FC2ブログ

『梅沢本 古本説話集』 川口久雄 校訂 (岩波文庫)

「いまはむかし、ちゝも、はゝも、しうも、めも、こもなくて、たゞひとりある、あをさぶらひ有けり。」
(『古本説話集』 「長谷寺參詣男以蝱替大柑子事」 より)


『梅沢本 
古本説話集』 
川口久雄 校訂
 
岩波文庫 黄/30-026-1 


岩波書店 
1955年4月25日 第1刷発行
1982年11月10日 第9刷発行
213p 別丁口絵(モノクロ)1葉
文庫判 並装
定価350円



本書「凡例」より:

「本書は梅澤彦太郎氏所藏、鎌倉期書寫とおぼしき古鈔本「古本説話集」(田山方南氏假題)を原本どおりに飜刻したものである。」
「本書は近時はじめて發見された天下の孤本であるから、能うかぎり原本に忠實に飜印につとめ、漢字および假名の區別も、原本のまゝとし、原本に書入れられた校合、みせけち、誤脱の訂補等のあとも、すべて原本どおりに收めた。」
「新しく章段を設けて、章段毎に行を改めた。これは原本にはないところである。」
「新しく句讀點・濁點および對話や引用の符號「 」『 』の印を施した、これも原本にないところ。」




古本説話集



帯文:

「北は陸奥から南は大隅の国まで、古代民衆の姿をいきいきと伝える民話集。新資料の発見により初めて活字として本文庫に収められた。」


目次:

凡例

卷上
 目次
 大齋院の事 第一
 公任の大納言屏風の哥を遲く進(まゐ)らるる事 第二
 或る人所々を歴覽する間尼の家に入りて和哥を詠む事 第三
 匡衡の和哥の事 第四
 赤染衞門の事 第五
 帥(そち)の宮和泉式部に通ひ給ふ事 第六
 和泉式部が歌の事 第七
 御荒(みあれ)の宣旨が哥の事 第八
 伊勢大輔が哥の事 第九
 堤中納言の事 第十
 季縄の少將の事 第十一
 清少納言の事 第十二
 公任の大納言の事 第十三
 清少納言が清水の和哥の事 第十四
 道命阿闍梨が事 第十五
 継子が小鍋の哥の事 第十六
 賀朝の事 第十七
 樵夫の事 第十八
 平中の事 第十九
 伯の母の事 第二十
 伯の母が佛事の事 第二十一
 貫之の事 第二十二
 躬恒の事 第二十三
 蟬丸(せびまろ)の事 第二十四
 藤六(とうろく)の事 第二十五
 長能道濟(ながたうみちなり)の事 第二十六
 河原の院の事 第二十七
 曲殿(まがりとの)の姫君の事 第二十八
 伊勢の御息所の事 第二十九
 高光の少將の事 第三十
 公任の大納言の事 第三十一
 道信の中將父の喪に遭ふ事 第三十二
 貧しき女の盂蘭盆の哥の事 第三十三
 或る女房の鏡を賣る事 第三十四
 元良(もとよし)の御子の事 第三十五
 小大君(こおほきみ)の事 第三十六
 大齋院荼毗(だび)の煙を見給ふ事 第三十七
 樵夫の隱し題を詠む事 第三十八
 道信の中將の花山院の女御に哥を献(たてまつ)らるる事 第三十九
 高忠が侍の事 第四十
 貫之の土左の任に赴く事 第四十一
 大齋院女院の御出家の時を以て和哥を進(まゐ)らるる事 第四十二
 入道殿の御佛事の時大齋院和哥を進らるる事 第四十三
 大隅の守の事 第四十四
 安倍の中麿の事 第四十五
 小野の宮殿の事 第四十六

