M-L・フォン・フランツ 『ユング 現代の神話』 高橋巌 訳
「「この頃私は土地や事物の中に入り込んでしまったような暮し方をしている。湖畔に打ちよせる波音、雲、けものたち、一木一草、そのひとつひとつがまるで自分自身のようだ。……ここには時間を超越した背後の世界のためにふさわしい空間がある。」」
(C・G・ユング 『自伝』 より)
M-L・フォン・フランツ
『ユング 現代の神話』
高橋巌 訳
紀伊國屋書店
1978年4月28日 第1刷発行
1993年1月31日 第12刷発行
340p 別丁口絵(モノクロ)1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,600円(本体2,524円・税76円)
Marie-Louise von Franz
C. G. JUNG
- Sein Mythos in unserer Zeit -
(C) 1972 Verlag Huber & Co. AG, Frauenfeld
本文中に図版(モノクロ)2点、図2点。
ユングの弟子によるユング思想入門。訳文はやや読みにくいです。
人は「個体化」の過程――「意識」と「無意識」という相反するものの一致――を通して「自己実現」に至りますが、そのためには意識の小さな光を保ちつつ集合的無意識の迷宮を彷徨しなければならないです。

カバーそで文:
「「本書と内的な会話を重ねる読者は、ユングという稀有な思想家の一生の内面史だけでなく、彼の体験した‟神話”の普遍的な作用力に促がされて、自分自身の内面の歴史に、いつのまにか直面させられているのに気づかされる。」(訳者あとがき) 現代の精神的物質的状況の中で、いかに生きるべきか、真剣に悩む人々にとって、本書は苦悩に充ちた‟福音の書”であろう。まさに問題は「地球を所有するよりも自分の魂を救う」ことなのだから。」
目次:
序論
I 地下の神
II カンテラ
III 医師
IV 心の対称と対極
V 彼岸への旅
VI アントロポス
VII マンダラ
VIII 反対の一致
IX 人間の朝の認識と夕の認識
X メルクリウス
XI 賢者の石
XII 統一世界への突破口
XIII 個体と社会
XIV メルリンの叫び
訳者あとがき
原註
C・G・ユング年譜
参考文献
◆本書より◆
「耐え忍ぶことによって、あなたがた
は自分の魂をかちとるであろう
――「ルカ伝」二一の一九」
「序論」より:
「しかしユングの生涯と仕事の中であのように大きな役割を演じた無意識とは一体何ものなのか。端的にいえば、人間が昔から知っていたひとつの内的経験のための現代的用語である。つまり、われわれ自身の内なる世界から異質のそして未知の部分がわれわれの前に立ち現れてくるという経験、その内からの影響でわれわれが突然変化させられるという経験、われわれが自分で作ったのではなく、見知らぬ圧倒的な力で現れてくると感じられる夢や着想があるという経験、それらはユングのいう無意識の経験である。この無意識の働きは、古い時代には、神的力(マナ)、神、魔神もしくは「霊」に帰せられた。それはこれらが客観的な、そして自分とは異質の独自の存在であると人々が感じていたことの現れであり、またこれらが圧倒的に強力なものであって、自分の意識生活は今のところ無力にもそれらの掌中にあるという体験の適切な表現をなしている。」
「以前私はユングに、無意識に対する彼の心理学的な見解や態度が宗教的なものの素朴、本源の状態、たとえばシャーマニズムとか、ナスカピ・インディアンのような、司祭や祭祀をもたずに、「心の内なる不滅の偉人」から送られると信じる自分たちの夢だけにしたがっている人々の宗教にもっともよく似ていると思うと語ったとき、ユングは笑いながら、「それは不名誉なことではありませんね!」と答えた。牧師の子として生れたユングは、教会が死んでおり、教会制的キリスト教がもはや彼の問いになにも答えなくなったという苦(にが)い洞察に早くから達していた。その後、彼は悟りへの道を自分の心の深みの中に見出した。」
「I 地下の神」より:
「彼がヨッギと呼んでいた灰色のシュナウツァー・テリア犬が或る時ドアに前足をはさまれた。ユングが助けようとしたら、犬は痛さのあまりかみついたことがあった。ユングはよくこの話をして、こうつけ加えるのだった。「患者たちもよくそうしますよ」。或る時見知らぬ不愉快な女性がボリンゲンの別荘に押しかけ、くどくどと自分のことばかりユングに話したことがあった。そばにいた誰かが、先生は我慢なさりすぎます、というと、ユングは悲しげに答えた。「人生は残酷なものです。彼女がその為に非常識な態度に出たとしても、とやかくいうことは誰にもできません。」」
「II カンテラ」より:
「彼は自分の本性の二つの極を『自伝』の中でNo.1とNo.2と名づけた。No.1は日常的人間の自我であるが、No.2は生動化されることによって、知覚可能になりうる無意識をあらわしている。ユングは『自伝』で次のように語っている。「自分が二人の人物であることを常に心の片隅では知っていた。一人は両親の息子であり、学校に通い、他の多くの連中ほどに知的でも、注意深くも、勤勉でも、礼儀正しくも、清潔でもなかった。これに反してもう一人は大人で、老人のように疑い深く、人を信用せず、人間社会から離れていたが、その代り自然、地球、太陽、月、天候、生きもの、とりわけ夜、夢、その他私の内なる『神』に直接働きかけてくるものならすべて、この第二の人物にとっては身近かだった。私はここで神を『神』として括弧に入れる。自然は神の表現として神自身によって創造されたものであるにもかかわらず、私自身と同じように、神にあらざるものとして除け者にされているように思えた。神の似姿が、ただ人間だけについていわれた言葉だとは考えたくなかった。事実、高い山々、河川、湖、美しい樹木や花や動物たちは人間よりもはるかに神の本性をよく現わしているように思えた。……」
