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フロベール 『サランボオ』 神部孝 訳 (角川文庫) 全二冊

「殆んど二六時中、彼女は部屋の奧にうづくまつて、折り曲げた左の脚を抱へ、少し口を開け、頤を落して、一點を見つめてゐた。」
(フロベール 『サランボオ』 より)


フロベール 
『サランボオ 
上巻』 
神部孝 訳
 
角川文庫 362


角川書店 
昭和28年7月31日 初版発行
平成元年11月15日 四版発行
215p
文庫判 並装 カバー 筒函
【全2巻】分売不可 セット定価840円(本体816円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌




フロベール サランボオ 02



フロベール 
『サランボオ 
下巻』 
神部孝 訳
 
角川文庫 363


角川書店 
昭和29年6月30日 初版発行
平成元年11月15日 四版発行
205p
文庫判 並装 カバー 筒函
【全2巻】分売不可 セット定価840円(本体816円)
カバー・デザイン: 鈴木一誌




フロベール サランボオ 03


下巻所収「解説」より:

「『サランボオ』 Salammbô (1862)は『ボヴァリー夫人』 Madame Bovary (1857)に次いで書かれたフロベール Gustave Flaubert (1821~1880)の作品で、しかもこの歴史小説は傑作であるといふ點では決して後者にひけをとらないものである。作者自身もこの作品を會心の作であるとしてゐたといふことである。
 主題は第一ポニエ戰役後に於ける傭兵たちの反亂にとられてゐる。カルタゴに對して不滿を抱いた傭兵たちは、マトオ、スパンディウス、ナラヴァス等の指揮のもとに反逆し、カルタゴを攻圍するが、マトオとナラヴァスの二人はいづれもアミルカアルの娘、サランボオに對して戀を感じるのである。ところが、マトオはタニット寺院の神秘のヴェエルである「ザインフ」を奪ひ出したので、このとき以來、カルタゴの國運は動搖しはじめる。そこで、師僧はサランボオに命じて、この「ザインフ」の奪還を計る。サランボオは命じられるまゝに、マトオを天幕に訪れ、目的を達して歸る。かくして、反亂は結局傭兵側の敗北となり、マトオは處刑されるが、戀人の熱情に心を動かされたサランボオもこれを見ながら悶絶するといふのである。
 フロベールは『ボヴァリー夫人』を書いてから、「醜惡なこと」や「卑俗な環境」に嫌氣がさし、何とかして數年間は「近代社會から遠くかけ離れて、素晴らしい主題」のなかで生きたいことを希つた。かくして書かれたのが『サランボオ』である。」

「この作品の譯者は今から十數年まへの夏、いまだ春秋に富む身を、惠まれた文才を惜まれながら他界の人となつた。後輩である私は乞はれるままに、かつてもこの譯書の序文を書いたことがあるが、いま再びこの譯書が上梓されるにあたつて筆をとりながら、(中略)感慨なきを得ない。」



「角川文庫創刊40周年記念特別企画 
読者アンケートによる 
角川文庫限定復刊 
リバイバル・コレクション PART II」



ギュスターヴ・フローベール『サランボー』旧訳。
旧字・旧かな。
上巻に挿絵8点、下巻に挿絵7点。



フロベール サランボオ 01



上下二冊が筒型のケースに入っています。


帯文(上下巻共通):

「今は跡かたもなく消え去った
前三世紀のカルタゴを舞台に、
ヌーボー・ロマンの源流に位置する
フロベールが描く
女神官「サランボオ」の至純の恋。
〈小説の世紀〉を代表する傑作。」



上卷 目次:

一 饗宴
二 シッカにて
三 サランボオ
四 カルタゴの城壁の下で
五 タニット
六 アノン
七 アミルカアル・バルカ
八 マカアルの戰



下卷 目次:

九 戰場にて
十 蛇
十一 天幕の下にて
十二 水路橋
十三 モロック
十四 ラ・アァシュの峽道
十五 マトオ

解説 (根津憲三)




◆本書より◆


「一 饗宴」より:

「彼等はあたり構はず切りまくり、打(ぶ)ち壞(こは)し、殺害するのだつた。炬火(たいまつ)を枝葉のしげみの中へ投げつける者達があつた。かと思ふと、獅子の巣の欄杆(てすり)に肱をついて、弓矢でしきりに射殺してゐる者達があつた。大膽極まる連中は、象に向つて行き、彼等の鼻を叩き落し、牙を切り取らうとしてゐるのだつた。
 その間に、もつと樂に掠奪してやらうと思つて宮殿の角を廻つて行つたバレアアルの投石手達は、籐で造られた高い障壁で食ひ止められた。彼等は短劍で錠の革帶を切つた。と、カルタゴの方に向いてゐる正面玄關の下に、刈り込まれた草木だらけの別の庭園に出た。次々に並ぶ幾列もの白い花は、空色の地上に、流星のやうな長い抛物線を描いてゐた。闇に閉された叢林からは甘やかな仄温かい香氣が立ち登つてゐた。あたかも血に塗れた柱のやうに、朱を塗られた木の幹があつた。中央に、十二の銅の臺座の一つ一つに大きな硝子の球が置かれてゐて、赤茶けた微光に滿たされたそれら空洞の球體は、今なほ瞬きもしさうな巨大な瞳のやうだつた。兵士達は炬火(たいまつ)で互ひに足許を照らし合ひながらも、深く耕(す)き返された傾斜地で始終つまづいてばかりゐた。
 けれども、彼等は、靑い石の壁で幾つにも區切られてゐる小さな湖を認めた。寄る波も透き徹つてゐて、炬火の焰は、水底深く、白い小石と金粉との湖床でゆらぐのだつた。水が泡を立て始め、そこここにきららかな砂金が滑つて行つた。と、口のあたり、寶石をちりばめた大きな魚族が水面近く現れた。
 兵士達は大笑ひしながら、鰓(えら)に指を突込んで、それらを食卓の上へ運んだ。
 それはバルカ家の魚だつた。みんな、あの女神のひそんでゐた神秘な卵を孵化させた、原初の鱈鰻(ロット)の後裔だつたのだ。瀆聖をやつてゐるといふ觀念が傭兵共の貪慾さを掻き立てた。彼等は早速靑銅の容器の下に火を入れて、煮え沸る湯の中で美しい魚が苦しみもがくのを見て面白がるのだつた。
 兵士達の群はますます圖に乘つてゐた。」