卷下
 目次
 興福寺建立(こんりう)の事 第四十七
 貧しき女の観音の加護を蒙むる事 第四十八
 淸水の利生(りしやう)に依りて谷底に落し入れたる少(わか)き兒(ちご)を生(い)けしむる事 第四十九
 關寺に依りたる牛の事 和泉式部が和哥を詠む事 第五十
 西(さい)三條殿の若君百鬼夜行(やぎやう)に遇ふ事 第五十一
 極樂寺の僧仁王經の驗を施(まう)くる事 第五十二
 丹後の國の成合の事 第五十三
 田舎人の女子観音の利生を蒙むる事 第五十四
 摩訶陀國の鬼人を食ふ事 第五十五
 留志(るし)長者の事 第五十六
 清水寺に二千度詣でしたる者雙六(すぐろく)に打ち入るる事 第五十七
 長谷寺に參詣したる男蝱(あぶ)を以て大柑子(だいかうじ)に替へたる事 第五十八
 清水寺にて御帳(みちやう)を給はる女の事 第五十九
 眞福田丸(まふくたまろ)の事 第六十
 伊良縁野世恒(いらえのよつね)毗沙門の下(くだ)し文(ぶみ)を給はり鬼神田の物を與へ給ふ事 第六十一
 和泉の國の國分寺の住持艶(こひ)を吉祥天女(によ)に寄する事 第六十二
 龍樹菩薩先(さき)の生(よ)に隱れ簔笠を以て后妃を犯す事 第六十三
 観音經蛇身に變化(へんぐゑ)して鷹生(たかじやう9を輔(たす)けたまふ事 第六十四
 信濃の國の聖の事 第六十五
 賀茂の社より御幣紙(ごへいがみ)米(よね)等を滅(き)ゆる程用途(ようど)に給はる僧の事 第六十六
 観音の信女(によ)に替りて田を殖ゑたまふ事 第六十七
 小松の僧都の事 第六十八
 信濃の國筑摩(つくま)の湯に観音の人の爲に沐(ゆあみ)せしめ給ふ事 第六十九
 關寺の牛の間(あひだ)む事 第七十

補注
語句索引・和歌索引
解題




古本説話集 02



◆本文より◆


「〔長谷寺參詣男以蝱替大柑子事 第五十八〕」より:

「いまはむかし、ちゝも、はゝも、しうも、めも、こもなくて、たゞひとりある、あをさぶらひ有けり。すべきはうもなかりけるまゝに、「観音、たすけさせ給へ」とて、はつせにまいりて、おまへにうつぶし/\て、申けるやう、「このよに、かくてあるべくは、やがて、この御まへにて、ひじにゝしなん。又をのづからなるたよりもあるべくは、そのよしのゆめみざらんかぎりは、まかりいづまじ」とて、うつぶし/\たりけるを、寺の僧みて、「こは、いかなる物ゝ、かくては候ぞ。物くふ所みえず、かくてうつぶし/\たれば、寺のため、けがらひいできて、大事なりなん。たれを○(師には)したるぞ。いづこにてか、物はくふ」など、とひければ、「かくたよりなき人は、しどりも、いかにしてかし侍らん。物たぶる所もなく、あはれと申人もなければ、佛の給はん物をたべて、ほとけをしとたのみたてまつりて候也」とこたへければ、寺の僧ども、あつまりて、「この事、いとふびのこと也。寺のために、大事なり。観音をかこち申人にこそあめれ。○(これ)あつまりて、やしなひてさぶらはせん」とて、かはる/゛\物をくはせければ、もてきたる物をくひつゝ、御まへにたちさらず候けるほどに、三七日になりにけり。」


「〔和泉國々分寺住持艶寄吉祥天女事 第六十二〕」:

