宮川淳 『紙片と眼差とのあいだに』

「背後のない表面。のみならず、われわれを決して背後にまで送りとどけることのない表面。われわれは表面をどこまでも滑ってゆく、横へ横へ、さもなければ上へ、あるいは下へ、それとも斜めに? だが決して奥へ、あるいは底へではない。アリスの冒険について、ジル・ドゥルーズがいみじくも指摘しているように、表面の背後はその裏がわ、つまりまたしても表面なのだ。」
(宮川淳 「ルネ・マグリットの余白に」 より)


宮川淳 
『紙片と眼差とのあいだに』

エパーヴ1

小沢書店 1974年3月20日初版発行/1984年2月25日四版発行
86p 引用出典・初出一覧2p 
19×13cm 並装 
定価950円



宮川淳の単行本は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。


清水徹『どこにもない都市 どこにもない書物』「新版のためのあとがき」(2002年6月)より:

「たしか七〇年代のはじめ、彼としゃべっていたとき、薄い本を出したいですね、紙と印刷がよくて、せいぜい百枚から百五十枚くらいの厚さ、新著でも埋もれていた旧著でも入れられる叢書をつくってみたいんですよ、と彼がいつもの冷静で小さな声で言ったことを覚えている。そのころから《引用》と《寄せ集め細工(ブリコラージュ)》の問題への潜入をはじめていた彼は、やがて「エディシオン・エパーヴ」社主の白倉敬彦と一緒に計画した叢書《エパーヴ》の第一巻として、彼がそれまで書いた文章からの切り貼り=寄せ集め細工による著作を出そうと考えるに到った。それが、一九七四年三月に刊行された『紙片と眼差とのあいだに』である」


宮川淳 紙片と眼差とのあいだに


目次:
 
ルネ・マグリットの余白に
レヴィ=ストロースの余白に
スーザン・ソンタグの余白に
マルセル・デュシャンの余白に
《想像の美術館》の余白に
ミシェル・フーコーの余白に
記号学の余白に
ジル・ドゥルーズの余白に



初出一覧:
 
現代の図像学――ポップ・アート断章 『美術手帖』 1967.10
手の失権 『美術手帖』 1969.2
絵を見ることへの問い 『美術手帖』 1969.9
引用について――ロナルド・B・キタイ 『みづゑ』 1969.10
ナンセンス詩人の肖像の余白に――ファール・シュトレーム 『みづゑ』 1969.11
異説・キャンプについての覚書――デヴィッド・ホクニー 『みづゑ』 1970.1
続・引用について――リチャード・ハミルトン 『みづゑ』 1970.2
ルネ・マグリット、あるいは表面の発見 『みづゑ』 1971.5
引用について 『現代美術の思想』(講談社『現代の美術』別巻) 1972.5
ジル・ドゥルーズの余白に 『現代詩手帖別冊』 1972.6
美術季評 『季刊芸術』 1972
見ることの記号学 I-IV 『日本読書新聞』 1972.5~8




◆本書より◆


「レヴィ=ストロースの余白に」より:
 
「引用あるいは《本》の失綜。
 
 ――われわれは一冊の本を読み、それを注釈する。注釈しながら、われわれはこの本がそれ自体ひとつの注釈であり、この本が送りとどける他の何冊かの本を本にしたものでしかないことに気づく。われわれの注釈はといえば、われわれはそれを書き、それを著作の地位にまで高める。公けにされ、公けのものとなって、こんどはそれが注釈を惹きつける番だ、つぎにはその注釈が……*

 《本》とはつねにすでに(引用者注: 「つねにすでに」に傍点)引用であるとしたら? とはいえ、ここで問題になっているのはいわゆる影響源ではない。後者はつねに絶対的なはじまり、テクスト・オリジナルあるいは先在敵シニフィエにさかのぼろうとする。引用について考えること、それは逆に《根源(アルケー)》の不在について、シニフィアンの無限のたわむれについて考えることだ。あるシニフィアンがひとつのシニフィエに送りとどける、だが、それはもうひとつのシニフィアンでしかなく、さらに別のシニフィアンに送りとどけるだろう。この鏡のたわむれをのがれうるような超越的なシニフィエはない。

 《本》の不在とは単に《本》が存在しない(いいかえれば、かつて存在し、あるいはやがて存在するだろう)ことではなく、おそらく不在ないし空位が《本》のあらわれる様態であることなのだ。ない本(引用者注: 「ない本」に傍点)、あるいは《本》のオプセッション。《本》のオプセッションとはマラルメ以来、不在のモチーフにおいてあらわれる《本》の観念ではなかっただろうか。そしてそれが今日の引用を引用たらしめる。」

* M. Blanchot: Pont du bois (ENTRETIEN INFINI)



「《想像の美術館》の余白に」より:

「いわゆる《作品》を成り立たせるもの、それは作品の背後に(引用者注: 「背後に」に傍点)あるなにものか(超越的なシニフィエ)ではなく、その手前に(引用者注: 「手前に」に傍点)形作られる見ることの厚み(シニフィアンの運動)なのだ。複製メディアが明かし、かつ(同時に)もっともよく体現するのはこのような構造であるように思われる。」


「記号学の余白に」より:

「作家もまた無から、あるいはただ自然に汲むことによって制作するのではないだろう。彼もまた、すでに(引用者注: 「すでに」に傍点)このシステムないしディスクールの中にいることによって作家になるのであり、彼の作品とはそれ自体、すでにひとつのテクストである。このテクスチュエルな関係もまた――創造/享受との対比において――まさしく引用として捉えることができるだろう。」

「《作品》を成立させる構造がつねに背後あるいは深さ(引用者注: 「背後」「深さ」に傍点)であり、シニフィエの超越的な先在性であったとすれば、テクストのそれはシニフィアンの無限の送りとどけが織りなすテクスチャー、あるいは表面である。」

「読むとき、われわれは単に一冊の本を読んでいるのではないだろう。そこには同時に複数の読むこと(過去の、しかしまた未来の)が参加しているのであり、そこではすでにひとつのテクストが書かれている。」































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

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難破した人々の為に。

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趣味: 図書館ごっこ。

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