「宮殿は一擧にして、その最高の望樓までも照らし出され、中央の扉が開いて、一人の女が、黑い衣をまとうた紛ふ方なきアミルカアルの娘が、閾口に現れた。彼女は第一階層に沿うて斜に走る最初の階段を下り、次に第二、第三の階段を下りて、例のガレール船の階段の上の最後の望樓で立ち止まつた。そして身動きもせず、うつむいて、兵士等を見渡すのだつた。」
「ついに彼女はガレール船材の階段を下りた。(中略)彼女は絲杉の並木路に進んで行き、隊長達の食卓の間を靜々と歩いた。彼等は彼女の通るのを見て些か後退りするのだつた。
 カナンの處女達の習ひで、塔の形に束ねられ、紫の砂を播かれた毛髪は、彼女の姿を實際よりは高く見せてゐた。顳顬(こめかみ)に結ばれた眞珠の編物は、半ば綻びた柘榴のやうな薔薇色の口許まで垂れてゐた。胸にはきららかな寶石類の寄せ集めがあつて、その雜多な光彩はうつぼ(引用者注:「うつぼ」に傍点)の鱗にも似てゐた。ダイヤモンドをつけた雙の腕(かひな)は、眞黑な地に赤い花を浮かした袖無しの服(テュニック)からむき出しになつてゐた。踝(くるぶし)の間には、歩調を整へるために、小さな金の鎖がついてゐた。そして、(中略)濃い眞紅の豐かなマントは、後に長く引きずられて、彼女の一足ごとに、後から大きな波がついて行くもののやうだつた。
 僧侶達は時々、七絃琴で、殆んど抑へつけられたやうな和音を掻き鳴らした。そして、音樂の合間(あひま)合間に、彼女の紙草で出來た草履(サンダル)の規則正しい音と一緒に金鎖の微かな響が聞えるのだつた。」
「月こそは彼女の面をいやが上にも蒼白くして、何かしら神々しいものが、そこはかとなき靄のやうに、彼女を包んでゐた。その瞳は、地上の空間を越えて、遠くかなたを見つめてゐるやうだつた。彼女はうつむいたまま歩みを運び、右手には小さな黑檀の七絃琴を持つてゐた。
 彼女の呟くのが彼等の耳に聞えるのだつた。
 ――「死んだ! みんな死んでしまうた! 湖水の縁に腰かけて、お前達の口に西瓜の種を投げてやる時、妾の聲にすなほに寄つて來たお前達の姿はもう見られないのだ! 流れの中の水球よりももつと透明なお前達の眼の底に、タニットの秘密が宿つてゐたものを。」そして、彼女は彼等の名を呼んだが、それは月々の名稱だつた。「シヴ! シヴァン! タムウズ、エルウル、ティシュリ、シュバアル! ――ああ、女神よ、この身を憐み給へ!」
 兵士達は、彼女のいふ言葉の意味は分らなかつたが、まはりにつめ寄せた。(中略)彼女は彼等すべての上に嚴めしい長い視線をさまよはせてから、頭を肩の間に落すやうにして、兩腕を擴げながら、幾度もかう繰り返した。
 ――「お前達は何てことを仕出かしたのか! 何てことを仕出かしたのか!(中略)」」
「「一體、ここをどこだとお考へなのぢや? (中略)バアルの僕(しもべ)、わが父アミルカアル主宰なるぞ! (中略)續けるがいい! 燒くがいい! 妾は、わが家の精靈を、あの白蓮の葉の上に眠つてゐるいとしの黑蛇を連れて行かうよ! 口笛を吹けばついても來よう、ガレール船に乘るならば、わが船の跡を追うて、碎くる浪の水泡(みなわ)の上を泳ぎ渡つて來るでもあらう。」」
「「ああ、哀れなるカルタゴよ! 悲しい都市(まち)よ! お前はもう、海原越えて彼方の岸に、寺々を建てて來た古の強者達には守つて貰へないのだ。あらゆる國がお前の周圍(まはり)で働いてゐた。そして、お前の櫂で耕された海原には、お前の收穫物がゆさゆさ搖れてゐたものを。」
 そこで、彼女は家の先祖で、シドン人達の神たるメルカルトの冒險を歌ひ始めた。
 エルシフォニイ山岳への登攀や、タルテッシュスへの旅や、マジザバルに對する蛇の女王のための復讐戰などを語るのだつた。
 「彼は、森の中、枯葉の上を、銀の小川のやうに尾をくねらせて行く雌の怪物を追ひかけた。とある草原に出て、見れば大きな火を圍み、龍の腰した女人等が尻尾の先で立つてゐる。血の色をした月が、靑白い輪の中で輝いてゐた。漁夫達の銛(もり)のやうに裂けた彼女等の緋色の舌、ペロリペロリ弧を描いて焰の縁邊(へり)まで延びてゐた。」
 それから、立てつづけに、サランボオは語つた。マジザバアルを退治たメルカルトが、打ち取つたその首を船の舳に飾つたいきさつを。――「浪打つ浪の搖れごとに、首は水泡(みなわ)の中に沈んだ。だが太陽はそれを木乃伊(みいら)と化して、黄金よりも硬くした。しかもなほ、その眼は泣きやまず、絶え間なく涙は水の上に落ちるのだつた。」
 彼女はこれらのことをすべてカンナの古い方言で歌つたので、蠻人達にはわからなかつた。」



「二 シツカにて」より:

「彼等は兩側に赤茶けた小さな山脈を持つた一種の大きな廊下を進んで行つた。と、嘔氣を催すやうな臭氣が鼻を打つた。そして、いなごまめ(引用者注:「いなごまめ」に傍点)の莖の上に何だか異常なものが見えるやうな氣がした。獅子の頭が葉の上に聳えてゐるのだ。
 彼等はそこにかけつけた。正(まさ)しく獅子だつた。獅子が罪人のやうに、十字架に四肢をくくりつけられてゐるのだつた。その巨大な面を胸に垂れ、兩方の前肢は豐富な鬣で半ば見えないが、鳥の翼のやうに思ひ切つて擴げられてゐた。肋骨(あばらぼね)の一つ一つは張り切つた皮膚の下に浮き出てゐた。後肢は重ねて釘づけにされ、多少高くなつてゐた。そして、毛の中を流れる黑い血は、十字架に沿うて眞直に垂れた尻尾の先に鍾乳石をこびりつかせてゐた。兵士等はまはりで打ち興じた。(中略)眼の中に小石を投げつけては羽蟲を飛び立たせた。
 百歩ばかり先に行くとまた二つあつた。それから、突然、さうした獅子をつけてゐる十字架の長い列が現れた。あるもの達はもうずつと前に死んでゐて、骸骨の殘り屑が木にくつついてゐるだけだつた。またあるものは半ば腐りかかつてゐて、恐ろしいしかめ面で口を捻ぢ曲げてゐた。中には巨大な奴があつて、その重さに十字架の樹木はたわみ、獅子共は風に搖れてゐて、頭上では烏の群が宙でひつきりなしに旋廻してゐた。カルタゴの農民は何か野獸を捕へると、こんな風に腹癒せをやるのだつた。かうした例で他の奴等を懲らしめたいと思つてゐたのだ。蠻人達は笑ふことも止めて、呆れ返つてしまつた。「何て人達だらう」と彼等は考へるのだつた。「獅子を磔刑(はりつけ)にして面白がるなんて!」」

