりければ、向かひの岸に泳ぎ付いて、小舟のありけるを一艘、自ら櫓(ろ)を押して漕ぎ寄する。大将を始めとして、先(ま)づ宗徒(むねと)(脚注:「主だった諸将。」)の人々二十余人、一艘に込み乗つて、川の向かひに付き給ふ。その後(のち)、また小舟三艘求め出だして、百五十騎の兵ども、悉(ことごと)く皆渡してけり。これまでも、なほ敵の追つて懸かる事なければ、捨てたる馬、物具(もののぐ)(脚注:「鎧・兜などの武具。」)も、次第次第に渡しはてて、舟踏み返し、突き流して、「今こそ生きたる命よ」と、手を打つて、どつとぞ笑はれける。」



「三上皇(さんしょうこう)吉野(よしの)より御出(おんいで)の事」より:

「持明院(じみょういん)の本院(ほんいん)、新院(しんいん)、上皇(脚注:「光厳院、光明院、崇光院。」)は、皆去々年の春(脚注:「文和元年(一三五二)に賀名生へ移された。第三十巻・21、参照。」)、南方(なんぽう)へ囚(とら)はれさせ給ひて、賀名生(あのう)(脚注:「奈良県五條市西吉野町。」)の奥に押(お)し籠(こ)められておはしけるを、とても(脚注:「あれこれしても。」)都に芝宮(しばのみや)(脚注:「光厳院第二皇子、弥仁(いやひと)親王。即位して、後光厳帝。芝宮は、芝禅尼(日野資名の後室)に養育されたことによる称。」)すでに御位(みくらい)に即(つ)かせ給ひぬる上は、敵の傷(いた)むべき処(ところ)にあらず、また、山中の御栖居(おんすまい)も余りに御いたはしければとて、延文(えんぶん)二年(脚注:「一三五七年。」)の二月に、皆(みな)賀名生の山中より出だし奉り、都へ還幸(かんこう)なし奉る。
 上皇(しょうこう)は、故院(脚注:「後伏見院。光厳院・光明院の父。」)の栖(す)み荒(あ)らさせ給ひし伏見殿(ふしみどの)(脚注:「京都市伏見区桃山町にあった持明院統の御所。」)に移らせ給ひて御座(ぎょざ)あり。参(まい)り仕(つかうまつ)る月卿雲客(げっけいうんかく)(脚注:「公卿殿上人。」)、一人(いちにん)もなし。庭には草生(お)ひ繁(しげ)り、踏み分けたる道もなく、軒(のき)には苔(こけ)深くして、月さへ疎(うと)くなりにけり。
 本院(ほんいん)、新院(しんいん)両所は、ともに夢窓国師(むそうこくし)(脚注:「夢想疎石。臨済宗の高僧。後醍醐帝追善のために建立された天龍寺の開山。」)の御弟子(おんでし)にならせ給ひて御出家ありけるが、本院は、嵯峨(さが)の奥、小倉山(おぐらやま)(脚注:「右京区嵯峨にある山。」)の麓(ふもと)に幽(かす)かなる御庵(おんいおり)を結ばれ、新院は、伏見の大光明寺(だいこうみょうじ)(脚注:「伏見殿の近くにあった臨済宗寺院。」)にぞ御座ありける。いづれにも(脚注:「どなたにおいても。」)、物さびしくて人目(ひとめ)枯れたる(脚注:「訪ねる人のない。」)御栖居(おんすまい)、申すもなかなか疎(おろ)かなり(脚注:「言葉に言い表わせないほどだ。」)。
 かの悉達太子(しっだたいし)(脚注:「釈迦が出家前、浄飯王(迦毘羅衛〈かびらえ〉国の王)の王子だった時の名。」)は、浄飯王(じょうぼんおう)の位(くらい)を捨てて、檀特山(だんどくせん)(脚注:「釈迦が修行した山。」)に分け入り、善施太子(ぜんせたいし)(脚注:「釈迦の前生、須大拏(しゅだな)太子の漢訳の名。布施を好んで檀特山に捨てられた太子は、二人の子を鳩留国の老人に乞われて、喜んで与えた(須大拏経)。」)は、鳩留国(くるこく)の翁(おきな)に身を与へて、檀施(だんせ)の行(ぎょう)(脚注:「布施の行。」)を修(しゅ)し給ふ。これは、十千(じっせん)(脚注:「千の十倍で、きわめて数の多い意。」)の国を并(あわ)せたる十六の大国(脚注:「古代インドにあったという十六の大国。」)を保ち給ひし王位なれども、(捨つるとなれば、)(脚注:「他本により補う。底本の脱落か、他本の後補かは不明。」)その位、一塵(いちじん)(脚注:「一つの塵(ちり)。」)よりもなほ軽(かろ)し。況(いわ)んや、わが国は粟散辺地(ぞくさんへんち)(辺土にある粟粒を散らしたような小さな国。」)の境(さかい)なり。たとひ天下を一統(脚注:「統一。」)にして、無為(ぶい)の化(か)(脚注:「世がおのずと平和に治まる徳のある治世。」)に誇らせ給ふとも、かの大国の人と并(なら)ぶるに、千億にしてその一にも及(およ)び難(がた)し。かやうの理(ことわ)りを思(おぼ)し召(め)し知(し)らせ給ひて、憂(う)きを便りに捨てはてさせ給ひぬる世なれば(脚注:「世の憂さを機縁として、捨て果てた俗世なので。」)、御身(おんみ)も軽く、御心(みこころ)もまた閑(しず)かにて、半間(はんかん)の雲、一榻(いっとう)の月(脚注:「部屋の半ばまで入る雲と、寝台(榻)にさす月光。」)、禅余(ぜんよ)(脚注:「仏道修行の余暇。」)の御友(おんとも)となりにけり。」



