種村季弘 『奇想の展覧会』

「堕ちた天使が地上の時間に汚されないためには、いたずらに感傷的に現実を嫌悪して自閉するばかりが能ではあるまい。ヤドカリのように、本来天使の家でも顔でもない家と顔とに寄生して、現実そっくり、人間そっくりに化けてしまうのも、天使の無垢の時間のなかで生きる手立てであろう。たまたまその天使が画家であれば、本来彼または彼女のものではないがゆえに、この現実とその事物を極度に精密に描いて、しかもそれとは別の時間のなかに瞬時にそれを転移させるのが、天使の業でなくてはならない。」
(種村季弘 「天使のまばたき」 より)


種村季弘 
『奇想の展覧会
― 戯志画人伝』


河出書房新社 
1998年7月6日初版印刷
1998年7月16日初版発行
229p 口絵(カラー)16p 
A5判 丸背神装情勢本 カバー 
定価3,800円+税
装丁: 中島かほる

 

本書「あとがき」より:

「まず絵がある。本来ならそれだけで充分であって、それ以上に余計なノイズのつけこむ隙はありそうにない。
 そこへ強引に割って入った。といって、美術論とか作品分析とかいった類(たぐい)の文章を割り込ませたわけではない。ときには奇人伝や交遊記のバイパスに迂回しつつ、「魏志(書)」ほどにも信憑性のない「戯志」なる書物の体裁を取って画人伝をまとめた、と申せばよろしかろうか。もとより編著者の人格とお筆先のほうに信憑性が乏しいのであって、絵は本物である。
 まず絵がある。絵は微動だにしない。その不動の造形作品にちゃらちゃら戯れさせてもらい、あそばせてもらったので、「戯志(書)」である。中身は、展覧会メッセージがあり、雑誌発表の作家論、画集・版画集の解説文ありで、かれこれ三十年来の文章を、量的にも大小を問わず、一堂に会せしめた。」
「それやこれやで「空想美術館」を名のれるほど大掛かりな展示場ではない。むしろ街角でふと気まぐれに入ってみた、大作もあれば小品もある展覧会のようなものに似ていようか。展示作品に共通するものは、もとより異端ではなく、幻想絵画でもくくりきれない。その多彩多様のままに、勝手に「奇想」でくくらせてもらうことにした。そこで「奇想の展覧会」である。」



アール・デコ風のモダンな装幀。カラー口絵の他に本文中図版(モノクロ)多数。


種村季弘 奇想の展覧会 01



帯文:
 
「華麗な“絵”の饗宴
30年にわたるアナーキーでパワフルな美術批評を集大成した空前絶後の交遊録、奇人伝!!
収録図版多数、カラー口絵16ページ」



帯裏:

「まず絵がある。本来ならそれだけで充分であって、それ以上に余計なノイズのつけこむ隙はありそうにない。
そこへ強引に割って入った。といって、美術論とか作品分析とかいった類の文章を割り込ませたわけではない。ときには奇人伝や交遊記のバイパスに迂回しつつ、「魏志(書)」ほどにも信憑性のない「戯志」なる書物の体裁を取って画人伝をまとめた、と申せばよりしかろうか。
……展示作品に共通するものは、もとより異端ではなく、幻想絵画でもくくりきれない。その多彩多様のままに、勝手に「奇想」でくくらせてもらうことにした。そこで「奇想の展覧会」である。
――「あとがき」より」



目次 (初出):
 
