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富士川英郎 『読書游心』

「もともと杢太郎はこのキューバ島に、綠、紅、紫等の五色の斑點でぎらぎらしている皮膚病があると聞いて來たのであったが、それはついに見出すことができなかった。」
(富士川英郎 「旅の木下杢太郎」 より)


富士川英郎 
『讀書游心』
 


小澤書店 
平成元年6月20日 初版発行
229p 図版8p
20.6×15.6cm
丸背布装上製本 カバー
定価2,884円(本体2,800円)



本書「あとがき」より:

「本書は前著『讀書好日』が刊行された以後に執筆したエッセイや隨筆の類を集めたものである。題して『讀書游心』という。その書名においても、内容においても、前著と姉妹篇をなす、著者の新しい隨筆集である。」


旧字・新かな。
「木下杢太郎の裝本」に別丁カラー図版4点、「個人雜誌の話」に別丁モノクロ図版4点。



富士川英郎 読書游心 01



帯文:

「「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し。」――忘れえぬ人、なつかしい本。杢太郎、朔太郎、大學、そして父・富士川游のことなど、盡きせぬ思い出を語る「觀相の生」の境地。當代第一級の文人學者として、その文學世界の圓熟をしめす、待望の最新評論隨筆集。」


帯背:

「「觀相の生」のなかに
思い浮かぶ、懷しい
詩集、忘れえぬ人々」



目次 (初出):

 Ⅰ
旅の木下杢太郎 (用美社 『木下杢太郎畫集』 第二巻(紀行篇) 解題 昭和61年1月)
木下杢太郎の裝本 (季刊「銀花」 第65号 昭和61年3月/用美社 『木下杢太郎畫集』 第4巻(装幀篇) 解題 昭和62年4月)

 Ⅱ
岸田敏子『萩原朔太郎』 (「文化会議」 昭和62年6月号)
堀口大學の詩集 (別刷「かまくら春秋」〈想い出の堀口大學〉 昭和62年3月)
尾崎喜八とドイツ詩人 (「尾崎喜八資料」 第4号 昭和63年2月)

 Ⅲ
本とわたし (「読売新聞」 昭和63年3月19日夕刊)
高校時代の讀書 (「らてるね」 昭和63年秋季号)
インゼル袖珍文庫 (「ももんが」 昭和61年12月号/原題「ドイツ語の本」)
個人雜誌の話 (「同時代」 第50号 昭和63年4月)
「* 右の四篇は纏めて、平成元年一月十五日に大阪市の湯川七二倶樂部から、『本とわたし』という百部限定本として刊行された。」

 Ⅳ
兪樾撰『東瀛詩選』 (「朝日ジャーナル」 昭和56年11月13日号)
『黄葉夕陽村舍詩』 (児島書店 復刻『黄葉夕陽村舍詩』 序文 昭和56年12月)
『賴山陽書翰集』 (名著普及会 『賴山陽書翰集』 内容パンフレット 昭和55年3月)
依田學海『墨水別墅雜録』 (「週間読書人」 昭和62年6月22日号)

 Ⅴ
醫史學と私 (「日本医史学雑誌」 第34巻第4号 昭和63年10月)
土肥慶藏と富士川游 (思文閣出版 『富士川游著作集』 月報9・10 昭和56年12月―同57年2月)

 Ⅵ
矢野峰人先生 (「英語青年」 昭和63年10月号/平成元年5月補正)
菊池榮一氏 (人文書院 『菊池榮一著作集』 第4巻月報 昭和59年9月)
氷上英廣氏の思い出 (「比較文学研究」 第51号 昭和62年4月)
山本太郎君のこと (「尾崎喜八資料」 第5号 平成元年2月)

 Ⅶ
私の東京 (「文化会議」 昭和61年10月号)
東京の碑と墓 (「東大新報」 昭和61年4月16日号)
少年時代の鎌倉 (「かまくら春秋」 昭和63年12月号)
夕陽無限好 (「東京新聞」 昭和61年4月3日夕刊)

あとがき
初出一覧




◆本書より◆


「旅の木下杢太郎」より:

「キューバではその自然も、都市の家屋や、そこでの人々の生活も、見るもの聞くものすべてが不可思議で、杢太郎はしばしば『千一夜物語』の世界に迷い込んだような思いがしたという。ハバナの市街は道は狹く、「殊に家の敷石を形ばかり延ばしたと思はれるほどの人道は、人一人歩くのが關(せき)の山」で、その家屋はみな漆喰塗りで、その面(おもて)はしばしば甚だしく剝落していた。しかし、杢太郎が特に興味をもったのは、道路に面したそれらの家屋の大きな窓にはめてある、唐草模樣をした鐵格子であった。(中略)殊に夜、そんな家の二階の鐵格子のうしろで、「籐椅子に腰かけて、行儀あしく讀書する人の黑影は、まるで實物の造るところの滑稽影畫(おどけかげゑ)」であったという。
 また、或日、ハバナから電車でサンチャゴ・デ・ラス・ベガスへ行ったときの車窓から見た田園の風景はすばらしかった。「驟雨が到る前に、廣い空の色はまるで暴(あ)れの日の大海のやうです。その時に地平線に一列の椰子の白い樹が並んで居るのは、一種の光景でした」と杢太郎は言っている。
 もともと杢太郎はこのキューバ島に、綠、紅、紫等の五色の斑點でぎらぎらしている皮膚病があると聞いて來たのであったが、それはついに見出すことができなかった。」

「杢太郎はまた、ナイル河沿岸の住民の閒に、黄癬という禿頭病がひろがっていることに興味をそそられているが、この病氣は彼が嘗て中國揚子江沿岸の多くの勞役者たちに見出したものであった。」

「ついで杢太郎はサラゴッサに至った。そして昔この都市を訪れた九州諸侯の四人の若い使者たちや、支倉常長のことを偲びながら市街を散歩していると、「少し入りこんだ小さい路次にふと心を引く家家を見出した」のだった。「家の前に狹い前庭があつて、疎らに木が生えてゐる。廣い入口からは暗い奧がふかぶかと見透される。家は三階で黑塗である。第一階には入口の左右に大きな窓が二つ、二階には三つあり、孰れもその腰に出窓の欄干が設らはれてある。第三階には狹い窓が澤山並ぶ。そして繁き飾の附いた蛇腹の上に屋根がある。この家の左右には、前庭に面して、鉤の手に二棟の家が立つ。一瞥の印象は懷しさであつた。それは多分(震災前の)東京の河岸に立つ土藏造りの家などと共通の分子があつたからであらう。同時に亦この家の構造にヱネチア風の所があつて、それが異國趣味(エキゾチツク)的且羅曼底(ロマンチツク)の或る響を鳴らしてゐたものと見える」と杢太郎は言っている。」



「本とわたし」より:

「學者の家に生まれて、育ち、自分も學者の端くれとなった私は、幼いときから、數え歳で八十歳になったこんにちに至るまで、ずっと本に圍まれて生きてきた。そんな私が本好きなのは、當然のことのようだが、しかし私はいわゆる愛書家ではないし、もちろん、書癡などというものではない。ただ本を讀むことが好きな平凡な一讀書家にすぎないが、幼いときからの環境のしからしむるところか、いつ、どこにいても、自分の圍りに本がないと、どうも落ち着かないのである。私が旅行をあまり好まない理由の一つもここにある。ホテルなり、旅館なりの、本が一冊もない部屋にいると、水槽のそとに投げだされた魚のようで、なんとなくそわそわとして落ち着かない。」

「幼いときに愛讀した童話集や、少年時代に夢中になって讀んだ小説などのことが忘れられず、その愉しかった讀書の思い出を、そっと胸の奧深くにしまっているような人は、ずいぶんと多くあるに違いない。(中略)しかし、たいていは學校を卒業して、社會へ出ると、次第に讀書の習慣をなくし、本から遠ざかって、しまいには新聞や週刊誌しか讀まなくなってしまうのが普通だろう。
 私は幸いにして、讀書の愉しみを、少年時代からそのまま、こんにちに至るまで、持ちつづけてくることができた。無能無藝で、ほかに趣味といえるものは何一つ持っていないが、この愉しみがあるために、老後の日々も決して無聊ではないのである。」



「インゼル袖珍文庫」より:

「ドイツにインゼル諸天という出版社がある。リルケやカロッサの著書を出版していることでよく知られているが、この書店から戰後に「インゼル袖珍文庫」(it.=insel taschenbuch)という叢書が出ている。我邦の「新書版」とほぼ同じ大きさと型のペイパーバックであるが、異る點は、この「袖珍文庫」のうちには、色刷りの插繪が幾葉も入っている美しい本がたくさんあることである。それらの繪入り本はみなアートペイパーに刷られており、表紙には白い、淸楚な厚紙が用いられているので、これは袖珍本であるとはいえ、その一冊々々が、觀賞に堪える美裝本となっている。その内容は、主としてドイツの作家の短篇(稀れに中篇)小説や、童話や、エッセイであって、しかも、たいていその一篇だけが收められているので、頁數は概して百頁から百五十頁程度のものが多く、活字も比較的に大きいので、老眼には大へん讀み易い。そんなわけで近頃私は、福本書院やその他のドイツ書專門の書店を訪れると、いつもその書棚に並んでいるこの「インゼル袖珍文庫」のうちから幾冊かを買うのを常とし、また、愉しみとしている。そして書店を出て、近くの喫茶店で、一杯の珈琲を飲みながら、買ってきたそれらの本を開いて見る愉しさには、筆紙に盡し難いものがあるのである。」
「昨年の暮、私が愉しく手に入れたものに、E・T・A・ホフマンの『除夜綺譚』と『胡桃割り人形と鼠の王樣』の二冊がある。ともにモニカ・ヴルムドープラーがそれに面白い插繪を畫いているが、殊に後者のそれは無邪氣で、可憐な味わいがある。」
「ところで、「インゼル袖珍文庫」の以上のような插繪本を手にして、私はしばしば、我邦でも同じような叢書を作ることができないだろうかと思う。例えば萩原朔太郎の『猫町』や、佐藤春夫の『西班牙犬の家』『女誡扇綺譚』、芥川龍之介の『羅生門』『鼻』などに、その插繪を然るべき畫家に畫かせて、「新書版」型の廉價な、しかし、愛玩するに足る美裝本として出版する書肆はないものだろうか。そしてその叢書にはさらに内田百閒の『冥途』や『旅順入城式』、中勘助の『鳥の物語』のなかの諸篇、特に『鶴の話』などが加えられなければならないと、私はひそかに空想を逞しくしているのである。」



「『賴山陽書翰集』」より:

「嘗て廣瀨淡窓は山陽を評して、山陽は才を恃んで傲慢、貪って禮がないため、到る所で人々に憎まれているけれども、その才能は實に秀逸であると言ったのち、漢土(中國)には山陽のようなタイプの文人が多く、人々も敢えてこれを怪しまないが、「我國ノ風俗ハ質朴ニシテ、書ヲ讀ム者ヲ見テハ、必ズ之ヲ責ムルニ行義ヲ以テス。故ニ此ノ如キ人、世ニ容レラルルコト能ハズ。惜ムベシ」と同情のある見方を示した。(中略)つまり彼の生涯は新しい文人の生き方の意識的な試みであったのであり、當時の人々がこういう山陽の生活に、好惡いずれにせよ、強い關心をもって、これを見まもったのも當然のことと言わなければならない。」


「氷上英廣氏の思い出」より:

「人としての氷上さんの印象は「重厚」というのがいちばん近いかと思うが、一面、君はウイットに富み、豐かな諧謔の持主でもあった。これは氷上さんの精神の柔軟性を語るものであったが、その諧謔がその談話に獨特の魅力を添えていたと言ってもよい。今年の三月頃であったか、氷上さんは風邪をこじらせたとかで、虎の門病院に暫く入院していたことがあった。そこから、おそらく退屈しのぎのために、私宛に書かれたハガキのなかに、「今年はトラ(寅)年なので、『ツァラツストラ(引用者注:「トラ」に傍点「○」)』をもう一勉強するつもりだったのが、トラ(虎)の門病院いれられてしまいました」という文句があったが、これが氷上さんの、私が聞いた最後の Wortspiel となったのである。」


「私の東京」より:

「幼い私にとって、東京は賑やかで、さまざまの町並みが萬華鏡のように眼の前に展開する、華やかなパノラマであった。また、その多彩な町並みは無限の彼方までつづいていて、その果ては何處ともしれない神秘のうちに消えていたのだった。
 幼い私が父や他の大人たちにつれられてよく行ったのは、上野と淺草だった。(中略)そしてたびたび動物園に遊んだが、私はとりわけ、象や虎やライオンを見ることがすきであった。或るとき、ちょうど猛獣たちの食事時に出會ったことがあるが、園丁が生きたままの兎を大きなバケツに入れて、虎の檻の前へ運んできた。その兎は恐怖のあまり、すでに失神していて、その白い體がかすかに震えていたが、私はさすがにその後の成り行きを見るに忍びなかった。
 だが、上野では、その池の端に、大正三年の春から夏へかけて開催された大正博覽會を見たときの強い印象が忘れられない。不忍池の上を横切って、空中ケーブルカーが往き來していたが、私はケーブルカーというものに、そのときはじめて乘ったのだった。」
「當時は映畫という言葉はまだなく、もっぱら活動寫眞と言っていたが、私はやはりその頃、淺草で「新馬鹿大將」というアメリカの活動寫眞を見たことを覺えている。それはごく短いドタバタ喜劇で、ひとりの太った男とひとりの痩せた男とが、往來で、追いつ追われつしているうちに、その太った男が自動車の下敷となり、一枚の平べったい板のようにぺちゃんこになってしまう。驚いた痩せた男が、自轉車用の空氣ポンプを使って、そのぺちゃんこになった男を膨らますと、男は見るみるうちにもとの肥滿漢になって、また相手を追いまわすというそのギャグが、そんなものをはじめて見た私には面白くてたまらなかった。淺草ではまた、いわゆる十二階(凌雲閣)にもいちど登ったことがあるが、これはたくさんの階段を息を切らしながら登ったということのほかには、特別な記憶がない。」
「このようにして、幼い小學生であった頃、私はたびたび鎌倉から東京へ出てきて、上野や淺草で遊んだが、それはまさに大正デモクラシー時代の東京であった。あの頃の東京は、道路などはまだ舗裝されていないところが多く、すべてが雜然としていたが、不思議な活氣が到るところに漲っていた。」
「所澤に陸軍の飛行場があって、德川大尉(?)が飛行機を操縦したのは、大正何年のことだったろうか。その飛行機が東京の空を飛んだのを、私は本郷西片町の家の物干し臺にのぼって見たし、その後、アメリカ人スミスがやって來て、飛行機の宙返りをしてみせたときも、東京の或る街角で、群衆のなかに立って、それを見た。」
「ところで、市電といえば、先ず思い出されるのは、神田須田町の交叉點である。いまの國電中央線のお茶の水驛より少し神田寄りに萬世橋という驛があって、(中略)この驛の前に少しばかり廣場があり、そこに廣瀨中佐と杉野上等兵の銅像がたっていた。そしてこの銅像の前で、市電の線路(レール)が十字路をなして交叉していた。日本橋の方から來て、本郷へ向う線路と、神保町から來て錦絲町の方へ延びている線路とが、十字路をなして交叉していたのである。そのあたりは、いまでは東京市中でのもの靜かな、忘れられたような一角となっているが、震災前には、銀座尾張町や、上野廣小路と並んで、東京市中で最も雜踏した廣場であった。十字路になった線路のうえを、ガタンゴトンと喘ぎながら、次から次へ、數珠つなぎになって、東西南北へ走っていった電車。架線から外(はず)れたポールをもとに戻そうとして、電車の後部の窓から半身を反(の)けぞらして、ポールを引張っていた車掌。埃りをかぶりながら、無言でそれを見おろしていた廣瀨中佐の銅像。街角に佇んで、しきりに鈴を鳴らしていた新聞賣り。そんな光景がいまでもかなりはっきりと思い浮ぶのである。」



「少年時代の鎌倉」より:

「私は東京で生まれたが、明治四十五年に滿三歳になったとき、大病後の母につれられて鎌倉へ移ってきた。そして小學校は神奈川師範附屬小學校(中略)に入って、雪ノ下にあった父の家から通學したが、當時、というのは震災前の大正時代の鎌倉は、まだ自動車も走っていず、町のほとんど到る所が子供たちの遊び場になっていた。(中略)あの頃の鎌倉には蛇が横行していたが、道ばたを匍っているそんな靑大將を見つけると、惡童のひとりがたちまち驅けよってつかまえ、その尻尾を持って、さかさまに振りまわしたり、擧句のはてには、そのぐったりと死んだようになった蛇を、橋の上から滑(なめり)川へ抛りこんだりする光景がよく見られたものであった。
 當時、鎌倉には、私たち少年が「外套乞食」という綽名をつけていたひとりの乞食がいて、町をうろついていた。なんでも、もとは大學生だったという噂があり、蓬頭垢面ではあったが、なんとなくインテリらしい、賢そうな顏つきをしていた。ほかの乞食たちがたいていお寺や神社などの境内に筵を敷いて坐り、人々の施(ほどこし)を乞うていたのと違って、この「外套乞食」は汚いお椀を持って、絶えず町をうろつき廻り、商店などの軒先きに默って立って、さしだしたその椀に殘飯などを入れて貰っていたのであった。彼を「外套乞食」と言ったのは、ぼろぼろに裂けて海草のようになり、わずかにそれと見分けられるような一枚の外套がその肩からぶら下っていたからであった。そして少年たちは、街頭で彼に出會うと、たちまちその後(あと)に踉(つ)いたり、遠卷きに圍んだりしながら、口をそろえて、大きな聲で、「ガイトー、ガイトー」と囃(はや)したてて、彼をからかった。或るときなど、白旗神社の石の手水鉢のなかで晝寢をしていた彼を、そのようにして追い出してしまったことがあるが、そんなときにも彼は怒らず、ただ、無言で、憂わしげな表情をしながら、靜かに立ち去っていったのだった。」
「それから數年たって、少年たちがみな中學生になっていた頃、冬の或る寒い日に、「外套乞食」は海岸橋のほとりの草地にころがしてあった大きな土管のなかに入って寢たまま、凍死體となって發見されたのであった。彼の年齢はたぶん三十四、五歳であっただろう。」

「思い出はなおも盡きないが、このような私の少年時代の樂園を閉(とざ)し、そこから私を追放したのは、大正十二年九月一日のあの關東大地震であったのである。」



「夕陽無限好」より:

「なにしろ、私はたいへんな朝寢坊で、午前十一時頃に起る。そして朝食と晝食を兼ねた輕い食事をとったのち、新聞を讀んだり、手紙を書いたりして一時(いっとき)をすごす。それからたいてい午後一時半か、二時頃に散歩に出かけるが、この散歩は、雨天でない限り、四季を通じて毎日するのである。」
「私は一年の四分の三ほどの期閒(中略)、炬燵で本を讀んだり、ものを書いたりするが、これがなかなか快適である。」
「現在は數年前から詳細な菅茶山傳を執筆中であるが、いろいろ分らないことがあって、人名辭典などを引っ張りだして調べているうちに、夜が更けて、午前二時、三時となることが稀れではない。いずれにしても、午前二時以前に就寢することは滅多にないのである。
 これが現在の私の日々である。これを毎日型に押したように、規則正しくくりかえしているが、決して退屈ではない。この私の毎日はいわば、「讀み、書き、散歩」の日々であって、この三つとも、それぞれ多少とも愉しく、僅かながらいつも變化があるからである。」
「近頃、私はヘッセの「老年について」という隨筆を久しぶりに再讀して、同感するところが多かった。この隨筆のなかでヘッセは、人生の他の段階と同じように、「老年」にもその固有の特徴があり、使命があると言い、「老年」は vita contemplativa (觀想の生)であると言っている。
 だが、この「觀想の生」の小春日和には何處からともなく、死の影がいつもさしている。その「死」はもはや靑年の頃の甘美な、憧れの對象としての「死」ではなく、また、ひたすらに恐怖し、嫌惡すべき暗闇でもないが、「老年」の地平線の彼方にあって、夕日が沈んでゆくように、われわれがそこに辿りつく場所として、いつも意識されているものなのである。
 このような「觀想の生」のうちにある老年の心境を最もよく語っているのは、晩唐の詩人李商隱の「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し」という詩句だろう。」




富士川英郎 読書游心 02



「木下杢太郎の裝本」より:

「杢太郎のこの表紙繪は、赤・綠・灰色の縦縞模樣の地を背景として、坐っている猫の姿を薄い墨色で畫いたものである。杢太郎は他にも猫のスケッチなどをかなり多く畫いているが、それらの繪を見ると、彼は猫が好きだったのだと思う。猫の姿態を畫いたその曲線にまぎれもなく、愛情がこめられているからである。」



富士川英郎 読書游心 03



カバーは薄い紙の上下を折って芯になる黄色い紙を包んだ凝ったものになっています。














































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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