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『方丈記 発心集』 三木紀人 校注 (新潮日本古典集成)

「魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居の気味もまた同じ。住まずして、たれかさとらむ。」
(『方丈記』 「六」 より)


『方丈記 発心集』 
三木紀人 校注
 
新潮日本古典集成


新潮社 
昭和51年10月10日 発行
昭和54年7月30日 4刷
437p 
四六判 丸背バクラム装上製本 貼函
定価1,800円
装画: 佐多芳郎



本書「凡例」より:

「本書の底本として、「方丈記」は大福光寺本(一部は一条兼良(かねら)本)、「発心集」は慶安四年刊本を用いた。」
「二作品とも底本は漢字交り片仮名書きであるが、これを漢字交り平仮名書きに改め、段落を切った。」
「底本における漢字を適宜仮名(または、より適切な漢字)に改め、また、仮名に適宜漢字をあてた。」
「句読点・振仮名・送り仮名・濁点は私意によった。」
「会話・引用文等には「 」を付した。」
「漢字は現行の字体、本文・振仮名の仮名づかいは歴史的仮名づかいによった。」
「底本の反復記号は漢字・仮名に改めた。」



第5回配本。



方丈記 発心集



帯文:

「永遠の思想を痛切な生の軌跡でふちどった「方丈記」、奇人と呼ばれるまで信念に徹して死んだ世捨て人たちの列伝「発心集」――。中世を代表する鴨長明の2編。」


帯裏:

「発心集・地獄の文学――
水上勉
 『発心集』の説話は、ぼくには作者の発心の楽しみというよりは、地獄を逃げようとして逃げきれないでいる人の、苦しみを感じさせる。地獄を創ってみせる人の力も感じさせる。凡人にない鋭い目が要所に光って、空想が羽ばたいているので、説話は文学的に精彩を放つように思われる。つまり、きまって後尾につけ足される説法よりは、事の筋書きを綴るその息づかいに興をふかめさせられるのだが、長明はやはり、出離の人というよりは文学者だったとぼくは思う。」



目次:

凡例

方丈記

発心集
 序
 第一
  一 玄敏僧都、遁世逐電の事
  二 同人、伊賀の国郡司に仕はれ給ふ事
  三 平等供奉、山を離れて異州に趣く事
  四 千観内供、遁世籠居の事
  五 多武峯僧賀上人、遁世往生の事
  六 高野の南に、筑紫上人、出家登山の事
  七 小田原教懐上人、水瓶を打ち破る事 付 陽範阿闍梨、梅木を切る事
  八 佐国、華を愛し、蝶となる事 付 六波羅寺幸仙、橘木を愛する事
  九 神楽岡清水谷仏種房の事
  十 天王寺聖、隠徳の事 付 乞食聖の事
  十一 高野の辺の上人、偽つて妻女を儲くる事
  十二 美作守顕能家に入り来る僧の事
 第二
  一 安居院聖、京中に行く時、隠居の僧に値ふ事
  二 禅林寺永観律師の事
  三 内記入道寂心の事
  四 三河聖人寂照、入唐往生の事
  五 仙命上人の事 并 覚尊上人の事
  六 津の国妙法寺楽西聖人の事
  七 相真、没の後、袈裟を返す事
  八 真浄房、暫く天狗になる事
  九 助重、一声念仏に依つて往生の事
  十 橘大夫、発願往生の事
  十一 或る上人、客人に値はざる事
  十二 舎衛国老翁、宿善を顕はさざる事
  十三 善導和尚、仏を見る事
 第三 
  一 江州増叟の事
  二 伊予僧都の大童子、頭の光現はるる事
  三 伊予入道、往生の事
  四 讃州源大夫、俄に発心・往生の事
  五 或る禅師、補陀落山に詣づる事 賀東上人の事
  六 或る女房、天王寺に参り、海に入る事
  七 書写山客僧、断食往生の事 此の如きの行を謗るべからざる事
  八 蓮花城、入水の事
  九 樵夫独覚の事
  十 証空律師、希望深き事
  十一 親輔養児、往生の事
  十二 松室童子、成仏の事
 第四
  一 三昧座主の弟子、得法華経験の事
  二 浄蔵貴所、鉢を飛ばす事
  三 永心法橋、乞児を憐れむ事
  四 叡実、路頭の病者を憐れむ事
  五 肥州の僧、妻、魔と為る事 悪縁を恐るべき事
  六 玄賓、念を亜相の室に係くる事 不浄観の事
  七 或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事
  八 或る人、臨終に言はざる遺恨の事 臨終を隠す事
  九 武州人間河沈水の事
  十 日吉の社に詣づる僧、死人を取り奇しむ事
 第五
  一 唐房法橋、発心の事
  二 伊家並びに妾、頓死往生の事
  三 母、女を妬み、手の指虵に成る事
  四 亡妻現身、夫の家に帰り来たる事
  五 不動持者、牛に生るる事
  六 少納言公経、先世の願に依つて河内の寺を作る事
  七 少納言統理、遁世の事
  八 中納言顕基、出家・籠居の事
  九 成信・重家、同時に出家する事
  十 花園左府、八幡に詣で往生を祈る事
  十一 目上人、法成寺供養に参り、堅固道心の事
  十二 乞児、物語の事
  十三 貧男、差図を好む事
  十四 勤操、栄好を憐れむ事
  十五 正算僧都の母、子の為に志深き事
 第六
  一 証空、師の命に替る事
  二 后宮の半者、一乗寺僧正の入滅を悲しむ事
  三 堀川院蔵人所の衆、主上を慕ひ奉り、入海の事
  四 母子三人の賢者、衆罪を遁るる事
  五 西行が女子、出家の事
  六 侍従大納言幼少の時、験者の改請を止むる事
  七 永秀法師、数寄の事
  八 時光・茂光、数寄天聴に及ぶ事
  九 宝日上人、和歌を詠じて行とする事 并 蓮如、讃州崇徳院の御所に参る事
  十 室の泊の遊君、鄭曲を吟じて上人に結縁する事
  十一 乞者の尼、単衣を得て寺に奉加する事
  十二 郁芳門院の侍良、武蔵の野に住む事
  十三 上東門院の女房、深山に住む事 穢土を厭ひ、浄土を欣ぶ事
 第七
  一 恵心僧都、空也上人に謁する事
  二 同上人、衣を脱ぎ、松尾大明神に奉る事
  三 中将雅通、法華経を持ち、往生の事
  四 賀茂女、常住仏性の四字を持ち、往生の事
  五 太子の御墓覚能上人、管絃を好む事
  六 賢人右府、白髪を見る事
  七 三井寺の僧、夢に貧報を見る事
  八 道寂上人、長谷に詣で、道心を祈る事
  九 恵心僧都、母の心に随ひて遁世の事
  十 阿闍梨実印、大仏供養の時、罪を滅する事
  十一 源親元、普く念仏を勧め、往生の事
  十二 心戒上人、跡を留めざる事
  十三 斎所権介成清の子、高野に住む事
 第八
  一 時料上人隠徳の事
  二 或る上人、名聞の為に堂を建て、天狗になる事
  三 仁和寺西尾の上人、我執に依つて身を焼く事
  四 橘逸勢の女子、配所に至る事
  五 盲者、関東下向の事
  六 長楽寺の尼、不動の験を顕はす事
  七 或る武士の母、子を怨み、頓死の事 法勝寺の執行頓死の事 末代なりといへども卑下すべからざる事
  八 老尼、死の後、橘の虫となる事
  九 四条の宮半者、人を咒咀して乞食となる事
  十 金峰山に於て妻を犯す者、年を経て盲となる事
  十一 聖梵・永朝、山を離れ、南都に住む事
  十二 前兵衛尉、遁世往生の事
  十三 或る上人、生ける神供の鯉を放ち、夢中に怨みらるる事
  十四 下山の僧、川合の社の前に絶え入る事

解説 長明小伝

付録
 長明年譜
 校訂個所一覧
 参考地図




◆本書より◆


「発心集」より:


「平等供奉(びやうどうぐぶ)、山を離れて異州に趣(おもむ)く事」より:

「ある時、隠れ所(便所)に在りけるが、俄(にはか)に露の無常を悟る心起つて、「何として、かくはかなき世に、名利にのみほだされて(束縛されて)、厭ふべき身を惜しみつつ、空しく明(あか)し暮す処ぞ」と思ふに、過ぎにし方もくやしく、年来(としごろ)の栖(すみか)もうとましく覚えければ、更に立ち帰るべきここちせず。白衣(びやくえ)(頭注:「僧侶が黒衣をまとわない下着姿でいること。」)にて足駄さしはきをりけるままに(身につけていたそれだけの身なりで)、衣(ころも)なんどだに着ず、いづちともなく出でて、西の坂(頭注:「比叡山から都に至る坂道。雲母坂(きららざか)。」)を下りて、京の方へ下りぬ。
 いづくに行き止(とど)まるべしとも(身を落ちつけようとも)覚えざりければ、行かるるに任せて(足が向くのにまかせて)、淀(頭注:「今の京都市伏見区淀町。宇治・桂・木津の三川が合流し淀川となる地点。船着場として栄えた。西坂本から約二一キロの地。」)の方へまどひありき(放浪して)、下り船の有りけるに乗らんとす。顔なんども世の常ならず、(〔船頭は〕)あやしとて(〔乗船を〕)うけひかねども(承知しなかったが)、あながちに見ければ(頭注:「平等が眼付き鋭く頼むので。乗船をたのむ平等の顔付が実に真剣だったことを言っている。次の船頭の言葉に敬語が用いられているのは、彼が平等の態度から何かただならぬものを感じとった結果であろう。」)、乗せつ。「さても、いかなる事によりて、いづくへおはする人ぞ」と問へば、「更に何事と思ひわきたる事もなし(格別これといった目的もない)。さして(めざして)行き着く処もなし。只、いづかたなりとも、(〔あなた方が〕)おはせん方へ(いらっしゃる方へ)まからんと思ふ」と云へば、「いと心得ぬ事のさまかな」と(〔皆で〕)かたむきあひたれど(首をひねっていたが)、さすがに、情なくは非(あら)ざりければ、おのづから(たまたま)、此の船の便りに(頭注:「この船の目的地が伊予であったことによって。」)、伊予の国(頭注:「今の愛媛県。」)に至りにけり。
 さて、彼(か)の国に、いつともなく迷ひありきて(のべつさまよい歩いて)、乞食(こつじき)をして日を送りければ、国の者ども、「門乞食(かどこじき)(頭注:「門口に立って物乞いをする者。かどこつじき。」)」とぞ付けたりける。山の坊には(比叡山の坊では)、「あからさまにて出で給ひぬる後(ちょっとお出かけになってからその後)、久しくなりぬることあやしう」なんど(などと)云へど、かくとは(こんな次第だとは)、いかでか思ひ寄らん。「おのづから(もしかすると)ゆゑこそあらめ(何かわけがあるのだろう)」なんど云ふ程に、日も暮れ、夜も明けぬ。驚きて尋ね求むれど、更になし。云ひかひなくして、偏(ひとへ)に、亡き人になしつつ(頭注:「すっかり、平等を死んだものときめこんで。」)、泣く泣く、跡のわざ(頭注:「故人をとむらう仏事。あとのこと。」)を営みあへりける。
 かかる間に、此の国の守(かみ)なりける人(頭注:「『古事談』の同説話傍注によれば、藤原知章。彼の伊予守在任は、長徳元年(九九五)頃という。」)、供奉(ぐぶ)の弟子に浄真阿闍梨(じやうじんあじやり)(頭注:「神宮本および『三国仏記』は「静真」、『今昔物語集』は「清尋」とし表記に各種ある。いずれも同一人物をさし、「静真」が正しい。台密(たいみつ)(天台密教)の高僧。「阿弥陀房」と称す。生没年未詳。」)と云ふ人を、年来(長年)相ひしたしみて(懇意にして)祈りなんどせさせければ、(〔京から〕)国へ下るとて、「遥かなる程に、憑(たの)もしからむ(頭注:「遠い地方なので、あなたに同道してもらえば、心強いことでしょう、の意。」)」と云ひて、具して(伴って)下りにけり。
 此の門乞食(かどこじき)、かくとも知らで、(〔伊予守の〕)館(たち)の内へ入りにけり。物を乞ふ間に、童部(わらんべ)ども、いくらともなく(大勢)尻に(後ろに)立ちて笑ひののしる。ここら集まれる(その場に大勢居合わせた)国のものども、「異様(ことやう)の物の様(ざま)かな。罷(まか)り出でよ(出て行け)」と、はしたなくさいなむを(はげしく叱りつけるのを)、此の阿闍梨あはれみて、物なんど取らせむとて、まぢかく呼ぶ。恐れ恐れ縁のきはへ来たりたるを見れば、人の形にも非(あら)ず、やせおとろへ、物のはらはらとある綴(つづり)(頭注:「あちこちからぼろが垂れさがる、みすぼらしい僧衣。「綴(つづり)」は、きれをつぎあわせて仕立てた着物。つづれ。」)ばかり着て、実(まこと)にあやしげなり。(〔身なりは変っていたが〕)さすがに、見しやうに覚ゆるを、よくよく思ひ出づれば、我が師なりけり。あはれに悲しくて、すだれの内よりまろび出でて(ころがるように出て)、縁の上にひきのぼす(手を取って上らせた)。守(かみ)より始めて、有りとあらゆる人、驚きあやしむあまり、泣く泣く様々にかたらへど、(〔平等は〕)詞(ことば)すくなにて、強(し)ひていとまを乞ひて去りにけり。
 云ふはかりもなくて(頭注:「「云ふはかりなし」は「云ふばかりなし」の古形。あまりのことに言葉も出ないさま。「はかり」は限度。」)、麻の衣やうの物用意して、有る処を尋ねけるに、ふつと(頭注:「「ふつと」は打消を強める語。」)え尋ねあはず(どうしても見つからない)。はてには、国の者どもに仰せて、山林至らぬくまなく踏み求めけれども、あはで、其のままに跡をくらうして(行方不明になって)、終(つひ)に行末も知らずなりにけり。」



