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村山修一 『日本陰陽道史総説』

「宗教の権威が凋落してゆく時代に、そして混乱する世相の中で、人々の精神的拠所となったのは、高遠な神仏の布教宣伝より、祈禱・医療・卜占・祓・暦等を通じ、実生活と結びついた陰陽道であった。また易の複雑な理論はさておき、陰陽五行の理法を人生のあらゆる現象にあてはめて理解することは、神や仏より人間中心となった時代の要求にむしろ応ずる思想といえよう。古代公家文化の残滓にすぎぬかに見られた陰陽道が、近世日本文化の形成に、案外影響を及ぼしていたことは、改めて考え直すべき問題であると思う。」
(村山修一 『日本陰陽道史総説』 より)


村山修一 
『日本陰陽道史総説』



塙書房 
1981年4月10日 第1版第1刷
1994年6月20日 第1版第6刷
11p+445p+30p 
A5判 丸背布装上製本 機械函 
定価7,725円(本体7,500円)



本書「序」より:

「本書は、従来著者が断片的に発表してきたわが陰陽道(おんみょうどう)史関係の小論を修正補訂した上に、相当の加筆を行なって装いを新たにし、日本陰陽道の文化史的通観を試みたものであって、易占や陰陽道の技法・理論を解説し、あるいはこれを宗教学的に叙述することを目的としたものではない。
 著者は長年、神仏習合史研究を手がけて来たが、そこで屡々感じたのは、神祇信仰にも仏教にも、陰陽道が深く纏緬し、これが内外両思想・宗教の接触・交流を一段と複雑にしており、この関係の解明こそ緊急の課題ではないかということであった。大陸の漢民族社会に発生し発展した陰陽道は、その呪術性を通して神祇信仰・仏教と結びつき易い性格を有し、それが神仏習合を多彩ならしめたのみならず、その一見、合理的にみえる理論は、日本の政治・法制・軍事・学問・文学・美術・芸能など様々な分野に進出し、さては日本人の日常生活慣習にも浸透、民俗化し、今日なお根強く残滓を留める程になった。そうした意味からわが陰陽道史の解明は今後の日本史研究にとり、決して等閑視しえないものがあるが、従来この方面の研究は立ち遅れの状態にあり、研究書もいまもって寥々たる有様であるのにかんがみ、敢て菲才を省みず、爰にせめて現在までの学界の業績を総観的にまとめた展望書を刊行し、同学諸賢の便に資したく思い立ったのは六年前であった。」
「稿の進行とともに、陰陽道の関連する分野が上述のごとく多岐にわたるため、これをどう拾収しまとめてゆくかの問題に直面し、すべてを網羅しようとすれば、本書の成稿はさらに何時になるか見通しがつかず、(中略)幾多未知未解決点を遺しつつ、一先ずこの辺で擱筆することを決意したのである。」



本文中挿図18点、系図11点、表7点。



村山修一 日本陰陽道史総説 01



目次:

   序
一 大陸における陰陽道の発祥と推移
   一 陰陽道の起源
   二 陰陽道と儒教の接触
   三 道士方術士と陰陽道
   四 初期中国仏教と陰陽道の接触
二 陰陽道の日本伝来と官制化
   五 わが陰陽道伝来の事情と聖徳太子の新政
   六 白鳳期における陰陽道思想の高揚
   七 陰陽道関係官僚組織の成立
   八 帝都建設にみる陰陽道思想の展開
   九 初期暦道と呪禁道
三 律令的陰陽道の展開
   一〇 桓武朝迄の祥瑞災異思想概観
   一一 奈良朝前期の祥瑞災異思想
   一二 奈良朝後期の祥瑞災異思想
   一三 光仁朝の陰陽道と吉備真備
   一四 陰陽道官僚の密教・道教との交渉
四 律令的陰陽道の変質
   一五 長岡京遷都の政治的理念
   一六 平安朝初期の天皇と陰陽道思想
   一七 藤原氏の進出と災異思想の増大
   一八 陰陽道的行事作法の整備
   一九 革命革令思想の台頭と災異思想の因習化
五 陰陽家および陰陽道的識者の輩出
   二〇 平安初頭の陰陽家と式盤
   二一 陰陽家人材の輩出と播磨の陰陽師
   二二 歴道と陰陽道的識者の活動
   二三 陰陽道宗家の成立
   二四 安倍晴明の事蹟と伝承
      占事略決
六 宮廷陰陽道の様相
   二五 摂関全盛期の災異思想
   二六 道長の陰陽道信仰
   二七 実資・経頼の陰陽道信仰
   二八 医心方と作庭記
七 陰陽道と密教の交渉
   二九 空海と陰陽道
   三〇 小野流宿曜道の星宿信仰
   三一 六字河臨法と地鎮作法
   三二 仁海・法蔵・浄蔵・円仁らの事蹟
   三三 宿曜師の輩出とその活動
   三四 天台の陰陽道的諸法
八 院政期の陰陽道
   三五 院政期の災異思想高揚
   三六 院政期の新しい禁忌
   三七 賀茂・安倍両家の人材
   三八 安賀両家以外の有識者の陰陽道的活動
   三九 陰陽家の勘文と著作物
   四〇 陰陽寮の鐘
九 鎌倉武家社会の陰陽道
   四一 初期の武家陰陽道
   四二 実朝と陰陽道
   四三 摂家将軍と陰陽道
   四四 幕府陰陽道官僚の威勢と祈祷僧の活動
   四五 武家陰陽道の特色と新傾向
一〇 宮廷陰陽道の形骸化と世俗陰陽道の進出
   四六 鎌倉期の宮廷陰陽道と宿曜道
   四七 簠簋内伝の成立と牛頭天王縁起
   四八 牛頭天王の像容とその曼荼羅
   四九 牛頭天王の祭文
   五〇 牛頭天王の彫像
   五一 簠簋内伝の吉凶と辰狐の信仰
一一 室町期公武社会の陰陽道
   五二 室町前期の武家陰陽道と安賀両家の活動
   五三 伏見宮・万里小路時房と陰陽道
   五四 宮廷陰陽道の危機と摺暦座の登場
   五五 宮廷陰陽道の没落
   五六 戦国時代の陰陽道と庚申・福徳信仰
   五七 武家故実にみる陰陽道思想
一二 陰陽道思想の理論的拡大
   五八 神道理論の形成と陰陽道
   五九 能楽理論の形成と陰陽道
   六〇 雅楽・花道・茶道への陰陽道思想の進出
   六一 修験道および医学の陰陽道的形成
一三 近世における陰陽道の趨勢
   六二 土御門家の復興と近世宮廷の天曹地府祭
   六三 近世の暦道
   六四 晴明社の神祭
   六五 方違神社の信仰 
   六六 近世の庚申信仰と有卦無卦信仰
   六七 易者の繁栄
索引




村山修一 日本陰陽道総説 02



◆本書より◆


「四 律令的陰陽道の変質」より:

「熒惑星は火星で天武天皇十年(六八一)九月十七日条に初見があり、その行くところ兵乱・疾疫・火災・飢饉が生ずるとて恐れられた。また太白星は金星で養老六年(七二二)七月十日を初見とし、この星の動きに異常があれば兵乱起ると信ぜられる。醍醐朝に入ると熒惑星は少なく、代って彗星出現が目立つ。また老人星があらわれ、延喜九年(九〇九)十一月七日には老人星祭があった。彗星はハハキボシとも呼ばれ、古く舒明天皇十一年(六三九)正月二十五日観測されたとき、僧旻は飢饉の前兆を示す妖星として恐れた。宝亀三年(七七二)、承和六年(八三九)、同八年に出現して読経による祈禱が行なわれ、延喜五年には諸社奉幣・大祓などがあった。老人星は寿星ともよぶが、祥瑞災異いずれにも利用される星で、延喜九年十一月七日、この星をまつられたのは既述延暦二十二年十一月冬至の日に桓武天皇が老人星を拝せられた先例にならわれたかどうか明らかでない。
 陰陽道の祭祀としてさらに興味あるのは五竜祭で、醍醐朝より所見がある。一名雩(あまごい)祭とも称し、青赤黄白黒の五竜をまつるのは五行の信仰からきている。そうして仏典の読経や神社奉幣が同時になされることも多い。北山十二月谷や神泉苑など水辺の地が祭場に選ばれるが、神泉苑は真言密教によるもので、空海が天長年間(八二四―八三三)はじめたのに基づくと伝える。」