I
共演する空間へ――中西夏之 (「中西夏之展 白く、強い、目前、へ」カタログ 1997年1月 東京都美術館)
感性の耳――八〇年代の中西夏之 (「信濃毎日新聞」 1980年12月)
神は死に、人間は死に、そして犬は死んだ――吉野辰海 (「吉野辰海新作展」パンフレット 1997年12月 東邦画廊)
ねじれ犬 水中曲芸の巻――吉野辰海の水犬について (「吉野辰海展」パンフレット 1988年3月 画廊春秋)
母なるメランコリア――清水晃の黒について (「清水晃のメランコリア」限定版 1997年1月 画廊春秋)
雨の日は電車で蟇と――井上洋介の散歩 (『井上洋介画集 電車画府』 パルコ出版局、「井上洋介展」パンフレット 1988年9月 パルコ渋谷)
ゲニウス・ロキの喜怒哀楽――井上洋介の「木版東京百画府」 (「井上洋介木版東京百画府展」パンフレット 1991年7月 乃木坂アートホール
風の彫刻家あるいはグリコのオマケ――秋山祐徳太子回顧展のために (「秋山祐徳太子の世界展」カタログ 1994年3月 池田二十世紀美術館)
惨劇の祝祭空間――谷川晃一 (『谷川晃一作品集 1976~1980 記憶の街』 ギャラリー新居 1997年2月)
終りなき南北戦争――谷川晃一の南下衝動 (「Art '91」 春号 1991年4月 マリア書房)
屏風絵師の骨――平賀敬 (「平賀敬新作展」パンフレット 1987年5月 東邦画廊
箱の中の不思議な人――平賀敬ふたたび (『箱』解説 1981年7月 フマギャラリー 彩鳳堂画廊)
猪八戒のハム――吉村益信 (「ウツ明け元年」展パンフレット 1994年6月 佐野画廊)
包装の論理――赤瀬川原平 (「絵次元」解説 1971年3月)
メービウスの帯の肌ざわり―赤瀬川原平 (『赤瀬川原平の冒険 脳内リゾート開発大作戦』 名古屋市美術館 1995年1月)
横尾ツーリスト・ビューロー案内書――横尾忠則 (「季刊デザイン」夏号 1973年10月 美術出版社)
流血の大聖典劇――横尾龍彦 (個展パンフレット 1969年)
球体幻想――渡辺隆次 (初出不明)
アフリカの印象――木葉井悦子の世界 (「木葉井悦子展」パンフレット 1988年2月)
さかさまのイコン――杉本典巳 (「杉本典巳展」パンフレット 1979年10月 ぎゃらりい倉井)
アルカディアふたたび――片山健画集『迷子の独楽』 (「is」 1978年12月号 ポーラ文化研究所)
謎々――ジーコキズス(スズキコージ) (初出不明)
生人形変相――合田佐和子 (「流行通信」 1976年9月号)
 
II
翼ある隕石――野中ユリ (「野中ユリ個展 コリントン師登場他」パンフレット 1974年1月)
こびとの鍛冶屋――一原祐徳の作業 (『ICHIHARA 一原有徳作品集』 現代企画室 1989年11月)
素材の白――風景銅版画家長岡国人 (「版画芸術」夏号 1983年7月 阿部出版)
ヘルメスのかぼちゃ――川原田徹(トーナス・カボチャラダムス)「かぼちゃ浄土」のために (『版画集 かぼちゃ浄土』 1983年5月 ギャラリー倉屋 77ギャラリー)
天使のまばたき――清原啓子作品集のために (『清原啓子作品集』 1988年11月)
輪の宇宙――森ヒロコ銅版画展 (「森ヒロコ銅版画展」パンフレット 1987年3月)
懐しの七月――梅木英治の世界 『最後の楽園 梅木英治幻想画集』 国書刊行会 1992年9月)
 
III
肉体の反乱――土方巽と「鎌鼬」 (「美術手帖」 1967年7月号より抄出)
静かな大騒動――土方巽と美術家たち (「芸術新潮」 1998年3月号)
目撃者の無限増殖について――赤瀬川原平「瀧口修造へのオマージュ」のために (「瀧口修造へのオマージュ」パンフレット 1988年7月 佐谷画廊)
サン・シモンの反肖像――四谷シモンと写真家たち (「芸術生活」 1972年3月号)
土のポリフォニー――九谷興子の世界 (「アート '84」 No. 109 1984年12月 マリア書房)
 
IV
往復書簡――菊畑茂久馬・種村季弘 (「季刊アート」 1980年冬号)
 
あとがき/初出一覧



種村季弘 奇想の展覧会 02



◆本書より◆


「横尾ツーリスト・ビューロー案内書――横尾忠則」より:
 
「快感原則のみが君臨する鏡のなかの目から此方を見るならば、此方側こそが「快感原則の彼方」なる凶々しい「文化」の世界なのである。」


「球体幻想――渡辺隆次」より:

「あるいはハムレットの悔恨。
 「胡桃の殻に封じ込められていようとも、無辺際の空間を支配していると思うことができように、悪い夢さえ見なかったら」
 時間と歴史に汚染された現実という悪夢にたえずうなされている、完全球体のなかに封じ込められた純白の至福の、なんという痛ましい受難であろうか。現実原則が支配的な座についた荒涼たる現代社会のなかでは、しかも芸術家は、受難を通じてしか隠された至福状態を誘い出すことができないという残酷な逆説に弄ばれているのである。」
「そもそも造形の本質とは、無定形にはびこる外界の不安を絶対のフォルムに呪縛する魔術にあるだろう。」



