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ジル・ドゥルーズ 『襞 ― ライプニッツとバロック』 宇野邦一 訳

「バロックには、またライプニッツには、いつも襞があふれているのだ。」
(ジル・ドゥルーズ 『襞 ― ライプニッツとバロック』 より)


ジル・ドゥルーズ 
『襞(ひだ)
― ライプニッツと
バロック』 
宇野邦一 訳



河出書房新社 
1998年10月12日 初版印刷
1998年10月20日 初版発行
248p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,000円(税別)
装幀: 戸田ツトム+岡孝治


「LE PLI: Leibniz et le baroque
 by Gilles Deleuze
Copyright © 1988 by Les Editions de Minuit.」



本文中に図版(モノクロ)2点、図12点、表1点。



ドゥルーズ 襞



帯文:

「《分裂》から
《調和》へ、
あらゆる生命を
つらぬく
《襞》の運動。
一と多、
生と死、
人工と自然を
つなぐ
新たな
交通の方法(マニエリスム)。

ドゥルーズ思想の
到達点。」



帯裏:

「バロックは無限に増殖する「襞」としてとらえられるが、このとき「襞」は同時にライプニッツの方法であり、ライプニッツを読むドゥルーズの方法となり、二つの思想を貫通するマニエリスム(方式主義)となり、一つのエティカにまでなっている。つまり哲学は堂々とした論理の建築や、いかめしい理性の法廷のようなものではなく、織物や服飾や裁縫に似た優しい手作業になっていき、しかも世界の暗い底に繊細な耳を傾け、そこに無数の分岐とざわめきを聞き分け、世界の果てしない音楽を記述するような仕事になっているのだ。……………………
……………………「訳者あとがき」より……………………」



目次:

Ⅰ 襞
 第1章 物質の折り目
  無限にいたる襞
  バロックの館
  下の階:物質、弾性的な力、ばね
  有機体と可塑的な力
  有機的な襞
  なぜもう一つの階が必要なのか、動物的な魂という問題
  理性的な魂の高揚、そしてその有機的かつ非有機的な帰結
 第2章 魂の中の襞
  屈折
  特異性
  バロック的数学と変化:無理数、微分の商、曲線族
  対象の新しい規定
  遠近法主義:変化と観点
  主体の新しい規定
  屈折から包摂に
  区画
  モナド、世界、そして閉鎖の条件
 第3章 バロックとは何か
  窓のない部屋
  内部と外部、上の階と下の階
  ハイデガー、マラルメそして襞
  バロックの光り
  一つの概念の探究
  バロックにおける六つの美学的特徴
  現代芸術あるいはアンフォルメル:繊維と折り畳まれた形態
Ⅱ さまざまな包摂
 第4章 十分な理由
  出来事あるいは述語
  存在の四つのクラス、述語の種類、諸主体の本性、包摂の諸様式、無限のもろもろの場合、対応する諸原理
  物と実体
  内的関係
  ライプニッツのマニエリスム
  述語は属性ではない
  実体の五つの指標
  方式と底
  原理の戯れ
 第5章 不共可能性、個体性、自由
  不共可能性あるいは系列の発散
  バロック的な物語
  前個体的な特異性と個体
  個体化と種別化
  バロック的世界の戯れ
  楽天主義、世界の悲惨そしてマニエリスム
  人間の自由という問題
  動機の現象学
  述語の包摂と生きた現在
  ライプニッツとベルグソン:生起しつつある運動
  バロック的な地獄落ち
 第6章 一つの出来事とは何か
  継承者ホワイトヘッド
  外延、強度、個体
  把握とモナド
  永遠的対象
  コンサート
  現代のライプニッツ主義
  閉鎖の条件の除去そしてネオ・バロック
Ⅲ 身体をもつこと
 第7章 襞における知覚
  身体をもつという要求
  演繹の第一段階:世界からモナドにおける知覚へ
  小さな知覚:凡庸なものと注目すべきもの
  微分的関係
  特異性の復習
  幻覚的知覚の心的メカニスム
  魂における微粒子と襞
  第二段階:知覚から有機的身体へ
  知覚は何に似ているのか
  器官と振動: 刺激の物理的メカニスム
  物質の折り目
  計算の規定
 第8章 二つの階
  二つの半分:一と他、それぞれ
  半分の数学
  極値の役割
  潜在的と現働的、可能的と実在的:出来事
  ライプニッツとフッサール:所属の理論
  魂と身体:反転した所属、仮の所属
  支配と紐帯
  三種のモナド:支配的モナド、支配されるモナド、退化的モナド
  群れ、有機体そして体積
  力
  私的と公的
  襞はどこを通るか
 第9章 新しい調和
  バロック的な衣服と衣をつけた物質
  無限の襞:絵画、彫刻、建築そして演劇
  諸芸術の統一性
  円錐の世界:アレゴリー、紋章そして銘文
  ライプニッツの凝った言い回しへの嗜好
  音楽あるいは上位の統一性
  調和的なもの:数としてのモナド
  協和の理論
  調和の二つの側面、自発性と協調
  調和、メロディーそしてバロック音楽

