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『保元物語』 岸谷誠一 校訂 (岩波文庫)

「すべて今度の合戰は、前代未聞(ぜんだいみもん)と申(まうす)にや。主上、上皇御連枝(ごれんし)なり、關白、左府も御兄弟、武士の大將爲義、義朝も父子なり。此兵亂(ひやうらん)の源(みなもと)も只故(こ)院、后(きさき)の御すゝめによて、不義の御受禪(ごじゆぜん)共ありし故也。」
(『保元物語』下巻「新院御遷幸の事并に重仁親王の御事」 より)


『保元物語』 
岸谷誠一 校訂
 
岩波文庫 黄/30-108-1 


岩波書店 
1934年11月15日 第1刷発行
1991年3月7日 第9刷発行
119p 別丁口絵(モノクロ)1葉
文庫判 並装 カバー
定価310円(本体301円)
カバー: 中野達彦



本書「例言」より:

「本書は流布本中最も善本と考へられる渡邊文庫本(東京文理科大學所藏、平假名古活字、二卷)を底本とした。」
「本文には適當に句讀點・振假名・濁點等を施した。」



旧字・旧かな。



保元物語 01


カバーそで文:

「『平治物語』と並んで国文学史上最初に完成したとされる軍記物語。源為朝を中心に据えて保元の乱(一一五六年)に関わった人々の運命が語られる。」


目次:

例言

解題

本文

 卷上
  後白河院御即位の事
  法皇熊野御參詣并に御託宣の事
  法皇崩御の事
  新院御謀叛思召立つ事
  官軍方々手分の事
  親治等生捕らるゝ事
  新院御謀叛露顯并に調伏の事附たり内府意見の事
  新院爲義を召さるゝ事附たり鵜丸の事
  左大臣殿上洛の事附たり著到の事
  官軍召集めらるゝ事
  新院御所各門々固の事附たり軍評定の事
  將軍塚鳴動并に彗星出づる事
  主上三條殿に行幸の事附たり官軍勢汰の事
  白河殿義朝夜討に寄せらるゝ事
  白河殿攻落す事
  新院左大臣殿落ち給ふ事
  新院御出家の事

 卷下
  朝敵の宿所燒拂ふ事
  關白殿本官に歸復の事附たり武士に勸賞を行はるゝ事
  左府御最後附たり大相國御歎の事
  勅を奉じて重成新院を守護し奉る事
  謀叛人各召捕らるゝ事
  重仁親王の御事
  爲義降參の事
  忠正正弘等誅せらるゝ事
  爲義最後の事
  義朝弟共誅せらるゝ事
  義朝幼少の弟悉く失はるゝ事
  爲義の北方身を投げ給ふ事
  左大臣殿の御死骸實檢の事
  新院御遷幸の事并に重仁親王の御事
  無鹽君の事
  左府の君達并に謀叛人各遠流の事
  大相國御上洛の事
  新院御經沈の事附たり崩御の事
  爲朝生捕流罪に處せらるゝ事
  爲朝鬼が島に渡る事并に最後の事




保元物語 02



◆本書より◆


「解題」より:

「保元物語は其の名の如く、保元の亂の顚末を敍した軍記物語である。即ち康和五年正月鳥羽天皇の御降誕から、元暦元年白河殿の燒趾に崇德院の御廟が造營せられるまで、約八十年間の事を記してゐるが、其の中心は、保元元年七月二日鳥羽法皇の崩御によつて風雲頻りに動き、同十一日の未明に合戰始まつて二刻にして終り、翌月十日に崇德院が讃岐に御遷幸になるまでの約一箇月間にある。本書の内容を平家物語に比べると遙かに單純ではあるが、記事に統一があり、完成された軍記物語としての特色を始めて發揮してゐる事に注目される。而して此の物語に現れてゐる人物は多種多樣であるが、其の中で爲朝は最も代表的なものであり、全篇恰も爲朝中心の一個の英雄譚の如き觀を呈してゐる。併しながら情趣的性質も交錯されてゐて、平家程ではないが、可なり藝術的價値が認められるのである。」


