清水徹=宮川淳 『どこにもない都市 どこにもない書物』

清水徹=宮川淳
『どこにもない都市 
どこにもない書物』


水声社 
2002年7月30日 印刷
2002年8月10日 発行
216p 目次・著者について他6p 
21×14cm 並装(フランス表紙)
本体カバー 筒函 
定価2,500円
装幀: 菊地信義


「この本は、清水徹のさまざまな文章を素材として、
宮川淳がその切り貼りを行なうというかたちでつくられた。」



本書「新版のためのあとがき」より:

「これは、一九七七年六月、叢書《エパーヴ》第六冊として小沢書店から刊行された清水徹=宮川淳『どこにもない都市 どこにもない書物』の新版である。(中略)宮川淳が(中略)清水徹の書いた文章のなかからいくらかを選んで切り取り、並べ換えるというかたちで書いた(引用者注: 「書いた」に傍点)書物なのだから、若干の誤植と不統一をただす以上の権限は清水徹にはない。ただ、このようなまったく前例のない書物にいくらかの照明を当てるために、初版時には別紙で挿入されていた、この本に対する無署名の書評(中略)と、一九七七年七月十八日付けの『日本読書新聞』に掲載された対談のふたつを、《補遺》として収めることにした。」


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 01

筒函。


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 02

カバー。


清水徹=宮川淳 どこにもない都市どこにもない書物 03

本体表紙。
タイトルを横によめば「などなど/いこいこ/書に都に/物も市も」となります。


目次:
 
どこにもない都市 どこにもない書物

補遺
 『どこにもない都市 どこにもない書物』を読んで (無署名)
 都市と書物――〈読むこと〉の至福へ (清水徹・宮川淳)

新版のためのあとがき




◆本書より◆


対談「都市と書物――〈読むこと〉の至福へ」より:

T.   今度出版された『どこにもない都市 どこにもない書物』という本は、ぼくと宮川さんとの「合作」という非常に不思議な本――いささか自慢していえば、多分これまであまり例がないような本、「どこにもない本」なんです。ぼくがここ何年間かに書いてきた長短いろいろな文章を宮川さんが読んで、そこからのコラージュとしてこの本を作った、――つまり、ある長いエッセーから四百字くらい切り取ったり、四、五篇のそれぞれ対象のちがう書評を二百字くらいずつ切り貼りしたり、そのあいだに七、八枚の文章をまるごと入れたりという仕方で出来ている。宮川さんは、ペンを持つかわりに、鋏と糊をもってこの本を書いたんで、そういうコラージュの地平では、素材となった文章に対するぼくの私有権はあんまりない。
 だから、ここには著者がふたりいるし、読者がまずふたりいる。普通の本ならば、著者がひとりで、もし著者がある程度自分の本を読むことができるとすれば、その著者は同時に最初の読者になる、というのに対して、この本は著者がふたり、読者もふたり。(略)こんな本を作り出す始まりにあった考えというのは、著者とか読者というものに対してこれまで考えられていた輪郭をもっと広げてしまうことにあった」

A.   (中略)ひとつは、ぼく自身が最近やってきた引用論の延長ですね。いままでぼくがやってきたのは、引用と地の文章とを交互に交錯させていくようなスタイルだったわけだけれど、ぼくが考える引用というものは押しつめると引用だけの構成になる、つまり引用だけによる本を作ってみたいという気がひとつあったわけですね。
T.   少しなさったことがあるでしょ、ドゥルーズか何かでね。
A.   (中略)引用というものが、いまおっしゃったように、著者と読者というものの輪郭を大変曖昧にするものであるわけで、あるいは本当は、「著者と読者」というよりは「書くことと読むこと」という非人称的な言い方のほうがいいんでしょうけれども――そういった、「書くことと読むこと」のいままでに確立されているヒエラルキーをおびやかしてみたいという意図なんですね。今までならば、著者=作品の絶対権があって、読者はあくまでそれに従属する――たとえば、その著者の「真意」を読むとか、そういう形で本というものは考えられているわけですけども。それに対して「読むこと」の積極性を強調したい。」