訳者あとがき




◆本書より◆


「第1章 物質の折り目」より:

「バロックは何らかの本質にかかわるものではない。むしろ、ある操作的な機能に、線にかかわっている。バロックはたえまなく襞を生み出すのであり、事物を作りだすのではない。(中略)バロックは襞を折り曲げ、さらに折り曲げ、襞の上に襞、襞にそう襞というふうに、無限に襞を増やしていくのである。バロックの線とは、無限にいたる襞である。そして何よりもまずこの線は二つの方向にそって、二つの無限にしたがって、襞に差異を与える。あたかも無限は、物質の折り目(replis)と、魂の襞(plis)という、二つの階層をもつかのようである。下の階では、物質が第一の種類の襞にしたがって集積され、ついで第二の種類にしたがって組織される。物質の部分は「異なる仕方で折り畳まれ、いろいろな程度で展開される」器官として組織されるからである。上の階では、魂が神の栄光をうたいあげる。魂は自分自身の襞の中をかけめぐるが、襞をすべて展開することはないからである。「襞には際限がないからである。」一つの迷宮は、語源からしても〈多〉と呼ばれてよい。迷宮はたくさんの襞をもつからである。〈多〉とは、単にたくさんの部分をもつものではなく、たくさんの仕方で折り畳まれるもののことである。まさにおのおのの階層に、一つの迷宮が対応する。すなわち、物質とその部分における連続的なものの迷宮、そして魂とその述語における自由の迷宮である。」


「第5章 不共可能性、個体性、自由」より:

「まさにライプニッツには、「未来をはらみ、過去にみたされた現在」という定式がいつも見つかる。これは内的な意味においてさえも、決定論ではなく、自由そのものを構成する一つの内面性なのである。(中略)アダムは罪を犯さないこともありえた。もし彼の魂があの瞬間に、別の運動の統一性を構成することができるような別の振幅を獲得していたならば。行為はそれが現在における魂全体を表現しているとき自由なのである。
 地獄の罰に関する暗く美しい説ほど、このことをよく示している例はない。この場合でさえも、ユダやベルゼブルのような呪われたものは、過去の行為のために償うのではなく、みずからの魂の現在の振幅を構成し、現在それをみたしている神への憎しみのために償うのである。彼らは過去の行為のために(引用者注:「ために」に傍点)呪われているのではなく、彼らがそのたびに更新する現在の行為によって(引用者注:「よって」に傍点)、彼らがおぞましい歓びを見いだす神への憎しみによって、「罪にまた罪が重なる」ようにたえず彼らが再開するこの憎しみによって地獄に落ちるのである。ユダは神を裏切ったので地獄に落ちるのではない、そうではなく、神を裏切りながら、彼は神をもっと憎しみ、神を憎しみつつ死ぬからである。これは一つの魂にとって、絶対に最小の振幅である。明晰な地帯の中に、たった一つ「神を憎む」という述語しか内包していないのである。これが彼に残ったほんの少しの明るみであり、「理性の執着」なのだ。もう少し振幅を獲得していたら、現在において憎むことをやめていたら、魂は即座に地獄に落ちることをやめていただろう。しかしそれはもう別の魂であって、別の運動の統一性を生み出すのだ。ライプニッツが言うように、呪われたものは永遠に呪われているのではなく、ただ「いつでも呪われうる」のであって、おのおのの瞬間に自分を地獄に落としている。したがって至福を受けた人間と同じように、呪われたものでさえも自由であり、現在において自由である。(中略)彼らは復讐の人、怨念の人であって、ニーチェが後に描くように、彼らはみずからの過去の結果を被っているのではなく、あたかも現在の、現前する痕跡と訣別することができないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけているかのようなのだ。おそらくこの呪われたもののヴィジョンは、非常に深いところで、もっと広大な脈絡で、バロックに属している。バロックこそは、現在における死、進行中の運動としての死、われわれが待つのではなく、われわれが「同行する」死を認識したのである。
 アダムは罪を犯さないこともありえた。呪われたものは自分を解き放つこともできるだろうに。魂が別の振幅、別の襞、別の傾向を獲得するだけで十分だったし、十分なはずなのだ。(中略)しかしまさに、魂にそれができないということは、それをすれば魂は別の魂になるということを意味する。自分がすることを、魂は全体としてするのであり、そこにこそ彼の自由が含まれている。」

