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種村季弘 『迷宮の魔術師たち』

「正常なる多数派という名の狂気が、少数者を、少数であるという理由のためだけで圧迫し、淘汰する危険はつねに潜在している。文明という名の犯罪も過去数世紀にわたって、それなりに美しくよい制度を護持してきた「未開」を一方的な開化啓蒙のスローガンを掲げながら抑圧し、収奪してきた。」
(種村季弘 「逆戻りする地球」 より)


種村季弘 
『迷宮の魔術師たち
― 幻想画人伝』



求龍堂 
1985年2月10日 第1刷発行
1985年4月10日 第2刷発行
241p 口絵(カラー)4葉 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,000円
装幀: 建石修志



本書「あとがき」より:

「本書に収録したエッセイのうちもっとも早く書かれたのは、一九六八年一〇月発表のヤンセン論(「皮剥ぎ職人」)であり、もっとも近年のものは一九八二年秋の「三人のファンタジスト」である。その間に一四年間が経過し、一九八五年現在からすれば、ヤンセン論は一七年前に成立した。ちなみにその翌年(一九八九年)に「夢幻の森の呪術師たち」の総タイトルで「みづゑ」に連載したのが、目次でいえばブラウァーからコーラップにいたる九人の、主としてウィーン幻想派画家の列伝である。」


カラー口絵はハウスナー「回転軌道のラオコーン」、フックス「乙女の家で衣裳を着るエスター」、コーラップ「ヘルネ」、ヤンセン「娼婦」の4点。
本文中図版(モノクロ)40点。



種村季弘 迷宮の魔術師たち 01



種村季弘 迷宮の魔術師たち 02



帯文:

「迷宮に分け入る画家たち
・ハウスナー
・フックス
・コーラップ
・ヤンセン……
雑多で無秩序に堆積する世界に奇才種村季弘が探るイメージの森」




種村季弘 迷宮の魔術師たち 03



目次 (初出):

エーリッヒ・ブラウァー
 透明化した時間 (「みずゑ」 美術出版社 1969年1月号)
ルドルフ・ハウスナー
 仮面の迷路歩行者 (同 2月号)
エルンスト・フックス
 無名性の錬金術師 (同 3月号)
リヒャルト・エルツェ
 魔の森の予言者 (同 4月号)
トマス・ヘフナー
 逆戻りする地球 (同 5月号)
クルト・レグシェク
 ある死都の享楽家 (同 6月号)
ヤン・フォス
 危険な少年神 (同 7月号)
フリードリヒ・フンデルトヴァッサー
 金と銀の渦巻 (同 8月号)
カール・コーラップ
 魔法の森の建築家 (同 9月号)
ヴォルス
 開かれた迷路 (同 1975年9月号)
ホルスト・ヤンセン
 皮剥ぎ職人 (同 1968年10月号)
 描かれた「空想美術館」 (ヤンセン展カタログ 1982年)
 不気味な仮面 (「東京新聞」(夕) 1982年4月3日)
ブレーマー、モレル、メクセパー
 三人のファンタジスト (「季刊アート」 アート社 1982年秋)

あとがき
初出一覧




種村季弘 迷宮の魔術師たち 04



◆本書より:◆


「透明化した時間」より:

「一九六〇年代に入ってからふたたびブラウァーの作品は微妙な変化を見せてくる。テクノロジー時代のオブジェがすこしずつ目立ちはじめるのである。だがそれは流行の技術文明礼讃とは似て非なるものだ。ヘルマン・ハーケルのインタヴューに答えて、すでに六〇年代のはじめに彼は語っている。
 「じつに厭(いと)わしいものです。ナイロン製品とか合成樹脂加工物とか、ああいうものは本当に絶望的に思われます――プラスティックには苔はくっつきっこありませんからね――、それでもすこし離れてある種の環境のなかで見ると、カブト虫みたいに見えることもありますね。私は以前は自動車が大嫌いでした。ひどく愚かしいものだと思っていましたが、いまではもうなんともありません。遠くから、エッフェル塔の上なんかから見ると、カブト虫がぞろぞろ歩いているようで、きれいな、キラキラ輝く色をしていますよ。」
 技術社会のオブジェさえもが、画家の幼児的な眼を通じてながめられると、太古以来の自然の楽園のなかの一ファクターへと聖別されてしまうのだ。その意味ではブラウァーの作品にはなにひとつ主体的な変化は起っていない。」