「細川式部大輔(ほそかわしきぶのたいふ)霊死(れいし)の事」より:

「この人、先(ま)づ讃岐国(さぬきのくに)へ下(くだ)つて、兵船(ひょうせん)をそろへ、軍勢を集めける程に、延文(えんぶん)四年(脚注:「一三五九年。」)六月二日より、俄(にわ)かに病(やまい)付いて、物狂(ものぐる)ひ(脚注:「狂気。」)になりたりけるが、自ら口走りて、「われ崇徳院(すとくいん)(脚注:「保元の乱で讃岐に流されて死去。後世、怨霊の祟りが恐れられた。」)の御領(ごりょう)(脚注:「崇徳院の白峯陵を管理する白峯寺(香川県坂出市青海町)の寺領。」)を落として、軍勢の兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)(脚注:「兵糧をまかなう所領。」)に充(あ)て行(おこな)ひしによつて、重き病を受けたり。天の責め、八万四千の毛孔(けあな)に入(い)りて、五臓六腑(ごぞうろっぷ)(脚注:「すべての内臓。」)に余る間、清き風に向かへども、盛りなる炎の如く、冷水を飲めども、涌(わ)き返(かえ)る湯の如し。あら熱(あつ)や、堪(た)へ難(がた)や、これいかにせん」と悲しみ叫んで、悶絶僻地(もんぜつびゃくじ)(脚注:「もだえ苦しんでころげまわること。」)しければ、医師(くすし)、陰陽師(おんようじ)、看病(かんびょう)の者ども、近づかんとするに、臥したるあたり四、五間(けん)(脚注:「一間は、柱と柱の間の距離、約一・八メートル。」)の中(うち)は、猛火(みょうか)の盛りに燃えたるやうに熱くして、更(さら)に近づく人もなかりけり。
 病(やまい)付いて七日に当たりける卯刻(うのこく)(脚注:「午前六時頃。」)に、黄なる旗一流(ひとなが)れ差して、鎧うたる兵千騎ばかり、三方より同時に、時の声(脚注:「鬨(とき)の声。」)を揚げて押し寄せたり。誰(たれ)とは知らず、敵寄せたりと心得て、この間馳(は)せ集(あつ)まつたる兵ども五百余人、大庭(おおにわ)(脚注:「主殿の前庭。」)に走り出でて、散々(さんざん)に射る。矢種(やだね)尽(つ)きければ、打物(うちもの)(脚注:「太刀や槍など。」)になつて、追つつ返しつ、半時(はんとき)ばかり(脚注:「約一時間ほど。」)ぞ戦うたる。搦手(からめて)より寄せける敵(脚注:「大手(正面)に対して側面・背後をつく軍勢。」)かと覚えて、紅(くれない)の母衣(ほろ)(脚注:「矢を防ぐために背負う袋状の布。」)懸けたる武者十余騎、大将細川伊予守(ほそかわいよのかみ)が頸(くび)と、家人(けにん)行吉掃部亮(ゆきよしかもんのすけ)(脚注:「不詳。」)が頸とを取つて、鋒(きっさき)に貫いて、「悪(にく)しと思ふ者どもをば、皆討ち取つたるぞ。これ見よや、兵ども」とて、二つの頸を差し上げたれば、大手の敵七百余騎、勝時(かつどき)を三声(みこえ)どつと作つて、帰るを見れば、この寄手(よせて)、天に上(のぼ)り雲に乗つて、白峯(しらみね)(脚注:「崇徳院の白峯陵のある白峯山。」)の方(かた)へぞ飛び去りける。
 変化(へんげ)の兵帰り去れば、これを防きつる者ども、討たれぬと見えつる人も死なず、手負(ておい)(脚注:「負傷者。」)と見つるも恙(つつが)なし。ただ、「いかなる不思議ぞ」と、互ひに問ひて、暫(しばらく)あれば、伊予守も行吉も、同時にはかなくなりにけり。」