「いまはむかし、いづみのくに、こくぶでらに、かねつき法師ありけり。かねつきありきけるに、吉祥天のおはし○(まし)けるを、みたてまつるだに、思ひかけたてまつりて、かきだきたてまつり、ひきつみたてまつり、くちすうまねなどして、月ごろふる程に、ゆめにみるやう、かねつきにのぼりたるに、れいの事なれば、きちじやうてむを、まさぐりたてまつるに、うちはたらきての給やう、「わ法師の、月ごろ、我を思ひかけて、かくする、いとあはれ也。われ、なんぢがめにならむ。そのつきのその日、はりまのいなみのに、かならずきあえ。そこにてぞあはむずる」と見て、さめて、うれしきことかぎりなし。物おほせられつる御かほの、うつゝのやうに、おもかげにたちて、みえさせ給へば、いつしか、その月日になれかしと、おぼゆ。あけくるゝも、しづ心なきほどに、からうじて、まちつけて、まづかしこにきをゝきて、いなみのに、その日になりて、いつしか/\としありくに、えもいはぬ女房の、いろ/\のきぬきて、すそとり、いできたり。
みつけて、これかと思へど、わななかれて、ふとえよりつかず。女房、「いとあはれにきあひたり」とて、「いまは、まづ、いるべき家一つくれ。」「あはれ、いかにしてか、つくり候べき」とまうせば、「ことにもあらず、とくはじめよ」とあるほどに、おのこの、あるひとり、いできて、「かく野中には、いかなる人のおはします○(ぞ)」といへば、「この邊にすまむと思ひて、きたるに、家もなし、たよりもなければ、いかゞせまし」といへば、「さては、ことにも候はず、をのれが候へば、なにごとに候と、つかまつらん」といへば、「まづ、おはしましどころ、つくり候はん」とて、「人めしてまいらむ」とて、いぬ。そのへんのむねとある物ゝ、たうをほかるなゝりけり。つげまはしたりければ、あつまりて、けたひとつ、をの/\もてつゞきて、もてきたり。なにもかも、ふりわくやうに、いでくれば、この、かく物する物とても、かつは、をのが物ども、とりもてく。又物とらせなどして、ほどなく、家、めでたくつくり、えもいはずしつらひて、すゑたてまつりつ。
ちかくまいりよりて、ふしたる心ち、おきどころなし。おほせらるゝ樣、たゞわれひとりのみをせよ」と、おほせらるゝ。これは、たゞあらん女の、すこしおもはしからんが、いはんだに、したがはざるべきにあらず。ましてまして、これはいふかぎりなし。「いかにも、たゞ、おほせにしたがひてこそ候はめ」と申せば、「いとよくいひたり」とて、あはれとおぼしたり。
かくて、田をつくれば、この一たんは、ことびとの十ちやうに、むかはりぬ。よろづに、とぼしき物、つゆなし。そのこほりのひと、かなはぬなし。となりのこほりの人も、きゝつゝ、物こふにしたがひつ(マゝ)とらす。又、もているむま、うし、おほかり。かくしつゝ、ひとくにゝみちにたれば、くにのかみも、やむごとなき物にして、いひといふ事の、きかぬなし。
かくたのしくて、としごろあるほどに、ことのさたしに、かみのこほりにいきて、日ごろあるほどに、ついせうする物、「あはうのこほりの、なにがしと申物のむすめの、いとよきをこそめして、御あしなど、うたせさせ給はめ」といひければ、「すきご○(こ)ろは(マゝ)きたりとも、をかさばこそはあらめ」と思ひて、「よかんなり」といひければ、心うくさうぞかせて、いできにけり。ちかくよびよせて、あしもたせなどしける程に、いかゞありにけむ、した○(し)くなりにけり。思ふとならねど、日ごろ有ける程、おきたりけり。
ことのさたはてゝ、かへりたりけるに、御けしきいとあしげにて、「いかで、さばかりちぎりしことをばやぶるぞ」とて、むつからせ給て、「いまは、我かへりなむ。こゝにえあらじ」と、おほせられければ、ことはり申、なをしたひ申けれど、「これ、としごろの物なり」とて、おほきなりけるをけに、しろき物をふたをけかきいだして、たびて、いづちともなくて、うせ○(給)にければ、くひ(マゝ)なきしけれども、かひなし。このをけなりける物は、このほうしの、としごろのいんよくといふ物を、ためをかせ給へりけるなりけり。さてのちは、いとゞをのやうにもこそなけれど、いとまづしからぬ物にて、いとよくて、ひじりにてやみにけると、人のかたりし也。」



「〔信濃國聖事 第六十五〕」:

「いまはむかし、しなのゝ國に、法師ありけり。さるゐ中にて、ほうしになりにければ、まだずかいもせで、「いかで、京にのぼりて、東大寺といふところにまいりて、ずかいせん」とおもひて、かまへてのぼりて、ずかいしてけり。
さて、もとのくにへかへらむと思ひけれど、「よしなし、さる無佛世界のやうなる所に、いかじ。こゝにいなむ」とおもふこゝろつきて、東大寺の仏の御前に候て、「いづくにか、をこなひして、のどやかにすみぬべき所」と、よろづのところをみまはしければ、ひつじさるのかたに、やま、かすかにみゆ。そこにおこなひて、すまむと思ひて、ゆきて、山の中に、えもいはずおこなひて、すごす程に、すゞろに、ちゐさやかなるづしぼとけを、ゝこなひいでたりければ、そこにちいさきだうをたてゝ、すゑたてまつりて、えもいはずおこなひて、としつきをふるほどに、山ざとに、げすに人とて、いみじきとくにむむありけり。
そこに、そふのはちは、つねにとびゆきつゝ、物はいりてきけり。おほきなるあぜくらのあるをあけて、物とりいでさするほどに、このはちとびて、れいの物こひにきたりけるを、「れいのはち、きにたり。ゆゝしく、ふくつけきはちよ」とて、とりて、くらのすみになげをきて、とみに物もいれざりければ、はちはまちゐたりけるほどに、物どもしたゝめはてゝ、このはちをわすれて、物もいれず、とりもいでゞ、くらのとをさして、ぬし、かへりぬるほどに、とばかりて、このくら、すゞろに、ゆさ/\と、ゆるぐ。「いかに/\」とみさはぐほどに、ゆるぎゆるぎして、つちより一尺ばかりゆるぎあがるときに、「こはいかなることぞ」と、あやしがり、さはぐ。「まこと/\、ありつるはちをわすれて、とりいでずなりけれ、それがけにや」などいふほどに、このはち、くらよりもりいでゝ、このはちにくらのりて、たゞのぼりに、そらさまに、一二尺ばかりのぼる。さて、とびのぼる程に、人/\みのゝしり、あさみ、さはぎあひたり。くらぬしも、さらにすべきやうもなければ、このくらのいかむ所をみむとて、しりにたちていく。そのわたりのひと/゛\、みないきけり。さて、みれば、やう/\とびて、かうちのくにに、このひじりのおこなふかたわらに、どうとをちぬ。
いと/\あさましと思ひて、さりとてあるべきならねば、ひじりのもとに、このくらぬし、よりて申やう、「かゝるあさましきことなむ候。このはちの、つねにまでくれば、物いれつゝ、まいらするを、けふ、まぎらはしく候つるほどに、くらにをきて、わすれて、とりもいでゞ、じやうをさして候ければ、くら、たゞゆるぎにゆるぎて、こゝになむ、とびて、まうできて、をちたて候。このくらかへし給候はん」と申時に、「まことにあやしきことなれど、まどひてきにければ、くらは、えかへしとらせじ。こゝにも、かやうのものもなきに、をのづから、さやうの物もをかん。よし/\。うちならむものは、さながらとれ」との給へば、ぬしのいふやう、「いかにしてか、たちまちにははこびとり候べからむ。物せんごく、つみて候つる也」といへば、「それは、いとやすき事也。たしかに、我、はこびてとらせむ」とて、このはちに、こめひとたわらをいれて、とばすれば、かりなどのつゞきたるやうに、のこりのこめども、つゞきたり。
むらすゞめなどのやうに、とびつゞきたるをみるに、いと/\あさましく、たうとければ、ぬしのいふやう、「しばし、みなゝつかはしそ。こめ二三百は、とゞめて、つかはせ給へ」といへば、ひじり、「あるまじきこと也。それ、こゝにおきては、なにゝかせん」といへば、「さは、たゞつかはせ給候ばかり、十廿をも」といへど、「さまでも、いるべき事あらばこそ、とゞめゝ」とて、ぬしの家に、たしかにみなをちゐにけり。
かやうに、たうとくおこなひて、すぐすほどに、そのころ、えんぎの御かど、おもくわづらはせ給て、さま/゛\の御いのりども、御ずをう、御ど經など、よろづにせらるれど、さらにえをこたらせ給はず。あるひとの申やう、「かうちに、しんぎと申ところに、このとしごろ、をこなひて、さとへいづる事もせぬひじり候也。それこそ、いみじくたうとく、しるしありて、はちをとばし、さて、ゐながら、よろづのありがたきことをし候なれ。それをめして、いのらせさせ給はゞ、をこたらせ給なむかし」と申せば、「さは」とて、くら人をつかひにて、めしにつかはす。