「魔の森の予言者」より:

「ことほど左様にエルツェは森の住人である。壮年の四年間を過したシュルレアリスム運動最盛期のパリでも、日々ハイデッガー風の森の道(ホルツヴェーク)をたどる黙然たる木樵りを思わせる単調で孤独な生活様式を変えなかった。パリの安下宿の彼の部屋には一台のベッドと一灯のランプのほかなにもなく、エルツェは熱に浮かされたように仕事に耽り、画家仲間の交際は一切せず、ついにフランス語を一語も覚えなかった。」

「生涯の大部分を孤独と無名のうちに過してきたこの森の隠者は、皮肉なことに現在ドイツ国内の画商の間でもっとも作品の値の高い画家である。そして数年来ハーメルン近郊ポステホルツの閑寂な農園に引きこもった画家は、いまもごく限られた友人たちにしか会おうとはしないらしい。」



「逆戻りする地球」より:

「一体に、人間を進化の尖端におく進化論的思考は、(中略)熱帯的なものが都市文明を呑み込んで「地球が逆戻り」する転回の現場でなにほどの役に立つであろうか。そこではおそらく哺乳類は本能的に両棲類に退化しようとするにちがいない。進化競争の淘汰に生き残った過程のちょうど逆のことが起り、沼沢の環境に適応するためにもっとも有利なトカゲやイグアナに退化変身できるものだけが種を保存するであろう。両棲類はとどのつまりは完全な水棲動物に退化し、ついに子宮内の羊水の逸楽を復元するかのように、熱帯の温水の水底深く漂いながら地球という原母胎に還り、ここに巨大な全生命的規模の母胎還帰願望が完結するのである。」

「ドイツ人とユダヤ人という二つの要素が自分のなかにあるという事実は」とヘフナーは語る、「ごく年端のいかない頃から私に現実的な人びとと想像的な人びととの間にある差異について――すなわちいついかなるときでも破壊的憎悪にたぎって立ち向ってくる危険のある、いわゆる正常(ノーマリティ)と呼ばれる集団に面と向わされている、個人や少数者(マイノリティ)について考えることを余儀なくさせた。私の狙いはつねにこの人間にたいする人間の非人間性を表現することに――ナチスの人種主義国家の狂気ばかりでなく、美しくよりすぐれた制度をもった世界における、キリスト教的ヨーロッパの盲目的で血まみれの唯物主義的兇行の狂気を表現することにあった。」
 正常なる多数派という名の狂気が、少数者を、少数であるという理由のためだけで圧迫し、淘汰する危険はつねに潜在している。文明という名の犯罪も過去数世紀にわたって、それなりに美しくよい制度を護持してきた「未開」を一方的な開化啓蒙のスローガンを掲げながら抑圧し、収奪してきた。母国でナチスの狂気を眼のあたりにした後、インドとセイロンで少年が見たものは、キリスト教的ヨーロッパ文明のこの熱帯の至福のまどろみを擾乱する「唯物主義的兇行」であった。文明は熱帯の豊饒な生命力をはらむ大地とジャングルを破壊し、石と鉄とコンクリートで美しく温柔な未開の素肌を被覆してきた。ヨーロッパ自身がその歴史のなかで自分の無意識や土俗性を良風美俗の名によって抑圧してきた同じ兇行をアジアにも加えたのである。個人心理学の次元で道徳のこの血まみれの仮面性を告発したのは、いうまでもなくフロイトの心理学的研究であった。しかし、少年時代に多くのものをフロイトから享けながらも、ユダヤ人大量虐殺の恐怖と植民地収奪の兇行を眼のあたりにしてきたヘフナーにとって、問題は個人の範疇をこえて、文明のサディスティックな仮面性そのものの考察を要請したものにちがいない。」



