宮川淳 『鏡・空間・イマージュ』

「素朴画家たちにとって、事物はそれが眼に見えるものであるから見られるのではない。たとえ眼に見えない事物、存在しない事物であっても、それらが彼らによって見られることを要求するからこそ、彼らはそれを描く。そのとき、彼らはイマージュをなにものかのイマージュとしてではなく、すでにイマージュそれ自体のために描いているというべきだろう。」
(宮川淳 「顔について」 より)


宮川淳 
『鏡・空間・イマージュ』

風の薔薇叢書

発行: 書肆風の薔薇
発売: 白馬書房 
1987年2月10日 印刷
1987年2月20日 発行
211p 別丁図版24p 
四六判 並装 
本体カバー 機械函 
定価2,500円
装幀: 中山銀士



初版は1967年、美術出版社より刊行。本書はその新装版。
モノクロ図版23点、装画(藤松博)4点。


本書「あとがき」より:
 
「このエセー集で扱われている対象はかならずしも美術のみには限られていない。また美術の問題が論じられている場合でも、ぼく自身としては美術評論と看做されることも、しかしまた、いわゆる〈文学〉というふうにいわれることも好まない。むしろ、単純に〈言語〉とでも呼んでもらえれば幸いである。文学作品にふれている場合も同様である。ぼくの関心はジャンルの区別をこえて、いやさらには芸術をも思想をもすべて含めて、次第に現代のイマジネールの構造そのものに向っているのだから。〈鏡〉の主題もまたそこから生まれている。
 この本には、新たに書き下ろした「鏡について」(ただし、執筆の過程で一、二の断章を未定稿のまま発表したが)を中心に、これまで(一九六三―六六年)さまざまな機会に書かれた文章を集め、終章として「出口について」を新しく書き加えた。旧稿は再録にあたって、多かれ少なかれ手を加えたが、その大半は『別冊みづゑ』に発表されたものである。」



「著者について
宮川淳(みやかわあつし)
1933年、東京に生まれ、1977年、東京に没した。専攻、美学、美術史。」



宮川淳の単行本は『鏡・空間・イマージュ』(1967年)、『紙片と眼差とのあいだに』(1974年)、『引用の織物』(1975年)、『美術史とその言説(ディスクール)』(1978年)の四冊。 


宮川淳 鏡 空間 イマージュ1


帯文:
 
「《似ていること》の魅惑と危険

宮川淳は、鏡のおもて、その「底なしの深さのなさ」に向かって降りていく。自己でも他者でもないもの、いやむしろ、〈私〉であると同時に〈私〉でないもの、この中性のシミュラクルの出現、「自己同一性の間隙からのある非人称の出現」に立ち会うために。
浅田彰

二十世紀芸術のあらゆるジャンルにおける冒険をつきうごかしてきた精神のベクトルを、宮川淳はたったひとこと「鏡」のイメージをもって、いちはやくとらえつくしてみせた。
この本がはじめて世にあらわれてから、すでに二十年がすぎた。しかし、そのあいだにぼくたちの精神は、この本が予見し、到達した地点をどれだけ越ええただろうか。
中沢新一」



帯背:
 
「真冬の思考」


カバー文:

「鏡のなか――そこにいるのはわたしだろうか。
だが、そこではわたしのどのような行為もイニシアチヴを失い、なにごとをも
はじめえないだろう。わたしが断定するとき、すでにそこには
同じ断定が先取りされていて、わたしの断定がわたしのものであることを
蝕んでしまうだろう。このコギトの崩壊。
わたしは見ているが、それはもはや、わたしの見ることの
可能性によってではなく、ある非人称的な見ないことの不可能性によってなのだ。
そこにいるのはだれか。そして、だれが語っているのか。」



カバー裏文:

「宮川淳はやさしい声をしている。いや、声ばかりではない。
かれはじつにやさしい男だ。ところが、かれの書くエッセイには、情感のなまな
湧出はまったく見られない。その文体はあくまでも知的で、しかも、
端正な緩徐調といったリズムゆえに冷たさとは無縁である。おそらくここに
宮川淳の秘密がある。感性的なものを知性によって透明化しながら同時に
論理の展開そのものにおいて感性のフォルムを伝える――そういう過程で、かれは
しばしば驚くべき思考の冒険を試みる。ある作品に触れたかれが、
数日間沈黙していたあとで、突然、淡々とした口調で眼を見はるような解明を
語りだすのを、ぼくは何度も経験したものだ。かれがいま鏡に憑かれながら、
イマジネールなものの構造を究めようとしているというのは、
まさしくかれの本質的な主題に突入したことを意味しよう。(1967.3)
清水徹」



目次:
 
A
鏡について

B
神話について ギュスターヴ・モロー
街について ベル・エポックのポスター
顔について 素朴画家たち
鳥について ジョルジュ・ブラック
夜について ホアン・ミロ
訪れについて 三岸好太郎と佐伯祐三
眼について アンドレ・ブルトン
ランプについて イヴ・ボンヌフォア
出口について 清岡卓行

あとがき



宮川淳 鏡 空間 イマージュ2



◆本書より◆


「鏡について *」より:

「ポール・エリュアールは書く。
 
  そして ぼくはぼくの鏡のなかに降りる
  死者がその開かれた墓に降りてゆくように
 
 コクトオのオルフェもまた鏡をとおりぬけて冥府に降りてゆく。そして、なによりもわれわれは鏡のなかに落ちることをおそれるのだ。
 鏡のなか、鏡の底――この表現は、しかし、どこから生まれてくるのだろうか。鏡の背後に水のイマージュがあり、そして、そこにひとりの若者が自分の姿を映している……いや、ナルシスの神話でさえ、逆にこのような表現を生み出したイマジネールに根づいてこそ、成立しえたのではないだろうか。
 想像力が鏡を夢みるのは決してその表面の反映のためではない。その反映が抗いがたく鏡の底を夢みさせるのだ。そこから鏡のすべての魅惑とすべての危険が同時に生まれる。
 平面である鏡がなお深みをもち、ひとつの空間でありうること、想像力にとって、鏡の主題はそこにしかありえないのである。そしてこれこそが、日用品でありながら、鏡が特権的な地位を与えられてきた理由だろう。
 
 落ちる、鏡のなかに落ちる……
 だが、われわれはどこに落ちるのか。鏡の空間はどこにあるのか。われわれはどこにいるのだろうか。それはここではない、とはいえ、他処でもない。どこでもない? とすれば、しかし、それはそのとき、どこでもないところがここであり、ここがどこでもないところであるからなのだ。ここ、この現実の空間に重ね合わされ、それを蝕んでしまうもうひとつの曖昧な空間。ここであり、しかも、どこでもないところ。この空間はなお距離であるとしても、しかし、その距離はしたがって、決してのりこえることはできないだろう。そこから魅惑が生まれる。
 距離は見ることの可能性である。見ることが可能になるためには、わたしと対象との間に距離を必要とする。」

「この見ることをやめることのできない眼、閉じることを忘れてしまった眼が見ているもの、それはまさしく鏡に映っているもの、対象そのものではもはやなく、イマージュ、すでにそれ自体イマージュと化してしまった対象でなくてなんだろうか。
 いや、すでに鏡がそれ自体イマージュと化した空間だろう。それゆえにこそ、この距離は横切ってゆくことができない。鏡のなか、それはイマージュの魅惑の体験なのだ。そして魅惑そのものが鏡の危険な魔力にほかならない。鏡のなかに落ちる。だが、われわれはどこに落ちるのか。イマージュの空間、それ自体イマージュと化した空間。われわれがそこから排除され、近づくことのできないこの純粋な外面の輝き、鏡。」



「鏡について *******」より:

「今日の芸術の曖昧性はつぎのように要約できるだろう――芸術は、一方において、いよいよわれわれの日常の行為とえらぶところのない無名性にまで達しながら、にもかかわらず、他方において、ついになにものにも還元することのできないなにものかとして残らざるをえないのだ、しかし、光の透明さのなかの黒い影のように。」

「芸術はもはや可能性としては成立しえない。しかも、それは芸術の終末を意味しないのだ。逆に芸術はいよいよその影をあらわす(引用者注: 「その影をあらわす」に傍点)。影――もはや存在することの可能性ではなく、存在しないことの不可能性。それは不可能性そのものの現前であり、その体験にほかならない。
 不可能性の現前、不可能性の体験と化した芸術、しかし、それは決してなんらかの挫折を意味するものではない。それは不可能性がそこでは、可能性の単なる逆、純粋にネガティヴな様態ではなく、逆にひとつの肯定形としてあらわれる、ある非人称的な領域にかかわる根源的な体験なのだ。不可能であるのは、そこではそのような根源的な不可能性そのものが自らを語ろうと試みるからであり、非人称的であるのは、そこではもはやわたし(引用者注: 「わたし」に傍点)という力が失われるからだ。鏡のなか――なぜなら、そこにいるのはわたしだろうか。だが、そこではわたしのどのような行為もイニシアチヴを失い、なにごとをもはじめえないだろう。わたしが断定するとき、すでにそこには同じ断定が先取りされていて、わたしの断定がわたしのものであることを蝕んでしまうだろう。このコギトの崩壊。わたしは見ているが、それはもはや、わたしの(引用者注: 「わたしの」に傍点)見ることの可能性によってではなく、ある非人称的な見ないことの不可能性によってなのだ。そこにいるのはだれか
 そして、そこでは言語もまたおしゃべりと化す。それはもはや、わたしがわたしとして他者に語りかけるもの、わたしのうちにはじまり、あなたのうちに達して終るこの橋、意味のコミュニケーションではなく、わたしのそとで、それ自体においてくりひろげられてゆく言語であり、くりひろげられた純粋な外面なのだ。そこ、わたしの消滅のうちにあらわれるのは、それ自体における言語の非人称的な存在にほかならない。だが、そのとき、そこにいるのはだれか、そして、だれが語っているのか。」





こちらもご参照下さい:

多田智満子 『鏡のテオーリア』
川崎寿彦 『鏡のマニエリスム』 (研究社選書)
由水常雄 『鏡の魔術』 (中公文庫)
谷川渥 『鏡と皮膚 ― 芸術のミュトロギア』




Kraftwerk - The Hall of Mirrors



























































































































































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分野: パタフィジック。

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将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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