宮川淳 『引用の織物』

「人間が意味を生産するのは無からではない。それはまさしくブリコラージュ、すでに本来の意味あるいは機能を与えられているものの引用からつねに余分の意味をつくり出すプラクシスなのだ。」
(宮川淳 「引用について」 より)


宮川淳 
『引用の織物』


筑摩書房 1975年3月20日初版第1刷発行/1980年1月30日初版第2刷発行
219p 目次3p 初出一覧1p 
四六判 角背クロス装上製本 機械函 
定価1,700円



宮川淳(みやかわ・あつし)の著書は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。


宮川淳 引用の織物


函表文:

「だがなぜ引用なのか。引用について考えること、それは読むことについて考えはじめることだ。読むとはアルケー、一なる全体、《本》へ送りとどけられることではない。それは逆に還元不能な複数性、くりかえしと差異について考えることだろう。」


函裏文:

「本の存在理由はそこに閉じ込められた意味の亡霊にではなく、本の空間にあるべきではないだろうか。鳥の羽のように折りたたまれ、本を開くことによって象徴的にくりひろげられる空間……そのとき、憑きまとう意味の亡霊から解き放されて、すでに別の軽やかな意味作用へ、あの「ほとんど振動性の消滅」へと向ってすべりはじめるのでないならば、ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、本とは苦痛以外のものではないだろう。」


目次 (初出):

記憶と現在――戦後アメリカ美術の《プロテスタンティズム》について (「季刊芸術」 8号 1969年1月)
ボードレール再読――「現代生活の画家」をめぐって (「ユリイカ」 1973年5月臨時増刊号 「総特集ボードレール」)
           □
鏡の街のアリス*   見る――ウイリアム・コプリ (「みづゑ」 1969年12月号)
          **すべる――アレン・ジョーンズ (「みづゑ」 1970年3月号)
          *** 迷う――ロナルド・B・キタイ (「みづゑ」 1969年10月号)
引用について (「現代の美術」別巻「現代美術の思想」 1972年5月)
           □
ジャック・デリダと鏡の暴力 (「SD」 1969年6月号)
表面について――ルイス・キャロル (「別冊現代詩手帖」 2号 「ルイス・キャロル」 1972年6月)
回転ドア――マン・レイによる主題と変奏 (「gq」4号 1973年8月)
言語の結晶学――『漆あるいは水晶狂い』をめぐって (現代詩文庫 「渋沢孝輔詩集」 1971年7月)
           □
顔と声の主題による引用の織物――『期待・忘却』をめぐって (「パイデイア」 7号 1970年3月)




◆本書より◆


「鏡の街のアリス* 見る」より:

「コレクションとは、ここでは、《作品》を所有することではなく、《イメージ》を所有すること、いやむしろイメージによって所有されることにほかならない。
 そして、イメージによって所有されることとは、より深く、エデンないし反世界への欲望、自由への欲望ではなくてなんであるだろうか。」



「引用について」より:

「引用はすでに二十世紀前半のもっとも重要な方法的原理のひとつではなかっただろうか。しかし、そこで強調されていたものがいわばディアクロニックな軸ないし歴史意識であり、その彼方に、一冊の《本》であったとすれば、今日、引用のメタファーがあらわれるのはなによりも《本》の廃墟ないしパロディーとしてであり、そこで強調されているのは引用のサンクロニックな構造である。その意味でもっとも象徴的なのは、レヴィ=ストロースが神話的思考を説明するのに用いたブリコラージュの比喩だろう。」

「しかしレヴィ=ストロースがこの比喩で強調しているのは、なによりもブリコラージュを形づくるちぐはぐな総体――いわばシニフィアンとシニフィエとの間の不整合な関係(この不整合はレヴィ=ストロースにとって構造の概念に本質的なものであり、それのみが構造の変換を可能にする)であり、それがある計画によって規定されるのではないこと、したがって全体化(分析と綜合)とは別の原理の存在である。いいかえれば、部分が全体の中で正当化され、全体の中で意味を見出すのではなく、逆に《多をひとつの全体にまとめることをしない、それらのきわめて独自な統一》――まさしくジル・ドゥルーズをして弁証法に対して、《隣接性》、《斜線》、そして《機械》を対置させる原理ではないだろうか(だが、この《機械》はなんとデュシャンの《独身者の機械》を想わせることだろう)。」



「表面について」より:

「だが表面とはなにか。それは存在のあらゆるカテゴリーをのがれるなにものかではないだろうか。表面は存在論の文脈から脱けおちる、それは、表面が、ほとんど定義によって、存在論の対象となりえないからだ。表面は厚みをもたず、どんな背後にも送りとどけず(なぜならその背後もまた表面だから)、あらゆる深さをはぐらかす――そのとき、ひとは軽蔑をこめて表面的と形容するだろう。」

「鏡、あるいはこの底なしの深さのなさ(引用者注: 「深さのなさ」に傍点)。それが鏡の中に入ることをひとに夢みさせるのだ。そして鏡の中で、ひとは無限に表面にいる。われわれは決して奥にまで達することはできない。」




































































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