「多武峯僧賀(たふのみねそうが)上人、遁世(とんせい)往生の事」より:

「世を厭ふ心いとど深くなりにければ、「いかでか(何とかして)、身をいたづらになさん(自分の立場をなくしてしまおう)」と、次(ついで)を待つほどに、ある時、内論義(ないろんぎ)(頭注:「「うちろんぎ」とも。大極殿(後に清涼殿)において、天皇の前で正月十四日に行われた行事。御斎会(ごさいえ)に参加の高僧を召し、結願(けちがん)の日に、経文の内容を論義させたもの。」)と云ふ事ありけり。定まるる事にて、論義すべきほどの終りぬれば、饗(きやう)(頭注:「その席で供された貴人の飲食物の残り物。「下(おろ)し」と称し、取食(とりばみ)(乞食の類)を庭に集めて食わせる習慣があった。」)を庭に投げ捨つれば、諸(もろもろ)の乞食(こつじき)、方々に集りて、あらそひ取つて食(くら)ふ習ひなるを、此の宰相禅師(頭注:「増賀をさす。父が宰相(さいしょう)であったことにちなむとされるが、疑問。」)、俄(にはか)に大衆(だいしゆ)の中より走り出でて、此れを取つて食(く)ふ。
 見る人、「此の禅師は物に狂ふか」とののしりさわぐを聞きて、「我は物に狂はず。かく云はるる大衆達こそ、物に狂はるめれ」と云ひて、更に(少しも)驚かず。「あさまし(あきれたことだ)」と云ひあふ程に、此れを次(ついで)として籠居(ろうきよ)しにけり。」
「其の後、貴(たつと)き聞こえありて、時の后(きさき)(頭注:「円融天皇の女御(にょうご)の藤原遵子とも、同じく詮子ともいうが、いずれも史実に徴しえない。」)の宮の戒師(頭注:「授戒にたずさわる僧。」)に召しければ、なまじひに参りて(気が進まなかったが参上して)、南殿の高欄(頭注:「紫宸殿の欄干。」)のきはに寄りて、さまざまに見苦しき事どもを云ひかけて、空しく出でぬ(役割を果さずに退出した)
 又、仏供養(頭注:「仏に供物をささげ、法会を行うこと。」)せんと云ふ人のもとへ行く間に、説法すべき様(さま)なんど道すがら案ずとて、「(〔こんなことを考えるのは〕)名利を思ふにこそ。魔縁(まえん)便りを得てげり(頭注より:「悪魔が私の修行を妨げるきっかけをついにとらえたのだな。」)」とて、行き着くや遅き(行き着くや否や)、そこはかとなき事をとがめて(どうでもよいことを咎めだてして)、施主(せしゆ)(頭注:「供養の主催者。」)といさかひて、供養をもとげずして帰りぬ。此等(これら)の有様は、人にうとまれて、再びかやうの事を云ひかけられじとなるべし。」
「此の聖人(しやうにん)、命終らんとしける時、先づ碁盤を取り寄せて、独り碁を打ち、次に障泥(あふり)(頭注:「馬具の一つ。泥よけのために、下鞍の間につけ、馬の脇腹をおおう皮。形が似ているので、蝶の羽に見立てたのである。」)を乞うて是(これ)をかづきて、小蝶と云ふ舞(頭注:「胡蝶楽。壱越(いちこつ)調の舞楽。蝶の羽をせおい、山吹の花枝を手にした四人の童児が舞う。」)のまねをす。弟子どもあやしんで問ひければ、「いとけなかりし時(幼少の頃)、此の二事を人にいさめられて、思ひながら空しくやみにしが(してみたかったのにせずじまいに終ったそのことが)、心にかかりたれば、『若(も)し生死の執となる事もぞある(あるいは死後に執念を残すかもしれない)』と思うて」とこそ云はれけれ。」



「或る女房、天王寺に参り、海に入る事」より:

「鳥羽院(頭注:「第七四代天皇。在位、嘉承二年(一一〇七)~保安四年(一一二三)。」)の御時、ある宮腹(頭注:「皇女の子。」)に、母と女(むすめ)と同し宮仕へする(一緒に勤務をする)女房ありけり。年比(としごろ)へて後、此の女、母に先立ちてはかなくなりにけり。(〔母は〕)嘆き悲しむ事限りなし。しばしは、かたへ(仲間)の女房も、「さこそ思ふらめ(さぞかし気をお落しでしょう)。ことわりぞ(むりもない)」なんど云ふ程に、一年・二年ばかり過ぎぬ。其の嘆き、更におこたらず(少しもおさまらない)。やや日にそへていやまさり行けば、折りあしき時(〔泣いているのが〕具合悪い時)も多かり。(中略)涙をおさへつつ明(あか)し暮すを、人目もおびたたしく(人目について)、はてには、「此の事こそ心得ね(腑に落ちない)。おくれ先立つならひ、今はじめける事かは(今に始まったことではない)」なんど、口やすからず(〔皆は〕非難がましい口ぶりで)ざざめきあへり(頭注より:「がやがやいう。さわぎ立てる。」)。
 かくしつつ(こうして)三年と云ふ年(三年目に当る年)、ある暁に、人にも告げずあからさまなるやうにて(ちょっとした外出のふりをして)、まぎれ出で、衣(きぬ)一つ、手箱(頭注:「身のまわりの道具を入れる箱。」)一つばかりをなん袋に入れて、女(め)の童(わらは)に持たせたりける。京をば過ぎて鳥羽(頭注より:「今の京都市南区上鳥羽、伏見区下鳥羽の地。(中略)当時、鳥羽殿があった。」)の方へ行けば、此の女の童、心得ず思ふほどに(不思議に思っていると)、なほなほ行き行きて(どんどん進んで行って)、日暮れぬれば、橋本(頭注より:「鳥羽より約十キロ、男山の麓、淀川に面した地。今の京都府綴喜(つづき)郡八幡町橋本。当時、港町として殷賑(いんしん)をきわめた。」)と云ふ所に留まりぬ。明けぬれば、又出でぬ。からうして、其の夕べ、天王寺(頭注より:「四天王寺。(中略)この寺の西門は極楽の東門に通ずるとされ、かつては西門のすぐきわにあった浜辺から乗船、入水するのが流行した。」)へまうで着きたりける(参り着いたのであった)。さて、人の家借りて、「ここに、七日ばかり念仏申さばやと思ふに、京よりは、其の用意もせず。ただ我が身と女の童とぞ侍る」とて、此の持ちたりける衣を一つ、取らせたりければ、「いとやすき事(おやすい御用です)」とて、家主(いへぬし)なん、其の程の事は用意しける。
 かくて、日毎に堂にまゐりて、拝みめぐる程に、又こと思ひせず(他のことは気にかけず)、一心に念仏を申したりける。(中略)七日に満ちては、京へ帰るべきかと思ふ程に、「かねて思ひしより、いみじく心も澄みて、たのもしく侍り(充実した気持です)。此のついでに今(さらに)七日」とて、又、衣一つ取らせて、二七日(にしちにち)(頭注:「十四日間。祈願などの日程の単位を七日として、その倍。下の「三七日(さんしちにち)」は二十一日間。」)になりぬ。其の後聞けば、「三七日(さんしちにち)になし侍らん」とて、なほ(また改めて)衣を取らせければ、「何かは(結構です)、かく、度(たび)ごとに御用意なくとも、さきに給はせたりしにても(いただいた分で)、しばしは侍りぬべし(足りるはずで)」と云へど、「さりとて、此の料(頭注:「世話をしてもらうための謝礼。」)に具したりし物を持ちて帰るべきに非(あら)ず」とて、強(し)ひて、なほ取らせつ。」
「(〔二十一日の〕)日数満ちて後、云ふやう、「いまは京へ上るべきにとりて(帰らなければならないので)、音に聞く(有名な)難波(なには)(頭注:「今の大阪湾。古来歌枕として、また、西方を見晴(みはる)かす地として都人のあこがれの的であった。」)の海のゆかしきに(見たいので)、見せ給ひてんや」と云へば、「いとやすき事」とて、家の主(あるじ)しるべして(案内して)、浜に出でつつ、則ち(すぐに)、舟に相ひ乗りて、こぎありく。いと面白しとて、「今少し(〔遠くまで〕)、今少し」と云ふ程に、おのづから澳(おき)に遠く出でにけり。
 かくて、とばかり(しばらく)西に向ひて念仏する事しばしありて、海に、づぶと落ち入りぬ。「あな(ああ)、いみじ(たいへん)」とて、まどひして(あわてて)、取り上げんとすれど、石などを投げ入るるが如くにして沈みぬれば、「あさまし」とあきれさわぐ程に、空に雲一むら出で来て(頭注:「往生人が極楽に迎え取られるときの瑞雲(ずいうん)を暗示する。」)、舟にうちおほひて、かうばしき匂ひあり。家主、いと貴くあはれにて、泣く泣くこぎ帰りにけり。」
「さて、家に帰りて、あとを見るに、此の女房の手にて(筆蹟で)、夢の有様を書き付けたり。「初めの七日は、地蔵・龍樹(頭注より:「西暦一五〇~二五〇年頃の南インドの高僧。(中略)菩薩号を付して尊称される。」)来たりてむかへ給ふと見る。二七日には、普賢(ふげん)・文殊(もんじゆ)(頭注:「釈迦如来の両脇侍(きょうじ)。」)むかへ給ふと見る。三七日には、阿弥陀如来、諸々(もろもろ)の菩薩(頭注より:「観音・勢至以下の二十五菩薩と信じられていた。」)と共に来たりて迎へ給ふと見る」とぞ書き置きたりける。」



