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『太平記 (六)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)

「同じき五月十七日、いづくの山より出でたりとも知らぬ大鹿(おおじか)二頭(にとう)、京中に走り出でたりけるが、家の棟(むね)、築地(ついじ)の覆(おお)ひの上を走り渡って、長講堂の南の門前にて四声(よこえ)鳴いて、いづくの山へ帰るとも見えず失せにけり。」
(『太平記』第三十九巻「神木入洛の事、付 鹿都に入る事」 より)


『太平記 (六)』 
兵藤裕己 校注
 
岩波文庫 黄/30-143-6 


岩波書店 
2016年10月18日 第1刷発行
291p 索引95p 
文庫判 並装 カバー
定価1,010円+税
カバー: 中野達彦
カバー図版: 北朝の後光厳天皇、中殿御会の盛儀を再興する(第四十巻)/『太平記絵巻』第十二巻より



本書「凡例」より:

「本書の底本には、京都の龍安寺所蔵(京都国立博物館寄託)の西源院本『太平記』を使用した。」



太平記 六



カバーそで文:

「観応の擾乱、尊氏の死、有力守護大名の没落のあと、年少の将軍義満の補佐として細川頼之が管領職に就任、その優れた政治によって「中夏無為」の太平の世を迎えることになった。南北朝五十余年の争乱の世を雄渾な筆致で描いた歴史文学の大著がここに完結する。(全六冊)」


目次:

凡例
全巻目次

第三十七巻
 当今江州より還幸の事 1
 細川清氏四国へ渡る事 2
 大将を立つべき法の事 3
 漢楚義帝を立つる事 4
 尾張左衛門佐遁世の事 5
 身子声聞の事 6
 一角仙人の事 7
 志賀寺上人の事 8
 畠山道誓謀叛の事 9
 楊貴妃の事 10

第三十八巻
 悪星出現の事 1
 湖水乾く事 2
 諸国宮方蜂起の事 3
 越中軍の事 4
 九州探題下向の事 5
 漢の李将軍女を斬る事 6
 筑紫合戦の事 7
 畠山入道道誓没落の事、并 遊佐入道の事 8
 和田楠と箕浦と軍の事 10
 兵庫の在家を焼く事 11
 太元軍の事 12

第三十九巻
 大内介降参の事 1
 山名御方に参る事 2
 仁木京兆降参の事 3
 芳賀兵衛入道軍の事 4
 神木入洛の事、付 鹿都に入る事 5
 諸大名道朝を讒する事、付 道誉大原野花会の事 6
 道朝没落の事 7
 神木御帰座の事 8
 高麗人来朝の事 9
 太元より日本を攻むる事、同 神軍の事 10
 神功皇后新羅を攻めらるる事 11
 光厳院禅定法皇崩御の事 12

第四十巻
 中殿御会の事 1
 将軍御参内の事 2
 貞治六年三月二十八日天変の事、同 二十九日天龍寺炎上の事 3
 鎌倉左馬頭基氏逝去の事 4
 南禅寺と三井寺と確執の事 5
 最勝八講会闘諍に及ぶ事 6
 征夷将軍義詮朝臣薨逝の事 7
 細川右馬頭西国より上洛の事 8

付録
 『太平記』記事年表6

[解説6] 『太平記』の影響――国家のかたち

人名索引




◆本書より◆


「身子(しんし)声聞(しょうもん)の事」より:

「凡そ煩悩(ぼんのう)(脚注:「身心を煩わし悩ます妄念。」)の根元(こんげん)を切り、迷着(めいちゃく)の絆(きずな)(脚注:「物事に迷い執着すること。」)を離るる事は、上古(しょうこ)にも末代(まつだい)にも、よくあり難き事にて侍るにや。
 昔、天竺(てんじく)に(脚注:「以下の話は、「大智度論」巻十二にみえる。天竺は、インド。」)、身子(脚注:「釈迦十大弟子の一人、舎利弗(しゃりほつ)のこと。知恵第一とされた。」)と申しける声聞(脚注:「釈迦の説法を聞き、阿羅漢の境地に達した弟子。」)、仏果(ぶっか)を証ぜんため(脚注:「仏の悟りを得るため。」)に六波羅蜜(ろくはらみつ)(脚注:「六種の菩薩行。布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定(ぜんじょう)・知恵。」)を行ひ、すでに五波羅蜜(ごはらみつ)をば成就(じょうじゅ)しぬ。檀波羅蜜(だんはらみつ)(脚注:「六波羅蜜の一、布施行。他人に財宝・善法などを施す修行。」)を修(しゅ)するに到(いた)つて、隣国より一人の婆羅門(ばらもん)(脚注:「インド四姓の最上位。僧侶・学者の階級。」)来たれり。先(ま)づ財宝を乞(こ)ふに、倉の内の財宝、身の上の衣(ころも)、一つをも残さずこれに与ふ。次に眷属(けんぞく)(脚注:「一族・従者。」)及び居室(きょしつ)を乞ふに、皆与えつ。次に、身の毛を乞ふ。一筋(ひとすじ)も残さず抜いて取らせつ。婆羅門、なほこれに飽き足らず、「同じくは汝(なんじ)が眼(まなこ)を穿(くじ)つて、われに与へよ」とぞ乞ひける。身子声聞、両眼(りょうがん)を穿つて人に与へば、忽(たちま)ちに盲目の身となつて、暗夜(あんや)の闇に迷ふが如くならん事は悲しけれども、力なく(脚注:「仕方なく。」)、この行(ぎょう)の空(むな)しからん事を痛みて、自ら二つの眼を抜いて、婆羅門にぞ取らせける。
 婆羅門、二つの眼を手に取りて、「肉眼は抜かれて後(のち)、瀆(きたな)き物なりけり。わがために何の用かあるべき」とて、則ち地に投げ捨てて、蹂(ふみにじ)りてぞ棄てたりける。この時に、身子声聞、人の五体(ごたい)の中(うち)には、眼に過ぎたる物なし。これ程用にもなき眼を乞ひ取つて、結句(けっく)(脚注:「あげくのはて。」)、地に棄つる事のうたてさよと、少し瞋恚(しんい)(脚注:「怒り。」)の心を発(おこ)したりければ、さしも功を積みし六波羅蜜(ろくはらみつ)の行(ぎょう)、一時(いっし)に皆破れにけり。」



「神功皇后(じんぐうこうごう)新羅(しんら)を攻(せ)めらるる事」より:

「事すでに定まつて後(のち)、評定(ひょうじょう)(脚注:「軍議。」)のために、皇后、もろもろの天神地祇(てんじんちぎ)を請(しょう)じ給ふに、日本一州の大小の神祇冥道(みょうどう)(脚注:「冥界を司る神。」)、皆勧請(かんじょう)に随つて来たり給ふ。海底に跡を垂れ給ふ阿度女(あとめ)の礒良(いそら)(脚注:「安曇磯良(あずみのいそら)。福岡市東区志賀島の志賀海(しかうみ)神社の祭神。「阿知女(あじめ)の作法」は、宮中の神楽で最初に歌われる。以下は、その起源説話。」)一人、召しに応ぜず。いかさまの故(ゆえ)にかあらん(脚注:「きっとわけがあるのだろう。」)とて、もろもろの神達、燎火(にわび)(脚注:「神楽を奏する時の篝火。」)を焼(た)き、榊(さかき)の枝に白幣(しらにぎて)、青幣(あおにぎて)(脚注:「楮(こうぞ)で作った白い幣と、麻で作った青みがかった幣。」)を取り懸け、風俗(ふぞく)(脚注:「上代の地方民謡。神楽で歌われる。」)、催馬楽(さいばら)(脚注:「上代歌謡を唐楽の旋律で歌う神楽。「梅枝」以下は、催馬楽の曲名。」)、梅枝(うめがえ)、桜人(さくらうど)、安尊(あなとうと)、美濃山(みののやま)、石河(いしかわ)、葦垣(あしがき)、葛木(かつらぎ)、山背(やましろ)、本滋(もとしげし)、婦我(いもとわれ)、浅緑(あさみどり)、御馬草(みうまくさ)、竹河(たけかわ)、此殿(このとの)、倉垣(くらかき)、総角(あげまき)、田中井戸(たなかのいど)、婦門(いもがかど)、高沙古(たかさご)、夏引(なつひき)、貫河(ぬきがわ)、走井(はしりい)、青柳(あおやぎ)、伊勢海(いせのうみ)、我門(わがかど)、更衣(ころもがえ)、鶏鳴(とりはなきぬ)、難波梅(なにわのうめ)、かやうの呂律(りょりつ)(脚注:「音楽の調子。」)を調べて、本末(もとすえ)を返して(脚注:「神楽の演奏で本方(先に唱えうたう側)と末方(後に唱えうたう側)の順序を変えて。」)数返(すへん)歌ひ舞ひかなでさせ給ひしかば、礒良(いそら)、感に堪(た)へかねて、神遊び(脚注:「神々が集まり、楽を奏して歌舞すること。神楽。」)の庭にぞ参りたりける。
 その貌(かたち)を御覧ずるに、細螺(したたみ)(脚注:「巻貝。」)、石花(かき)(脚注:「牡蠣(かき)。」)、海鼠(なまこ)、海老(えび)、海月(くらげ)、藻に棲(す)む虫、手足五体に取り付きて、更(さら)に人の形にてはなかりけり。神達、怪しみ御覧じて、「何故(なにゆえ)にかかる貌にはなりにけるぞ」と御尋ねありければ、礒良、答へて曰はく、「われ滄海(そうかい)の鱗(うろくず)(脚注:「大海のうろこをもつ生き物。」)に交(まじ)はりて、これを利せんために、久しく海底に住み侍りぬる間、かかる無量の(脚注:「きわめて多くの。」)鱗われに縁(ゆかり)して、かかる形になつて候ふなり。されば、かかる不思議の形にて、やんごとなき御神の前に参らん事の恥づかしさに、今までは参りかねて候ひつるを、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)の御声に、恥をも忘れ、身をも顧みずして参りたり」とぞ答へ申しける。やがてこれを御使ひにて、龍宮城(りゅうぐうじょう)の宝にする干珠(かんじゅ)(脚注:「海に入れると潮が干く珠。満珠は、潮が満ちる珠。」)を借り召さるるに、龍神(りゅうじん)、即ち神勅(しんちょく)に応じて二つの珠(たま)を奉る。」



「光厳院禅定法皇(こうごんいんぜんじょうほうおう)崩御(ほうぎょ)の事」より:

「光厳院の禅定法皇(脚注:「出家した上皇の尊称。」)は、正平(しょうへい)七年の比(ころ)(脚注:「北朝の文和元年(一三五二)。正平七年は、賀名生(奈良県五條市西吉野町)に連れ去られた年。帰洛は、延文二年(一三五七)。第三十三巻・1、参照。」)、南山(なんざん)賀名生(あのう)の奥より楚(そ)の囚(とら)はれ(脚注:「囚われて他郷にあること。楚の鐘儀(しょうぎ)が晋に囚われた後も、楚の冠をつけて故国を忘れなかった故事(春秋左氏伝・成公九年)。」を許され給ひて、都へ還御(かんぎょ)なりたりし後(のち)、世の中をいと憂き事に思(おぼ)し召(め)し知(し)らせ給ひしかば、姑射山(こやさん)(脚注:「仙人の住む山(荘子・逍遥遊)。転じて仙洞(上皇御所)をいう。」)の雲を辞し、汾水陽(ふんすいよう)の花を捨てて(脚注:「姑射山で四人の仙人と出会った堯(中国古代の聖帝)が、汾水の陽(きた=陽は川の北岸)まで帰って来て茫然とし、自分が天下の王であることを忘れた故事(荘子・逍遥遊)。ここも仙洞をさす。」)、なほ御身(おんみ)を軽く持(たも)たばやと思し召しなされけり。
 御あらまし(脚注:「ご願望。」の末(すえ)通って、方袍円頂(ほうほうえんちょう)の出塵(しゅつじん)(脚注:「袈裟を着て頭を円めた出家者。」)とならせ給ひしかば、伏見(ふしみ)の里の奥、光厳院(脚注:「京都市伏見区桃山町の伏見城山(木幡山)にあった。」)と聞こえし幽閑(ゆうかん)の地にぞ住ませ給ひける。これもなほ都近き所なれば、旧臣の参(まい)り仕(つか)へんとするも厭(いと)はしく、浮世(うきよ)の事御耳に触るるもいかが(と)思し召しければ、「来るに来る所なく、去るに去る所なし(脚注:「来ても来る所はなく、帰っても帰る所はない。安住の場所はない意。」)。拄杖頭辺(しゅじょうとうへん)に活路(かつろ)通ず(脚注:「杖の赴く所に道が開ける。」)」と、元(げん)の中峰和尚(ちゅうほうおしょう)(脚注:「中峰明本(みょうほん)。元代の杭州に住んだ臨済禅の僧。」)の送行(そうあん)の偈(げ)(脚注:「行脚僧を送る偈。出典未詳。」)、誠(まこと)に由(よし)あり(脚注:「いわれがある。」)と御心(みこころ)に染(し)みて、人工(にんぐ)、行者(あんじゃ)(脚注:「人工・行者ともに、禅寺で雑事を行う下部。」)の一人(いちにん)をも召し具せられず、ただ順覚(じゅんかく)(脚注:「不詳。」)と申しける僧を一人御供(おんとも)にて、山川斗藪(さんせんとそう)(脚注:「山川での修行の旅。」)のために立ち出でさせ給ふ。」