「殆んどしよつちゆうマトオは占考僧のやうに憂鬱な顏をして、日の出頃から野原をぶらつきに出かけた。そして砂の上に寢そべつて、晩までじつとそのまま身動きもしないでゐるのだつた。
 彼は、一人一人、軍中のあらゆる卜者達と相談した。彼等は蛇の歩行を觀察したり、星々に讀み耽つたり、死者達の灰の上を吹いてみたりするのである。(中略)彼は頸飾りや護符を身につけた。そして、バアル・カアモンやモロックや、七人のカビイルやタニットや希臘人達のヴィーナスに次々に祈願した。また、銅の板にある名前を彫つてそれを自分のテントの閾口の砂中に埋めた。スパンディウスは、彼がたつた獨りで呻いたり話したりしてゐるのを耳にしたものだ。
 ある夜更け、彼は中に入つて行つた。
 マトオは、まるで屍體のやうに裸で、顏を兩手に埋め、獅子の毛皮の上に腹這ひになつてゐた。」
「つひにマトオは彼の方に濁つた大きな眼をあげた。
 「聞いてくれ!」と彼は唇に指をあてながら低聲(こごゑ)で言つた。「神々の怒りに觸れたのだ! アミルカアルの娘が俺を追ひ廻す! 俺は恐ろしい、スパンディウス!」彼は幽靈におびえた子供のやうに、われとわが胸を抱きしめてゐた。」



「三 サランボオ」より:

「サランボオは女奴隷に支へられながらおのが宮殿の望樓に登つた。奴隷は燃え立つ炭火を鐵の深皿に入れて持つてゐた。
 望樓の中央には、山猫の毛皮でおほはれた小さな象牙の寢臺と、神々への犠牲で運命を豫言する動物、鸚鵡の羽で出來たクッションがあつた。そして、四隅には四個の長い香爐が立つてゐて、中には甘松や香や、肉桂や沒藥が一杯入つてゐた。(中略)サランボオは極星をじつと見つめた。彼女は靜かに空の四方を拜み、蒼穹になぞらへて金の星を撒いた靑い砂の上に跪いた。それから兩肱を脇腹に當て、上膊を眞直ぐにして手を擴げ、月光の下に顏を仰向けながら、彼女は言つた。
 「おおラベトナ!…… バアレエ!…… タニット!」そして彼女の聲は、誰かに呼びかけでもするもののやうに、物悲しげに尾を曳くのだつた。「アナイティス! アスタルテ! デルセト! アストレエト! ミリッタ! アタラ! エリッサ! ティラタ!…… 秘められたる象徴により、――鳴り響く月琴(シストル)により、――地の畝により、――永遠の沈默と永遠の豐富さにより、――暗い海と靑い濱邊との支配者、おお、濕へるものの女王よ、安かれ!」
 彼女は二三度全身をゆすぶつた。それから兩腕を伸して、額を砂塵の中に埋めた。」
「彼女は頭をあげてじつと月を眺めながら、その言葉に讃歌の章句をまじへながら呟いた。
 「手(た)觸れがたき大空に支へられ、何と輕やかに汝は舞ふぞ! 汝がめぐり、げにつややかなり。汝(な)が不安の動搖こそ、風を、豐かな露を分ち與ふ。汝(な)が増減に、猫の眼や豹の斑點(ぶち)は長くもなり縮まりもする。妻等は生みの苦しみに汝が名を呼ばふ! 汝こそは貝を膨らます! 酒を泡立たす! 屍體(なきがら)を朽ち腐敗(くさ)れしむ! 海の底ひに眞珠を作る!
 そしてすべての胚種は、おお女神よ! 汝が濕潤の暗き深淵に醗酵する。
 汝が現れる時、安靜が地上に擴がる。花は閉ぢ、浪は靜まり、疲れた人々は汝が方に胸を差し出して横たはる。そして、世界はその海洋をも山嶽をも、鏡をのぞくやうな汝が面影の中にうつしてみる。汝は白く、優しく、つややかで、一點の汚れなく、憐れみ深く、淸々しく、朗らかである。」
 丁度その時、三日月は、入江の向う側に、オオ・ショオド山の頂きと頂きとの間の切込みに、姿を見せてゐた。その下に小さな星が輝き、その廻りには靑白い輪がかかつてゐた。サランボオは言葉をつづけた。
 「だが、汝は恐ろしい女神だ!…… 汝こそ、怪物や恐ろしい幽靈を、僞りの夢を作る。汝の眼は建物の石を嚙み食らふ。そして汝が若返るたびに猿共は病氣になるのである。
 そも、いづこへ行くぞ? 絶え間なく姿を變へるは何がゆゑぞ? か細く曲つてはあたかも帆柱の無きガレール船の如く、大空を辷り行き、また星々の中にある時は、羊の群を守る牧人のやうだ。照り滿ちて圓かな汝(なれ)は、戰車の輪にも似て山々の頂を掠め行く。(中略)」」