No.2の世界は「踏み入る者を変化させる領域であった。宇宙全体の直観から圧倒的な印象をうけとるあまり、自分自身のことを忘却してしまい、ひたすら驚嘆し讃美することしかそこではできなかった。そこに生きる『もう一人の者』は、神が内証(ないしょ)の、個人的であると同時に超個人的な秘密なのだということを知っていた。そこでは人間を神から区別するものは何もなかった。というよりも、人間精神が神と一緒に天地創造を経験していたかのようだった。」学校時代のユングはまだこの二つの人格をはっきり区別することはできず、No.2の領域をも当然、自分に属するものと考えてはいたが、「それにもかかわらず、そこには私自身とは異質の何かが存在するという感情が心の片隅では常に働いていた――あたかも星々の広大な世界や無限空間からの息吹きにふれたかのように、或いは目に見えぬ或る霊が部屋の中に入ってきたかのように感じられた。その霊は、ずっと以前去ってしまったのに、ずっとはるかな未来にいたるまで、時間を没して、現存し続けているかのように思えた。」」
「III 医師」より:
「平和伝達の神ヘルメスはユングの外的態度の守護神だっただけでなく、特に彼の医療活動の守護神だった。なぜなら患者をなんらかの方法で「教育」することではなく、患者が患者自身と平和な関係を結べるようになるために、彼は伝令のように、患者自身の無意識の伝言を伝えようと努めたのだから。彼は自分をいわば内なる自我実現の自然的プロセスのための助産婦のように感じていた。このプロセスは個々の人間とその運命における大きな相違の故に、時に応じて別の過程を辿る。だから本来、医師は患者が夜、内部の深みから受け取る象徴的な夢の手紙の解釈者であり、「審神者(さにわ)」なのである。ユングの働きはこの点古代のシャーマンや自然民族の魔術師の仕事と結びついている。すなわちシャーマンや魔術師はトランス状態や神託術等の手段を用いて、「霊たち」、つまり能動化された無意識や或る種のコンプレックスが患者の意識から何を求めているのかを知り、相応しい儀式、贖罪、犠牲等で霊たちの心を安らげ、もしそれが人格に反する霊たちであったなら、それを祓うことを試みる。このようなことが可能なのは、シャーマンや魔術師自身が「秘儀の病気」において霊界、つまり無意識と対決した経験をもち、霊や動物たちの言葉を理解しているからなのである。シャーマンは自分が治療するのではなく、治癒効果をともなう神々の力との出会いを取り次ぐのである。」
「VII マンダラ」より:
「一九一八年から一九年にかけて、彼はイギリス地区野戦病院長だった。毎朝彼はノートに小さな円い形態をスケッチすることに没頭していた。しばらく経って、この形態が彼自身の客観的魂の状態を写し出しているらしいことに、彼は気づいた。彼が「我を忘れて」いたり、不機嫌だったりしたとき、このマンダラの均斉(シンメトリー)は乱れているように見えた。彼自身次のように書いている。
「長い年月をかけてやっと、マンダラとはそもそも何なのか、理解できるようになった。それは『形作っては、作り変える――永遠の意味の永遠の楽しみ』なのである。そしてこれこそ自己であり、人格の全体性である。(中略)
私のマンダラ像は、私の自己の状態についての暗号文だった。(中略)それは私自身であり、私の宇宙である一個のモナードのように思えた。マンダラはこの自己というモナードを表現しているのだ。だから魂の小宇宙的本性に相応している。……マンダラは中心なのだ。それは一切の道の表現であり、中心への道であり、個体化への道である。」その頃、「心的発展の目標が自己にあること、直線的発展などは存在しないこと、唯自己の遍歴だけが存在すること」が、彼にはよくわかったのである。」
「VIII 反対の一致」より:
「「独裁国家が人類に対して近年犯した残酷な所業はわれわれの祖先達が昔からしてきた数々の悪業の頂点をなすものである。キリスト教諸民族のもとで行われた兇行と流血はヨーロッパ史に充満しているが、それだけでなくヨーロッパ人は、植民地建設に際して、異民族のもとで犯した一切の犯罪に対しても、責任をもっている。われわれはこの点でもこの上ない重荷を背負っている。これ以上暗黒には描けない程の人間一般の影の像がそこから現れる。人間の中に現れる悪は、……あらゆる可能性を含んでいる。一般に人間とは、その意識が自分自身について知っているところのものであるという考え方をする限り、人は自分を無害なものと見なし、悪業を愚行の一種と見なそうとする。恐ろしい事柄が今日でも発生しているという事実を否定することはできないまでも、それを行うのは自分たちではなく、他の人間たちなのだと考える。……実際はただ自分たちが地獄の渦の中に巻き込まれる機会がなかったというに過ぎないのだ。どんな人間も人類の暗黒の集合的な影の外に立ってはいない。」もし人が悪を他の人間に転化するなら、それによって悪を洞察する可能性を失い、悪と対決する能力をも失う。」
「一番大事なことは、何が善であり、何が悪であるか、よくわかっていると信じ込んだり、それを他の人々に教えることができると考えたりすることをやめることである。」
「IX 人間の朝の認識と夕の認識」より:
「教父アウグスティヌスは二つの種類の認識を区別した。朝の認識と夕の認識を。」
「マイスター・エックハルトはアウグスティヌスのこの思想を取り上げた。彼もまた、被造物のそのままの姿を認識する「夕の知識」と、被造物と人間的自我とを一者である神自身の中に認識する「朝の知識」とを区別している。しかしこの朝の認識が獲得できるのは、自分自身をも含めた一切の被造物の存在を忘れて、「魂を自分より神の方に近い」ところにおき続けることのできる「隠棲した」人間だけである。」
「彼(引用者注:ユング)は中国の古い諺を引用するのを好んだ。「賢者は一度は発言する。だが聞き容れられぬときは、田舎の屋敷に引き籠もる。」彼もまた、田舎の屋敷ではなかったが、オーバーゼー湖畔の石塔に引き籠もって、質素な生活を送った。」
「X メルクリウス」より:
「われわれの場合、魂は殆んど無限に軽視されており、自由に自己を発展させることが不可能にさせられている。すべての価値は外にのみ求められ、内部は野蛮で未発達な状態に放置されているから、もしわれわれが内なる世界を理解してそれを意識生活に関連づけることをしないでいるなら、いつ危険な憑依状態に陥るかわからない。
しかし無意識の体験は人を孤立化する。だから多くの人はこの体験に耐えられない。それにも拘らず、ただひとりで自己と向かい合うことは、人間にとって最高の、もっとも決定的な体験である。なぜなら「もはや自分で自分を支えることができないのなら、何が自分を支えてくれるかを経験するためにも、人はひとりにならなければいけないからである。ただこの経験だけが人間に確固たる基礎を与えてくれるのである。」」