「後白河の院御即位の事」より:

「爰(こゝ)に鳥羽の禪定(ぜんぢやう)法皇と申奉るは、天照太神(てんせうだいじん)四十六世の御末、神武天皇より七十四代の御門(みかど)也。堀川天皇第一の皇子、御母は贈(ぞう)皇太后藤茨子(とうじし)、閑院(かんゐん)の大納言實季の卿の御(おん)むすめなり。康和五年正月十六日に御誕生、同(おなじき)年の八月十六日、皇太子にたゝせ給ふ。嘉承二年七月十九日、堀川の院かくれさせ給ひしかば、太子五歳にて践祚(せんそ)あり。御在位十六ケ年が間、海内(かいだい)靜(しづか)にして天下おだやか也。寒暑(かんしよ)も節(せつ)をあやまたず、民屋(みんをく)もまことにゆたか也。保安四年正月廿八日、御年廿一にして御位をのがれて、第一の宮崇德(しゆとく)院にゆづり奉り給(たまふ)。大治四年七月七日、白河の院かくれさせ給てより後は、鳥羽の院天下の事をしろしめして政(まつりごと)を行ひ給ふ。忠ある者を賞しおはします事、聖代聖主(せいだいせいしゆ)の先規(せんき)にたがはず。罪ある者をもなだめ給(たまふ)事、大慈大悲(だいじだいひ)の本誓(ほんぜい)に叶ひまします。されば恩光(おんくわう)にてらされ、德澤(とくたく)にうるほひて、國も富(とみ)民も安かりき。
 保延五年五月十八日、美福門院の御腹に皇子御誕生ありしかば、上皇ことによろこびおぼしめして、いつしか同(おなじき)八月十七日、春宮(とうぐう)に立給(たまふ)。永治元年十二月七日、三歳にて御即位あり。よて先帝をば新院と申(まうし)、上皇をば一院とぞ申(まうし)ける。先帝ことなる御恙(つゝが)もわたらせ給はぬに、おしおろし給ひけるこそあさましけれ。よて一院、新院父子の御中心よからずとぞ聞えし。誠に御心ならず御位をさらせ給へり。」
「しかるに久壽二年の夏の比(ころ)より、近衞(こんゑの)院御惱(ごなう)まし/\しが、七月下旬には早たのみ少き御事にて、すでに淸涼殿の庇(ひさし)の間(ま)にうつし奉る。されば御心ぼそくやおぼしめしけん、御製かく、
   蟲のねのよわるのみかは過ぐる秋を惜(をし)む我身ぞまづきえぬべき
終(つひ)に七月廿三日に隱(かくれ)させ給ふ、御歳十七、近衞(こんゑの)院是也。尤(もつとも)惜(をし)き御齡(おんよはひ)なり。法皇、女院(にようゐん)の御なげき、ことわりにも過(すぎ)たり。
 新院此時を得て、我身こそ位にかへりつかずとも、重仁(しげひと)親王は、一定(いちぢやう)今度は位につかせ給はんと、待うけさせおはしませり。天下の諸人(しよじん)も皆かく存じける處に、思ひの外(ほか)に美福門院の御はからひにて、後白河の院、其時は四の宮とて打ちこめられておはせしを、御位につけ奉り給ひしかば、たかきもいやしきも、思ひの外(ほか)の事に思ひけり。此四の宮も、故待賢門院(こたいけんもんゐん)の御腹にて、新院と御一腹(ごいつぷく)なれば、女院(にようゐん)の御爲にはともに御繼子(おんまゝこ)なれども、美福門院の御心には、重仁(しげひと)親王の位につかせ給はんことを、なほ猜(そね)み奉らせ給て、此宮を女院(にようゐん)もてなしまゐらせ給て、法皇にも内々申させ給(たまひ)ける也。其故は、近衞(こんゑの)院世を早うせさせ給(たまふ)事は、新院呪詛(じゆそ)し奉給(たまふ)となんおぼしめしけり。是によて新院の御うらみ、一入(ひとしほ)まさらせ給(たまふ)も理(ことわ)り也。」