「サランボオはたつた獨りでこの宮殿の中に住んでゐたのである。」
「そして、サランボオは天體に象られた女神を禮拜したのだ。月から下りてこの處女の上に、ある不思議な力が働きかけてゐた。月が細る時、サランボオは衰へて行つた。晝の間ずつと弱つてゐながら、晩には元氣を取り戻すのだつた。月蝕の間、彼女は死にかかつたのだつた。」

「サランボオは向きを變へた。彼女はシャアバランが衣服の裾につけてゐた金の小鈴の音を聞いたのだつた。」
「それはタニットの大司祭で、サランボオを育てた人だつた。」
「シャアバランは片腕を宙にあげて、語り始めた。
 「神々の前には、ただ闇があるばかりだつた。そして夢を見てゐる人間の意識のやうにぼんやりした重苦しい息吹がただよつてゐた。この息吹が引きしまつて願望と雲とを創り、その願望と雲の中から原初の物質が出て來た。それは黑い、凍つた、深い泥水だつた。その中に、未來に生れる形とは聯絡のない部分部分であたかも聖殿の壁に描かれてゐるやうな無感覺なもろもろの怪物が包藏されてゐた。
 それから物質は凝結した。卵となつた。そして割れた。一半は大地を造り、他半は蒼穹となつた。日輪が、月が、風が、雲が現れた。そして、雷電の爆鳴に、智慧ある動物は眼を覺ました。すると、エシュムウンは星の世界に展び擴がり、カアモンは日輪の中で輝いた。メルカルトは兩腕で、彼をガデエスのところに押しやつた。カビランは花山の下へおりて行つた。そしてラベトナは、乳母のやうに世界の上に身體をかしげ、乳のやうに光を注ぎ、マントのやうに夜闇をかけてやつた。」
 「それから?」と彼女は言つた。」
「「彼女は人間の愛を鼓舞し、支配する。」
 「人間の愛を!」とサランボオは恍惚(うつとり)としながら繰り返した。
 「彼女はカルタゴの魂だ。」と、僧侶はつづけた。「彼女は到る所に擴がつてゐるとはいへ、まさしくここに、神聖なヴェールをかづいてゐられるのだ。」」



「四 カルタゴの城壁の下で」より:

「城砦の外に、別の種族で、起原の不明な人々が住んでゐた。――みんな豪猪(やまあらし)の狩人であり、軟體動物や蛇等を食べてゐた。彼等は洞窟へ行つて鬣狗を生け捕りにし、晩になると、それをメガラの砂の上で、墓碑の間を走らせて面白がつてゐた。泥や藻でこしらへた彼等の小屋は、燕の巣のやうな斷崖に懸かつてゐた。彼等はそこに、政府も神々もなく、素裸體で、ごつちやに暮してゐて、か弱くもあれば兇暴でもあり、もうずつと昔から、その汚ならしい食物のために人々から嫌はれて來た。」