「つまりモナドは「そのあらゆる知覚を展開する」ように招かれていて、それこそがモナドの役割なのだ。ところが同じ瞬間に、無数のモナドがこのように招かれたのではなく、折り畳まれたままで、別の無数のモナドは闇の中に陥り、自分自身の上に折り畳まれ、また別の無数のモナドは、もはや解きほぐすことのできない唯一の襞の上で硬直し、地獄に落とされる。(中略)一つの魂の進歩は、必然的に他を犠牲にして行われると、しばしば言われてきた。しかしそれは真実ではない。そして呪われたものをのぞいて、他のものたちもいつも進歩していたのだ。それはもっぱら呪われたものたちの犠牲によってであり、彼らは自由に自分をのけ者にしたのだ。彼らの最悪の罰はおそらく他人たちの進歩に奉仕しているということだ。彼らが否定的な実例を与えるからではなく、彼らが望まずして、自分自身の明晰さを放棄し、世界に一定量の肯定的な進歩をもたらすからである。この意味で呪われたものは、彼らの意図にかかわらず、誰よりもよく、可能世界の最良のものに属していたのだ。ライプニッツの楽天主義は、無数の呪われたものに根拠をもっているが、彼らは様々な世界のうち最良のものの基盤である。(中略)ベルゼブルの憎しみの叫びは、下の階を震撼させるのだが、この叫びを聞くことなしに、われわれは最良の世界を考えることなどできない。」



「第7章 襞における知覚」より:

「知覚にもどってみよう。あらゆるモナドは、たとえ同じ秩序においてではないにしても、あいまいに世界全体を表現している。それぞれのモナドが自らのうちに無数の小さな知覚を閉じこめている。(中略)モナドを区別するものは、その明晰な、注目すべき、あるいは特権的な表現の帯域なのである。極限では、このような光の帯域をもたない「まったく裸のモナド(引用者注:「まったく裸のモナド」に傍点)」を想定することもできる。そのようなモナドは、ほとんど闇の中、あるいは薄暗い小さな知覚の目眩や茫然自失の中で生きているかもしれない。(中略)しかしこのような極限的状態は、死においてしかあらわれないものであって、(中略)どんな極微動物も明るみをもっており、それによって餌や、敵や、ときには仲間を識別することができる。(中略)ダニの魂は三つの知覚をもつだけだ。光の知覚、餌食への嗅覚、最良の部位に対する触覚である。そして他のすべては、ダニが何とか表現している大自然の中では、目眩であり、薄暗く、統合されることのない小さな知覚の粉塵にすぎないのだ。しかし動物の序列、あるいは動物の系列における「進化」というものがあるとしたら、それはますます数を増し、ますます深まる秩序をもつ微分的関係が明晰な表現の帯域を決定し、その帯域がより大きくなるだけでなく、より強固になり、それを構成する意識的知覚のそれぞれが他の知覚と、相互的な決定の無限のプロセスにおいて結合されるかぎりにおいてなのである。これらは記憶するモナドである(引用者注:「これらは記憶するモナドである」に傍点)。そしてそれ以上に、ある種のモナドは、みずからを拡げ、みずからの帯域を強化し、それらの意識的知覚の真の結合に到達する力をそなえ(単なる結合的な連鎖ではなく)、また判明なもの、十全なものによって明晰なものを裏打ちする力をそなえている。これこそは理性的あるいは内省的モナド(引用者注:「理性的あるいは内省的モナド」に傍点)であって、まさにその自動的発展の条件を、それらの間のあるものたち、〈呪われた者たち〉の犠牲の中に見いだすのである。この者たちはほとんど裸のモナドの状態にまで退行し、唯一の明晰な知覚として、神への憎しみしかもたないのだ。」「もう一人の偉大なライプニッツの弟子、フェヒナーは、モナド的な魂の精神的メカニスムと不可分な心理物理学の創始者として、茫然自失または目眩から、鮮明な生にいたる分類をたえず発展させるだろう。彼はそこに、あらゆる退行や呪われたものの可能性と重ねて、人間の三つの世代を見いだし、彼自身もそれを通過するのである。暗闇の中の部屋または暗い底にまで退き、消化にともなう小さな知覚のうごめきに委ねられたモナド、そしてまた復活の、力強い拡張的な光にむかう上昇の勢いにみちたモナド。ほとんどのモナドは、あるときみずからが地獄に落ちると感じるのである。こんなときには、明晰な知覚が次々に消え、それに比べればダニの一生でさえ奇妙に豊かに感じられるほど闇に迷い込んでいる。しかしまた自由にかかわって一つの魂が自己を克服し、回復したことに驚いてこういうときもくるのだ。「なんてことだ、何年もの間、一体私は何をしていたのだろう」と。」


