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『イサドラ・ダンカン 芸術と回想』 シェルドン・チェニー 編/小倉重夫 訳編

「つねに変化し、自然で、終ることのない連続をなす、未来の舞踊の動きを展開させる人間の身体のための、これらの初歩的な動きを見出すことは、今日の新しい舞踊家の義務である。」
「そのような動きはつねに動いている形態に依存し、呼応している。カブト虫の動きは、その形態に一致している。馬の場合も同じである。人間の身体の動きもその形態と一致しなければならない。さらに人体の動きの場合は、個々人の体型に適合すべきだ。二人の人間の舞踊は同じであってはならないのである。」

(イサドラ・ダンカン 「未来の舞踊」 より)


『イサドラ・ダンカン 
芸術と回想』 
シェルドン・チェニー 編 
小倉重夫 訳編



冨山房 
1977年7月15日 印刷
1977年7月20日 発行
4p+288p 
口絵(モノクロ)1葉 
図版(モノクロ)8p 
20×15.4cm 
並装(フランス表紙) 函
定価2,000円 
装丁: 笠原須磨生
 


本書「訳者あとがき」より:

「この《イサドラ・ダンカン 芸術と回想》の原書は、一九二八年にニューヨークの Helen Hacket 社から出版された《The Art of the Dance : Isadora Duncan》である。」
「シェルドン・チェニーの編纂は、第一部に追悼文、第二部にダンカン自身による芸術エッセイで構成され、それなりの成果を挙げていることは改めるまでもないが、私はわが国の情勢も考慮したうえで、この構成をあえて逆にし、《芸術と回想》という表題のもとに再編纂することにした。(中略)〈回想〉において、原書に掲載された追悼文に八編を補足として新たに加え、(中略)より回想としての色彩を明白にし、その内容の充実をはかることに心がけた。その八編とは、スタニスラフスキー(中略)、イルマ・ダンカン(中略)、晩年彼女と正式に結婚したロシアの詩人イェセーニン(中略)、レヴィンソン(中略)、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載された〈ダンカンの死亡記事〉、アマーヤ(中略)、グレゴリー(中略)、そしてわが国から永田龍雄が昭和二年九月十九日付読売新聞に寄稿した(中略)追悼文である。また、ブールデルやロダン、(中略)クレーグなどの手になるダンカンのレリーフやスケッチ、さらにゲンテによる写真も、原書に掲載されたものに数点補足挿入し、その目的の達成に努めた。しかし、バクストやグランジュアン、クララらの手になる数点は、版権の都合で掲載出来なくなったことは遺憾であるが、それを補う意味で、正規に版権を取得したブールデルの連作を使用することとした。」



別丁図版(モノクロ)11点。本文中に図版(モノクロ)33点。



イサドラ・ダンカン 芸術と回想 01



目次:

序文 (シェルドン・チェニー)

舞踊芸術に関するエッセイ (イサドラ・ダンカン)
 私はアメリカが踊るのを見る
 理想の踊り
 未来の舞踊
 パルテノン
 踊り手と自然
 舞踊とはどうあるべきか
 踊る子供
 動きは生命である
 美と訓練
 舞踊と悲劇との関係
 ギリシアの劇場
 教育と舞踊
 テルプシコール
 ギリシア人の舞踊
 青春と舞踊
 深遠
 偉大なる源泉
 リヒアルト・ワーグナー
 生徒たちへの手紙
 モスクワの印象
 所見・モスクワ以後
 宗教と愛とに係わりを有した舞踊法
 断章および随想

イサドラ・ダンカン 回想
 イサドラ・ダンカン (コンスタンチン・S・スタニスラフスキー)
 イサドラの最後の舞踊 (レイモンド・ダンカン)
 イサドラ (マルゲリタ・ダンカン)
 舞踊芸術におけるパイオニア、イサドラ・ダンカン (イルマ・ダンカン)
 黒い人 (セルゲイ・イェセーニン)
 イサドラ――わが友 (マリー・ファントン・ロバーツ)
 芸術家イサドラ・ダンカン (シェーマス・オシール)
 イサドラ・ダンカン (アンドレ・レヴィンソン)
 死亡記事 (ザ・ニューヨーク・タイムズ)
 イサドラ・ダンカンは死んだ (マクス・イーストマン)
 近代舞踊芸術の明星落つ (永田龍雄)
 思い出のイサドラ (エヴァ・ル・ガリエンヌ)
 イサドラ・ダンカン (ロバート・エドモンド・ジョーンズ)
 ある手紙 (ブールデル)
 イサドラと彫刻家 (マリオ・アマーヤ)
 イサドラを求めて (ジョン・グレゴリー)