「三昧座主(さんまいざす)の弟子、得法華経験(とくほけきやうしるし)の事」より:

「そこに一つの松原あり。林の中に一つの庵(いほり)あり。近く歩みよりてこれを見るに、えもいはぬ(何とも見事な)、新しく作れる屋(いへ)あり。物の具かざり(道具を美しくしつらえ)、皆玉の如し。庭のすなご、雪にことならず(雪のようであった)。植木には花咲き、木(こ)の実(み)むすび、前栽(せんざい)(頭注:「庭前の植えこみ。」)にはさまざまの咲く花、色ことに妙(たへ)なり。義叡これを見て、喜ぶ事限りなし。
 しばしうち休みつつ、此の屋の内を見れば、聖(ひじり)ひとりあり。齡(よはひ)わづかに廿(はたち)ばかりにやと見ゆ。衣・袈裟(けさ)うるはしく(きちんと)著(き)て、法華経よみ奉る。(中略)一の巻をよみをはりて、経机(きやうづくゑ)の上に置けば、其の経、人も手ふれぬに、みづから巻きかへされて元の如くになる。かくしつつ(こんなことが繰返されて)、一の巻より八の巻にいたるまで、巻く事、前の如し。」

「明けぬれば、今は帰りなんと思ひて、なほ道にまどはん事を嘆く。聖の「しるべ(道案内)を付けて送り申すべし」と云ひて、水瓶(みづがめ)(頭注より:「修行者必携の十八物の第四。水瓶(すいびょう)。通力を具(そな)えた者が、これを利用して神秘的な験(しるし)を現すという。」)を取りて前に置く。其の水瓶をどりをどりて(飛び上り飛び上りして)、やうやうさきに行く(どんどん先導して行く)。其の瓶の後(しり)につきて行くままに、二時(ふたとき)ばかりを経て(約四時間たって)、山の頂(いただき)にのぼりぬ。ここにて見おろせば、麓に人里あり。
 その時、水瓶空にのぼりて、もとの処に飛び帰りにけり。」



「或る女房、臨終に魔の変ずるを見る事」より:

「或る宮腹の女房、世を背(そむ)けるありけり(頭注:「宮腹の女房で遁世した人がいた。「宮腹の女房」は皇女の娘である女房。または、皇女の娘に仕える女房。」)。病ひをうけて限りなりける時(死を前にした時)、善知識(頭注:「教導を仰いでいた聖。」)に、ある聖を呼びたりければ、(〔善知識が〕)念仏すすむる程に、此の人(女房は)、色まさを(頭注より:「まっさお。」)になりて、恐れたるけしきなり。あやしみて、「いかなる事の、目に見え給ふぞ」と問へば、「恐しげなる者どもの、火の車(頭注:「罪人をのせて地獄にはこぶ車。火を発している。火車(かしゃ)。」)を率(ゐ)て来るなり」と云ふ。聖の云ふやう、「阿弥陀仏の本願(頭注:「阿弥陀如来が法蔵菩薩の時代に立てた誓願。」)を強く念じて、名号(みやうがう)をおこたらず(休みなく)唱へ給へ。五逆(頭注より:「五つの大罪。これを犯した者は無間(むけん)地獄に堕(お)ちるという。」)の人だに、善知識にあひて、念仏十度(とたび)申しつれば、極楽に生る(頭注:「十念往生をいう。『観無量寿経』の所説で、下品下生(げぼんげしょう)の往生。」)。況(いはん)や、さほどの罪は、よも作り給はじ(頭注:「あなたはまさか犯していらっしゃらないでしょう。」)」と云ふ。即ち、此の教へによりて、(〔女房は〕)声をあげて唱ふ。
 しばしありて、其のけしきなほりて、悦(よろこ)べる様なり。聖、又これを問ふ。語つて云はく、(女房)「火の車は失(う)せぬ。玉のかざりしたるめでたき車に、天女の多く乗りて、楽をして迎ひに来たれり(頭注:「音楽を奏でながら迎えに来る。「迎ひ」は「迎え」に同じ。往生する人を仏菩薩などが迎えに来ること。」)」と云ふ。聖の云はく、「それに乗らんとおぼしめすべからず。なほなほ(今までのように)、ただ阿弥陀仏を念じ奉りて、仏の迎ひに預(あづ)からんとおぼせ」と教ふ。これによりて、なほ念仏す。
 また、しばしありて(しばらくたって)云はく、(女房)「玉の車は失(う)せて、墨染めの衣着たる僧の貴げなる、只ひとり来たりて、『今は、いざ給へ(頭注:「さあご一緒に参りましょう。」)。行くべき末は(目あては)道も知らぬ方なり。我そひてしるべせん(同行して案内しましょう)』と云ふ」と語る。「ゆめゆめ(決して)、その僧に具せんと(ついて行こうと)おぼすな。極楽へ参るには、しるべいらず。仏の悲願に乗りて、おのづから至る国なれば、念仏を申してひとり参らんとおぼせ」とすすむ。
 とばかりありて、(女房)「ありつる(先ほどの)僧も見えず、(〔他に〕)人もなし」と云ふ。聖の云はく、「その隙(ひま)に、とく(〔極楽へ〕)参らんと心を至して(精神を集中して)、つよくおぼして(一心に往生を祈念して)念仏し給へ」と教ふ。其の後、念仏五六十返ばかり申して、(〔その〕)声のうちに(声が終らぬうちに)息絶えにけり。」



「貧男(ひんなん)、差図(さしづ)を好む事」より:

「近き世の事にや、年はたかくて(とっているが)、貧しくわりなき男(頭注より:「ひどく貧しい男。」)ありけり。司(官位)などある者なりけれど、出で仕ふるたつきもなし(〔しかるべき所に〕出仕する手づるもない)。さすがに古めかしき(古風な)心にて、奇(あや)しきふるまひ(頭注:「なりふりかまわない生き方。」)などは思ひよらず。世執(せいしふ)(頭注:「世俗的な物事への執着心。「せしゅう」とも読む。」)なきにもあらねば、又かしらおろさん(剃髪しよう)と思ふ心もなかりけり。常には居所(ゐどころ)もなくて、古き堂のやぶれたるに(荒れはてた所に)ぞ舎(やど)りたる。
 つくづくと(むなしく)年月送る間に、朝夕(あさゆふ)するわざ(仕事)とては、人に紙反故(かみほんぐ)(頭注:「紙の使い古し、書き損じの類。「反故」は、「ほご」「ほぐ」「ほうご」などとも読む。」)など乞ひあつめ、いくらも差図(頭注:「家屋の設計図。絵図面。」)をかきて、家作るべきあらましをす(空想をする)。「寝殿はしかしか、門は何か(何で造ろうか)」など、これを思ひはからひつつ、尽きせぬあらまし(頭注:「実現することのない計画。」)に心を慰めて過ぎければ、見聞く人は、いみじき事のためし(頭注より:「非常識なことの例。」)になん云ひける。
 誠に、あるまじき事をたくみたるは(実現するはずのないことを計画するのは)はかなけれど、よくよく思へば、此の世の楽しみには、心を慰むるにしかず。」
「彼(か)の男があらましの(空想上の)家は、走(わし)り求め、作りみがく煩(わづら)ひもなし。雨風にも破れず、火災の恐れもなし。なす所はわづかに一紙なれど(一枚の紙の中だが)、心をやどすに不足なし(頭注:「その中に身を置くことを空想するだけなら十分だ。」)。」
「或る物には(頭注:「以下は、昭明太子『陶潜伝』などに見える、陶淵明の有名な故事をさす。ただし、本文の直接の出典は不明。」)、「唐に一人の琴の師あり。緒なき琴をまぢかく(手近な所に)置きて、しばしも傍(かたはら)を放たず。人あやしみて、故(ゆえ)を問ひければ、『われ琴を見るに、その曲心にうかべり。其の故に同じけれども、心を慰むる事は弾(たん)ずるに異ならず』となん云ひける」。」



「賢人右府(けんじんいうふ)、白髪を見る事」より:

「小野宮(をののみや)の右大臣(頭注:「藤原実資(さねすけ)。斉敏(ただとし)の子。祖父実頼の養子となった。従一位右大臣。その明敏と硬骨は有名。永承元年(一〇四六)没、九十歳。「小野宮」の称は彼が伝領した名邸の名にちなむ。彼の納言時代は三十九歳から六十五歳まで、権中納言・中納言・権大納言・大納言などを歴任し、その後二十五年間大臣であった。」)をば、世の人、賢人のおとど(頭注:「実資が「賢人右府」と呼ばれたことは諸書に記されて有名。「賢人」の称を彼自身が望んでその振舞いに気を配ったという逸話が『十訓抄』六などに見える。同書に「(賢人と呼ばれて)のちざまには、鬼神の所変などをも、見顕はされけるとかや」とあるのは『発心集』と符合する。」)とぞ云ひける。納言(頭注:「大納言・中納言・少納言の総称。特に前二者についていう語。」)などにておはしける比(ころ)にやありけん、内より出で給ふに(宮中から退出なさった帰り道)、うつつともなく、夢ともなく、車のしりに、しらばみたる(白っぽい)物着たる小さき男の、見るとも覚えぬが(見たこともないのが)、はやらかに(足ばやに)歩みて来たれば、あやしくて、目をかけて見給ふほどに、此の男走りつきて、後(しり)(頭注:「牛車(ぎっしゃ)の後部。」)の簾(すだれ)を持ち上ぐるに、心得がたくて(不審に思って)、「何物ぞ。便(びん)なし(けしからん)。罷りのけ(そこをどけ)」とのたまふに、「閻王(頭注:「閻魔。地獄にあって、死者の生前の行為の善悪を審判する王という。」)の御使ひ白髪丸(はくはつまる)にて侍る」と云ひて、即(すなは)ち、車にをどり乗りて、冠(かむり)の上にのぼりて失(う)せぬ。」


「或る上人、生ける神供(しんく)の鯉を放ち、夢中に怨みらるる事」より:

「或る聖(ひじり)、船に乗りて近江の湖(みづうみ)(頭注:「琵琶湖をさす。」)をすぎける程に、(〔ある人が〕)網船に大きなる鯉をとりて、もて行きけるが、いまだ生きてふためきけるを(ばたばたしていたのを)あはれみて、着たりける小袖をぬぎて、(〔それを代償に〕)買ひとりて放ちけり。
 いみじき功徳(くどく)つくりつと思ふ程に、其の夜の夢に、白狩衣(しろかりぎぬ)(頭注:「浄衣(じょうえ)(「明衣(めいい)」とも)をさす。神事・祭事など、身を潔むべき時に着用する白地の布帛(ふはく)の狩衣。狩衣は中古・中世初期の男の常用服。」)きたる翁(おきな)ひとり、我を尋ねて来たり、いみじう恨みたる気色(けしき)なるを、あやしくて問ひければ、「我は、昼、網にひかれて命をはらんとしつる鯉なり。聖の御しわざの口惜しく侍れば、其の事申さむとてなり(申そうと思って来たのです)」と云ふ。聖云ふやう、「この事こそ心得ね(腑に落ちない)。悦び(お礼)こそ云はるべきに、あまさへ(それどころか)、恨みらるらむ(お恨みになっているのは)、いとあたらぬ事なり」と云ふ。翁云はく、「しか侍り(ごもっともです)。されど、我、鱗(うろくづ)の身をうけて、得脱(とくだつ)の期(ご)を知らず。此の湖の底にて、多くの年をつめり。しかるを、またまた(頭注:「寛文本は「たまたま」。この方が文意に合うか。」)賀茂の供祭(くさい)(頭注:「神仏に供える物。「ぐさい」とも。」)になりて、それを縁として苦患(くげん)(頭注:「(死後に受けねばならない)苦しみ。」)をまぬかれなんと仕(つかまつ)りつるを、さかしき(おせっかいな)事をし給ひて、又、畜生の業(ごふ)を延(の)べ給へるなり(頭注:「自分が畜生でいなければならない業(ごう)を長引かせて下さったのです。」)」と云ふとなむ、見たりける。」







こちらもご参照ください:

馬場あき子 『世捨て奇譚 ― 発心往生論』 (角川選書)
根井浄 『観音浄土に船出した人びと ― 熊野と補陀落渡海』 (歴史文化ライブラリー)
フィリップ・アリエス 『図説 死の文化史』 福井憲彦 訳
『撰集抄』 西尾光一 校注 (岩波文庫)
『和漢朗詠集』 大曽根章介・堀内秀晃 校注 (新潮日本古典集成)

















































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ひとでなしの猫

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うまれたときからひとでなし
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Koro-pok-Guru
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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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