「新院御出家の事」より:

「新院は爲義を始として、家弘、光弘、武者所季能(むしやどころのすゑよし)等を御供にて、如意山(によいさん)へいらせ給ふ。山路(やまぢ)けはしくして難所(なんじよ)多ければ、御馬をとゞめて、御歩行(おんかち)にてぞのぼらせ給(たまひ)ける。御供の人々、御手を引(ひき)、御腰(おんこし)をおし奉りけれ共、いつならはしの御事なれば、御足よりは血ながれて、あゆみわづらひ給(たまひ)けり。只夢路(ゆめぢ)をたどる御心ちして、即(すなはち)絶(たえ)いらせ給(たまひ)けり。人々なみゐて守り奉(たてまつり)けるに、はや御目くれけるにや、「人やある」とめされければ、皆聲々に名乘(なのり)けり。「水やある、參らせよ」と仰(おほせ)ければ、我もわれもと求むれ共なかりけり。然るに法師の水瓶(みづがめ)をもちて、寺の方(かた)へとほりけるを、家弘乞(こひ)取てまゐらせけり。是に少し御氣色(みけしき)なほりて見えさせ給へば、各「官軍定ておそひ來り候らん。いかにもいそがせ給へ」と申せば、「武士共は皆いづちへも落行(おちゆく)べし。丸(まろ)はいかにもかなはねば、先(まづ)こゝにてやすむべし。もし兵(つはもの)追來らば、手を合(あはせ)て降(かう)を乞(こひ)ても、命計(ばかり)はたすかりなん」と仰(おほせ)なりけれども、判官を始として、各「命を君にまゐらせぬる上は、いづ方(かた)へかまかり候べき。東國などへ御ひらき候はば、いづくまでも御供仕り、御行衞(おんゆくゑ)を見はてまゐらせん」と申(まうし)ければ、「我もさこそは思ひしかども、今は何とも叶(かなひ)難し。汝等はとく/\退散(たいさん)して、命をたすかるべし。各かくて侍(はべ)らば、中々御いのちをも敵にうばゝれなん」と、再三強(し)ひて仰(おほせ)ければ、「此上は還而(かへつて)恐(おそれ)あり」とて、諸將みな鎧の袖をぞぬらしける。角(かく)てかなふべきならば、皆ちり/゛\に成(なり)にけり。爲義、忠正は、三井寺の方(かた)へぞ落行(おちゆき)ける。
 家弘、光弘計(ばかり)殘(のこり)とゞまて、谷のかたへ引下(おろ)しまゐらせて、御上(おんうへ)に柴折(しばをり)かけ奉り、日のくるゝをぞ相まちける。御出家ありたき由仰(おほせ)なりけれども、此山中にては叶ひがたき由を申あぐれは、御涙にむせばせ給ひけるぞかたじけなき。日暮(くれ)ければ、家弘父子して肩に引懸(ひきかけ)まゐらせて、法勝寺(ほつしようじ)の北を過(すぎ)、東光寺の邊(へん)にて、年來(としごろ)知(しつ)たる所に行て、輿をかりてのせ奉り、「いづくへ仕(つかまつる)べき」と申(もうし)ければ、「阿波(あは)の局(つぼね)のもとへ」と仰(おほせ)ありしかば、家弘習はぬわざに、二條を西へ大宮まで入(いれ)奉れども、門戸(もんこ)をとぢて人もなし。「さらば左京の太夫のもとへ」と仰(おほせ)らるれば、大宮を下(くだ)りに、三條の坊門(ばうもん)までかき奉れば、教長(のりなが)の卿は此曉(あかつき)、白河殿の烟(けぶり)の中をまよひ出(いで)給て後は、其行方(ゆくへ)をしらざりければ、殘りとゞまる者どもも、みな逃失(にげうせ)て人もなし。「さらば少輔内侍(せうのないし)がもとへ」とて、入(いれ)まゐらせけれども、それもきのふけふの世間(よのなか)なれば、諸事にむつかしくやありけん、たゝけども/\音もせず。世界ひろしといへども、立いらせ給(たまふ)べき所もなし。五畿七道も道せばくて、御身をよすべき陰(かげ)もなく、東西南北ふたがりて、御幸(ごかう)成(なる)べき所もなし。」



