倉塚曄子 『古代の女』 (平凡社選書)

「男並みになるという目標はもはや無意味である。それは、諸局面で破綻し始めた男の文明を肯定支持することになるからである。」
「長年父権社会で育まれ、真理とまで思いこまされてきたあらゆる価値観の、根本的な転換が必要である。」

(倉塚曄子 「古代の女の文化」 より)


倉塚曄子 
『古代の女
― 神話と権力の淵から』

平凡社選書 94 

平凡社 1986年6月16日初版第1刷発行
283p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,000円



本書「遊女論にことよせて」より:

「先頃わたくしは古代巫女論を一応書き終えた(『巫女の文化』)。それに次ぐテーマとして遊女論を考えている。といってもまだ手つかずの状態で確かなことは何もいえない。」


倉塚曄子 古代の女


カバー表文:

「女帝とは――女性史の栄光ある最初の一頁をかざったわけではなく、むしろ社会の頂点で疎外された存在であり、底辺で疎外された巷間の巫女遊女と対応するということである。双方を対応させつつ視野におさめねばならないという意味で、私の女帝論は私の巫女論と遊女論へのかけ橋になるということになる。」


カバー裏文:

「巫女にして母、母にして女帝――オキナガタラシヒメ(神功皇后)の物語はいかに形成されたか。古事記、日本書紀の丹念な読みをふまえ、喪われた古代の女の呪的霊能に光をあてて神話の構造を透視する《胎中天皇の神話》、危機の7世紀に、権力から疎外され幻想的権威として実質なき栄光の頂点に祭り上げられる<狂心>の巫女王を鮮やかに描く《斉明女帝論》、古代後期の遊女の美声と伎芸に、人々の肉体的・精神的救済をもたらす《巫女の文化》の継承をみて、女性史の見直しを提起する《古代の女の文化》他9篇を収録。
本書は、<人類史の遠い地平の仄明りの中に>、新たなフェミニズムの構想と歴史を読み直すための手がかりを求めた著者の遺稿集である。」



カバーそで文:

「巫女が歴史の表舞台から退場を余儀なくさせられる時代は目前に迫っていた。この神話が作られた6世紀前半期は、大陸文化受容の歴史にとっても一大画期であった。(中略)呪術宗教的な大和王権は、体制と文明の大和国家へと転換していく。それを実現させるにあたって、大和王権が当面していた深刻な危機を超克するためにこそ、胎中天皇の神話が必要であった。《『胎中天皇の神話』》
斉明はおそらく身内に巫女性をよみがえらせつつ言挙したに違いない。しかし斉明がこの時自らを擬していたかも知れない巫女王は、7世紀にあっては幻想の中の存在にすぎなかった。《『斉明天皇論』》
確実にいえることは、フェミニズム運動は、今や女だけあるいは同じ被抑圧者階級と共にするだけの運動にとどまらなくなったということです。今やそれは現代産業社会の大変革のためのあらゆる課題と緊密に連動しています。人類が破局を切り抜け、新しい文化を再創造する運動の一環となりました。《『今、転換期を迎えて』》」



目次 《初出):

古代の女の文化――女性史の見直しのために (「国語通信」257号 1983年8月 筑摩書房)
 
I
伊勢神宮の由来 (「文学」41巻3・4号 1973年 岩波書店)
 はじめに
 参迎える神
 聖なる稲田
 伊勢の狭長田の五十鈴の川上
 神宮の祠官たち
 宇治土公と度会氏
 伊勢路と東国(1)
 伊勢路と東国(2)
 もう一つの神宮起源譚
胎中天皇の神話 (「文学」50巻2・3・4号 1982年)
 はじめに
 皇太子誕生の物語
 「新羅征討」物語をよむ
 筑紫降臨の意義
 巫術と卜術
 八十島祭と宮主
 女帝オキナガタラシヒメ
斉明天皇論――その実像 (「文京女子短期大学英語英文学科紀要」15号 1982年10月)
 はじめに
 建王の挽歌 その(1)
 建王の挽歌 その(2)
 女帝と外交
 今は漕ぎ出でな
斉明女帝論――日本書紀を通してみた虚像 (「古事記年報」25号 1983年1月 古事記学会)
 はじめに
 皇極・斉明の時代
 狂心の渠
 転換期としての七世紀
 律令的精神と女帝
 皇極女帝と祈雨
 おわりに
 