A.   (中略)この本を作るもうひとつの前提になっていたのは、ぼくのこの前の本(『紙片と眼差とのあいだに』)――この本は自分の昔の文章をバラバラに解体してしまって、それらの断片をさまざまな引用とコラージュしたわけですが、そのとき面白いと思ったのは自分の文章まで引用化される、つまり作者と切り離されるわけです。それがやっぱりひとつの前提になってくる。だから最初は、もっと清水さんの文章をバラバラにしちゃって、もっと断片的な本を作るつもりだったんです。」
T.   そこで、これは断章で書くという問題になるんだけれども、ぼくはずいぶん前から自分の書くものの欠点として、論証の直線的性質が強すぎるということを、非常に感じているんですよ。(中略)ぼくの中には、ある種の論理一貫性に対する過大なまでの要求がどうもあるんで、それが文章を書きにくくさせている。宮川さんが『紙片と眼差とのあいだに』でやった断章で書くやり方を、そのあとぼくも何度かやってみたことはある、そうすると、そこに面白い問題が起こっていると思う。断章で書くことの全体みたいなものと、直線で書くことの全体みたいなものとを考えると、断章で書く全体の方が、何というか、内部の運動性が大きいように感じますね。」
A.   ぼくも実際は文章がつながらないから断片的になってきちゃったというのが本当なんだろうけれども。ただ、今おっしゃったように、接続詞を使うと論理が限定されちゃうんですね。ところが、あるふたつのフラグマン(断章)の間には、いろんなつながり方があり得るわけで、それを接続詞でつながないで余白をおいて並べた時に、いろんな読み方がそこにでてくる。また、同時に、いろいろな断片を並べかえることによって別のコンテクストができあがってくる。同じフラグマンでも別のニュアンスなり意味なりがでてくる。だから、ぼくが考える、もうひとつ作ってみたい本というのは、元のテクストは同じだけども、コラージュの仕方によってまったく違った二冊の本ができるという、そういう本を作ってみたいですね。
T.   たぶんそこに、ユートピアと廃墟の対立問題――これはぼくのひとつのテーマなんだけど――がひとつあって、もうひとつは、それとまったくパラレルにある「読むこと」と「書くこと」の対立および相互転換性なんだな。(中略)ぼくの中にはやはり、緊密な論理を完全に作りあげれば、それはもしかしたら最高のものであるかもしれないという妄想がある。それはぼくにとってのユートピアであるわけです。ぼくはそれをロココというメタファーで語ろうとしている。だけど、と同時に、(中略)ヨーロッパの精神史、美術史、文学史をみた場合に、十八世紀半ばぐらいにできあがったロココ的な見事な調和の関係というものは、その後まったくない、一回かぎりの歴史的事実としてできあがったもの――しかも狭い社会的コンテクストでできあがったもので、ほとんど奇跡でしかない。(中略)とすると、そこで出てくるのが廃墟というテーマで、廃墟という形でしか現代におけるユートピアはありえないんじゃないか。だからもしかしたら、断章構成という形でしか最高の放射力をもちうる書物はないんじゃないか、――こんな考えがぼくにはあるんです。
 たとえば、二十代の若者しか読まないといわれているカミュが、ぼくはいまだに大変好きで、そのカミュの場合、「追放と王国」というテーマがあるでしょ。カミュがあの作品で示しているように、結局「王国」はないわけですよね、「追放」という状態しかカミュにはない。それはカミュにおける「砂漠」というテーマになるし、「砂漠の中における追放」という状態がきわまった時に、それが一瞬、王国になりうるという幻想をカミュは追いつづけていた。」




こちらもご参照下さい:

清水徹 『書物としての都市 都市としての書物』








































































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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