「XI 賢者の石」より:
「すでに小学校の頃から、ユングはひとりで外へ遊びに行くのが好きだった。両親の家の庭壁にそって坂道があったが、その坂の途中に埋めこまれていた或る石を「僕の石」と彼は呼んでいた。「一人になると、よくその上に腰かけて次のような考えに耽った。『今この石に座っている僕は上におり、彼はその下にいる』と。しかしこの石だって、自分のことを『僕』と呼ぶことができるのではないか。そして『僕が坂のこの地点で埋まり、彼が僕の上に座っている』、と考えることができるのではないか。そう考えると、次のような疑問が生じてくる。『石に座っている自分が僕なのだろうか。それとも彼が座っているこの石が僕なのだろうか。』」」
「石は人間がそこから生きる力をひき出してくるところの、永遠に持続する存在のための最古の象徴であるらしい。諸民族が墓石として積み重ねる石も同じ意味を持ち、死後も持続する人間本性の存在を象徴している。たとえば古代ゲルマン人は墓のためにバウタール石と呼ばれる自然石を積み上げて、これに供儀を捧げた。彼らは死んだ祖先たちの魂がこの石の中に生きており、新たに生まれてくる子供の中にそこから入っていく、と信じていた。修道僧クラウス・フォン・フリューエはすでに母の胎内にいたとき、星と大きな石と聖油のヴィジョンを持っていた、と述べている。石は「彼の本質の城砦(とりで)を意味していた。この場所こそ彼が不退転に固守すべきところなのである。」この石を所有するものは、集合的な影響や内的問題に「打ち負かさ」れることがない。それ故この石がすべてのものよりも生きながらえることのできる人間部分なのだという感情さえももつ。」
「一九五〇年、ユングが増築中の別荘で仕事に精を出していたとき(彼は左官の仕事が上手だった)、彼のところに職人たちが四角い隅石をもってきた。それは寸法を間違えて切り出され、建物には利用できなくなった石だった。(中略)彼はこの石の前面を円く刻み込み、その中にカビール神のひとり、エスクラプのテレスポロスがカンテラを手にしている姿を彫り、その周りに「アイオン(時間)は子供であり、子供のように戯れる。盤戯を楽しむ子供の王国である。これは宇宙の暗い諸国を遍歴しつつ、星のように闇に光るテレスポロスの姿である。彼は太陽の門への、夢の国への道をさし示している」、という言葉を刻んだ。またその両側面にも錬金術の賢者の石についての錬金術的格言を刻み込んだ。そのひとつは次の通りである。「私はみなし子でひとりぼっち。けれどもいたるところに私はいる。私は一人なのに、私は私と向い合っている。私は若者であり、同時に老人でもある。私は父母を知らない。私はまるで魚のように深みから取り出される。または白い石のように天から落ちてくる。私は森や山野をさまよい歩くが、人間の内部の深みにも隠れている。私は誰にとっても死すべき定めにあるが、時代の移り変りには左右されない。」この石は、オーバーゼー湖畔にあるユングの塔とその本来の住人である自己とのための記念碑となった。それは今日極くわずかな人によってしかまだ本当には理解されていない、あの無意識という秘密に充ちた生命存在のための記念碑でもあったのである。」
「XIII 個体と社会」より:
「個人がそのような社会的規範から離れる場合、当時正常ならざるアウトサイダーの生き方をとることになりかねないが、しかし同様にしばしばそれは生産的な逸脱(引用者注:「生産的な逸脱」に傍点)となることもできる。アドルフ・ポルトマンは動物の世界にも集団行動によりよい変化を与える特別の個体が存在する、と指摘している。たとえば或る鳥が冬、南へ渡る代りに、もとの場所に留まり続けたとする。この試みがうまくいかなかったなら、その鳥はひっそりと死んでしまうだろう。うまくいけば、翌年数羽の鳥がこの鳥のまねをするかも知れない。そして遂には群全体の行動の変化をひき起すこともありうる。このように新しい環境適応の試みをはじめて行うのは、常に個々のものたちである。そして個と集団という対極性はすでに動物の世界の中に存在するのである。」
「「私は社会に個人が適応することが正しくないとはいいませんが、私としては、誰にも譲り渡すことのできぬ個としての存在の権利を擁護いたします。なぜならこれだけが人生の担い手なのですし、しかも今日平均化を求められることでこの上ない困窮に陥っているのは正にこの個としての人間なのですから。もっとも小さい集団の中でも、個は多数にとって受け容れられる限りにおいてのみ存在できるのが今日の現状です。個は忍耐することを学ばされます。しかし忍耐だけからは何も生れません。反対にそれは自分自身に対する疑惑を呼びおこします。そして何事かを代表しようとする個人はこの疑惑のために孤立し、そのような状況の下でひどく苦しまされるのです」。実際、自分自身の価値が認められないなら、社会的関係は何の意味ももたない。
歴史的に見れば、物質だけの生活条件やそれに付随する諸問題以外(引用者注:「以外」に傍点)のところに立つことを教えてきたのは、常に宗教だった。宗教に支えられてこそ、人々は生活上の困窮を魂によって克服できたのである。」
「全体国家や宗派的教会の集団組織は魂の個的ないとなみをすべて利己主義的なわがままだと説く。学問はそれを主観主義と解釈し、教会はそれを異端であり霊的高慢であると見做す。このような態度は、「キリスト教の象徴が、人間と人の子との個的な生き方を内容にしており、この個体化過程を神自身の受肉であり啓示であると教える」という点を考えてみるなら、特別奇妙な印象を与える。「自分の個的な内的経験に従って自分の道を歩み、勇敢にも世の中に立ち向った人々の手本こそが、イエスでありパウロなのではないのか。」」
「XIV メルリンの叫び」より:
「その後メルリンはアーサー王の誕生と戴冠の際にも大きな役割を演じるが、この時にも宮廷に留まろうとはせずに、森の奥に引き籠る。なぜならブリテン人とスコットランド人との間の争いを見て、彼は悲しみのあまりすっかり取り乱してしまったからだった。彼は二度と人間社会に戻ることをしなかった。だから人々は彼の住家を森の中に建てた。その「エスプリュモワル」の館(やかた)で、彼は天文観察にふけった。「彼は星晨をしらべ、未来の出来事を予知した。」外観は毛もくじゃらの野人か森の牧人のようだった。屋敷の塔の真近かには奇蹟の力で突然泉が湧き出した。彼は通りがかりの精神病者にその水を飲ませては、その病いを医した。(以前この同じ泉が戦争についての絶望の苦しみからメルリン自身を救ってくれたのだった。)」