「勅を奉じて重成新院を守護し奉る事」より:

「新院は御室(おむろ)をたのみまゐらせられて、入らせ給ひしかども、門跡(もんぜき)にはおき申されず、寛遍法務(くわんぺんほふむ)が坊(ばう)へぞ入(いれ)まゐらせられける。御室(おむろ)は五の宮にてわたらせ給へば、主上にも仙洞(せんとう)にも御弟にておはしましけり。此よし、五の宮より内裏(だいり)へ申されたりければ、佐渡の式部の大輔(たいふ)重成をまゐらせられて、院を守護し奉られけり。餘(あまり)の御心うさにや、御心のとゞまる事はましますまじけれども、角(かう)ぞおぼしめしつゞけける。
   思ひきや身をうき雲となしはててあらしの風にまかすべしとは
   うき事のまどろむ程はわすられてさむれば夢のこゝちこそすれ」



「新院御經沈(おんきやうしづめ)の事 附たり崩御の事」より:

「我はるかに神裔(しんえい)をうけて天子の位をふみ、太上天皇の尊號をかうぶりて、枌楡(ふんゆ)の居(きよ)をしめき。先院御在世(ございせい)の間なりしかば、萬機(ばんき)の政(まつりごと)を心にまかせずといへ共、久しく仙洞(せんとう)のたのしみにほこりき。思出(おもひで)なきにあらず。或は金谷(きんこく)の花をもてあそび、或は南樓(なんろう)の月に吟(ぎん)じ、すでに卅八年を送れり。過(すぎ)にしかたを思へば、昨日(きのふ)の夢のごとし。いかなる前世(ぜんせ)の宿業(しゆくごふ)にか、かゝるなげきにしづむらん。たとひ鳥の頭(かしら)しろくなるとも、歸京の期(ご)をしらず。さだめて望郷(ぼうきやう)の鬼とぞならんずらん。ひとへに後世(ごせ)の御ためとて、五部の大乘經(だいじようきやう)を、三年(みとせ)がほどに御自筆にあそばして、貝鐘(かひがね)の音もきこえぬ所に、おき奉らんも不便(ふびん)なり。八幡山(やはたやま)か高野山歟(か)、もし御ゆるしあらば、鳥羽の安樂壽院(あんらくじゆゐん)の故(こ)院の御墓におき奉り度(たき)よし、平治元年の春の比(ころ)、仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)へ申させ給(たまひ)しかば、五の宮よりも、關白殿へ此由つたへ申させ給ふ。殿下よりよきやうにとり申させ給へども、主上つひに御ゆるされなくして、彼(かの)御經(おんきやう)を則(すなはち)かへしつかはされ、御室(おむろ)より、「御とがめ重くおはしますゆゑ、御手跡(ごしゆせき)なりとも、都ちかくはおかれがたきよし承り候間、力およばず」と御返事ありければ、法皇此よしきこしめして、「口をしき事かな。我朝にかぎらず、天竺(てんぢく)、震旦(しんたん)にも、國を論じ位をあらそひて、伯父、甥(をひ)謀叛(むほん)をおこし、兄弟合戰をいたす事なきにあらず。我此事を悔いおもひ、惡心懺悔(ざんげ)のために此經をかき奉る所也。