武田百合子/画: 野中ユリ 『ことばの食卓』 (ちくま文庫)

「便所の匂いと泥の匂いと足の匂いと食物の煮たきの匂いなどが混り合って、いろいろなものが腐っていく途中の匂いになって、湿っぽく澱んでいる。」
(武田百合子 「怖いこと」 より)


武田百合子 
『ことばの食卓』
画: 野中ユリ

ちくま文庫 た-19-1 

筑摩書房 
1991年8月22日 第1刷発行
2007年10月15日 第12刷発行
160p 
文庫判 並装 カバー 
定価640円+税
装幀: 安野光雅
装画: 野中ユリ


「この作品は一九八四年一二月一五日、作品社より刊行された。」



本書「あとがき」より:

「一九八一年から八三年にかけて、『草月』に連載した十二篇と、ほかニ篇を加えて、一九八四年末に作品社から上梓したものです。」


野中ユリによるコラージュ挿絵12点。


武田百合子 ことばの食卓 01


カバー裏文:

「「ひょっとしたらあのとき、枇杷を食べていたのだけれど、あの人の指と手も食べてしまったのかな」(「枇杷」)。「…とっておいたあんずを食べるときの気持。たるたるに、とろとろに、ふくらんで」(「雛祭りの頃」)。「…おべんとご飯か、猫御飯であれば、私は嬉しい。そこに鱈子。またはコロッケがついていたりすれば、ああ嬉しい、と私は思う」(「お弁当」)。
食べものに関する昔の記憶や思い出を感性豊かな文章で綴るエッセイ集。」



目次:

枇杷
牛乳
続牛乳
キャラメル
お弁当
雛祭りの頃
花の下
怖いこと
誠実亭
夏の終り
京都の秋
後楽園元旦
上野の桜
夢、覚え書

あとがき (1991年6月)

解説 コドモの食卓 (種村季弘)



武田百合子 ことばの食卓 02



◆本書より◆


「牛乳」より:

「毎晩、牛乳を飲んだあと、手をひろげて十の字にねているおばあさんに代る代るまたがって、私たちは飛行機ごっこをした。腕を折り曲げたり、爪を押したり揉んだりする。操縦しているつもりだ。うっすら髭の生えている鼻の下、ほくろや唇や鼻をつままれたりしても、面倒臭いのか、案外と気持よさそうに眼をつぶっている。おばあさんの腕の内側は、顔とちがって白く冷たくすべすべとして柔らかい。腿の内側は、もっと、すべすべしている。止処(とめど)もなくなってくる。瞼をめくって指をつっこもうとする。「ええ、もう、たいがいにおし」おばあさんは払いのけて置き上る。」


「怖いこと」より:

「二学期の始業式の訓話の終りには、いまから十数年前に起った関東大震災の怖ろしさについて、校長先生は必ずつけ加えられた。そして、その日だったか、次の日だったかに、全校生徒が隊伍をととのえて、震災記念館へ見学に出かけた。毎年の行事であった。大きな葉のついた街路樹がある歩道のひなたを長々と、市電の停留所をいくつも越して歩いて行った。
 午前十一時何分か(地震の起った時間)を指して止まっている大時計や、電気仕掛で火を噴き上げたり、家がくずれたり、海や山が動いたりするパノラマがあった。背景の炎と煙に追われて、こちらへ向って逃げてきた日本髪の女や番頭さん風の男や詰襟の白服の男が、大きく口をあけ手をさしのべながら、ぱっくり口をあけた道路の割れめへ落ちて行く細密画があった。唇は赤く大きく、あけた口の中には歯や舌まで描いてあった。震災と関係がないと思われるのだけれど、第一次世界大戦の毒ガス弾に関する陳列室もあって、そこも見学した。もし毒ガスにやられると人間の体はどうなるか、――眼や耳や皮膚の蝋細工の模型と絵と写真があった。イペリットという毒ガスにやられたときの模型や写真が、なかでも一番気持わるく汚らしかった。全体ほの暗く湿気臭い、この建物の中にいると、途方もなく巨きな真黒い手をした震災と戦争が、必ずいつかやってきて、そのとき自分たちは死んでしまう気がした。震災で死ななくてはならないのなら、どうか地割れに落ちる死に方でないほかの死に方を、戦争で毒ガスにあたって死ななければならないのなら、イペリットでない毒ガス弾にあたりたい、――記念館を出て帰ってくる途中は、だらだらした弱々しい気持になって、そう思った。それからあとの一週間ほどは、地割れとイペリットが、じきに頭に浮んできて、遊んでいても墨を呑んだような気分になった。墨を呑んだような気分になることが、このほかにも今はある。」



「夏の終り」より:

「「何だか、口の中がげろの味と匂い」言いにくそうに娘が感想を言う。私は便所に行きたくなって廊下へ出た。
 靴音もたてずに女二人連れが帰った。テーブルに、オムレツとサラダが半分以上残してある。
 オムレツが向いのテーブルにきた。職人さんたちは畏まり、にこにこしてオムレツを見つめ、フォークとナイフを取り上げる。やっぱり三口目くらいから元気のない顔になる。
 コーヒーが私たちのテーブルにきた。コーヒーは普通のコーヒーの味がした。ゆっくりとコーヒーを飲んだ。」



「夢、覚え書」より:

「大陸の草原のようだ。遠くに薄く山が見える。曇天。羊の頚すじを精出して撫でている。その羊と私のほか、誰もいない。いなくなってしまったらしいのだ。それも今しがたのことらしいのに、過ぎ去ったことは何一つ思い出せないでいる。不意に羊が口をきいた。録音テープのような声。「裏切ったのではありません。あなたのことをいつも思っていたのだけれど、なかなか、ここまでは来られなかったのです」ウラギッたという言葉。何だかスゴい言葉。私はうろたえて、あたりを見回してしまう。しかし、すぐに、ずっと以前から、この羊を待ち焦がれていた気分になって、もくもくと毛のつんだ温かい太い頚を黙って撫でている。羊が可愛くて、涙がいっぱいたまってくる。羊は後向きの格好のまま、お世辞をなおも言った。手のひらでなく、手首を使って撫でていたので、羊は「腕時計のバンドの止め金が痛い」などとも言う。」








































































































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ひとでなしの猫

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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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