「伝説で有名なのはメルリンの笑いである。たとえばぼろをまとった貧しい男が坐っていたり、一組みの靴を買っている若者に出会ったりすると、彼は大笑いする。なぜかというと、その貧しい男は何も知らずに埋められた宝の上に坐っていたし、若者は翌日死ぬことになっており、靴がすぐ不用になるからだった。このような予知力はメルリンを孤独にした。彼はあまりにすべてを知りすぎていたのである。高齢になってからの彼は聖者のほまれ高く、すぐれた弟子たちに取りまかれていた。けれども或る日突然、彼は皆に別れを告げて、「永遠の沈黙の中へ帰っていった。」彼は「エスプリュモワル」の館に戻ったのか、それとも岩窟の中へ消えていったのか。後日人々はメルリンの石(引用者注:「メルリンの石」に傍点)のうわさをし合った。大きな冒険に出ようとする度に、勇者たちは繰返してこの石のところに集るのだという。別の説話によれば、妖精ヴィヴィアーヌとの愛の抱擁の中で彼は彼岸へ消えていった。そして人々はただ遠くからひびいてくる遥かなる呼び声、「メルリンの叫び」を聞くのみだった。
メルリンは元型の体現者である。その意味で異教の隠者やキリスト教の「森の修道僧」と同一のタイプに属しており、古代のシャーマンや呪術師の後裔であるともいえる。」
「メルリンは牡鹿象徴とも深い関連をもっており、このことが彼をケルトの神ケルンヌスや錬金術の神メルクリウスに近いものにしている。そして実際に錬金術士たちは彼の中に彼らのメルクリウス(逃亡中の牡鹿)を再認識した。しかしメルクリウスは真の錬金術の変容の実体の人格化であり、この関連から見れば、メルリンは聖杯の秘密(引用者注:「聖杯の秘密」に傍点)そのものでもある。ユングの夢はそれ故次のことを語っていたのである。「汝の中に自己を求めよ。そうすれば聖杯の秘密と同時に汝の文化伝統の霊的問題の解答をも見出すだろう。」」
「彼はそれとは知らずに、メルリンを連想させるような多くの事柄を体験していたのだ。たとえば彼は石の塔を建てた。それはメルリンの「エスプリュモワル」に似て、群衆から逃れるためのものだった。(「エスプリュモワル」とは意味不明の語だが、おそらく鳥籠を意味するものと思われる。この籠の中で鷹たちは羽根の抜け替わりをした。つまりそこは抜け替わりまたは変身の場所である。)(中略)彼は述べている。「はじめから塔は私にとって成熟の場所だった。それは母胎であり、あるいはその中で存在した私、存在する私、存在するであろう私になることができたところの母の姿である。塔は私に、自分が石に再生したかのような感情を与えた。……ボリンゲンでの私はもっとも本来的な、私に一番ふさわしい生き方ができた。(中略)」「私はそこでは『第二の人格』を生きている。そして人生というものを生成と消滅という大きな観点から見ている。」」
「「地球(を所有する)よりも、自分の魂を救う方が先だ」、とメルリンは語ったことがある。事実彼は一切の世俗的権力を断念していた。ユングもまた、精神的な意味でも、権力を手に入れようとする誘惑を退けていた。」
「「この頃私は土地や事物の中に入り込んでしまったような暮し方をしている。湖畔に打ちよせる波音、雲、けものたち、一木一草、そのひとつひとつがまるで自分自身のようだ。……ここには時間を超越した背後の世界のためにふさわしい空間がある。」」
「或る言い伝えによれば、メルリンはヴィヴィアーヌ、ニニアーヌ、デュ・ラック夫人もしくはモルガーヌ(おそらくケルト系の風の女神ムイルゲン)と名乗る或る妖精に魔法をかけられて消えた。彼女はヴァイスドルン(山査子(さんざし)の一種)の生き垣の中に彼を封じ込めたとも、愛し合った二人が抱き合ったままミイラとなって横たわっている墓の中に埋めてしまった(錬金術における、レトルトの中で交合する男女)ともいわれている。ハインリヒ・ツィンマーはメルリンのこの別離の情景をこの上なく美しい文章で表現している。「無意識はこの世に清めのしるしを与えて、またもとの静寂の中へ去っていった。それと知りつつ、わざとニニアーヌの魔法にかかったメルリンは、インドの神のあの平静さ、平然とこの世から自らの静けさの中へ立ち退くあの至高の境地に達している。……この世は円卓会議のために、旅行と冒険のためにある。けれどもメルリンはヴァイスドルンの垣根の移ろうことなく花咲くところに安住の地を定めた。『魔術師』の彼は時間を超越した世界の住人であり、時の流れの上を浮游しつつ、水晶玉の中の映像を観るように未来を観じた。」
ユングは、死が近づいたとき(彼は一九六一年六月六日に没した)、以前瀕死の床で見た「至福の結婚」のヴィジョンがまた戻ってきた。」
「死は内なる宇宙的対立の大いなる最終的結合であり、復活の至福の結婚である。」
「メルリンがニニアーヌとの愛の交合の中に消え去ったことは、同じ死の結婚というモティーフを暗示している。同時にメルリンはその際またはじめからそうであったところのものに、「石の中の霊」になる。彼は石の墓に埋葬または内蔵されている。そこへ出かけていくと、彼の声を聞くことができる。時折り、大冒険に出立する勇士たちがこの墓石のところに集る。しかしこの墓石は同時に愛の床でもあり、神との神秘的合一の容器でもある。」
「どれ程の多くの勇士が、個体化の冒険、内面への旅の冒険に乗り出すために、この石のところに集ってくるのだろうか。われわれの西洋文化の運命は今日まさにこのことの如何にかかっているのだ、と私は信じている。」
(C・G・ユング 『自伝』 より)
M-L・フォン・フランツ
『ユング 現代の神話』
高橋巌 訳
紀伊國屋書店
1978年4月28日 第1刷発行
1993年1月31日 第12刷発行
340p 別丁口絵(モノクロ)1p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,600円(本体2,524円・税76円)
Marie-Louise von Franz
C. G. JUNG