訳者あとがき (小倉重夫)




◆本書より◆


「未来の舞踊」(イサドラ・ダンカン)より:

「もし、私たちが舞踊の真の根源を求めて、自然へと及ぶならば、未来の舞踊とは、過去の舞踊、永遠の舞踊であり、それが現在まで同じものであったように、常にこれからも同じものであることに気付くのである。
 波の、風の、大地の運動は、つねに、同じように続く調和の中にある。海の運動が昔はどんなであったか、未来はどうなるのかと、浜辺に立って海に尋ねはしない。ある自然に個有の運動は、永遠にその自然の有するところだ。自由な動物や鳥の運動は、つねに、それらの有する自然に、その自然の必要性と要望に、そして大地の本質に対応しているものである。自由な動物たちが、自然と調和して動く力を失い、それらに与えられた抑制を表現する動きを採るのは、ただ、自由な動物たちが、誤った抑制のもとにおかれたときだけである。これは文明化された人間についても同じであった。(中略)裸体の動きだけが、完全に自然になりうるのである。文明の究極に達した人間は、裸に回帰せねばならぬだろう。それも、未開人の無意識のうちの裸ではなく、肉体が精神的存在の調和ある表現となる、成熟した人間の、意識的で心得た裸へと回帰しなければならぬだろう。
 そしてこの人間の動きは、自由な動物たちの動きのように、自然で美しいことであろう。」

「つねに変化し、自然で、終ることのない連続をなす、未来の舞踊の動きを展開させる人間の身体のための、これらの初歩的な動きを見出すことは、今日の新しい舞踊家の義務である。」
「そのような動きはつねに動いている形態に依存し、呼応している。カブト虫の動きは、その形態に一致している。馬の場合も同じである。人間の身体の動きもその形態と一致しなければならない。さらに人体の動きの場合は、個々人の体型に適合すべきだ。二人の人間の舞踊は同じであってはならないのである。」

「その時が来れば、学校を建て、私の舞踊で百人もの少女を訓練出来る劇場を建てるのが私の意向だ。そして代わって、その少女たちが、舞踊を改善してゆくのである。この学校では、私の動きの模倣を教えるのではなく、彼女たち自身の動きをするよう教える。私はある規定された動きを学ぶことを強いはしない。彼女たちに無理でない動きを展開させるべく、私は彼女らを助けよう。教え込まれたことのない小さな子供の動きを見る者は誰でも、その動きが美しいことを否めない。それらが子供たちに無理ではないから美しいのである。人体の動きですら、その身体が到達している成熟の段階と度合いとに調和している限りは、発達のその段階ごとに美しいはずである。その個々の身体と個々の魂の完全な表現である動きは、つねに存在するだろう。それであるから、自然でなく、ある流派に属する動きを、身体に強要してはならない。知的な子供は、彼らが自発的に作り出すすべての動きに反する動きをバレエ学校で教えていることに気付いて、驚かされねばならないのである。」

「ここで私は、おそらく容易に生じる誤解を除いておきたいと思う。(中略)私が古代ギリシア人の踊りへ立ち戻りたいと思っているのであるとか、あるいは未来の舞踊は、古代舞踊、ないしは原始民族の舞踊だと、私が考えているように結論されるかもしれない。だが、それは間違いである。未来の舞踊は、新しい動きであり、人類が経験して来た全進化の結果なのである。ギリシアの舞踊に戻ることは不必要であるとともに、不可能であろう。われわれはギリシア人ではなく、それ故にギリシア舞踊は踊れないのである。
 だが、未来の舞踊はギリシアの場合と同じく、再び高度な宗教芸術となるべきである。というのは、宗教的でない芸術は芸術ではなく、ただの商品にすぎないからだ。
 未来の踊り手とは、魂の自然な言葉が身体の動きとなるまでに、その身体と魂とがともに調和して発達した人のことである。その踊り手は一民族のものではなく、全人類のものであろう。」