「五 陰陽家および陰陽道的識者の輩出」より:

「ここで私は、陰陽師と播磨国が古来深い因縁をもっていた点について注意しておきたい。大同のころ(八〇四―八一〇)陰陽頭であった賀陽豊年は播磨守であり、慈岳川人も播磨権介をつとめ、日下部利貞・弓削是雄同じく飾磨郡を本貫地とし、是雄は播磨少目をつとめ、後に出た安部清明も播磨守であった。『今昔物語集』(巻二十四)には播磨国の海岸近く(多分飾磨郡)長年住んだ智徳なる陰陽法師の達人の話をのせている。
 あるとき京都への荷物の運上船が明石沖で海賊に奪われ、船員多数殺された中に船主と船員一人が助かって岸へ泳ぎつき、折から杖をついて歩いていた智徳に会い、事の次第を話した。智徳は海賊が襲った時日をきいた上、船主に案内させ、小舟にのって沖へ出で、海上に物を書くようにし呪文を読んだのち、陸に戻り待つこと七日、どこからともなく漂流船があらわれた。人々が武器を用意してこの船をみると、酔ったような有様の人々が沢山乗っていた。これがさきの海賊どもで、掠め取った品物もそのまま積まれていた。これを奪われた船主に返えしてやり、海賊は殺すべきところをよくさとし、播磨国にはこんな老法師がいるのを覚えておけといって追払った。これは智徳が陰陽の術により海賊を謀(たばか)り寄せたのである。これ程の腕をもった智徳も清明に会って識神を隠されたことがある。しかしそれは智徳がその法を知らなかったからで止むをえぬことである。」
「室町初期に著わされた『峰相記』には、唐朝で陰陽の極意をえて帰った吉備真備が帰朝の途、広峯山の麓に一泊して牛頭(ごづ)天王の夢をみ、ここに勧請してまつった。これがわが国祇園社のはじめであると伝え、また一条天皇のとき、清明と道満の二人のすぐれた陰陽師あり、道満は藤原伊周の命で道長を呪詛し、蠱(こ)物を彼の通る道へ埋めた。清明はこれを勘え出し、掘り起したところ、蠱物は白鷺となって飛び去った。この罪により道満は出身地の播磨国佐用の奥に流されて死んだ。そののち、子孫は英賀(あが)・三宅のあたりに拡がり住んで陰陽師の業を継いだとある。中世の文献とはいえ、『峰相記』の伝承は、播磨国の海岸地帯に陰陽師を業とするものが多いこと、広峰における牛頭天王の祭祀に陰陽師が関係のあるらしいことなどを示唆している。広峰社の京都祇園社への発展には、播磨国から都への陰陽師の進出がからんでいよう。」

「さきに藤原良房に迎合して大いに物怪の祟りを強調し、卜筮の必要をといた春澄善縄は陰陽家以上の禁忌信奉者であった。本姓猪名部造、伊勢国員弁(いなべ)郡の人、祖父財麻呂は員弁少領、父豊雄は周防大目で地方豪族の階層に属した。天長五年春澄宿祢の姓を賜わり、のち朝臣と改められた。同十年東宮学士となり皇太子恒貞親王廃せられるにおよび一時周防権守に左遷させられたが、承和十年文章博士にすすみ、大学において『後漢書』を講じ、貞観六年『続日本後紀』を撰進している。彼は学者各々門戸を張り互いに弟子を集め党を組んで対立するのにかんがみ、自分は弟子をとらず、ために誰からも謗難をうけることはなかった。陰陽を信じ生活に禁忌するところ多く、物怪あるごとに門を杜じ斎禁し人を入れず、一ヵ月のうち門を閉じること十日におよんだ。その家宅も修築せず、口に死を言うこと稀で弔問することを止めてしまった。男女四人の子があったが、彼のごとき変った家風を継ぐ者はなかった。」



