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清水徹 『廃墟について』

「世界はやがて終わるだろう。世界が存続しうる唯一の理由は、世界が現に存在しているということだけだ……」
(ボードレール 「火箭」 より)


清水徹 
『廃墟について』



河出書房新社 
1971年4月10日 初版印刷
1971年4月15日 初版発行
306p 
四六判 角背紙装上製本
カバー ビニールカバー
定価950円
装幀: 山崎晨



本書「あとがき」より:

「これまで書いてきた文章のなかから、ぼく自身のいくつかの関心の軸に従って、多少ともまとまったものを選んでみた。
 一見したところずいぶん多様な対象にわたっているが、こんどまとめて読み返してみたら、この十年のあいだじつはたったひとつのことを考えあぐね、それに促されて歩いてきた、いくつかあると自分では思っていた関心の軸も、そうやって歩いてきた一本の道の途中における枝葉にすぎないと解って、われながらいささかあきれている。」
「それならばそのひとつのこととは何か。「廃墟」という言葉にぼくがやや恣意的にあたえた意味内容というしかないように思える。あるいは、中原中也の詩の一句を借りれば、言語をたずさえて「無限の前に腕を振る」作家の姿と言いかえてもいいかもしれない。無限に向って投げかけられた言語は、たぶんはじめから廃墟という形態を取るしかない。ぼくはそうやって「腕を振る」作家たちの姿勢に感動し、またときには廃墟の魅惑的な構造を探るのにつよい悦びを覚えた。そういう作家たちの作品のいわばメタフィジックな側面と言語的な側面とのあいだで、奇妙な往復運動をつづけたとも言えるだろう。
 それにしても、ひとつのことを考えあぐねてきたのなら、ぼくは一冊の長篇エッセーを書くべきだったのだということに当然なる。しかし現実にはこのような形になった。言葉の遊びを許していただけるなら、これらのエッセーはいわば「廃墟」なのである。これらの「廃墟」の上に、ぼくの書くべきであったものの姿をぼんやりとなりと思い浮かべて頂けるようならば、著者として幸福これにすぎるものはない。」




清水徹 廃墟について



帯文:

「清水徹――待望の文学評論
ジッド、プルーストからビュトールまで20世紀作家たちの果断な試みと創造過程を緻密に解析し、現代文学の課題を問う俊英初の評論集」



帯裏:

「「廃墟」の彼方へ
辻邦生

清水徹は詩人的な感性を鋭い知性によってたえず解析することをやめない批評家である。彼の批評は精緻な透し彫りのまわりに白金線を巻きつけた趣がある。そして時に、この白金線が不思議な情熱によって白熱し、光を放つのである。清水徹がビュトールを紹介し、アルトーを語り、バロックの世界をわれわれの前に開いてみせるとき、そこには著者自身の冷たい熱狂が母体となり、それが精緻に分析され、緊密な言語構造体に構築されている。危機意識に駆られた現代文学の試みを凝視する彼の視線は、そこに絢爛たる「廃墟」を発見する。が、同時に「廃墟」の向うに文学の総体性を模索して格闘する著者の情熱を、読者は本書の一行一行にはっきり感じるにちがいない。」



目次 (初出):

小説の可能性――マラルメの線にそって(『世界の新しい文学の展望』 白水社 1967年6月)
廃墟について――『贋金つかい』と『段階』 (「秩序」第11号 1963年7月)
ふたたび廃墟について――『時間割』 (『世界の文学・サルトル/ビュトール』解説 中央公論社 1964年1月)
《開かれた書物》をめざして――『段階』以後 (ビュトール『文学の可能性』解説 中央公論社 1967年11月)
《構築された自伝》について――『仔猿のような芸術家の肖像』のこと (ビュトール『仔猿のような芸術家の肖像』解説 筑摩書房 1969年7月)
密室の内と外――『マンク』をめぐって (「秩序」第9号 1961年7月)
演技と演技以前――サルトルと幻想小説 (「展望」 1965年6月号)
幻想小説的空間の所在――『特性のない男』と『夏の砦』 (「審美」第5号 1967年2月)
ふたつの道――グラックとブランショ (『世界文学全集・グラック/ブランショ』解説 集英社 1967年8月)
あるとき三つの作品を……――ビュトール、シモン、ブランショ (『現代フランス文学十三人集』第4巻解説 新潮社 1966年12月)
ジョルジュ・バタイユ論のために (「世界文学」第3号 1966年5月)
《聖なるもの》をめぐって――バタイユと三島由紀夫 (「国文学」第7号 1970年5月)
アントナン・アルトー粗描 (「現代詩手帖」 1967年6月号)
アルトーの「狂気」のころ (「ユリイカ」 1970年6月号)
バロックの現代性 (「世界文学」第5号 1967年1月)
ロココの再発見 (「文芸」 1969年11月号)
現在時への献身――ボードレールからベジャールへ (「中央公論」 1969年12月号)