「金と銀の渦巻」より:

「それにしても、渦巻をたえず「私自身の堡塁」「要塞」と語るこの画家が、孤独なアトリエに閉塞するどころか、その外界忌避や閉鎖傾向とは正反対に、ヴェネツィア、ノルマンディー、ウィーン、南オーストリアの四箇所に住居をもち、両大陸やアジア・アフリカを股にかけてたえず放浪している事実をどう説明すればよいのか。おそらくそこには、母方にセム系の血を享けた画家の故郷喪失者としての生活様態が垣間見えよう。永遠に故郷を追放されたユダヤ人にとっては、異境への流浪とゲットーへの閉塞はかならずしも矛盾した生活様態ではない。それはちょうど、渦巻の核へ孤立し保護されようとする閉鎖願望が遠心的に外へ拡散する運動と可逆的な関係に立っているのと相似た、「相反するものの合一」である。原エジプトへの幽閉が脱出(エクソダス)の希望をかき立て、さらに逃亡した先の流浪の旅路が約束の地カナーンに閉塞することへの燃えるような希求によって持続していく、このユダヤ人の伝統的にディアレクティックな空間表象は、渦巻の遠心求心運動にそのまま還元されてしまうのではあるまいか。」


「魔法の国の建築家」より:

「鉄のサディズムと幼年期の優しい追憶、完璧な瞬間と没落の悪夢、解体と魔術的形成は、コーラップにあってはつねに交換可能な対立なのだ。あるいはこういいかえてもいい。マニエリスト画家たちの中心のない構図において、たえず分解していく世界が、解体し、没落し、散乱しながら、しかもどこまでいっても本然の unio mystica の現前の感情をたたえているように、あるいは相反するさまざまの個が固有の傾向をどこまでも追究しながら、しかも全体として一個の人間のようにまとまった有機体を形成しているように、コーラップのタブローにおいても、盲目的に散乱する鉄の断片はふしぎな集合原理を通じて浮遊しながらたがいに牽引し合い、解体の彼方、工業化社会の終局の彼方に待機している魅せられた愛の王国の形を予感的に先取りしているのだ、と。
 現実原則の体系のなかに監禁された鉄がいかにおのれの有効性を声高に主張しようと、画家はそれが現実に機能している体系から絵筆の先で外してしまい、鉄を本然の無効性の場に差し戻して、幼児の積木細工のような幻想の国の建築物の構成要素たらしめる。かくてコーラップは彼方の魅せられた王国の建築家・エンジニアとなるのである。それにしても彼の構想する彼方の王国の景観は、おそらくルドルフの宮廷の職人たちが競って制作したかずかずの驚異玩具がところ嫌わず動き回っていた一六世紀プラーハの宮殿や、プラーター公園のある幸福な日曜日の光景と、双生児のようにうりふたつなのではあるまいか。」



「開かれた迷路」より:

「一九四九年頃、すでに流行作家であったボーヴォアールはカルティエ・ラタンの街角でときおりヴォルスを見かけた。
 「サン・ジェルマン・デ・プレの街角でときおり私の方に駆け寄ってきた人は画家のヴォルスだった。(中略)亡命ドイツ人の彼は久しい間フランスに住んでいた。(中略)眼は血走り、私は彼が素面でいるところを一度も見たことがないように思う。何人かの友人が彼を援助していた。サルトルは彼にサン-ペール-ホテルに一部屋借りてやった。その家主は、ヴォルスが夜中に廊下に長々とのびて寝ているとか、暁方の五時に友達を家に入れるとか言って、ボヤいた。ある日、私は《リュメリー・マルチニケーズ》のテラスで彼と一杯やっていた。ヴォルスは襤褸(ぼろ)服を着、髪は蓬々に生え放題で、一見して浮浪者のようだった。すると身なりの好い、謹厳な顔立ちのいかにも裕福そうな紳士が一人、彼のところへつかつかとやってきて、二言三言何か囁いた。紳士が行ってしまうと私の方にくるりと向き直って、《失礼、あの男は私の弟の銀行家でして!》と――まるで、あの男は私の弟の浮浪者でして、というときの銀行家そっくりの口調で彼は言った。」
 銀行家と浮浪者の双生児兄弟の、このシェイクスピア風のすり替え劇は、まことに意味深長である。しかしどうであろうか。ヴォルスの道化ぶりは、ボーヴォアールが仄めかしているように、古きブルジョアと新しき芸術家の対立(のみ)を当てこすっていたのではなかったかもしれない。ヴォルスが紳士のなかにそのとき見ていたのは、生き残ってボーヴォアールその人もそのなかに入った、高度成長管理社会の豊かさの牢獄に監禁されに行く囚人の後姿ではなかったのだろうか。このサドにも似た牢獄芸術家が新たな監禁状況の前駆症状に鈍感であったはずはない。」