「九 鎌倉武家社会の陰陽道」より:

「当時の鎌倉は地震多く、これが陰陽祭を頻繁ならしめる一因でもあったが、嘉禄三年(一二二六)夏の地震頻発の際は、鎮星・三万六千神・属星・熒惑諸祭のほか、宿曜道の土曜星・木曜星等諸供はじめ一字金輪護摩・八字文殊法等が勤修された。このころよりかかる各種行法を含む祈禱行事はとくにはげしく、安貞元年十二月には将軍の護持僧が九人選ばれ、上中下旬ごと三人宛が奉仕し、陰陽師は一番泰貞、二番晴賢、三番重宗、四番晴職、五番文元、六番晴茂の順で結番勤仕することが定められた。
 星祭で特異なのは、羅睺星・計都星である。嘉禎元年(一二三五)、大仏師康定に命じ一尺六寸の薬師像千躰、忿怒形で青牛に乗り、左右の手に日月を捧げる姿の羅睺星神像、忿怒形で竜に乗り左手に日、右手に月を捧げる姿の計都星神像、禄存星および本命星薬師像一体を造立せしめ、陰陽師文元が計都星祭を勤めた。けだし頼経の病気のため一連の祈禱行事につながるもので、羅睺・計都はいわゆる蝕神(日蝕・月蝕を起させる)といい、災厄の神として恐れられる(挿図13)。
 平安時代の応和元年(九六一)閏三月に、宿曜師法蔵が実相寺に計都星形像供法を修した例があるが、彫像の例はさほど多くない。密教よりもむしろ宿曜道でおもにまつられたものかもしれない。」

「われわれは鎌倉武士の宗教が、禅宗中心であったかのように考えられてきた従来の通説は、改めて見直されねばならぬことを痛感する。ここに(中略)鎌倉で行なわれた陰陽道の祭を『吾妻鏡』から列挙してみると、つぎの四十八種に上り、それらはごく大まかに四つの部類に分けることができる。カッコ内の数字は行なわれた頻度であるが、実際は文献所見以上にあったと思われるから、数字は大体のめどを示すに止まり、絶対的なものではない。
 (一) 泰山府君祭(71) 鬼気祭(25) 天曹地府祭(21) 三万六千神祭(17) 百怪祭(11) 呪詛祭(11) 霊気祭(11) 招魂祭(8) 鷺祭(2) 痢病祭(1) 疫神祭(1)
 (二) 天地災変祭(39) 属星祭(32) 歳星祭(14) 太白星祭(13) 熒惑星祭(11) 大将軍祭(6) 日曜祭(5) 月曜祭(5) 地震祭(5) 塡星祭(5) 代厄祭(4) 羅睺星祭(3) 大歳八神祭(2) 土曜祭(2) 木曜祭(2) 計都星祭(1) 北斗祭(1) 水曜祭(1) 夢祭(1)
 (三) 土公祭(29) 宅鎮祭(3) 石鎮祭(2) 防解火災祭(2) 堂鎮祭(2) 厩鎮祭(1) 西岳真人祭(2) 七十二星祭(2) 大鎮祭(1) 拝謝祭(1) 竈祭(1)
 (四) 四角四堺祭(9) 七瀬祓(9) 風伯祭(7) 井霊祭(3) 雷神祭(2) 霊気道断祭(2) 霊所祭(1) 五竜祭(1)
 (一)は、病気その他直接身体の障害や危険を取除き悪霊の祟を防ぐもの、(二)は、宿星の信仰を中心とし自然の異変に対する祈禱的なもの、(三)は、建築物の安全祈願のもの、(四)は、祓いを中心としたもので神祇の作法に近い部分である。」