あとがき




◆本書より◆


「小説の可能性」より:

「ぼくはさきに、この作品に感じられる時間と空間の奇妙な融合ということを言った。じっさい、プルーストの場合、時間軸と空間軸は特異なからみ合い方をしている。たとえば作品冒頭の深夜の目覚めにおいて、語り手〈私〉はいわばそれ自体のなかで一時停止したような時間に生きると同時に、「自分がいまどこにいるか知らず、自分が誰であるかわからなくさえなって」いる。〈私〉にとって時間が失われると同時に空間もまた失われてしまった。そして〈私〉は「自分がどこにいるのかを知ろうと努力」しはじめる。『失われた時を求めて』は、また「失われた自我を求めて」でもあり、「失われた空間を求めて」でもある。」

「非現実的空間、迷路、彷徨、空しい探索、――これらを一括して謎の空間と呼ぶこともできよう。この謎の空間の特徴は、けっして解読されぬ謎、いや解読されてはならぬ謎ということだ。解読されるような謎はほんものの謎ではない。解読できぬ謎こそ真の謎にほかならぬ。文学とはなにかを解読するものではなく、解読不能のものを暗号のかたちへと転移したものなのである。」

「(あの孤高な詩人マラルメがじつは全人類を救済する芸術を夢みていたということは、おそらくマラルメ理解のためにもっと強調されていい事実である。)」



「廃墟について」より:

「ペシミスムが現実肯定の唯一の形式であるような、あるいは現実肯定はただペシミスムの形式しか取りえぬような態度、しかもこの逆説に脆弱な割れ目はまったく見あたらないような態度――《廃墟の文学》のめざすものはこれである。」


「ふたたび廃墟について」より:

「こんにちぼくたちは途方もない現実の混沌のなかにいて、自分に関しても外界に関しても明確な像を見失いがちである。『時間割』のなかの言葉を借りれば、自分も外界も「のっぺらぼうの空地」のように感じられることがなんと多いことか。それはぼくたちには耐えられない状態だ。あらゆるところから襲いかかり、ぼくたちを粉々に分裂させる力をはねのけ、自分に統一を与えることは、ぼくたちの根源的な願いである。」
「青空がほとんど顔を見せないこの都会、たまに顔を見せても「牛乳の混じった青色」でしかないようなこの都会で、ルヴェルは純粋な青空をかぎりなく憧れる。その憬れをいっそうかきたてるのが、ニュース劇場のスクリーン上で見たクレタ島の青空であり、またアテナイ、ローマ、ペトラなどの遺跡の上にひろがる青空だった。(中略)青空とは失われた聖なるもの、失われた黄金時代である。」
「青空への憬れはルヴェルの心のなかで、古代文明への憬れと結びつく。青空の下にひろがり、まばゆい陽光を浴びて輝くクレタ島のクノッソス宮殿、アテナイのアクロポリス、ローマの円形劇場などの廃墟。それらの廃墟の純粋さはルヴェルの心をとらえ、過去の文明の輝かしさを想わせるのだ。だからこそ彼は、カインの都市の末裔であるブレストンに火を放ち、それを純粋な廃墟へと変貌させたいと願うのである。」
「廃墟をとおして全体性を志向する想像力、人間のすべてに分かち与えられている全体性をめざす精神、――『時間割』はそれに対してささげられた一つの頌(ほめうた)でもある。」



「《開かれた書物》をめざして」より:

「マラルメの場合については、晩年のかれが単語を書きこんだカードをいろいろに並べ換えては愉しんでいたという有名な逸話を想い浮かべるだけにとどめておこう。作者の抱く現実像あるいは幻影を文字によって模写し、そのありのままを伝えようとするのではなく、位置、形態、大きさなどの形而下的側面のすべてを含んだものとしての文字から照射されるなにものかを見つめ、それを組み立てることによって作品をつくりあげるというマラルメの方法は、この逸話からも明瞭に理解できるはずだ。文字を楽譜状に配置したマラルメ最後の作品『骰子の一擲』も、また未完に終わったかれの《書物》にしても(中略)、こうした方法の必然的な帰結なのである。」


「密室の内と外」より:

「ある一群の芸術家がいる。かれらは、現実の世界が、いやかれらの生自体がひとつの密室にほかならぬという体験から出発する。密室のそとに幸福な楽園がひらけているというなぐさめのことばには、かれらは耳もかさない。失われた楽園というようなことばは、かれらにはなんの意味ももたない。密室脱出の希望を、密室の悪意によってむざんにも裏切られてしまったかれらは、残るかすかな希望を芸術創造に託す。
 かれらの内部には、密室への呪詛が逆流し、渦を巻いている。どんなに身をよじり、叫んでみても、密室から脱出し、その悪意を征服することはできない。どんなに意識をとぎすましてみても、かれらの内部にとぐろを巻く呪詛を消すことはできない。そのときかれらは、密室の悪意を発見し、密室への呪詛を産んだ源泉が、じつは、かれらの内部にひそむひとつの暗黒の部分、かれらの魂のなかに大きく口をあけた深淵にほかならぬことを確認する。密室に窒息しないためにかれらに残された方途は、この暗黒の部分にむかって地獄下りを敢行することしかあるまい。そうやって想像力を幽閉から解きはなち、そのたすけを借りて密室の壁を破壊し、内部と外部をつなぐ新しい空間をつくりだすのだ。その新しい空間とは、かつてそこから追放された楽園でもなく、密室の内部ともちがう、いわば「どこにもない場所」である。そこには、怪奇な幻想しか住むことを許されない。たとえば、ボッシュの描いた『快楽の園』やブリューゲルの『聖アントワーヌの誘惑』図が、このふしぎな空間をぼくたちに示してくれる。
 『マンク』の著者マシュー・グレゴリー・ルイスも、密室の悪意に衝突した芸術家のひとりだった。」
「ルイスはたしかに密室のそとの世界を志向していた。しかし、その志向の動機となったかれの内部の暗黒とは、善にたいする悪、理性にたいする本能的衝動というようなものにとどまった。しかもこの対立が激化していって、かれ自身が解体してしまうこともなかった。むしろかれは、禁止され抑圧されたものの復権をめざして悪と本能を肯定したのだ。同時代の一般的な人間観よりはよりひろい視野のなかにおいて人間をとらえ、しかもそのひろげられた枠組が人間的であることをやめなかった。ことばをかえていえば、かれの自我は同時代人より奥行も深くなり、振幅も増大したかもしれぬが、なお確かな人間的枠組を失わなかったのだ。そうでなければ、超自然の出現をあれほど熱情的に描きながら、一方、その出現に内部の核を侵蝕されることのない作中人物をつくりあげることはできなかっただろう。ブルトン流の言い方をすれば、ぼくたちの生きる時間・空間が驚異的なものによって変貌させられねばならぬのだ。『マンク』の迫力にもかかわらず、ぼくたちはなけなしの、じつはほとんど形骸化した「現実」意識にしがみついて、ともすればその迫力から身を引きたがる。このけちくさい「現実」意識を打ち壊し、現実と超現実とを交流させ、幻想が作品の全体を覆うようにするためには、作中人物自身が驚異的なものによって破壊されること、あるいはかれの自我がすでにじつは明瞭な輪郭も統一的核心も失っていると確認させられて漂よい始めることが必要なのである。」
「ぼくたちを密室とはちがう新しい怪奇な空間へと導くのは、超自然の出現と平行した作中人物の変貌であり、あるいは作中人物の変貌ゆえの世界の変貌である。」
「ぼくはいま、ふつう小説の世界では大きな位置をあたえられていない三つの作品を想い浮かべている。ロートレアモンの『マルドロールの歌』と、フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』、そしてネルヴァルの『オーレリア』。」