「第8章 二つの階」より:

「もし私の身体、私に属する身体が集まりの法則にしたがって一つの身体をもつとすれば、それはそのもろもろの部分が大きくなりまた小さくなり、退行し進化し、しかも移動し、消滅し続けるからである(「流動」)。そしてモナドが消滅するとき、それと不可分なモナドはそれにしたがい、あるいは私を逃れていく。私の身体の必要条件とは、「さしあたりその時の」必要条件でしかなかった。所属の理論は、したがって非対称的で逆転した所属を区別するのだが(私の身体は私のモナドに属し、様々なモナドが私の身体の部分に属する)、また恒常的あるいは一時的な所属というものもあるのだ(一つの身体が恒常的に渡しのモナドに属し、様々なモナドが一時的に私の身体に属する)。まさにここで、所属の理論において、半ば異分子であるものが、つまり私の中に具体的存在としてある動物が、あらわになってくる。(中略)魂と身体の結合とともに、今や私の所属の中に発生し、所属を引っ繰り返してしまう異分子とは、動物的なものであり、何よりもまず、私の身体の流動的部分と不可分の小さな動物たちなのである。それらは以前にそうだったように、再び私にとって異分子になるというわけである。「もしシーザーの魂がたとえば、自然のなかで孤立していなければならなかったなら、事物の創造者は、それにもろもろの器官を与えなくてもよかったかもしれない。しかしこの創造者はさらに無数の他の存在を造り、それらはたがいに器官の中に包みこまれている。われわれの身体とは、それもまた存在するに値した無数の被造物で一杯になった一種の世界なのである。」私が外部で出会う動物たちは、こうしたものが大きくなったものにすぎず、ライプニッツの体系にとって本質的なのは、単に一つの動物心理学ではなく、動物的なモナドロジーなのである。」

