塚本邦雄 『菊帝悲歌 ― 後鳥羽院』

「帝王として、かくまでも無一物になり、和歌と一体になるまでおのれを空しうし、そこに始めて生れる絶体絶命の悲歌を詠んで見せよう。」
(塚本邦雄 『菊帝悲歌』 より)


塚本邦雄 
『菊帝悲歌
― 後鳥羽院』


集英社 
1978年5月25日 第1刷発行
1979年8月25日 第2刷発行
226p 
四六判 丸背布装上製本 カバー 
定価880円
装幀: 政田岑生



小説。正字・正かな。
集英社からは他に、『獅子流離譚 ― わが心のレオナルド』(1975年3月)、『荊冠伝説 ― 小説イエス・キリスト』(1976年8月)が刊行されています。


塚本邦雄 菊帝悲歌 01


帯文:

「炎の人・後鳥羽院への恐れと憧れ
幼時より政争の具とされ、19歳で上皇となった後鳥羽院。あり余る才智が、抑えに抑えた血と志が、堰を切って迸(ほとばし)り出た。新古今撰集、失われた神剣の蘇生、終(つい)には乾坤一擲の討幕!
鎌倉を呪い、定家への憎悪を燃やし、絶体絶命の悲歌にわれとわが身を賭けた後鳥羽院の生涯を痛恨の悲歌に写しとる力作
書き下し作品」



塚本邦雄 菊帝悲歌 02


目次:
 
第一章 たれおもひけむ――建久五年 1194
第二章 すむかひなしや――正治二年 1200
第三章 あらしもしろき――承元元年 1207
第四章 などあけぼのと――建暦三年 1213
第五章 まつよなければ――承久三年 1221
第六章 なみだそふらむ――嘉禄元年 1225

跋 五黄の菊



塚本邦雄 菊帝悲歌 03



◆本書より◆


「第二章 すむかひなしや」より:

「夜半まで酒を呷(あふ)り、朝餉(あさげ)も攝らず正午に醒めて秀能を召した。彼は暫くして白砂の方に現れた。(中略)當年をとつて十七歳の若武者、眉目きりりと緊つて、筋骨逞しいが、まだどこかに腕白小僧の土臭さも殘してゐる。院寵愛の側近筆頭で、いかに御機嫌斜の折でも、彼の顏を見るとたちまちもとの天氣に戻る。(中略)元服してほどなく土御門内大臣通親(みちちか)に仕へたが、昨年の初夏の一日(いちじつ)、思ひがけず院に見出されて北面の武士となつた。全くの偶然、秀能はあの時のことを思ふと腋の下に汗が流れる。水無瀨へ離宮の敷地を見に行くといふ仰せがあり、九條家一文を蹴落して意氣揚揚の通親も、當然のことに、院に侍つて船で從つた。數多從ふ船のしんがりには遊女も乘つてゐる。歸りは當然宴遊であらう。服裝もお聲がかりで一同狩衣、ただし身分不相應に華やかなものも身に纏うてゐた。先頭は先導露拂ひの船で内大臣の息通具(みちとも)が隨身二人を從へて扇を翳(かざ)す。通ひ馴れた水路に蘆が靑靑と背丈ほども茂り、その向うに河骨(かうほね)が黄金色に咲く五月の終りであうた。二隻目の腰輿(えうよ)仕立の船に、院は御簾(みす)をはね退けるやうにして鷹揚に坐り、西の方を眺めてゐた。三隻目が内大臣で院の別當通親、卿三位範子(はんし)、それに丹後の局であつた。秀能ら隨身三人の船は、それにやや後れて進む。それぞれ水干姿の水夫(かこ)、船頭が船を操るのだが、折から上潮の刻で、逆ひながら下る船は悠長な船脚、院はやうやく退屈して、始めのうちは後白河直傳(ぢきでん)の今樣をくちずさんでゐた。

  君が愛せし綾藺笠落ちにけり、賀茂川に川中に。それを求むと尋ぬとせしほどに、明けにけり明けにけり、さらさらさやけの秋の夜は。

 さらさらさやけのと、水の面の顫ふやうな高音で繰返すと、何を思つたか、螺鈿鞘(らでんざや)の太刀をさつと抜き、目の前の靑蘆を左から右へ薙(な)ぎ倒した。中空高く綠靑(ろくしやう)の箭(や)が次次とゆつくり弧を描いて飛び散る。それは手練の技(わざ)であつた。普通ならばさばさと水中に落ちてしまふのだ。一同やんやの喝采、しかけて息を呑む。蘆の葉と共に、勢餘つたか太刀が水中に飛んだ。河中に、一瞬蒼く煌(きら)めいて、抛物線の尾を引きつつ、丈餘の水深(すいしん)に沈む。一同舳(へさき)に、艫(とも)に躙(にじ)り寄り、しばし聲も無い。院は柱を握つて今にも水中に躍り込みかねぬ姿勢、その時、秀能は咄嗟にまづ烏帽子だけをかなぐり捨て、はだしになり、泡立つ流れに身を翻(ひるがへ)した。院の御座船(ござぶね)のやや下手(しもて)に泳ぎつき面を上げて涼しい目を瞠(みは)つて目禮、そのまま太刀の落ちた方角へぐいと沈んで行つた。あ、といふ刹那の出來事で、何が起つたか續く船の人人は知らず、ただ前方の船脚がはたと止り、御座船の周りの貴人、隨身達が、水中を指差して聲高に呼び合ふのを望見するばかりだつた。
 刻刻と人人は息を詰めて待つた。あはれ水底の泥に脚を食はれたか、水妖(すいえう)に羽交締(はがひじ)めにでもされたかと船中の色めく頃、御座船から三間も隔たつた河中に、ぬつと秀能の頭が出た。刃を外にsちえ、彼の皓(しろ)い齒はしつかりと抜身を噛んでゐた。立泳ぎしつつ太刀を左手に持ち變へ、かぶりを振つて髪の水を拂つた。(中略)通親の船へ泳ぎ寄らうとすると、院がこなたへ來いとぢきぢきに聲をかける。躊躇してゐると舷(ふなばた)を叩いて夙(と)う夙(と)うといらだつ。通親目顏の合圖に彼は、ややはにかみつつ御座船に近づいて院を仰いだ。太い手を差伸べて、有無を言はさず院は彼を援け上げる。阿吽(あうん)の呼吸が二人を繋いだ。びしよ濡れの秀能は水藻のにほひがした。しをれた縹(はなだ)の花瓣さながら腕に、胸に貼りついた紗を透かして、橙紅のししむらが息づいてゐる。院はそれを横目に、太刀の水を切つてぱちりと鞘にをさめた。」