「頭(こうべ)を廻(めぐ)らして東を望めば、雲に連なり霞に泛(うか)び、高く峙(そばだ)ちたる山あり。道の樵(きこり)に山の名を問はせ給へば、「これこそ音に聞こえ候ひし金剛山(こんごうせん)(脚注:「大阪府と奈良県境にある金剛山地の主峰。西側に楠正成の赤坂城、千剣破城があった。」)の城とて、日本国の武士どもの、幾千万と云ふ数を知らず討たれ候ひし所にて候ふ」とぞ申しける。「あなあさましや。この合戦と云ふも、われ一方(いっぽう)の皇統(こうとう)の流れにて天下を争ひしかば、その亡卒(ぼうそつ)(脚注:「戦死した士卒。」)の悪趣(あくしゅ)(脚注:「現世で悪事をなした者が、死後に赴く苦しみの世界。六道(衆生が輪廻する六種の世界)のうち、地獄・餓鬼・畜生の三悪道。」)に堕ちて多劫(たごう)が間(脚注:「永遠。」)苦(く)を受けん事も、わが罪障(ざいしょう)にこそならめ」と、先非(せんぴ)を悔いさせおはします。
 日を経て紀伊川(きのかわ)(脚注:「高野山の北を経て、和歌山平野を流れる川。上流は、吉野川。」)を渡らせ給ひける時、橋柱(はしばしら)朽ちて、見るも危ふき柴橋(しばはし)(脚注:「雑木で作った橋。」)あり。御足冷(すさま)じく御肝(おんきも)消えて(脚注:「足がすくみ恐ろしくて。」)、渡りかねさせ給ひたれば、げにならはせ給はぬ橋の半ばに立ち迷ひておはするを、誰(たれ)とは知らず、いかさまこの辺(あた)りに、臂(ひじ)を張り作(つく)り眼(まなこ)をする者(脚注:「さぞこの辺で威張ってにらみをきかせる者。」)にてぞあるらんと覚えたる武士七、八騎、跡より来たりけるが、法皇の橋の上に立たせ給ひたるを見て、「ここなる僧の臆病(おくびょう)げなる、見たうもなさよ(脚注:「みっともないことよ。」)。これ程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくば後(のち)に渡れかし」とて、押(お)し除(の)け奉りける程に、法皇、橋の上より押し落とされさせ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。「あら悲しや」とて、順覚(じゅんかく)、衣(ころも)着ながら飛び入りて、引き起こしまゐらせたれば、御膝(おんひざ)は岩の角(かど)に当たりて血になり、御衣(おんころも)は水に漬(つ)かりて絞(しぼ)り得(え)ず。泣く泣く辺(あた)りなる辻堂(つじどう)(脚注:「道ばたの仏堂。」)へ入れ奉り、御衣を脱(ぬ)ぎ替(か)へさせ奉りけり。古(いにし)へかかる事やはある(脚注:「以前にはこんなことはあるはずがなかった。」)(と)、君臣ともに捨てし世を、さすがに思(おぼ)し召(め)し出(い)でければ、涙の懸かる御袖は、濡れて干(ほ)すべき隙(ひま)もなし。」