「個体的にとらえられたモナドはすべて例外なく、世界全体を表現し、ただそれらの表現の区画、明晰な帯域によって区別されるだけである。理性的なモナドたちは、実に幅広く、強度の帯域をもつので、この帯域はそれらを神に接近させる熟慮と深化の働きに身を委ねるのである。しかしあらゆる動物的モナドもまた、ダニでさえも、血液や肝臓のモナドでさえも、どんなに狭くても、それなりに明晰な帯域をもつ。こうしてみずからの個体性に捉えられるとき、あらゆるモナドは一つの単純な実体(引用者注:「単純な実体」に傍点)であり、一つの能動的な始源の力(引用者注:「能動的な始源の力」に傍点)であり、一つの内的な行為や変化の統一性(引用者注:「内的な行為や変化の統一性」に傍点)である。確かにそれは身体をもち、みずからの明晰な帯域に対応する一つの身体と不可分であるが、それは身体を含むのではなく、身体と実在的に区別されるのである。モナドは、みずからの力の制限のために、身体を要求するのであり、このような制限は、その受動的な力能あるいは第一質料(「モル」)を構成する。これは要求するものであるかぎり、支配的モナドである。あらゆる理性的モナドは支配的であり、別の仕方ではありえない。しかし死に際してさえも、身体を失ってしまったように「見える」ときでも、また動物にもどってしまうときでも、少し前に理性的であったモナドは支配的であり続ける。あらゆる動物的モナドは、いかに暗くてもあらゆるモナドは、ある点では、支配的なのである。個体的に考察されるかぎり、一つの身体をもつかぎり、たとえ限りなく退行し、うちひしがれ、手足をもがれても、そうなのである。」



「第9章 新しい調和」より:

「もう既に久しい前から、あらゆる中心(引用者注:「中心」に傍点)も、またあらゆる指定可能な形態も失ってしまった無限の宇宙という仮説が練り上げられている。しかしバロックの特性とは、観点としての頂点(引用者注:「頂点」に傍点)から発する投影によって、このような宇宙に再び一つの統一性を与えたことなのだ。もうずっと前から、世界は根本的に演劇として、夢想あるいは幻影として、ライプニッツがいうように道化の衣裳として扱われている。しかしバロックの特性とは、幻影に陥ることでも、幻影から脱出することでもなく、幻影そのものの中で何かを実現すること、幻影に精神的な現前(引用者注:「現前」に傍点)を伝え、幻影の部分や断片に集合としての統一性を再び与えるようにすることなのだ。ホンブルクの王子や、クライストのあらゆる登場人物は、ロマン主義的というよりも、バロック的英雄である。なぜなら、様々な小さい知覚の目眩にとらえられ、彼らは幻影の中に、失神状態の中に、目眩の中に、たえず現前を実現し、幻影を現前に変えるからである。(中略)バロックの人々は、幻覚が現前を模倣するのではなく、現前そのものが幻覚的であるということをよく知っている。
 ヴァルター・ベンヤミンは、アレゴリーとは失敗したシンボルや抽象的な人称化などではなく、シンボルの力能とはまったく異なる形象化の力能であることを示したとき、〈バロック〉の理解において決定的な一歩をしるしたのである。シンボルは、ほとんど世界の中心で永遠的なものと瞬間的なものとを結合するが、アレゴリーは時間の秩序にしたがって自然と歴史を発見し、もはや中心をもたない世界において、自然を歴史にし、歴史を自然に変えるのである。もしわれわれが一つの概念とその対象との論理的な関係を考察するなら、それを越えるには二つの仕方があることに気づく。一つはシンボリックな仕方、もう一つはアレゴリックな仕方である。」
「ライプニッツは実に深くこのような世界に関与していて、それに欠けていた哲学をもたらすのだ。」

「苦痛をめぐるライプニッツの理論の全体は、もろもろの不協和に一つの「普遍的な調和」によって備え、不協和を解決するための方法である。逆の例は、呪われた人間によって提供される。彼の魂はたった一つの音だけをもつ不協和を生み出す。それは復讐あるいは怨恨の精神であり、神への限りない憎しみである。しかしこれもまた、悪魔的ではあっても一つの音楽であり、和音なのである。呪われた人間は、自分の苦痛そのものから快楽を引き出し、そしてとりわけ別の魂たちにおいて完全な協和が無限に進行することを可能にするからである。
 調和の第一の側面とは次のようなものであって、ライプニッツはこれを自発性(引用者注:「自発性」に傍点)と呼んでいる。つまりモナドは生成されては解体されるもろもろの協和を生み出すが、これらの協和は、にもかかわらず始めも終わりももたず、相互に変形しあい、それら自身変形し、一つの解決あるいは変容にむかう。ライプニッツによれば、悪魔的な協和でさえも変形しうる。つまりモナドは表現であり、自分自身の観点から世界を表現するのである(中略)。観点とは、それぞれのモナドが包摂する世界全体に対して、モナドがおこなう選別を意味し、モナドはこのとき世界を構成する無限の屈折をもつ線の一部から協和を取り出すのである。したがってモナドは、自分自身の底から協和を引き出すのである。(中略)いずれにしても魂はみずから進んで歌うのであって、セルフ-エンジョイメントの基礎なのだ。」
「調和には第二の側面がある。モナドは単に表現ではなく、みずからの表現の外には実在しない同じ世界を表現するのだ。「あらゆる単純実体は、常にそれらの間に一つの調和をもつだろう。なぜならそれらはいつも同じ宇宙を表象するからである。」モナドは閉じていても、(中略)孤独ではなく団結して、同じ世界を表現するからである。(中略)ライプニッツはコンサートの状況を引き合いに出している。そこでは二つのモナドがそれぞれに、相手のパートを知らず、聞くこともないまま自分のパートを歌うのだが、にもかかわらず「完全に協和するのである」。」