II
「六月晦大祓の祝詞」の一節 (「日本文学」27巻10号 1978年10月 日本文学協会)
「枕辺に斎戸を据ゑ」(万葉集巻三・四二〇他)の意味するもの (「日本文学」33巻8号 1984年8月)
遊女論にことよせて (「地軸」3号 1980年8月 地軸の会)
「からゆきさん」研究と女帝論 (「地軸」4号 1981年10月)
 教科書問題にふれて
「己れの生を綴るいとなみ」について (「地軸」5号 1982年12月)
今、転換期を迎えて (「地軸」6号 1984年1月)
 
III
置目説話をよむ――古事記説話の手法 (「国文」61号 1984年7月 お茶の水女子大学国語国文学会)
 
初出一覧




◆本書より◆


「古代の女の文化」より:

「ここで古代の遊女は第一義的には売春婦ではなかったことをことわっておきたい。全時代を通じて、遊女に売春婦的性格があったことは否めないとしても、転換期中世をはさんで、近世と古代の遊女は大きく変質している。古代の遊女は第一義的には、歌や舞を売る芸能人であった。一方では「淫奔徴嬖が行」(『新猿楽記』をなすときめつけられながらも、物語・日記などの筆者は、異口同音に和歌の達人、舞の名手、美声の持主とたたえているのである。
 彼女たちはおおむね定住地をもたず、律令体制の人的把握の網目からこぼれおちていた。これは民間巫女と共通する。さらに、彼女たちの音楽は、秩序維持のために国家が奨励した礼に対応する楽とは異質であった。平安後期に大流行した今様も遊女の芸のうちであったが、それは「亡国の音」(『続古事談』巻二)、「倡歌淫楽」(『傀儡記』)などと断ぜられた。しかしこれは、巫女の託宣を妖言と斥けたのと同じく、支配者側のたてまえ的な評価にすぎない。現実には、遊女は「神仙」(『遊女記』)、うたう今様は「象外之遊」(『雲州消息』)とたたえられていた。この世のものとも思えぬ存在、あるいはそうした芸だったのである。」

「遊女の場合、身体性は現実のレベルで見事に生かされていた。遊女の伎芸は、秩序体制と深く結びついた文字や文字をもってする頭脳労働とはかかわらず、肉体すなわち自然と結びついた身体的リズムや声にかかわっていた。
 神社ミコや遊女の芸で特にたたえられたのは、歌声の美しさであった。」

「遊女の系譜が語られる時、それは芸の系譜なのだが、そこでは師匠の名か、さもなくばいつも祖母や母の名があげられた。芸の相伝が血縁を通して行なわれたまでだといわれるかもしれない。しかし遊女が母から娘へとよみがえり続けたことと、かつて女の霊性が母から娘へとつがれていたこととは、時空を超えてこだまし合うものがある。共に、「父の権威」の体制に支配されない世界に実現していたからである。」



「遊女論にことよせて」より:

「遊女がわたくしの研究視野に入ってきたのは、社会の底辺層で権力とはかかわりなく生きた女の歴史に光をあてねばならないと考えたことがきっかけである。
 古代あるいはそれ以前には女の呪的霊能が社会的に大きな機能を果たしていた。この力が社会を年ごとによみがえらせるとも信じられた。支配者層ではその霊能が政治と結びついていた。ヒミコのような巫女的女王に結びつきの典型がみられる。国家成立過程でその機能は次第に男の手に移っていくが、全くの形式として、体制の頂点に斎宮(伊勢神宮の巫女に任ぜられた天皇の女)が中世まで残り続ける。巫女論で日本古代に関しては資料的限界から支配者層の女についてしか言及できなかった。しかし女の呪的霊能のはたらきに関し、原理的には共通点をもつ沖縄社会では、ほとんど現代まで全女性が巫女的機能を果たしていた。」
「支配者層の女の呪性が全くの形式になってしまった時、実質的呪術性を保ち続けたのが漂泊の巫女である。彼女たちは寺社につなぎとめられることなく、共同体から共同体へと歩きまわった。そして体制外にあって、体制内では衆をまどわす邪法として斥けられた呪術信仰をもって民衆の精神的救済の役割を果たし続けたのではなかろうか。」
「遊女は漂泊の巫女と全く同じではないが、相重なる側面ももっていた。万葉集に名を残す遊行女婦《引用者注: 「遊行」に傍点)は、遊女の前身とみなされている。その呼称からすれば、歩きまわることが本義だったようにもみえ、また遊女に若干の呪性を認めることもできる。しかし彼女たちがどの程度巫女的であったのかはわたくしにとってさほど問題ではない。呪術に代わる何ものかをもって人々の精神を救済していたのではないかと思うのである。」



「置目説話をよむ――古事記説話の手法」より:

「現代でも話しことばの世界では、言語音は必ずしも発話者の意図通りに受け取られるとは限らない。聞き手の心づもり、また発話者の発音により、有意味もしくは無意味の全く意図されなかった言語音として聞きとられることは、誰しも経験ずみであろう。
 文字によって語の音が固定される以前、古代の口誦言語的世界では、この度合はなお大きかったに違いない。言語音のずれは日常茶飯のことであり、現代人が納得できかねるような、通音類音による語形の転換も抵抗なく受け入れられたであろう。またこの世界では、耳にした一語についてすら、音を通じて多義的な連想を働かせることができた。文字とりわけ表意文字によって明示された一義的な意味を想起することにならされたわたくしたちより、はるかにその働きは自由であっただろう。いわば言語に内在する豊かな意味作用の可能性が生きていたといえる。語形が転ずればなおのこと、意味の飛躍的な転換も一そう自由であった。それが機智に富み意表をつくものであればあるほど、聞き手の間にまき起こる哄笑は大きかった。」

「また、一般的に語源説話は、ことばから新しい意味作用を引き出す創造だといえなくもない。(中略)地名・人名起源説話では、よく知られた固有名詞が、多少の言語音のずれを通して日常性を超える新たな意味へと転換させられていた。新たな意味の領域を切り開くという点では、想像力の働きを基盤とする詩創造、文学創造のいとなみにも通ずる。」

「一方書紀には、そうしたことばそのものへの志向性は失われている。ことばの音や形自体よりは、になわれた意味内容が重視され、説話が素朴とはいえ何か思想を述べるものになっている。漢字の受容を通じて、全く次元の異なる言語意識に目覚めた書紀編者としては当然であった。地名起源説話にそえられた「訛れるなり」という註記から、文字化を通じて言語音に対する規範意識を身につけた書紀編者の誇らしげな口吻をよみとるべきなのかも知れない。
 記紀の相違点は今までにいくつも指摘されてきたが、言語意識の点からも大きく異なることがあきらかになった。
 口誦言語時代から文字言語時代への移行は、言語文化史における飛躍的な発展であったと同時に、はかり知れぬ断絶も経験されたであろう。この断絶のはるかこちら側に現代人はいる。なかでも、ことばの一義的な意味にもっぱら関心をそそぎ、かつ言語は思想を表現伝達する手段であるという観念にならされてきた現代知識人にとって、口誦言語時代の言語感覚はもっとももの遠いに違いない。しかしその断絶のかなたをおよばずながら追体験しようと心がけない限り、古代の口誦文学を理解することはむずかしい。」

「「文字は言語を固定させる役割をもつようにみえるが、言語を変質させるものであることも確かだ。文字は言語の〈語〉は変えないが、〈魂〉を変えてしまう」(ルソー)。変えられたことばの「魂」をどれほど復活させることができるか。これはたんに古代文化の解読に役立つだけではない。現代生活で固定的に記号化されたことばに豊かな意味作用の可能性を回復させること、わたくしたちが言語至上主義から解放され、ことばの創造力、その基盤にある生産的想像力を回復することにもつながる。」

























































 
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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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