いきてみるに、ひじりの、さまことに、たうとく、めでたし。「かう/\せんじにて、めすなり」とて、まいるべきよしいへば、「かう/\候。御なうの大事におはしますなり。いのりまいらせ給はむに」といへば、「それは、たゞいまゝいらずとも、こゝながら、いのりまいらせ候はん」といへば、「さては、もしをこたらせおはしましたりとも、いかでひじりのしるしとはしるべき」といへば、「それは、たがしるしといふこと、しらせ給はずとも、たゞ御心ちだに、おこたらせ給なば、よく候なん」といへば、御使の藏人、「さるにても、いかでか、あまたの御いのりの中にも、そのしるしとみえんこそよからめ」といへば、「さらば、いのりまいらせん、やませ給へらば、けんのごをうと申ごをうをまいらせむ。おのづから、御ゆめにも、まぼろしにも、御らんぜば、さとへしらせ給へ。けんをあみつゝ、きぬにきたるごう也。さらに京へは、えいでじ」といへば、ちよくしのつかひ、かへりまいりて、かう/\と申程に、三日といふひるつかた、きとまどろませ給ともなきに、きら/\とある物、みえさせ給へば、「いかなる人にか」とて、御らんずれば、あのひじり○(の)いひけむごをうなりと、おぼしめすより、御心ち、さは/\となりて、いさゝか心ぐるしきこともなくて、れいさまにならせ給にければ、人/\よろこび、ひじりをも、たう○(と)がり、めであひたり。
御かど、御心ちにも、めでたくたうとくおぼしめせば、ひとつかはす。「僧都、僧正にやなるべき。又そのてらに、御庄などをや、よすべき」○(と)おほせつかはす。ひじり、うけ給はりて、「僧都、僧正、さらに候まじきこと。また、かゝるところに、さうなど、あまたよりぬれば、別當、なにくれなど、いできて、中/\むつかしく、つみえがましきこといでく。たゞ、かくて候はん」とて、やみにけり。
かゝるほどに、このひじりのあねぞ、一人ありける。このひじり、ずかいせむとて、のぼりけるまゝに、かくて、としごろみえねば、「あはれ、このこゐむ、とうだいじにて、ずかいせむとて、のぼりしまゝに、みえぬ。かうまで、としごろみえぬ、いかなるならむ」とおぼつかなきに、「たづねてこん」とて、のぼりて、やましなでら、とうだいじのわたりを、たづねけれど、「いさしらず」とのみいふなる。ひとごとに、「まうれんこゐんといふ人やある」とゝへど、しりたりといふ人なければ、たづねわびて、「いかにせむ、これがありさま、きゝてこそかへらめ」と思ひて、その夜、東大寺の大仏の御前に候て、よひとよ、「このまうれんが有ところ、をしへさせおはしませ」と申けり。
よひとよ申て、うちまどろみたるゆめに、このほとけ、おほせらるゝやう、「たづぬる僧のあるところは、これよりにしのかたに、みなみによりて、ひつじさるのかたに、<やまあり。その山に、しうむ、たなびきたるところを、ゆきてたづねよ」とおほせらるゝと見て、さめたれば、あか月になりにけり。いつしか、とくよのあけよかしとおもひて、みゐたれば、ほの/\とあけたるに、ひつじさるのかたをみやりたれば、やまかすかにみゆるに、むらさきのくも、たなびきたり。うれしくてゆく。
そこをさしてゆきたれば、まことに、だうなどあり。人のけしきみゆるところによりて、「命れむこゐやいまする」といへば、「たそ」とて、さしいでゝ見れば、しなのなりしわがあねの、あまぎみなり。「こはいかにかたづねおはしたる。おもひかけず」といへば、ありつることのさまをかたる。さて、「いかにさむくておはしつらん。これをきせたてまつらんとて、もたりつるものなり」とて、ふところより、ひきいでたるものをみれば、たいといふものを、なべてのにもにず、ふときいとなどして、あつ/\と、こまかに、つよげにしたれば、よろこびて、とりてきたり。もとは、かみぎぬをたゞひとつきたりければ、まことにいとさむかりつるに、これをしたにきたれば、さむくもなくて、おほくのとしごろをこなひけり。このいもうとのあまぎみも、ゝとのくにへも、かへらざりけり。そこにぞをこなひてありける。
さて、おほくのとしごろ><この>ふくたいをのみきて、おこなひければ、はてには、やれ/\となしてありけり。はちにのりてきたりしくらをば、とびくらとぞいひける。そのくら○(に)ぞ、ふくたいのやれなどはをさめ、まだにあんなる。そのやれのはしを、つゆばかりなど、をのづから、えんにふれてえたる人は、まぼり○(に)しける。そのくらも、くちやぶれて、いまだあなり。そのきのはしを、つゆばかりえたる人は、まぼりにし、びさもんをつくりたてまつりて、ぢしたてまつるひとは、かならずとくつかぬはなかりけり。されば○(人も)かまへて、そのえんをたづねて、そのくらのをれのきのはしをば、かひとりける。
さて、しんぎとて、えもいはずげんじ給ところにて、いまに人/\あけくれまいる。このびさもんは、まうれんひじりの、をこなひいでたてまつりたりけるとか。」