「幻想小説的空間の所在」より:

「こうしてリアリズムの円環は乗り越えられる。「一連のふしぎな経験」のはじまる空間を「夜」と名づけて、ムシルはこう語る。

  夜は、すべての矛盾を、そのきらきら光る慈しみぶかい母の腕に抱き、その胸に抱かれていると、いかなる言葉も偽りでなく、いかなる言葉も真実でなく、すべての言葉が、人間が新しい考えのなかで経験する、暗黒からの精神の無比の誕生となる。高められた自我は、涯しない無私のなかに光を放つ。そしてこのような夜は、これまで一度もなかったような、いや昼間の零落した理性では想像することもできないようなことが起るだろうという、とてつもない感情に満ちている。

 ウルリッヒが妹アガーテのうちに喪失した自我の核心を見出し、それをついに所有するとは、鞏固な「私」として屹立することではなく、かれ自身が「涯しない無私」と化することであった。この兄妹は「別の生の状態」を生きる。だが、この絶対的瞬間は現実の持続とは相容れない。かれらの試みの挫折はムシルにも見えていた。だからこそかれは草稿の形では破局のページを書いていた。にもかかわらずムシルは、(中略)いわば小説自体の運動に逆らって、ほとんど小説ということをさえ忘れて、「ある夏の日の息吹き」の章に兄妹の愛を美しく歌いあげることに懸命になり、そして死んだ。ムシルが「特性のない男」ウルリッヒを設定し、その相対性をひたすらに追究してゆくうちに、ウルリッヒはリアリズムの円環をぬけだし、「特性のない男」であることをやめ、自我の消滅するもうひとつの空間にはいりこんでしまう。それとともに作者ムシルは、近親相姦という閉ざされた愛を、いわばもうひとつの円環として磨きあげる作業にのめりこむ、だがその空間は、ウルリッヒとアガーテがふたりであることをやめるとき、はじめてかれらを矛盾なく内包しうるようなふしぎな空間なのだ。したがってムシルは、この空間の要請に答えて、かれらの閉ざされた愛をかぎりなく美しく歌いつづけねばならぬ。しかも、そうした無限の試みも、けっしてこの空間の要請を満足させないだろう。それゆえにムシルの小説は未完に終わるのだ。」



「ジョルジュ・バタイユ論のために」より:

「神という頂点を欠いたバタイユの思想の構造は、いわばヘーゲル的弁証法から総合の契機を除いた残りの、頂点が虚像の三角形である。あとに残ったのは、たがいに矛盾し合うふたつの力を両端にもつ不安定な底辺だけだ。そしてバタイユにとっては、この不安定に対処する道は矛盾の激化しかなかった。
 かれの思想を一言で名づければ極限的ニヒリズムと言えよう。形式論理学はしばしばニヒリズムについて冷ややかにこう語る、――ニヒリズムとは論理的誤謬なり、なんとなれば、すべてを無と見なし、すべてを否定せんとするニヒリズムは、かく言うニヒリズム自体をも否定するに至るべきものなればなり、と。しかしバタイユはこのニヒリズムの自己矛盾をみずから生きようと試みた。少年のころまでは敬虔なカトリック者であり、あるとき「神の死」を体験したバタイユのなかには、サルトルの表現を借りていえば「確乎とした、しかもたがいに対立するふたつの要求、――いまや神は死に、口を閉ざし、われわれはもはや神の死体にしか触れていない、私は飽くまでそう言い張るだろうということと、私のなかのすべてが神を求めている、神を忘れることは私にはできないということと――この両者」がけっして和解してはならぬ状態において共存していた。この解決不能の矛盾をそのまま激化させ、しかもなにかまやかしによってニヒリズムから脱却しようなどとはけっして意図しない、――というか、ニヒリズム脱却の意図ははじめから完全に消し去っておく。
 バタイユの矛盾の力学は本質的に論理性の外にある。サルトルのバタイユ論が、いかにさまざまな知識を動員し、緻密な論理を繰りひろげても、ついにバタイユそのひとと平行線をたどるに終わったのは、サルトルが、バタイユの本質をなす絶対的矛盾を見ぬかなかったからだ。というか、矛盾は、みずからそれを生きぬくかぎり、そしてその苦しみの道程におけるめくるめきの体験こそみずから求むべきものだと知悉しているかぎり、矛盾はその主体自身にとっては矛盾ではないという奇怪な思想が、ついにサルトルに理解できなかったともいえる。だからサルトルは、バタイユを評して「やがて神か空虚かに到達するだろう」と語る。じつはなにものへも到達しなかったことがバタイユの意志だったのに。」