- Sein Mythos in unserer Zeit -
(C) 1972 Verlag Huber & Co. AG, Frauenfeld
本文中に図版(モノクロ)2点、図2点。
ユングの弟子によるユング思想入門。訳文はやや読みにくいです。
人は「個体化」の過程――「意識」と「無意識」という相反するものの一致――を通して「自己実現」に至りますが、そのためには意識の小さな光を保ちつつ集合的無意識の迷宮を彷徨しなければならないです。

カバーそで文:
「「本書と内的な会話を重ねる読者は、ユングという稀有な思想家の一生の内面史だけでなく、彼の体験した‟神話”の普遍的な作用力に促がされて、自分自身の内面の歴史に、いつのまにか直面させられているのに気づかされる。」(訳者あとがき) 現代の精神的物質的状況の中で、いかに生きるべきか、真剣に悩む人々にとって、本書は苦悩に充ちた‟福音の書”であろう。まさに問題は「地球を所有するよりも自分の魂を救う」ことなのだから。」
目次:
序論
I 地下の神
II カンテラ
III 医師
IV 心の対称と対極
V 彼岸への旅
VI アントロポス
VII マンダラ
VIII 反対の一致
IX 人間の朝の認識と夕の認識
X メルクリウス
XI 賢者の石
XII 統一世界への突破口
XIII 個体と社会
XIV メルリンの叫び
訳者あとがき
原註
C・G・ユング年譜
参考文献
◆本書より◆
「耐え忍ぶことによって、あなたがた
は自分の魂をかちとるであろう
――「ルカ伝」二一の一九」
「序論」より:
「しかしユングの生涯と仕事の中であのように大きな役割を演じた無意識とは一体何ものなのか。端的にいえば、人間が昔から知っていたひとつの内的経験のための現代的用語である。つまり、われわれ自身の内なる世界から異質のそして未知の部分がわれわれの前に立ち現れてくるという経験、その内からの影響でわれわれが突然変化させられるという経験、われわれが自分で作ったのではなく、見知らぬ圧倒的な力で現れてくると感じられる夢や着想があるという経験、それらはユングのいう無意識の経験である。この無意識の働きは、古い時代には、神的力(マナ)、神、魔神もしくは「霊」に帰せられた。それはこれらが客観的な、そして自分とは異質の独自の存在であると人々が感じていたことの現れであり、またこれらが圧倒的に強力なものであって、自分の意識生活は今のところ無力にもそれらの掌中にあるという体験の適切な表現をなしている。」
「以前私はユングに、無意識に対する彼の心理学的な見解や態度が宗教的なものの素朴、本源の状態、たとえばシャーマニズムとか、ナスカピ・インディアンのような、司祭や祭祀をもたずに、「心の内なる不滅の偉人」から送られると信じる自分たちの夢だけにしたがっている人々の宗教にもっともよく似ていると思うと語ったとき、ユングは笑いながら、「それは不名誉なことではありませんね!」と答えた。牧師の子として生れたユングは、教会が死んでおり、教会制的キリスト教がもはや彼の問いになにも答えなくなったという苦(にが)い洞察に早くから達していた。その後、彼は悟りへの道を自分の心の深みの中に見出した。」
「I 地下の神」より:
「彼がヨッギと呼んでいた灰色のシュナウツァー・テリア犬が或る時ドアに前足をはさまれた。ユングが助けようとしたら、犬は痛さのあまりかみついたことがあった。ユングはよくこの話をして、こうつけ加えるのだった。「患者たちもよくそうしますよ」。或る時見知らぬ不愉快な女性がボリンゲンの別荘に押しかけ、くどくどと自分のことばかりユングに話したことがあった。そばにいた誰かが、先生は我慢なさりすぎます、というと、ユングは悲しげに答えた。「人生は残酷なものです。彼女がその為に非常識な態度に出たとしても、とやかくいうことは誰にもできません。」」
「II カンテラ」より:
「彼は自分の本性の二つの極を『自伝』の中でNo.1とNo.2と名づけた。No.1は日常的人間の自我であるが、No.2は生動化されることによって、知覚可能になりうる無意識をあらわしている。ユングは『自伝』で次のように語っている。「自分が二人の人物であることを常に心の片隅では知っていた。一人は両親の息子であり、学校に通い、他の多くの連中ほどに知的でも、注意深くも、勤勉でも、礼儀正しくも、清潔でもなかった。これに反してもう一人は大人で、老人のように疑い深く、人を信用せず、人間社会から離れていたが、その代り自然、地球、太陽、月、天候、生きもの、とりわけ夜、夢、その他私の内なる『神』に直接働きかけてくるものならすべて、この第二の人物にとっては身近かだった。私はここで神を『神』として括弧に入れる。自然は神の表現として神自身によって創造されたものであるにもかかわらず、私自身と同じように、神にあらざるものとして除け者にされているように思えた。神の似姿が、ただ人間だけについていわれた言葉だとは考えたくなかった。事実、高い山々、河川、湖、美しい樹木や花や動物たちは人間よりもはるかに神の本性をよく現わしているように思えた。……」
No.2の世界は「踏み入る者を変化させる領域であった。宇宙全体の直観から圧倒的な印象をうけとるあまり、自分自身のことを忘却してしまい、ひたすら驚嘆し讃美することしかそこではできなかった。そこに生きる『もう一人の者』は、神が内証(ないしょ)の、個人的であると同時に超個人的な秘密なのだということを知っていた。そこでは人間を神から区別するものは何もなかった。というよりも、人間精神が神と一緒に天地創造を経験していたかのようだった。」学校時代のユングはまだこの二つの人格をはっきり区別することはできず、No.2の領域をも当然、自分に属するものと考えてはいたが、「それにもかかわらず、そこには私自身とは異質の何かが存在するという感情が心の片隅では常に働いていた――あたかも星々の広大な世界や無限空間からの息吹きにふれたかのように、或いは目に見えぬ或る霊が部屋の中に入ってきたかのように感じられた。その霊は、ずっと以前去ってしまったのに、ずっとはるかな未来にいたるまで、時間を没して、現存し続けているかのように思えた。」」
「III 医師」より:
「平和伝達の神ヘルメスはユングの外的態度の守護神だっただけでなく、特に彼の医療活動の守護神だった。なぜなら患者をなんらかの方法で「教育」することではなく、患者が患者自身と平和な関係を結べるようになるために、彼は伝令のように、患者自身の無意識の伝言を伝えようと努めたのだから。彼は自分をいわば内なる自我実現の自然的プロセスのための助産婦のように感じていた。このプロセスは個々の人間とその運命における大きな相違の故に、時に応じて別の過程を辿る。だから本来、医師は患者が夜、内部の深みから受け取る象徴的な夢の手紙の解釈者であり、「審神者(さにわ)」なのである。ユングの働きはこの点古代のシャーマンや自然民族の魔術師の仕事と結びついている。すなわちシャーマンや魔術師はトランス状態や神託術等の手段を用いて、「霊たち」、つまり能動化された無意識や或る種のコンプレックスが患者の意識から何を求めているのかを知り、相応しい儀式、贖罪、犠牲等で霊たちの心を安らげ、もしそれが人格に反する霊たちであったなら、それを祓うことを試みる。このようなことが可能なのは、シャーマンや魔術師自身が「秘儀の病気」において霊界、つまり無意識と対決した経験をもち、霊や動物たちの言葉を理解しているからなのである。シャーマンは自分が治療するのではなく、治癒効果をともなう神々の力との出会いを取り次ぐのである。」
「VII マンダラ」より:
「一九一八年から一九年にかけて、彼はイギリス地区野戦病院長だった。毎朝彼はノートに小さな円い形態をスケッチすることに没頭していた。しばらく経って、この形態が彼自身の客観的魂の状態を写し出しているらしいことに、彼は気づいた。彼が「我を忘れて」いたり、不機嫌だったりしたとき、このマンダラの均斉(シンメトリー)は乱れているように見えた。彼自身次のように書いている。
「長い年月をかけてやっと、マンダラとはそもそも何なのか、理解できるようになった。それは『形作っては、作り変える――永遠の意味の永遠の楽しみ』なのである。そしてこれこそ自己であり、人格の全体性である。(中略)
私のマンダラ像は、私の自己の状態についての暗号文だった。(中略)それは私自身であり、私の宇宙である一個のモナードのように思えた。マンダラはこの自己というモナードを表現しているのだ。だから魂の小宇宙的本性に相応している。……マンダラは中心なのだ。それは一切の道の表現であり、中心への道であり、個体化への道である。」その頃、「心的発展の目標が自己にあること、直線的発展などは存在しないこと、唯自己の遍歴だけが存在すること」が、彼にはよくわかったのである。」
「VIII 反対の一致」より:
「「独裁国家が人類に対して近年犯した残酷な所業はわれわれの祖先達が昔からしてきた数々の悪業の頂点をなすものである。キリスト教諸民族のもとで行われた兇行と流血はヨーロッパ史に充満しているが、それだけでなくヨーロッパ人は、植民地建設に際して、異民族のもとで犯した一切の犯罪に対しても、責任をもっている。われわれはこの点でもこの上ない重荷を背負っている。これ以上暗黒には描けない程の人間一般の影の像がそこから現れる。人間の中に現れる悪は、……あらゆる可能性を含んでいる。一般に人間とは、その意識が自分自身について知っているところのものであるという考え方をする限り、人は自分を無害なものと見なし、悪業を愚行の一種と見なそうとする。恐ろしい事柄が今日でも発生しているという事実を否定することはできないまでも、それを行うのは自分たちではなく、他の人間たちなのだと考える。……実際はただ自分たちが地獄の渦の中に巻き込まれる機会がなかったというに過ぎないのだ。どんな人間も人類の暗黒の集合的な影の外に立ってはいない。」もし人が悪を他の人間に転化するなら、それによって悪を洞察する可能性を失い、悪と対決する能力をも失う。」
「一番大事なことは、何が善であり、何が悪であるか、よくわかっていると信じ込んだり、それを他の人々に教えることができると考えたりすることをやめることである。」
「IX 人間の朝の認識と夕の認識」より:
「教父アウグスティヌスは二つの種類の認識を区別した。朝の認識と夕の認識を。」
「マイスター・エックハルトはアウグスティヌスのこの思想を取り上げた。彼もまた、被造物のそのままの姿を認識する「夕の知識」と、被造物と人間的自我とを一者である神自身の中に認識する「朝の知識」とを区別している。しかしこの朝の認識が獲得できるのは、自分自身をも含めた一切の被造物の存在を忘れて、「魂を自分より神の方に近い」ところにおき続けることのできる「隠棲した」人間だけである。」
「彼(引用者注:ユング)は中国の古い諺を引用するのを好んだ。「賢者は一度は発言する。だが聞き容れられぬときは、田舎の屋敷に引き籠もる。」彼もまた、田舎の屋敷ではなかったが、オーバーゼー湖畔の石塔に引き籠もって、質素な生活を送った。」
「X メルクリウス」より:
「われわれの場合、魂は殆んど無限に軽視されており、自由に自己を発展させることが不可能にさせられている。すべての価値は外にのみ求められ、内部は野蛮で未発達な状態に放置されているから、もしわれわれが内なる世界を理解してそれを意識生活に関連づけることをしないでいるなら、いつ危険な憑依状態に陥るかわからない。
しかし無意識の体験は人を孤立化する。だから多くの人はこの体験に耐えられない。それにも拘らず、ただひとりで自己と向かい合うことは、人間にとって最高の、もっとも決定的な体験である。なぜなら「もはや自分で自分を支えることができないのなら、何が自分を支えてくれるかを経験するためにも、人はひとりにならなければいけないからである。ただこの経験だけが人間に確固たる基礎を与えてくれるのである。」」
「XI 賢者の石」より:
「すでに小学校の頃から、ユングはひとりで外へ遊びに行くのが好きだった。両親の家の庭壁にそって坂道があったが、その坂の途中に埋めこまれていた或る石を「僕の石」と彼は呼んでいた。「一人になると、よくその上に腰かけて次のような考えに耽った。『今この石に座っている僕は上におり、彼はその下にいる』と。しかしこの石だって、自分のことを『僕』と呼ぶことができるのではないか。そして『僕が坂のこの地点で埋まり、彼が僕の上に座っている』、と考えることができるのではないか。そう考えると、次のような疑問が生じてくる。『石に座っている自分が僕なのだろうか。それとも彼が座っているこの石が僕なのだろうか。』」」