「大塔(だいとう)(脚注:「高野山金剛峯寺の根本大塔(こんぽんだいとう)。保元元年(一一五六)、平清盛が再建した。」)の扉を開かせて両界(りょうかい)の曼陀羅(まんだら)(脚注:「金剛界・胎蔵界の両曼荼羅(密教の法門を理と智恵の両面から画いた図像)。」)を御拝見あれば、金剛界(こんごうかい)の七百余尊をば、入道太政大臣清盛(にゅうどうだじょうだいじんきよもり)が手づから書きたる尊容(そんよう)なり(脚注:「「平家物語」巻三・大塔建立に、金堂の東曼荼羅(胎蔵界曼荼羅)を平清盛が自筆で画いたとある。」)。さしも積悪(しゃくあく)(脚注:「積もり重ねた悪事。」)の浄海(じょうかい)(脚注:「清盛の法名。」)、いかなる宿善(しゅくぜん)(脚注:「前世の善行。」)を催(もよお)して、かかる大善根(だいぜんごん)(脚注:「来世で善い果報をもたらす莫大な善行。」)を致しけん。六大無碍(ろくだいむげ)の月晴るる時あつて、四曼相即(しまんそうそく)の花開(さ)くべき春を待ちけり(脚注:「万象を作る六つの要素(地・水・火・風・空・識)は融通無碍で衆生も仏も同体であり、四種の曼荼羅は一体であり衆生の成仏を待っている。」)。さてはこれも、ただ一向(いっこう)の(脚注:「まったくの。」)悪人にてはなかりけるよと、今ここに思ひ知らせ給ふ。」
「その日やがて奥院(おくのいん)へ御参詣あつて、大師御入定(だいしごにゅうじょう)(脚注:「空海入定の廟所。」)の扉を開かせ給へり。(中略)奥院に御通夜(おつや)あつて、暁(あかつき)出でさせ給ひ、一首の御製(ぎょせい)あり。
  高野山(たかのやま)迷ひの夢も覚(さ)めやとてその暁(あかつき)を待たぬ夜ぞなき(脚注:「煩悩の夢も覚めよと、高野山に弥勒が出現する暁を待たぬ夜はない。」)
 安居(あんご)(脚注:「夏冬の二季、僧が籠もって修行する期間。」)の間は、御心(みこころ)閑(しず)かにこの山中(さんちゅう)にこそ御座(ぎょざ)あらめと思し召して、諸堂御巡礼(ごじゅんれい)ある処(ところ)に、ただ今出家したる者と覚しくて、濃き墨染(すみぞめ)の衣(ころも)(脚注:「黒い僧衣。」)にしほれたる桑門(よすてびと)二人、御前(おんまえ)に畏(かしこ)まつて、その事となくたださめざめとぞ泣き居たりけり。何者やらんと怪しく思(おぼ)し召(め)してつくづくと御覧ずれば、紀伊川(きのかわ)を御渡りありし時、橋の上より法皇を押し落としまゐらせたりし者どもにてぞありける。不思議や、何事に今遁世(とんせい)しけるぞや、これ程に心なき放逸(ほういつ)の者も、世を捨つる心のありけるかと思し召して、過ぎさせ給へば、この遁世者(とんせいしゃ)、御蹤(おんあと)に随ひて順覚(じゅんかく)に泣く泣く申しけるは、「紀伊川を御渡り候ひし時、かかるやんごとなき御事とも知りまゐらせ候はで、玉体(ぎょくたい)に悪(あ)しく触れ奉り候ひし事、余りにあさましく存じ候ひて、この貌(かたち)に罷(まか)りなりて候ふ。仏種(ぶっしゅ)は縁より起こる儀(脚注:「成仏の因はふとした機縁で起こること。」)も候ふなれば、今よりは、薪(たきぎ)を拾ひ、水を汲む態(わざ)にて候ふとも、三年が間、常随給仕(じょうずいきゅうじ)(脚注:「常に随ってのお世話。」)仕(つかまつ)り候ひて、仏神(ぶつじん)三宝(さんぽう)(脚注:「仏と法と僧で仏教。」)の御咎(おんとが)めをも免(まぬか)れ候はん」とぞ申しける。「よしや(脚注:「まあよい。」)、不軽菩薩(ふきょうぼさつ)の道を行ひ給ひしに、罵詈誹謗(ばりひぼう)する人をも咎めず、打擲蹂躙(ちょうちゃくじゅうりん)する者をも却(かえ)つて敬礼し給ひき(脚注:「釈迦の過去世、常不軽菩薩は、一切衆生は仏性があるからとこれを軽んぜず、いかに迫害・誹謗されても、逢う人ごとに礼拝したという(法華経・常不軽菩薩品)。」。況(いわ)んや、われすでに貌(かたち)を窶(やつ)して、人その昔を知らず。一時(いっし)の誤り、何か苦しかるべき。出家は誠(まこと)に因縁不可思議(いんねんふかしぎ)なれども、随順(ずいじゅん)せん事はゆめゆめ叶(かな)ふまじき」由(よし)を仰せられけれども、この者、強(し)ひて片時(へんし)も離れまゐらせざりしかば、暁(あかつき)、阿伽(あか)(脚注:「閼伽。仏に供える水。」)の水汲みに遣(つか)はされたるその間に、順覚ばかり召し具して、ひそかに高野をぞ御出でありける。
 御下向(ごげこう)は大和路(やまとじ)に懸からせ給へば、道の便りもよしとて、南方(なんぽう)の主上(しゅしょう)(脚注:「後村上帝。」)のおはします吉野殿(よしのどの)へ入らせ給ふ。」