「アフリカの印象――木葉井悦子の世界」より:

「木葉井さんの絵本『一まいのえ』の鰐(中略)は絵のなかに閉じこめられてしまった鰐だ。屋根裏部屋でワニ革の鞄と一緒に昼寝をしていたやつがむっくり起き上がって、大都会と高速道路を横切り、大川を通って太平洋にうかび、それからおもむろにアフリカに運ばれていって、そこで何をするかというとはじめと同じように太平楽に昼寝をするのである。はじめに昼寝があり、終わりにも昼寝があって、その間もまた夢遊者として漂っているのだから、いたるところで酔生し夢死しているところの、これはアフリカからきた絵のなかの鰐の高度成長期=日本の印象である。(中略)のろまな鰐が、近未来をめざして超高速でひた走る日本をゆうゆうと追い越し、あまつさえ黄檗一炊の夢として、昼寝のついでにきれいさっぱり忘れてしまう。」


「天使のまばたき――清原啓子作品集のために」より:

「それ(ヤドカリ貝)は、本来自分のものではない貝殻に意図的にもぐりこむ寄生生活のための装置だ。たとえこの現実が嫌悪すべき時間によって構成された世界だとしても、それを仮面として、借り物として、かりそめの宿として寄生するのなら、天使の無垢が汚されることはない。むろんヤドカリとしての天使は、いかにも天使らしい天使の顔も身なりもしてはいない。むしろ宿無しの、故郷をうしなった堕天使の、乞食ともみまがう襤褸を着て、ゴミ箱をあさっているやもしれぬ。しかし誰が知ろう、これまた天使と乞食の詐術的すり替えだとは。
 堕ちた天使が地上の時間に汚されないためには、いたずらに感傷的に現実を嫌悪して自閉するばかりが能ではあるまい。ヤドカリのように、本来天使の家でも顔でもない家と顔とに寄生して、現実そっくり、人間そっくりに化けてしまうのも、天使の無垢の時間のなかで生きる手立てであろう。たまたまその天使が画家であれば、本来彼または彼女のものではないがゆえに、この現実とその事物を極度に精密に描いて、しかもそれとは別の時間のなかに瞬時にそれを転移させるのが、天使の業でなくてはならない。」



「サン・シモンの反肖像――四谷シモンと写真家たち」より:

「ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、かつて「ボルヘスと私」と題する散文詩のなかで「私はひたすら廃人になるように定められており、私のさまざまの瞬間のあるものだけが他者のなかで生きつづけていくことができるだけだ」と語った。廃人になるための、人非人(ひとでなし)となって他者のなかで生きつづけるためのこの生存は想像するだに戦慄的だが、しかしそれは私にとっての悲惨にすぎず、「他者であるボルヘスにはいつもあらゆることが起る」のである。(中略)同じように、四谷シモンも「他者である四谷シモンにはいつもあらゆることが起る」というにちがいない。「私に」ではない。彼は「私」になろうとしているのではなくて、四谷シモンになりつづけるほかないからだ。私などはどうでもよいのである。私の廃人化、まんまと人非人たりおおせる上首尾においてはじめて他者が私のなかに入り込んでくるのであれば、彼は精を出して私を犯されるための人非人に仕立てあげ、私を「それ以前」の白に還元しておかなくてはならない。もっとも彼はヴィクトリア朝の堅固な自我のパロディー作家であったワイルドのように個性の崩壊を体験したわけではなく、のっけから滅茶滅茶に壊されていたために、その無私性は戦後の青空のようにカラッと冴え渡っている。もともと無私無一物、到達すべき憧憬の対象は不可能と知っては、いまさらどうして「いきどまり」を意味するひとかどの人間になることがあろうかというわけであろう。」

※「さまざまなことがその身に起こっているのは、もう一人の男、ボルヘスである。」「わたしはいづれこの世から決定的に姿を消す運命にあり、わたしの生のある瞬間だけがもう一人の男のなかで生き永らえるにすぎないのだ。」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『創造者』(鼓直訳、国書刊行会、1975年)所収「ボルヘスとわたし」より。 


種村季弘 奇想の展覧会 03

清原啓子「魔都霧譚」。
























































































































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ひとでなしの猫

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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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