しかるに筆跡(ひつせき)をだに、都におかざる程の儀に至ては力なく、此經を魔道(まだう)に廻向(ゑかう)して、魔縁(まえん)と成(なつ)て遺恨(ゐこん)を散ぜん」と仰(おほせ)ければ、此由都へきこえて、御ありさま見てまゐれとて、康賴(やすより)を御使に下(くだ)されけるが、參(まゐつ)て見奉れば、柿(かき)の御衣(おんころも)のすゝけたるに、長頭巾(ながづきん)をまきて、御身の血をいだして、大乘經(だいじようきやう)の奧に御誓狀(ごせいじやう)をあそばして、千尋(ちひろ)の底へしづめ給ふ。其後は御爪(おんつめ)をもとらせ給はず。御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、惡念(あくねん)にしづみ給ひけるこそおそろしけれ。
 かくて八年おはしまして、長寛二年八月廿六日に、御歳四十六にて、志戸(しど)といふ所にて、かくれさせ給(たまひ)けるを、白峯と云(いふ)所にて烟(けぶり)になし奉る。此君怨念(をんねん)によて、いきながら天狗(てんぐ)のすがたにならせ給(たまひ)けるが、其故にや中二(なかふた)とせあて、平治元年十二月九日、信賴の卿にかたらはれて義朝大内(おほうち)にたてこもり、三條殿をやきはらひ、院(ゐん)、内(うち)をもおしこめ奉り、信西(しんぜい)入道の一類をほろぼし、掘(ほり)うづまれし信西(しんぜい)が死骸(しがい)をほりおこし、首をば大路(おほぢ)をわたしけり。たえて久しき死罪を申(まうし)おこなひ、左府の死骸(しがい)をはづかしめなど、あまりなる事申(まうし)おこなひしがはたす所也。去(さん)ぬる保元三年八月廿三日に、御位春宮(とうぐう)にゆづり給ふ、二條の院これ也。院と申は、先帝後白河の御事なり。信賴もたちまちにほろびぬ。義朝も平氏にうちまけて落ゆきけるが、尾張の國にて相傳(さうでん)の家人(けにん)、長田庄司忠致(をさだのしやうじたゞむね)にうたれて、子どもみな死罪流刑(るけい)におこなはる。誠に乙若(おとわか)のたまひけるごとくなり。栴檀(せんだん)は二葉よりかうばしく迦陵頻(かりようびん)は卵(かひこ)の中に妙(たへ)なる音(こゑ)あるごとく、乙若(おとわか)をさなけれ共、武士の家にむまれて、兵(つはもの)の道をしりける事こそあはれなれ。此亂は讃岐の院いまだ御在世(ございせい)の間に、まのあたり御怨念(ごをんねん)のいたす所と、人申(まうし)けり。
 仁安三年の冬の比(ころ)、西行法師諸國修行のついでに、白峯の御墓にまゐりて、つく/゛\と見まゐらせ、昔の御事思ひ出(いだし)奉て、かうぞよみ侍(はべり)ける。
   よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後はなににかはせん
 治承元年六月廿九日、追號(つゐがう)ありて崇德(しゆとく)院とぞ申(まうし)ける。」



「爲朝生捕(いけどり)流罪(るざい)に處せらるゝ事」より:

「さるほどに、「爲朝をからめて參りたらん者には、不次(ふじ)の賞あるべし」と宣旨下(くだ)りけるに、八郎、近江の國輪田(わだ)と云(いふ)所にかくれゐて、郎等一人法師になして、乞食(こつじき)させて日を送りけり。筑紫へくだるべき支度をしけるが、平家の侍(さぶらひ)筑後の守家貞、大勢にてのぼると聞えければ、其程ひるはふかき山に入て身をかくし、よるは里に出(いで)て食事をいとなみけるが、有漏(うろ)の身なれば病(や)みいだして、灸治(きうぢ)などおほくして、温疾(をんしつ)大切の間、ふるき湯屋(ゆや)を借(かり)て、常におりゆをぞしける。爰(こゝ)に佐渡の兵衞重貞(しげさだ)といふ者、宣旨をかうぶて、國中を尋(たづね)もとめける所に、ある者申(まうし)けるは、「此程、この湯屋(ゆや)に入(いる)者こそあやしき人なれ。大男のおそろしげなるが、さすがに尋常氣(じんじやうげ)なり。としは廿(はたち)ばかりなるが、額(ひたひ)に疵(きず)あり。ゆゝしく人にしのぶとおぼえたり」とかたれば、九月二日湯屋(ゆや)におりたる時、卅餘騎にておしよせてけり。爲朝眞裸(まはだか)にて、合木(あふご)をもてあまたの者をばうちふせたれども、大勢にとりこめられて、云(いひ)がひなくからめられにけり。季實判官請取(うけとつ)て、二條を西へわたす。しろき水干(すゐかん)、袴(はかま)にあかき帷子(かたびら)をきせ、本(もと)どりに白櫛(しらぐし)をぞさしたりける。北陣(きたのぢん)にて叡覽(えいらん)あり。公卿(くぎやう)、殿上人(てんじやうびと)は申(まうす)に及ばず、見物の者市(いち)をなしけり。面(おもて)の疵(きず)は、合戰の日、正淸に射られたりとぞ聞えける。すでに誅(ちゆう)せらるべかりしが、已前(いぜん)の事は合戰の時節なれば力なし。事すでに違期(ゐご)せり。未(いまだ)御覽ぜられぬ者の體(てい)なり。且は末代(まつだい)にありがたき勇士なり。しばらく命をたすけて遠流(をんる)せらるべし、と議定(ぎぢやう)ありしかば、流罪(るざい)にさだまりぬ。但(たゞし)息災(そくさい)にては後あしかりなんとて、肘(かひな)をぬきて、伊豆の大島へながされけり。」


「爲朝鬼が島に渡る事 并に最後の事」より:

「十年(ととせ)にあたる永萬元年の三月に、磯(いそ)にいでてあそびけるに、白鷺(しらさぎ)、靑鷺(あをさぎ)二つつれて、沖(おき)のかたへとびゆくをみて、「鷲(わし)だに一羽(ひとは)に千里をこそとぶといふに、いはんや鷺(さぎ)は一二里にはよもすぎじ。此鳥のとびやうは、さだめて島ぞあるらん。追て見ん」といふまゝに、はや舟に乘て馳(は)せてゆくに、日もくれ夜にもなりければ、月を篝(かゞり)にこぎゆけば、曙(あけぼの)にすでに島かげ見えければ、こぎよせたれ共、あら磯(いそ)にて波たかく、巖(いはほ)さかしくて、船をよすべきやうもなし。おしまはして見給ふに、戌亥(いぬゐ)の方(かた)より小川ぞながれ出(いで)たりける。御曹司(おんざうし)は西國にて船には能(よく)調練(てうれん)せられたり、舟をも損せずおしあげて見給へば、たけ一丈あまりある大童(おほわらは)の、髪は空樣(そらざま)にとりあげたるが、身には毛ひしと生(お)ひて、色くろく牛のごとくなるが、刀を右にさしておほく出(いで)たり。おそろしなどもいふばかりなし。申言(まうすこと)ばもきゝしらざれ共、大かた推(すゐ)してあひしらふ。「日本の人こゝに島ありとしらねば、わざとはよもわたらじ、風にはなたれたるらん。むかしより惡風にあうて、此島に來(きた)る者いきてかへる事なし。あら磯(いそ)なれば、をのづから來(きた)る舟は浪にうちくだかる。此島には舟もなければ、乘てかへる事なし。食物(じきもつ)なければ、たちまちに命つきぬ。もし舟あらば、粮(かて)つきざるさきに早く本國にかへるべし」とぞ申(まうし)ける。郎等どもはみな興(きよう)をさまして思ひけれども、爲朝はすこしもさわがず、「磯(いそ)に舟をおきたればこそ、波にもくだかるれ。たかくひき上(あげ)よ」とて、はるかの上へぞ引上(ひきあげ)ける。
 さて島をめぐりて見給ふに、田もなし、畠もなし。菓子(くわし)もなく、絹綿(きぬわた)もなし。「なんぢら何をもて食事とする」と問へば、「魚鳥」と答(こたふ)。網ひく體(てい)みえず、釣する舟もなし。又はがもたてずもち繩(なは)もひかず。「いかにして魚鳥をばとるぞ」と問へば、「われらが果報(くわはう)にや、魚は自然とうちよせらるゝをひろひとる。鳥をば穴をほりて、領知(りやうち)分(わかち)て其あなに入(いり)、身をかくし、聲をまなびて呼べば、其聲について鳥おほくとびいるを、あなの口をふさぎて、闇取(やみとり)にする也」といふ。げにも見れば鳥あなおほし。其鳥のせいは鵯(ひえどり)ほどなり。爲朝是を見給ひて、件(くだん)の大鏑(おほかぶら)にて、木にあるを射おとし、空をかけるを射ころしなどし給へば、島の者ども舌を振(ふつ)ておぢおそる。「汝らも我にしたがはずば、かくのごとく射ころすべし」とのたまへば、みな平伏(ひれふ)して隨ひけり。身にきる物は網のごとくなる太布(ふとぬの)也。此布を面々(めん/\)の家々よりおほくもち出(いで)て、前につみおきけり。島の名を問ひ給へば、「鬼が島」と申(まうす)。「しかればなんぢらは鬼の子孫歟(か)」。「さん候」。「さてはきこゆる寶あらばとりいだせよ、見ん」とのたまへば、「昔まさしく鬼神(きじん)なりし時は、隱簔(かくれみの)、隱笠(かくれがさ)、浮履(うかびぐつ)、沈履(しづみぐつ)、劔(つるぎ)などいふ寶ありけり。其比(ころ)は船なけれ共、他國へもわたりて、日食人(につしよくじん)の生贄(いけにへ)をもとりけり。今は果報(くわはう)つきて寶もうせ、かたちも人になりて、他國に行(ゆく)事もかなはず」といふ。「さらば島の名をあらためん」とて、ふとき葦(あし)おほく生(おひ)たれば、蘆島(あしじま)とぞ名付(なづけ)ける。此島俱(ぐ)して七島知行(ちぎやう)す。是を八丈島の脇島(わきしま)と定めて、年貢(ねんぐ)を運送すべきよしを申(まうす)に、船なくしていかゞすべき」となげく間、毎年一度舟をつかはすべきよし、約束してけり。但(たゞし)今わたりたるしるしにとて、件(くだん)の大童(おほわらは)一人具してかへり給ふ。
 大島の者、あまりに物あらくふるまひ給へば、龍神八部(りゆうじんはちぶ)にとられて、失(う)せつらんとよろこび思ふ所に、事ゆゑなくかへり給ふのみならず、あまさへおそろしげなる鬼童(おにわらは)をあひ具して來りたれば、國人(くにたみ)彌(いよ/\)おぢおそる。」

「此爲朝は十三にて筑紫へ下(くだ)り、九國を三年にうちしたがへて、六年をさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戰に名をあらはし、廿九歳にて鬼が島へわたり、鬼神(きじん)をとて奴(やつこ)とし、一國の者おぢおそるといへども、勅勘(ちよくかん)の身なれば、つひに本意をとげず、卅三にして自害して、名を一天にひろめけり。「いにしへより今にいたるまで、此爲朝ほどの血氣(けつき)の勇者なし」とぞ諸人(しよにん)申(まうし)ける。」







こちらもご参照ください:

『平治物語』 岸谷誠一 校訂 (岩波文庫)









































































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うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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