「五 タニツト」より:

「「逃げよう!」と、マトオは叫んだ。「彼女だ! 彼女の氣はいがする。こつちへ來るぞ。」
 「馬鹿な!」とスパンディウスは答へた。「寺院は空つぽだ。」
 その時、眩ゆい光が彼等の眼を伏せさせた。それから、彼等はあたり一面に、無數の獸が、瘠せさらぼへ、喘ぎ、爪を立て、互ひに重なり合ひ、ごつちやになつて、ぞつとするやうな怪しい混亂の中にゐるのを認めた。蛇には足が生えてゐた。牡牛には翼があつた。人間の頭をした魚が果物を嚙つてゐた。鰐の口の中に花が咲いてゐた。そして、象は鼻を上げて、靑空の中を鷲のやうに意氣揚々と通つて行くのだつた。(中略)彼等は舌を出して、魂を吐き出さうとしてゐるやうだつた。そして、ありとある形態がそこには見られた。まるで胚種の受溜器が突然の孵化で破裂して、廣間の壁にぶちまけられたかのやうだつた。
 靑い水晶の十二の球が、虎のやうな怪物に支へられて、ぐるつと圓く廣間を縁取つてゐた。怪物共の眼は蝸牛の眼のやうに飛び出してゐた。そして、その横太りの腰を曲げて彼等は奧の方に向つてゐた。奧には、象牙の戰車に乘つて、至高のラッベエトが、最新發明のオムニフェコンドが輝いてゐた。
 鱗や羽や花や鳥が彼女の腹のあたりまでおほうてゐた。耳環として、彼女は銀のシンバルをつけ、それが頰にぶつつかつてゐた。大きな眼はじつとこちらを見つめてゐた。そして、淫らな象徴として、彼女の額にはめられたきららかな石が、扉の上の赤い銅の鏡に反射して部屋を照らしてゐるのだつた。」

「けれども、その向うに、星々のきらめく雲のやうなものが見えてゐた。累積する襞の中に、もろもろの姿が現れた。カビイルの神々と一緒にゐるエシュムウン、既に見た怪物共、バビロニア人達の神聖な獸、その他彼等の知らないもの等。これがマントのやうに偶像の顏の下を通つて、高く壁の上に擴げられ、隅々を懸けられてゐて、夜のやうに靑味がかつてもゐるし、黎明のやうに黄色く、日輪のやうに眞紅でもあり、無數で、透明で、きららかで、輕やかなものだつた。これこそ、女神のマントだつた。誰も見ることの出來ない神聖なザインフだつた。
 彼等は二人共まつ靑になつた。」

「マトオは欄干のかげに立つてゐた。タニットのヴェエルに包まれた彼は、蒼穹に圍まれた星の神かと見えるのだつた。」



「六 アノン」より:

「マトオはテントの外側まで來て腰を下した。そして血飛沫(しぶき)を浴びた顏を片腕で拭ひ、カルタゴの方に向つて、じつと水平線を見つめるのだつた。」
「マトオは大きな歎息を洩らすのだつた。そして腹這ひになり、大地に爪を掻き立てて涙にむせぶのだつた。吾とわが身がみじめで、か弱く、見捨てられたもののやうに思へるのだつた。たうてい彼女を物にすることが出來さうもなかつた。一つの都市を占領することさへ出來ないのだ。
 夜になると、たつた一人、テントの中で、彼はザインフをじつと見つめてゐた。この神聖な品物も彼には何の役に立たう? 群がる疑惑が突如、この蠻人の心に襲ひかかるのだつた。この女神の衣服も、逆にサランボオあつてこその代物であり、そこに彼女の魂の何物かが、吐息よりもいみじく漂つてゐるかに思へるのだつた。で、彼はそれに觸つてみたり匂ひを貪り吸ひ、顏を埋めて泣きむせびながら接吻するのだつた。」



「九 戰場にて」より:

「誰もみな、家や家族を懷しんでゐた。貧しい者達は、戸口に貝殻をつけ、網を吊してある蜂窩状の小屋のことを、貴族達は、一日のうちでも一番和やかな頃、庭の木の葉のさやぎにまじる巷の仄かな騒音を聞きながら休んでゐると、靑みがかつた夕闇に滿たされて來る大きな廣間のことを懷ふのだつた。――そして、彼等はさうした想ひに耽つて一しほ樂しまうとするもののやうに瞼を半ば閉ぢるのだつた。と、忽ち傷口の搖れる痛さに眼をさまされた。」