「一二 陰陽道思想の理論的拡大」より:

「禅竹は(中略)宿神の姿を解説して、
  御立烏帽子ワ両曜アラタナル日月ヲ現ワシ、御数珠ワ星宿ヲ連ネ給エル御姿、御檜扇ワ十二月ヲ表シテ昼夜ヲ捨テズ、衆生ニ結縁シ給フ、御形水干ワ母の胎ニシテワ胞衣(エナ)トイワレシ襅(チハヤ)ノ袖、九条ノ紫ノ御袈裟ワ忍辱慈悲ノ衣、紫色ワコレ赤色ニモアラズ、黒色ニモアラズ、スナワチ中道実相ノ御姿ナリ、御履(クツ)ワ地ヲ表セリ、
と記している。一方、表章氏の紹介された『享禄三年二月奥書能伝書』には、宿神はマタラ(摩多羅)神のことであるとしている(服部幸雄氏「宿神論」(下)文学、昭和五十年二月号一八九ページによる)。ところが摩多羅神の画像の今日知られたもの(中略)をみると、幞頭冠に狩衣の姿で腰を掛け鼓を打ち囃し、前に烏帽子を著た丁礼多・尼子多の二童子が銘々茗荷と笹の小枝を持って舞い、画面上方には北斗七星を出す図様になっていて、『明宿集』のとく像容と一致しない。」

「わたくしは、摩多羅神の像容を二種類のものに分けうるとしても、それが星宿信仰につながりの有無を区別することにはならないと考える。本来賤民芸能者には服部氏が詳しく考証されたごとく、守護神ともいうべき宿神がまつられ、そこには宿星信仰とのかかわり合いは全くなかったのであるが、古代末頃より賤民活動の中に陰陽師の仕事がとりいれられ(というより宮廷の下級陰陽師が没落して賤民社会に入り)、夙の民の生業には、『大和国添上郡奈良坂村旧記』(藪田嘉一郎氏紹介)によると、正月元日諸公家の門に臨み祝文を啓し不浄を祓い、俳優歌舞することが含まれており、明らかに陰陽師の作法が看取される。
 また、既述した声聞師の生業も、『大乗院寺社雑事記』が「陰陽師・暦星宮・久世舞・盆彼岸経」云々と記していて、陰陽道・暦道はじめ芸能にわたる巾広いものになっていて、賤民芸能者の中に星占いなど宿星信仰が夙くより滲透していたことは疑いがなく、これが守護神である宿神信仰と結びついたのも能楽興隆以前にあり、宿神=摩多羅神の表現も様々に工夫されたので、ただ俗形で老翁姿というのが基調になっていた。」
「その後、観世方の諸伝書をまとめた『八帖花伝書』があらわれ、ここには一段と陰陽道的要素を明確に認めることができる。春日若宮祭に一の鳥居脇の影向松の前で演ぜられる猿楽、下り松の小鼓について、大鳥居の方より笛をひいと吹くのは日吉の字を意味し、小鼓をたつと/\と三度打つのは九曜の星を象徴する。小鼓は糸目を丸く塗るは星を像る云々と説明し、鳴物の調子についてはこれを五行で解釈している。」
「鼓については、小鼓が陰、大鼓が陽で、天地・陰陽を象徴する。鼓に六つの穴をあけるのは六曜の星を象徴し、大鼓は月、笛は日を意味し、胎蔵界・金剛界に配される。『八帖花伝書』はそのほか囃子や舞全般にわたり陰陽の理念の下に陰の陰、陰の陽、陽の陰、陽の陽の四種を序破急の九種と合せて実技につき説明し、芸能の旋律性と多様性を工夫したのであった。」








こちらもご参照ください:

村山修一 『日本陰陽道史話』 (朝日カルチャーブックス)
山本ひろ子 『異神 ― 中世日本の秘教的世界』
中沢新一 『精霊の王』
野尻抱影 『続 星と伝説』 (中公文庫 BIBLIO)












































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