「調和の二つの側面はまったく連鎖している。自発性とは、それぞれのモナドの内部にある協和を、その絶対的な表面上に生み出すことである。協調とは対応関係であって、それによれば、一つのモナドの中には、マイナーな協和がなければ、メジャーで完全な協和も存在せず(引用者注:「一つのモナドの中には」以下に傍点)、また逆のことも言える。あらゆる結合が可能であるが、二つのモナドについて同じ協和は存在しない。つまりおのおののモナドはみずからの協和を自発的に生み出すのだが、それは他のモナドの協和と対応関係をもちながらのことである。(中略)「予定調和」という表現において、予定という言葉は、調和と同じくらい重要である。調和は前もって二度確立される。一度はおのおのの表現、おのおのの表現するものによって。それらは何も自分自身の自発性あるいは内面性にしか負うていない。もう一度は共通の〈表現されたもの〉であって、これはあらゆる表現的な自発性の協奏を構成するのである。あたかもライプニッツは、われわれにコミュニケーションについて重要なメッセージを残しているかのようだ。十分なコミュニケーションがないことを嘆くには及ばない。いつもそれは十分にあるのだ。世界において予定された恒常的な量として、十分な理由として。」

「問題はあいかわらず、世界に住み着くことである。しかしストックハウゼンの音楽的な住まい、デュビュッフェの造形的な住まいは、内部と外部、私的と公的の相違を存在させない。それらは変化と軌道を一致させ、モナド論をノマド論によって二重化する。音楽は住処でありつづけたが、変わったのは住処の組織とその性格である。確かに、われわれの世界とテクストを表現するのはもはや協和音ではないが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。新しい外皮とともに新しい折り方を発見するが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。なぜなら問題はあいかわらず折ること、折り目を拡げること、折り畳むことだからである。」



「訳者あとがき」より:

「意識とは無数の無意識からなっており、意識の音楽は、無数の騒音を内包している。この意味で意識は限りない分裂を内包しているが、それでもライプニッツは、この世界には予定調和があるという。世界が現にあること自体が、無数の可能世界から抽出された差異からなる一つの秩序を示しているからである。モナドに窓がないのは、モナドが孤立した自我だということを意味するのではなく、むしろモナドがあらかじめ、無限に世界に開放されていることを意味するのである。」
「たぶんライプニッツは、分裂する世界の悲惨に対して原理を保持するという使命をひきうけて、どうしても予定調和を持ち出さざるをえなかった。(中略)「観点に似た頂点から、射影によって成り立つ統一性」を、モナドの暗い底の、はてしない騒音、曲線、屈折、埃や霧に、さしむけなくてはならない。けれども、確かにこの世界には無数の可能世界がいりみだれ、実体は、安定と中心を欠いた細かい幻覚に侵入されている。だからこそ、そこに強度の垂直的な力として神の射影をみちびき、調和にみちた音楽を響かせなくてはならないのである。」











こちらもご参照ください:

ジル・ドゥルーズ 『フーコー』 宇野邦一 訳
ライプニッツ 『モナドロジー 他二篇』 谷川多佳子・岡部英男 訳 (岩波文庫)
ヴァルター・ベンヤミン 『ドイツ悲劇の根源』 川村二郎/三城満禧 訳 (叢書・ウニベルシタス)














































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。
歴史における自閉症の役割。

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