「大地震(だいじしん)并(なら)びに所々(しょしょ)の怪異(けい)、四天王寺(してんのうじ)金堂(こんどう)顚倒(てんとう)の事」より:

「同じき元年六月十八日の巳刻(みのこく)(脚注:「午前十時頃。」)より、同じき十月比(ころ)に至るまで、大地おびたたしく動いて、日々夜々(ひびよよ)止(や)む時(とき)なし。山崩れて谷を埋(うず)み、海傾(かたぶ)いて陸地(くがち)となりしかば、神社仏閣(ぶっかく)倒れ破れ、牛馬人民(ぎゅうばじんみん)の死傷する事、幾千万(いくせんまん)と云ふ数を知らず。山川(さんせん)、江河(ごうが)、林野(りんや)、村路(そんろ)、この災(わざわ)ひに逢はずと云ふ処(ところ)なし。
 中にも、阿波(あわ)の雪(ゆき)の湊(みなと)(脚注:「徳島県海部郡美波町東由岐。」)と云ふ浦には、俄(にわ)かに太山(たいざん)の如くなる潮(しお)漲(みなぎ)り来(き)たつて、在家(ざいけ)一千七百余宇、悉(ことごと)く引く塩(しお)(脚注:「津波の時の引き潮。」)に連れて海底に沈みしかば、家々にあらゆる処(ところ)の僧俗(そうぞく)、男女(なんにょ)、牛馬、鶏犬(けいけん)、一つも残らず底の藻屑(もくず)となりにけり。
 これをこそ希代(きだい)の不思議と見る処に、同じき六月二十二日に、俄(にわ)かに天掻(か)き曇(くも)り、雪降りて、吹寒(すいかん)(脚注:「神田本「極寒」、玄玖本「冷寒」、流布本「氷寒」。風が吹いて寒い意か。」)の甚だしき事、冬至(とうじ)の前後の如く、酒を飲みて身を暖め、火を焼(た)いて炉を囲む人は、自(おの)づから寒(かん)を防ぐ便りもあり。山路(さんろ)の樵夫(しょうふ)(脚注:「山道にいるきこり。」)、野径(やけい)の旅人(りょじん)(脚注:「野道を行く旅人。」)、牧馬林鹿(ぼくばりんろく)(脚注:「牧場の馬、林の鹿。」)は悉く氷に閉ぢられ、雪に臥して死する者数(かず)を知らず。
 七月二十四日には、摂津国(つのくに)難波(なにわ)の浦(うら)の澳(おき)(脚注:「大阪市中央区付近の入り江。いまは陸地。」)数百町、半時(はんとき)ばかり(脚注:「約一時間ほど。」)乾(かわ)き上(あ)がりて、無量の(脚注:「量り知れないほど量が多いこと。」)魚(うお)ども沙(いさご)の上に吻(いきづ)きける程に、あたりの浦の海人(あま)(脚注:「漁民。」)ども、網を巻き、釣(つり)を棄て、われ劣らじと拾ひける処(ところ)に、また俄(にわ)かに大雪山(だいせっせん)(脚注:「インド北方の高山。ヒマラヤ。」)の如くなる潮(しお)満ち来たつて、漫々たる海になりければ、数百人の海人ども、独(ひと)りも生きて帰るはなかりけり。