「解題」より:

「長谷寺に參籠した貧しい孤獨な下人が、一本の藁しべから水田三町歩と民家の持主になるわらしべ長者譚は農村から逃散した浮浪下人が小地主に轉身する奇跡譚である、長谷観音に對する民間信仰を表現するものであれ、律令制末期の民衆の幻想を反映するものであれ、語りだしたら聞き手をつかんではなさない漸層的なサスペンスのおもしろさと、映畫敵な場面轉換の巧みさにみちている民話である。國分寺の僧が吉祥天の彫像に戀慕して、抱擁したり愛撫したりしているうちに、像が動きだしてものを言い、とう/\これと結婚した話は法隆寺の吉祥天女像にみるような藤原彫刻の豐艶な官能性と共に、修行中の靑年僧の美女に對する渇わきと憧れを説話化したもの。毗沙門に教えられて、奧山の頂に立って呪文を叫ぶと、怖しい鬼が出てきて、つかっても減らない魔法の袋の米を授ける話は苦しい生活に喘いでいた王朝末期の民衆の夢のような奇蹟への希求をあらわす。前者の吉祥天女説話の結末は、タブーを破って、他の女を犯したとたんにその美しい妻は「としごろのもの」をお返しするといって、「いんよくというしろきもの」を桶一ぱいに入れて返して去るという滑稽で結んで、一つの猥談めいた笑話となっており、後者の毗沙門説話はさらに小松僧都の話に展開して、御馳走をたべたいと思えば出てくるし、手がいると思えばあらわれ、衣をきたいと思えば出てくる――さながらアラビアンナイトの不思議さから、コクトオの「美女と野獣」の日本版の面白さである。
 このうち、わらしべ物語と鬼神の米の袋の話は今昔や宇治にすでにみえているが、それらと傳承を異にするらしく、興味深い異文がすくなくない點で、説話の本質をしらべる上に貴重な資料であり、國分寺の僧の話や小松僧都の話に至っては全く類話がない。ことに本書の出現によって「繪卷の王」といわれる信貴山縁起繪卷の一つの新しい異文が明かになり、また王朝好色の典型たる平中説話の新しい傳承が紹介せられる。
 校倉が鉢に乘って空にあがったり、米俵が雁の列のように飛ぶ奇抜な奇蹟、劔を衣にきた童子が雲に乘って飛行したり、姉の尼君が大佛に祈る骨肉愛などで織りなされる信濃の國の聖の話は、宇治大納言源隆國の息、鳥羽僧正覺猷の筆と傳えられる繪卷の描寫力と、人間性にみちたユーモアとあいまってわれらを當年の民衆生活の雰圍氣に樂しく誘いこむ。」







こちらもご参照ください:

『撰集抄』 西尾光一 校注 (岩波文庫)
『特別展 鳥獣戯画 京都 高山寺の至宝』 (2015年)
『国宝 信貴山縁起絵巻』 (サントリー美術館 1999年)
ハーマン・メルヴィル 『幽霊船 他一篇』 坂下昇 訳 (岩波文庫)








































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本