「十 蛇」より:

「彼女はもつと高尚な不安に惱まされてゐた。彼女の大蛇、黑ピトンが弱つてゐたのだ。そして、カルタゴ人達にとつては、蛇は國民的な、また個人的な崇拜物だつた。それは、地中から現れ出て走り廻るのに足が要らないので、大地の子と信じられてゐた。その歩き方は川の迂りを想はせ、性質は豐饒さに滿ちた古代のねばねばした闇を想はせ、尾を咬みながら描く道は星々の全體を、エシュムウンの智慧を想はせるものだつた。」
「蛇は絶えずとぐろを卷いてゐて、枯れた葛のやうに身動きもしなかつた。そしていつまでもじつと蛇を見つめてゐると、彼女は遂に心中に螺旋のやうなものを、別の蛇らしいものを覺え、それがだんだん喉の方まで這ひ上つて來て彼女を絞めつけるやうな氣がするのだつた。」

「殆んど二六時中、彼女は部屋の奧にうづくまつて、折り曲げた左の脚を抱へ、少し口を開け、頤を落して、一點を見つめてゐた。」

「時々、幾日もの間、彼女は食物を拒むのだつた。そして濁つた星體が自分の足の下を通つて行く夢を見てゐた。彼女はシャアバランを呼んだ。が彼が來ると、もう別に何も彼に話すことはないのだつた。」

「彼女は未來を知らうと思つて、蛇に近づいた。蛇の態度で占はれてゐたのだ。所が、籃は空つぽだつた。サランボオははつとした。
 蛇は吊床の側の銀の欄干に尻尾で卷きついてゐた。そして、黄色くなつた古い皮を脱がうとして身體をこすりつけてゐた。と、美しいきららかな生身が、半ば鞘から出た劍のやうに延びてゐるのだつた。」

「月が登つた。すると、六絃琴と笛とは、一齊に鳴り出した。
 サランボオは、耳飾りや頸環や腕環を外し、裳の長い白衣を脱いだ。そして、髪の毛を結へてゐた細紐を解いて、さつぱりとするためにしばらくは肩に垂れ下るそれらを靜かに振り分けるのだつた。戸外の音樂はつづいてゐた。(中略)絃は軋り、笛は唸つてゐた。タアナックはその拍子に合せて手を鳴らしてゐた。サランボオは全身を搖(ゆさ)ぶりながら祈禱を唱へてゐた。そして、彼女の着物は一つ一つ次々に彼女のまはりに落ちて行くのだつた。
 重い綴織が搖れて、それを支へてゐる綱の上から、ピトンの頭が現れた。彼は壁を傳つて流れる水滴のやうに、靜かに下りて來ると、脱ぎ散らされた布の間を這ひ、やがて尾をぴつたりと床につけて眞直に立ち上つた。そして、紅玉よりも輝くその眼はじつとサランボオを射るのだつた。」
「ピトンは再び首を下げて來て、胴體のまん中を彼女の頸筋にかけ、頭と尻尾とを垂れて、丁度切れた頸飾りの両端が床に曳きずられてでもゐるやうになつた。サランボオは、それを脇腹に、腕の下に、膝の間に卷きつけた。それから、その頸を捕へ小さな三角の口を自分の齒先まで持つて行き、半ば眼を閉ぢて、月光の下にのけ反り返つた。白々とした光は、銀の狹霧で彼女を包むやうだつた。彼女の濡れた足の跡形が、敷石の上に輝き、星は水底にまたたいてゐた。蛇は金色の斑點のある黑い環で、彼女をしめつけた。サランボオは、その堪へ難い重壓の下に喘ぎ、腰がぐらつき、死にさうな氣持だつた。そして蛇は尾の先で靜かに彼女の腿を叩いてゐた。やがて樂の音が止むと、蛇は解(ほど)け落ちた。」



「十一 天幕の下にて」より:

「彼等は村を通り抜けた。家々は地上に燒け崩れてゐた。壁に沿うて人間の骸骨が見られるのだつた。單峰駱駝や騾馬の骸骨もあつた。半ば腐つた屍體が道をふさいでゐるのだつた。
 夜になつてゐた。空は低く垂れて、雲におほはれてゐた。」