「アントナン・アルトー粗描」より:

「アルトーは最晩年に『ヴァン・ゴッホ論』を書いている。みずからの内なる社会を殺害したひとアルトーは、ゴッホに自分と同じ精神種族を認めたのであり、ゴッホを語るかれの言葉は、そのままかれ自身の自己分析に等しい。
  真の精神錯乱者とはなにか。
  それは、人間の名誉に関するある種の観念に背くよりは、社会で理解されているような意味で狂人となるほうを好んだひとのことだ。
  精神錯乱者とは、また、その言葉を社会が聞きたくなかったひと、耐えがたい真実のかずかずを表明するのを、社会が妨げようとのぞんだひとのことだ。
 アルトーの提唱した《残酷の演劇》は、究極的な肯定の方途としては社会にとってあまりにも耐えがたかったので挫折したのではなかったか。天使への道を敢然としてつき進んだアルトーという存在は、ぼくたちにとってあまりにも耐えがたい真実を表明しているとはいえないだろうか。
 ゴッホが死の直前に描いた有名な鴉の飛びかう絵に触れて、アルトーはこう語る。
  死の二日まえに描かれたこれらの鴉は、かれの他の絵と同じく、死後の栄光といった扉をかれに開いたのではない。描かれた絵画、いや描かれぬ自然へと向けて、可能な彼岸の、可能な永遠の現実の玄妙な扉を開いている、ヴァン・ゴッホによって開かれた扉を越えたさきの、謎の不気味な彼岸の扉を開いているのだ。
 アルトーによって開かれた扉のさきに垣間見えるもの、それもまた「謎の不気味な彼岸」である。かれは、だれひとりとして証言することのできぬ精神の冒険へと身を投じ、ぼくたちを戦慄させる、――冒険の足もとから飛び散ったこんな破片をぼくたちに残しながら。
  ぼくはだれか。
  どこから来たのか。
  ぼくはアントナン・アルトー
  そう言えるのだから
  ただちに
  そう言ってのけよう
  そのとききみは見るだろう ぼくの現在の身体が
  粉々に飛び散るのを
  そして二万もの周知の面を見せて
  また集まり
  新たな身体をつくりあげるのを
  その身体を見れば
  きみはもはや永遠に
  ぼくを忘れられぬだろう」



「現在時への献身」より:

「祝祭的芸術を語る人びとは、しばしばその理論的支柱としてアントナン・アルトーの名前を口にする。アルトー、この《残酷演劇》の提唱者は、たしかに、「情熱的で痙攣的な生という観念を演劇に連れもどす」ことをめざした。しかしそれはけっして無秩序な生の暴発ではない、アルトー自身はっきりと定義しているように、かれの言う「残酷」とはサディスムでもすさまじい流血でもたんなる暴力でもなく、それは「まず明晰なもの、一種の厳格な指示、必然への服従である。」
 「苦悩の避けがたい必然性の外に出て生が営まれるというようなことはありえない」という意味での、生に必然的な苦悩、それがかれの言う「残酷」なのだ。この確認の上でアルトーは残酷演劇の目ざすところとその実現の方法を、きわめて綿密に決定してゆく。だから、アルトーの残酷演劇に見られるものは、祝祭、お祭りではなく、祭儀性の復活なのである。
 再現しえぬものという地平で考えられた生それ自体、「個人的な生とか、性格が勝ち誇っている、生のあの個人的な側面ではなく、いわば〔個人から〕解放された生、――生から人間の個人性を一掃して、人間がもはや生の一つの反映にすぎなくなってしまう――そんな生と同等になるべきもの」それが残酷演劇の基本的な定義である。それゆえに、かれはアリストテレス以来の模倣(ミメシス)の観念に絶縁状をたたきつける。なぜなら、ミメシスとはある原型を模倣すること、つまり分裂を導入するものであり、かれが舞台の上に実現し展開したいとのぞんでいるのは、いかなる分裂もないまるごとの生、いわば生きることの苦悩の裸形の姿に他ならぬような生だからである。こうして、かれは戯曲台本からはなれる。(中略)言葉の発声法を変え、オノマトペ(しかしなにものにも同一化しえぬような)を導入し、叫びか呪文に他ならぬ言葉をつくりだそうとする。(台詞のもつ音と意味という二重性を拒否するために)。俳優たちの物真似ならぬ、しかし表出力の強い動作、「まったく習慣にない音響的性質と振幅をもつ」音楽。等々……。要するにアルトーは、舞台の上において、裸形の生以外のなにものも指示しないような生、純粋に視覚的なものと純粋に感覚的なものとのいわば自己提示が、観客を震撼させるほど暴力的に実現されることを求めている。生を苦悩としてとらえているのだから、かけがえのない、しかも死すべき運命にある生の現存、《現在時》における、けっして繰り返されることのない生の現存を舞台上にくりひろげる、と言い直すこともできるだろう。おそらく、これ以上に純粋な《現在時の芸術》はあるまい。
 だが、アルトーの《残酷演劇》についてこれ以上触れるのはやめよう。なによりもそれは、かれが夢として抱いた理論に他ならず、かれの想い描いた真の演劇は「まだ存在しはじめたことがない」のだから。」

「人間の消えたあとにまでなお残りつづけるこの絶望的な「期待」は、いったいなにを待っているのか。

  絶対的に現代人でなければならぬ。
  頌歌はない。かち取ったこの歩みをつづけよう。辛い夜! 乾いた血がぼくの顔の上で煙り、背後にあるものとては、あの身の毛もよだつばかりの灌木だけだ!…… 精神の闘いは人間同士の戦いと同じように荒々しい。
  ところで、いまは前夜だ。流れ入る力強さと真の情愛のすべてを受け入れよう。そして曙には、熱烈な忍耐で身を鎧い、ぼくらは光輝く都市に入ってゆくだろう。

 イヴ・ボンヌフォワは、『地獄の季節』のなかのこの有名な一節に触れてこう書いている。「熱烈な忍耐は、ふりかかってくるものを引き受けてきたものに変え、苦悩を存在に変え、《死んだ身体たち、やがて裁かれるであろう身体たち》をあの可能な前夜、その真実が、暁とともに、《ひとつの魂とひとつの身体のなかに》、ふたたび始められる実在のなかに、打ち立てられるのが見られるであろうあの前夜へと変える。」苦悩の重圧下にある闇のなかで、身体は死ぬ。しかしなお、「熱烈な忍耐」をもって待ちつづけるとき、すでに一切の手だての断ち切られた希望になおあえて同意するとき、暗黒の前夜は、おそらくあるはずのもう一つの前夜に――やがてその夜が明ければ輝かしい永遠に包みこまれることができるような、そんな希望の前夜に――変換されるのだ。この永遠、それは「昼と夜のかなた、時間とさらには希望さえものかなたで、のぞみ焦がれた解放にただ一息で身をまかせる幸福」をあたえてくれよう。だがそれは、ランボーの同名の詩に歌われたように、人間の姿はすでになく、燦然と輝く太陽があくまで青い海に溶けこむ、ただそれだけのものであるかもしれない。《現在時》に献身する芸術がもだえながら熱烈に求めているものも、おそらくそれなのだ。」









こちらもご参照ください:

清水徹 『書物について ― その形而下学と形而上学』
清水徹 『吉田健一の時間 ― 黄昏の優雅』
ビュトール 『時間割』 清水徹 訳 (中公文庫)
アントナン・アルトー 『神経の秤・冥府の臍』 粟津則雄・清水徹 編訳
ヴァレリィ 『ドガに就て ― ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一 訳
阿部良雄 『ひとでなしの詩学』
間章 『非時と廃墟そして鏡 ― 間章ライナーノーツ』
谷川渥 『廃墟の美学』 (集英社新書)
クリストファー・ウッドワード 『廃墟論』 森夏樹 訳
















































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

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将来の夢: 石ころ。

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