「舞踊とはどうあるべきか」(イサドラ・ダンカン)より:

「今日のバレエを習っている少女たちを見たことがあるか? その少女たちは、愛らしく、明るく、上品ではあるが――足はいじめつけられて変形してしまっている。少女たちの柔らかで小さな身体は、もうきついボディスと子供用のコルセットに無理に押し込まれている。そして少女たちの自然で優雅な動きは、かりに合理性と美の線にそって発展させられるならば、それが子供の自然な動きであるものとは正反対の、不自然な、(中略)醜く、ゆがんだ動きへと、いじめぬかれているのである。」


「動きは生命である」(イサドラ・ダンカン)より:

「大地の動き、草と木の動き、動物の動き、風と波の動きを学ばねばならぬ。それから、子供の動きを学ぶことである。すべての自然の事物の動きが、調和のある表現の中で働いていることを見出だすだろう。これは子供の人生のはじめの年代においても真理であるが、やがてすぐに誤った教育理論によって、外部から動きが課せられ、子供はすぐに、その自然で自発的な生活と、動きの中でそれを表現する力とを失ってしまう。
 私の学校に来る三つか四つの幼児は、美しい音楽の高揚に鋭敏であるが、八歳か九歳の子供は、教師によって課せられた生活の慣習的で、機械的な概念の影響を受けてしまっているのがわかる。九歳の子供は、すでに慣習的、機械的な動きの虜(とりこ)となっており、この状態はずっと続き、彼女たちがもっと大きくなって、身体の表現が不活発になるまでに、子供のすべての生活を悩ますのである。
 私の学校での教育計画について尋ねられたとき、私はこう答える。
 「まず子供たちには、呼吸をすること、魂をゆすぶられること、感ずること、そして普遍的な自然の調和と動きとを有する者になるように教えましょう。まず、美しい人間を、踊る子供を創るのです。」ニーチェは、「踊ることのできない神は信じられない。」と言っている。また、「われわれが踊らなかった日は、失われたと考えさせしめよ。」とも言っている。
 だが、彼はピルエットをすることを意味したのではない。動きにおける生命の高揚を意味したのである。
 音楽のハーモニーは、自然の動きのハーモニーと等しく存在する。
 人が音楽のハーモニーを案出したのではない。それは、生命の根本原則の一つである。動きのハーモニーもまた案出されることはできなかった。自然自体から、それについての概念をひき出すこと、また、流れる水のリズムから、あたりを吹く風から、すべての大地の運動、動物の、魚の、小鳥の、爬虫類の動作、果ては、まだ自然と調和を保って動く原始的な人間の動作から、人間の動きのリズムを探し出すことが、不可欠なのである。
 道義心についての最初の概念をもって、人は自己意識的となり、身体の自然な動きを失う。現在では、長い歳月をかけた文明の知性の光の中で、人間が無意識に失ったものを意識的に探すことが不可欠である。
 地球のすべての動きは、波の動きの線に従っている。響きも光も、波となって動く。水、風、木、そして草も、波となって進む。小鳥の飛ぶのも、すべての動物の動きも、うねる波のような線を描く。もしも人間の肉体の動きの身体的な開始点を探したとしたら、波のうねる動きをなすきっかけがそこにあるのだ。それは自然の要因のひとつであり、そのような要因の中から、子供も、踊り手も、踊りに対する何か根本的なものを吸収するのである。」

「自然は、すべての芸術の源となるべきであり、舞踊は、調和とリズムの中の自然の力を利用すべきである。しかし、踊り手の動きは、つねに自然のいかなる動きからも遊離しているであろう。」







こちらもご参照ください:

ルドルフ・シュタイナー 『治療教育講義』 高橋巖 訳 (ちくま学芸文庫)
『大野一雄 舞踏譜 【増補版】 ― 御殿、空を飛ぶ。』

















































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