「「おぬしは誰だ?」とマトオは言つた。
 返事もせずに、彼女はゆつくりとあたりを見廻した。と、やがて彼女は、奧の方に、棕櫚の枝でこしらへた寢臺の上に垂れ下つてゐる靑味を帶びてきらめく物に眼を止めた。
 彼女は急いで進み寄つた。かと思ふと、叫び聲をあげた。その後ろからマトオは足を踏み鳴らすのだつた。
 「誰に賴まれて來た? 何の用で來たのだ?」
 彼女はザインフを指しながら答へた。
 「あれを貰ひにぢや!」そして、別の方の手で頭のヴェエルをかなぐり捨てた。彼は兩肱を後に引いて、殆んどおびえるもののやうに口を開けたまま飛び退つた。」

「「恐らくは、おぬしこそ、タニットでなくて何であろう。」
 「妾が、タニットだと!」サランボオは身自らに言ふのだつた。」

「「それを持つて行くがいい!」と彼は言ふのだつた。
 「そんなものに未練はないのだ! だがそれと一緒に俺を連れて行つてくれ! 俺は軍隊を見捨てる! 何もかもあきらめよう! ガデスの向うに、海の上を二十日走ると、金粉と綠樹と鳥につつまれた島がある。山には、溢るるばかりの香料がくすぶり煙る大きな花が久遠の香爐のやうにゆらいでゐる。絲杉よりも高いレモンの林の中には、乳色の蛇が、その口のダイヤモンドで芝生の上に木の實を落してくれる。大氣の和やかさにいつまでも死なないでゐられるのだ。おお! 見てをれ、俺はその島を探し當てる。俺達は、丘の裾に切り出された水晶の洞穴に住むのだ。その島にはまだ誰も住んではゐない。でなければ、俺はその國の王になるばかりだ。」」

「――「ああ! あの月を眺めて夜を過したことがどれほどあつたか知れぬ! 月がおぬしの顏をおほふヴェエルのやうな氣がした。おぬしは月を通して俺を見つめてゐた。おぬしの思ひ出が月の光とごつちやになつて、俺はもうおぬし達を見分けることが出來なかつたものだ!」そして、顏を彼女の胸に埋めて、彼は止めどなく泣き濡れるのだつた。
 「本當にこれが、カルタゴを震へ戰かせてゐる恐ろしい人なのだらうか?」と、彼女は考へるのだつた。」



「十二 水路橋」より:

「馬の屍骸が一連の小山のやうにつづいてゐた。足や、草履や、腕や、鎖帷子や、兜の中に、頤紐で支へられ、球のやうに轉がつてゐる首などが見えるのだつた。髪の毛が茨にぶら下つてゐた。血の池の中で、腸(はらわた)を出した象共が塔を背負つた儘で喘いでゐるのだつた。人々はねばねばしたものの上を歩いてゐた。雨も降らないのに澤山の泥溜りが出來てゐた。
 かうした屍體の散亂が、上から下まで山全體をおほうてゐた。」

「サムニット人、エトルリア人、カンパニア人、プリュシオム人等、ラテン族の人々のために、四つの大きな火葬場がこしらへられた。
 希臘人達は、劍の先で穴を掘つた。スパルタ人達は、彼等の血みどろな外套を剝いで、死者達を包んだ。アテネの人々は、死者達の顏を朝日の方へ向けて、寢かしてやるのだつた。カンタブル人達は彼等を小石の塚の下に埋めてやつた。ナザモン人達は彼等を牡牛の革紐でもつて二つに折り曲げ、ガラマント人達は彼等が永久に浪で洗はれるやうに、砂濱へ埋めに行つた。けれども、ラテン人達は、死者達の灰を骨壺へ入れてやれないのを悲しんでゐた。遊牧民達は屍體がミイラになるやうな熱砂がないのを殘念がり、セルト人達は、雨もよひの空の下に、小島の多い入海の奧にある三つの自然石を懷(おも)ふのだつた。」




フロベール サランボオ 04



フロベール サランボオ 05







こちらもご参照ください:

フローベール 『聖アントワヌの誘惑』 渡辺一夫 訳 (岩波文庫)
『太平記 (六)』 兵藤裕己 校注 (岩波文庫)
































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うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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