「石は人間がそこから生きる力をひき出してくるところの、永遠に持続する存在のための最古の象徴であるらしい。諸民族が墓石として積み重ねる石も同じ意味を持ち、死後も持続する人間本性の存在を象徴している。たとえば古代ゲルマン人は墓のためにバウタール石と呼ばれる自然石を積み上げて、これに供儀を捧げた。彼らは死んだ祖先たちの魂がこの石の中に生きており、新たに生まれてくる子供の中にそこから入っていく、と信じていた。修道僧クラウス・フォン・フリューエはすでに母の胎内にいたとき、星と大きな石と聖油のヴィジョンを持っていた、と述べている。石は「彼の本質の城砦(とりで)を意味していた。この場所こそ彼が不退転に固守すべきところなのである。」この石を所有するものは、集合的な影響や内的問題に「打ち負かさ」れることがない。それ故この石がすべてのものよりも生きながらえることのできる人間部分なのだという感情さえももつ。」
「一九五〇年、ユングが増築中の別荘で仕事に精を出していたとき(彼は左官の仕事が上手だった)、彼のところに職人たちが四角い隅石をもってきた。それは寸法を間違えて切り出され、建物には利用できなくなった石だった。(中略)彼はこの石の前面を円く刻み込み、その中にカビール神のひとり、エスクラプのテレスポロスがカンテラを手にしている姿を彫り、その周りに「アイオン(時間)は子供であり、子供のように戯れる。盤戯を楽しむ子供の王国である。これは宇宙の暗い諸国を遍歴しつつ、星のように闇に光るテレスポロスの姿である。彼は太陽の門への、夢の国への道をさし示している」、という言葉を刻んだ。またその両側面にも錬金術の賢者の石についての錬金術的格言を刻み込んだ。そのひとつは次の通りである。「私はみなし子でひとりぼっち。けれどもいたるところに私はいる。私は一人なのに、私は私と向い合っている。私は若者であり、同時に老人でもある。私は父母を知らない。私はまるで魚のように深みから取り出される。または白い石のように天から落ちてくる。私は森や山野をさまよい歩くが、人間の内部の深みにも隠れている。私は誰にとっても死すべき定めにあるが、時代の移り変りには左右されない。」この石は、オーバーゼー湖畔にあるユングの塔とその本来の住人である自己とのための記念碑となった。それは今日極くわずかな人によってしかまだ本当には理解されていない、あの無意識という秘密に充ちた生命存在のための記念碑でもあったのである。」
「XIII 個体と社会」より:
「個人がそのような社会的規範から離れる場合、当時正常ならざるアウトサイダーの生き方をとることになりかねないが、しかし同様にしばしばそれは生産的な逸脱(引用者注:「生産的な逸脱」に傍点)となることもできる。アドルフ・ポルトマンは動物の世界にも集団行動によりよい変化を与える特別の個体が存在する、と指摘している。たとえば或る鳥が冬、南へ渡る代りに、もとの場所に留まり続けたとする。この試みがうまくいかなかったなら、その鳥はひっそりと死んでしまうだろう。うまくいけば、翌年数羽の鳥がこの鳥のまねをするかも知れない。そして遂には群全体の行動の変化をひき起すこともありうる。このように新しい環境適応の試みをはじめて行うのは、常に個々のものたちである。そして個と集団という対極性はすでに動物の世界の中に存在するのである。」
「「私は社会に個人が適応することが正しくないとはいいませんが、私としては、誰にも譲り渡すことのできぬ個としての存在の権利を擁護いたします。なぜならこれだけが人生の担い手なのですし、しかも今日平均化を求められることでこの上ない困窮に陥っているのは正にこの個としての人間なのですから。もっとも小さい集団の中でも、個は多数にとって受け容れられる限りにおいてのみ存在できるのが今日の現状です。個は忍耐することを学ばされます。しかし忍耐だけからは何も生れません。反対にそれは自分自身に対する疑惑を呼びおこします。そして何事かを代表しようとする個人はこの疑惑のために孤立し、そのような状況の下でひどく苦しまされるのです」。実際、自分自身の価値が認められないなら、社会的関係は何の意味ももたない。
歴史的に見れば、物質だけの生活条件やそれに付随する諸問題以外(引用者注:「以外」に傍点)のところに立つことを教えてきたのは、常に宗教だった。宗教に支えられてこそ、人々は生活上の困窮を魂によって克服できたのである。」
「全体国家や宗派的教会の集団組織は魂の個的ないとなみをすべて利己主義的なわがままだと説く。学問はそれを主観主義と解釈し、教会はそれを異端であり霊的高慢であると見做す。このような態度は、「キリスト教の象徴が、人間と人の子との個的な生き方を内容にしており、この個体化過程を神自身の受肉であり啓示であると教える」という点を考えてみるなら、特別奇妙な印象を与える。「自分の個的な内的経験に従って自分の道を歩み、勇敢にも世の中に立ち向った人々の手本こそが、イエスでありパウロなのではないのか。」」
「XIV メルリンの叫び」より:
「その後メルリンはアーサー王の誕生と戴冠の際にも大きな役割を演じるが、この時にも宮廷に留まろうとはせずに、森の奥に引き籠る。なぜならブリテン人とスコットランド人との間の争いを見て、彼は悲しみのあまりすっかり取り乱してしまったからだった。彼は二度と人間社会に戻ることをしなかった。だから人々は彼の住家を森の中に建てた。その「エスプリュモワル」の館(やかた)で、彼は天文観察にふけった。「彼は星晨をしらべ、未来の出来事を予知した。」外観は毛もくじゃらの野人か森の牧人のようだった。屋敷の塔の真近かには奇蹟の力で突然泉が湧き出した。彼は通りがかりの精神病者にその水を飲ませては、その病いを医した。(以前この同じ泉が戦争についての絶望の苦しみからメルリン自身を救ってくれたのだった。)」