 また、周防(すおう)の鳴戸(なると)(脚注:「山口県柳井市大畠と屋代島の間の海峡(周防鳴門)。」)、俄(にわ)かに潮去つて陸(くが)となる。高く峙(そばだ)つたる岩の上に、筒(つつ)のまはり二十丈(脚注:「一丈は、約三メートル。」)ばかりなる大鼓(たいこ)の、銀(しろかね)の鋲(びょう)をしげく打つて、面(おもて)には巴(ともえ)を書き、台には八龍(はちりゅう)を拏(ひこずら)はせたる(脚注:「台に仏法守護の八大龍王をからめて描いたのが。」)、顕(あらわ)れ出(い)でたり。暫(しばら)くは、見る人これを懼(おそ)れて近づかず。三、四日を経て後(のち)、近きあたりの浦人(うらびと)ども、数百人集まつて見るに、筒は石にて、面(おもて)をばいかなる物にて張りたりとも見えず、鉄(くろがね)を延べたるが如し。尋常(よのつね)の撥(ばち)にて打たば、よも鳴らじとて、大きなる撞木(しゅもく)を拵(こしら)へて、大鐘(おおがね)を突(つ)くやうにつきたりけるに、この大鼓、天に響(ひび)き、地を動かして、三時(みとき)ばかり(脚注:「約六時間ほど。」)ぞ鳴りたりける。山頽(くず)れて谷に答へ、潮涌(わ)いて天に漲(みなぎ)つてければ、数百人の浦人ども、ただ今大地の底へ引き入れらるる心地して、肝魂(きもたましい)も身に添はず、倒るるともなく走るともなく、四角八方(しかくはっぽう)(脚注:「四方八方。」)へぞ逃げ散りける。この響き、余所(よそ)へなほ動いて、京中まで聞こえ、左右(そう)なく(脚注:「すぐには。」)止(と)まらざりければ、世には、「天の鳴動(めいどう)するか、地の震裂(しんれつ)するか、雷(いかずち)の鳴るか、将軍塚(しょうぐんがづか)(脚注:「京都市東山区華頂山頂の塚。桓武天皇が平安京鎮護のために八尺の将軍像を埋めたと伝え、天下に異変のあるときしばしば鳴動した。」)か」など、色々(いろいろ)にぞ申しける。その後(のち)よりは、いよいよ近づく人なかりければ、天にや登りけん、また海中へや涌(わ)き入(い)りけん、潮は本(もと)の如(ごと)くに満ちて、大鼓は見えずなりにけり。」

「洛中、辺土(へんど)には、傾(かたぶ)かぬ塔の九輪(くりん)(脚注:「塔の最頂部に立てる九重の金具の輪。」)もなく、熊野参詣(くまのさんけい)の道(脚注:「天王寺から熊野三山へ向かう参詣路。」)には、地の裂けぬ所もなかりけり。旧記(きゅうき)(脚注:「古い記録。」)に載(の)する所、開闢以来(かいびゃくこのかた)未だかかる不思議なければ、この上に、またいかなる世の乱れか出(い)で来(き)たらんずらんと、怖(お)ぢ恐(おそ)れぬ人は更(さら)になし、」







こちらもご参照ください:

『太平記 (六)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)

















































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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