「今はとて、御帰りあらんとするに、寮(りょう)の御馬(おんうま)(脚注:「宮中の馬寮の馬。」)を奉(まいら)せられたれども、堅く御辞退ありて召されず。いつしか窶(やつ)れさせ給ひぬれども、なほ雪の如くなる御足に、荒々(あらあら)としたる草鞋(わらんじ)召されて立ち出でさせ給へば、主上(しゅしょう)、武者所(むしゃどころ)(脚注:「警固の武士の控え所。」)まで出御(しゅつぎょ)なつて、御簾(みす)を懸上(かか)げらる。月卿雲客(げっけいうんかく)は、庭の外まで送り奉り、皆御涙にこそ立ち濡れさせ給ひけれ。」

「諸国の御斗藪(ごとそう)の後(のち)に、光厳院(こうごんいん)へ御帰りあつて、暫(しばら)く御座(ぎょざ)ありける中、宣使(せんし)(脚注:「勅使。」)頻(しき)りに到つて、松風(しょうふう)の夢を破り、旧臣常に参じて、蘿月(らげつ)(脚注:「蔦の葉を漏れる月光。」)の寂(じゃく)を妨(さまた)げける程に、ここも今は住み憂しと思(おぼ)し召(め)して、丹波(たんば)の山国(やまぐに)と云ふ所(脚注:「京都市右京区京北井戸町の常照皇寺。光厳院の開基。境内に山国陵がある。山国庄は、大堰川上流の禁裏御料の荘園。」)へ銷(き)え移(うつ)らせ給ひけり。
 山菓(さんか)庭に落ちて、朝三(ちょうさん)の食秋風(しゅうふう)に飽き(脚注:「木の実が庭に落ちて、それを日々の食事(朝三の食)とする暮らしに満足し。」)、柴火(さいか)炉に宿(やど)して、夜薄(やはく)の衣寒気(かんき)を防く(脚注:「柴をいろりで燃やして、薄い夜着の寒さを防ぐ。」)。吟肩(ぎんけん)(脚注:「詩を吟ずる風雅の士の肩。」)骨痩(や)せて、泉を担ふに慵(ものう)し。座する時は、石鼎(せきてい)に雪を湘(に)て、三椀(さんわん)の茶に清風(せいふう)を領し(脚注:「石製のかなえで雪をとかし、三杯の茶に清風を味わい。」)、仄歩(そくほ)に山嶮(けわ)しくして(脚注:「たどたどしい歩みでは山道は険しく。」)、薇(わらび)を折るに倦(ものう)し(脚注:「隠棲して首陽山に蕨を折った伯夷・叔斉の故事をふまえる(史記・伯夷列伝)。」。寝(ぬ)る時は、岩窓(がんそう)に梅を嚼(しゃく)して、一聯(れん)の句に閑味(かんみ)を甘んじ給ふ(脚注:「岩の間に生える梅の花を嚙んで詩を作り、閑寂を楽しんだ。」)。身の安きを得(う)る処(ところ)、即ち心安し。出づるに江湖(ごうこ)あり。入るに山あり。乾坤(けんこん)の外(ほか)に逍遥(しょうよう)して(脚注:「天地の間(俗界)の外の気ままな暮らしを楽しみ。」)、破蒲団(はふとん)の上に光陰(こういん)(脚注:「年月。」)を送らせ給ひけるが、翌年(つぎのとし)(脚注:「貞治三年(一三六四)。」)の夏の比(ころ)より、俄(にわ)かに御不豫(ごふよ)(脚注:「病。」)の事あつて、つひに七月二日に隠れさせ給ひにけり。」




◆感想◆


戦記ものは苦手ですが、小耳にはさんだところによると『太平記』にはあやしげな異界のモノたちがたくさんでてくるようだし、光厳院は乱世の中心の空白としてタロットの「愚者」(=「0」)にも通じるところがあるし(無力ゆえに犬に噛みつかれながら安住することなく放浪し、この世の価値観の外にあるゆえに相反するもの(南北朝)を合一させ、最終的には世界から解脱する)、さらに、人類の故郷である海に戻って魚介類の福祉にたずさわっているうちにへんてこりんな容貌になってしまった安曇磯良も登場するので、折からの古典ブームに便乗して最新の岩波文庫版をよんでみました。『太平記』の登場人物では光厳院と磯良に共感を覚えました。神楽に惹かれてついつい海から出てきてしまうというのは、アマテラスとアメノウズメの神話や、こぶとりじいさんの昔話や、『今昔物語』の、伊豆の国司の目代が傀儡子の歌舞に「我が身さへこそ揺るがるれ」(『梁塵秘抄』)て踊り出してしまったため傀儡子であった前歴がばれてしまったという説話を連想させて興味深いです。






こちらもご参照ください:

『太平記 (一)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)
兵藤裕己 『後醍醐天皇』 (岩波新書)
川村二郎 『日本文学往還』
オズヴァルド・ヴィルト 『中世絵師たちのタロット』 今野喜和人 訳







































































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うまれたときからひとでなし
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難破した人々の為に。

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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