「伝説で有名なのはメルリンの笑いである。たとえばぼろをまとった貧しい男が坐っていたり、一組みの靴を買っている若者に出会ったりすると、彼は大笑いする。なぜかというと、その貧しい男は何も知らずに埋められた宝の上に坐っていたし、若者は翌日死ぬことになっており、靴がすぐ不用になるからだった。このような予知力はメルリンを孤独にした。彼はあまりにすべてを知りすぎていたのである。高齢になってからの彼は聖者のほまれ高く、すぐれた弟子たちに取りまかれていた。けれども或る日突然、彼は皆に別れを告げて、「永遠の沈黙の中へ帰っていった。」彼は「エスプリュモワル」の館に戻ったのか、それとも岩窟の中へ消えていったのか。後日人々はメルリンの石(引用者注:「メルリンの石」に傍点)のうわさをし合った。大きな冒険に出ようとする度に、勇者たちは繰返してこの石のところに集るのだという。別の説話によれば、妖精ヴィヴィアーヌとの愛の抱擁の中で彼は彼岸へ消えていった。そして人々はただ遠くからひびいてくる遥かなる呼び声、「メルリンの叫び」を聞くのみだった。
メルリンは元型の体現者である。その意味で異教の隠者やキリスト教の「森の修道僧」と同一のタイプに属しており、古代のシャーマンや呪術師の後裔であるともいえる。」
「メルリンは牡鹿象徴とも深い関連をもっており、このことが彼をケルトの神ケルンヌスや錬金術の神メルクリウスに近いものにしている。そして実際に錬金術士たちは彼の中に彼らのメルクリウス(逃亡中の牡鹿)を再認識した。しかしメルクリウスは真の錬金術の変容の実体の人格化であり、この関連から見れば、メルリンは聖杯の秘密(引用者注:「聖杯の秘密」に傍点)そのものでもある。ユングの夢はそれ故次のことを語っていたのである。「汝の中に自己を求めよ。そうすれば聖杯の秘密と同時に汝の文化伝統の霊的問題の解答をも見出すだろう。」」
「彼はそれとは知らずに、メルリンを連想させるような多くの事柄を体験していたのだ。たとえば彼は石の塔を建てた。それはメルリンの「エスプリュモワル」に似て、群衆から逃れるためのものだった。(「エスプリュモワル」とは意味不明の語だが、おそらく鳥籠を意味するものと思われる。この籠の中で鷹たちは羽根の抜け替わりをした。つまりそこは抜け替わりまたは変身の場所である。)(中略)彼は述べている。「はじめから塔は私にとって成熟の場所だった。それは母胎であり、あるいはその中で存在した私、存在する私、存在するであろう私になることができたところの母の姿である。塔は私に、自分が石に再生したかのような感情を与えた。……ボリンゲンでの私はもっとも本来的な、私に一番ふさわしい生き方ができた。(中略)」「私はそこでは『第二の人格』を生きている。そして人生というものを生成と消滅という大きな観点から見ている。」」
「「地球(を所有する)よりも、自分の魂を救う方が先だ」、とメルリンは語ったことがある。事実彼は一切の世俗的権力を断念していた。ユングもまた、精神的な意味でも、権力を手に入れようとする誘惑を退けていた。」
「「この頃私は土地や事物の中に入り込んでしまったような暮し方をしている。湖畔に打ちよせる波音、雲、けものたち、一木一草、そのひとつひとつがまるで自分自身のようだ。……ここには時間を超越した背後の世界のためにふさわしい空間がある。」」
「或る言い伝えによれば、メルリンはヴィヴィアーヌ、ニニアーヌ、デュ・ラック夫人もしくはモルガーヌ(おそらくケルト系の風の女神ムイルゲン)と名乗る或る妖精に魔法をかけられて消えた。彼女はヴァイスドルン(山査子(さんざし)の一種)の生き垣の中に彼を封じ込めたとも、愛し合った二人が抱き合ったままミイラとなって横たわっている墓の中に埋めてしまった(錬金術における、レトルトの中で交合する男女)ともいわれている。ハインリヒ・ツィンマーはメルリンのこの別離の情景をこの上なく美しい文章で表現している。「無意識はこの世に清めのしるしを与えて、またもとの静寂の中へ去っていった。それと知りつつ、わざとニニアーヌの魔法にかかったメルリンは、インドの神のあの平静さ、平然とこの世から自らの静けさの中へ立ち退くあの至高の境地に達している。……この世は円卓会議のために、旅行と冒険のためにある。けれどもメルリンはヴァイスドルンの垣根の移ろうことなく花咲くところに安住の地を定めた。『魔術師』の彼は時間を超越した世界の住人であり、時の流れの上を浮游しつつ、水晶玉の中の映像を観るように未来を観じた。」
ユングは、死が近づいたとき(彼は一九六一年六月六日に没した)、以前瀕死の床で見た「至福の結婚」のヴィジョンがまた戻ってきた。」
「死は内なる宇宙的対立の大いなる最終的結合であり、復活の至福の結婚である。」
「メルリンがニニアーヌとの愛の交合の中に消え去ったことは、同じ死の結婚というモティーフを暗示している。同時にメルリンはその際またはじめからそうであったところのものに、「石の中の霊」になる。彼は石の墓に埋葬または内蔵されている。そこへ出かけていくと、彼の声を聞くことができる。時折り、大冒険に出立する勇士たちがこの墓石のところに集る。しかしこの墓石は同時に愛の床でもあり、神との神秘的合一の容器でもある。」
「どれ程の多くの勇士が、個体化の冒険、内面への旅の冒険に乗り出すために、この石のところに集ってくるのだろうか。われわれの西洋文化の運命は今日まさにこのことの如何にかかっているのだ、と私は信じている。」
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- C・G・ユング/W・パウリ 『自然現象と心の構造』 河合隼雄・村上陽一郎 訳
- C・G・ユング/R・ヴィルヘルム 『黄金の華の秘密』 湯浅泰雄・定方昭夫 訳
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- C・G・ユング 『変容の象徴』 野村美紀子 訳 (ちくま学芸文庫) 全二冊
- C・G・ユング 『空飛ぶ円盤』 松代洋一 訳 (エピステーメー叢書)
- C・G・ユング 『個性化とマンダラ』 林道義 訳
- C・G・ユング 『心理学と錬金術』 池田紘一・鎌田道生 訳 全二冊
- 『ユング自伝 2』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳
- 『ユング自伝 1』 ヤッフェ編 河合隼雄ほか訳
- C. G. ユング 他 『人間と象徴 下』 河合隼雄 監訳 〔全二冊〕
- C. G. ユング 他 『人間と象徴 上』 河合隼雄 監訳 〔全二冊〕
- 湯浅泰雄 『ユングとキリスト教』 (講談社学術文庫)
- 湯浅泰雄 『ユングとヨーロッパ精神』
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