「一九七〇年四月、かつてヴォルスが徘徊したサン・ジェルマンから遠からぬセーヌの河岸からパウル・ツェラーンが投身自殺を遂げた。その二週間後にはネリー・ザックスが死んだ。(中略)またしても死を賭してまで入ることを拒絶しなければならない世界が目睫のあたりに迫っているのだろうか。」

「内面に、肉の深部にひたすら押し入るヴォルスにはもはや通常の人声はとどかない。彼は聾唖者だ。」
「人間的関心にことごとく背を向け、孤独な実存のなかに沈潜して瞬間毎に永遠を発見した(中略)この聾唖者には、外界と内面の位相が完全にあべこべになっていた。(中略)裏返しになった男はもうみずからの奇行を気にもとめない。彼はロシェに売った絵に署名をしにくると、わざわざ逆さまの位置に署名した。ロシェの手引きでドルーアンの個展が催されると、開館間際に中止を主張し、それが不可能とわかると愛犬を自作の一つ一つの前まで引っ張って行って絵の説明をしてやった。パリの街角を蝦に縄をつけて散歩させた狂詩人ネルヴァルのように。そしてそれから客がくる前にさっさと家へ帰ってしまった。
 ヴォルスの錯乱や狂気、あるいは「自己破壊」(W・ハフトマン)を言うのは容易である。それならば彼を追いつめ悲惨と戦争と監禁状態を強制した社会は正常だろうか。収容所状況からの脱出(エクソダス)の、壁に爪を立てるような希求に向う側との連帯への希望を見る、サルトリアンの賞讃もそれなりの理はある。しかしヴォルスは解放後も肉体化した収容所状況を解かなかった。彼は政治的解放に陶酔するよりは陋巷を一介の浮浪画家として彷徨しながら、絶対の監禁状況そのもののなかに全をふたたび甦らせようとした。彼が崇拝した三人はイデオローグではなくて、ガンジーと老子とアインシュタインだった。(中略)ハフトマンの回想によると、晩年にいたるまで彼は自室の壁に二つの写真を並べて掛けていた。一方はアルベルト・アインシュタインの肖像だった。もう一方はヒロシマの原爆投下図だった。両者の間の危険な均衡を支えていたのは、五〇年前後の世界政治の当事者たちではなくて、パリの陋巷の落魄の画家の、そう言いたければ「錯乱」だったのである。おそらくヴォルスは、サドやカフカやゴッホのようにおのれの全作品を破壊したい衝動にしばしば駆られたことだろう。不壊の世界への確信が十分でない限り、作品もまた悪しき人間活動に寄与するだけだからだ。」
「危機をもっとも深い実存においてアトラスのように支えていたヴォルスは力尽きて死んだ。(中略)しかも私たちにとって救いなのは、その力業を軽々とした諧謔の身ぶりでやってのけたことである。ドルーアン画廊の個展での犬との対話のエピソードには続きがある。すっかり作品解説をし終えてからヴォルスは愛犬に向って「で、どう思う?」と訪ねた。すると犬が答えた。
 「きみの絵は馬鹿げてるよ!」」




種村季弘 迷宮の魔術師たち 05










こちらもご参照下さい:

パウル・ツェラン/ネリー・ザックス 『往復書簡』 (飯吉光夫 訳)














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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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