「第三章 あらしもしろき」より:

「新古今の生れるまでに、幾つの死を閲(けみ)して來たことか。人の命を牲(にへ)とするのは、決して戰のみではない。詩歌も亦、殊に劃期的な大詞華集が生れる時は、さりげなく、確實に、人の死をその祭壇の供物(くもつ)として求めるものだ。問ふ人あらば應へてやらう。釋阿、小侍從、顯昭、寂蓮、兼實、通親、守覺法親王、式子内親王、良經、宮内卿、この十人が建仁元年から承元元年までの七年に落命した。まさに新古今の新しい生を購(あがな)ふための死であつた。卷頭一首から、新古今集は死靈(しりやう)が憑(つ)いてゐる。だからこそ、だからこそ人を誘(いざな)ひ、醉(よ)はしめる。だからこそ一首の加減にも、それを置く位相にも生者は心を盡さねばならぬ。」


「第六章 なみだそふらむ」より:

「事畢りぬ、などとは思はぬ、この凄じい別邸で今からし殘した何事かを完了せねばならぬ。そして歌も亦、初心に還つて歌ひ直すのだ。あの榮華の日日に、まことは和歌など要りはしなかつた。詩歌を擲(なげう)つたとてその日その日は光り輝いてゐた。良經の語つた通り、帝王は賀歌を奉られ、これに應へてゐるものであつた。それ以外はすべて遊戲、花鳥風月は消閑の具に他ならぬ。そして今日、賀歌にも神祇歌にもまして、院は花鳥風月を欲(ほ)る。和歌なくしてはながらへる便りもない空虚な日月が、瞑(つむ)つた瞼の裏に茫茫と展がるのが見える。かつて菅家が殘した悲歌はまだなまぬるい。帝王として、かくまでも無一物になり、和歌と一體になるまでおのれを空しうし、そこに始めて生れる絶體絶命の悲歌を詠んで見せよう。」


「跋」より:

「帝王のかく閑(しづ)かなる怒りもて割(さ)く新月の香のたちばなを
 
 私は既往に二度後鳥羽院を歌ひかつ語つた。一度は「幻視繪双六(げんしゑすごろく)」と題する帝王傳の中の「菊花變」で、短歌三十首、歌謠二篇を以て構成した。初出は『現代短歌’70』、第六歌集『感幻樂』所收のものである。二度は小學館『人物日本の歴史』の第六卷「鎌倉の群英」中の一人として試みた傳記であつた。
 少年の日から後鳥羽院は何よりも「新古今和歌集」の獨撰者として、次には菊御作(きくぎょさく)の太刀の主(ぬし)として、終(つひ)には隱岐に果てた悲劇の人として、強烈な憧憬の的であつた。文武兩道の達人などといふ通俗的な見地からでも、書かるべきことの數多を持つ稀なる一人であるが、王侯貴族の獨占し續けて來た藝術と政治の、その有終の美を、惜しげもなく斷崖から深淵に突き落した天才かつ英雄として、世界に冠たる一人であつた。
 詩歌や評傳には盡さなかつたこの英帝の姿を、私は小説の中に浮び上らせたかつた。玉葉、吾妻鏡、明月記、愚管抄、増鏡等等を身邊に並べて一年二年は過ぎ、それらすべてを書庫に納めて、新古今集と手製年代表のみを机上に、約二箇月でこの一篇を書上げた。發端は建久五年十五歳、正月七日、すなはち六百番歌合の翌年、中宮任子(にんし)が第一皇女を生む前年とし、終章は嘉禄元年四十六歳、その冬の、口傳(くでん)執筆時を想定した。あの哀韻切切たる自歌合を試み、家隆が加判するのはその翌翌年のことである。これ以後崩御に及ぶまでの歳月は、また、いつの日か稿を改めて別の物語にしたい。
 思へば來年は後鳥羽院生誕八百年、私のかねてからの悲願に等しい後鳥羽院物語がその前年に本になつたことを至福と心得よう。(中略)なほ、參考とした名著は、保田與重郎『後鳥羽院』、丸谷才一『後鳥羽院』等現代作家のものも尠くはないが、別項列記は謹んで省略する。
 
  にくむべき詩歌わすれむながつきを五黄(ごわう)の菊のわがこころ踰(こ)ゆ」





こちらもご参照下さい:

塚本邦雄 『君が愛せし ― 鑑賞古典歌謡』






























































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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