武田百合子 『犬が星見た ― ロシア旅行』 (中公文庫)

「するする、するする、と万事が滑らかに運ぶ。ロシアを旅してきた私は力の入れどころがなくて、体がむくんでしまいそうである。寝台のそばには目覚し時計もあるが、新型でポッチがたくさんついていて、扱い方がわからない。」
(武田百合子 『犬が星見た』 より)


武田百合子 
『犬が星見た
― ロシア旅行』

中公文庫 A-142-4

中央公論社 
昭和57年1月10日 初版
昭和60年9月25日 3版
340p 
文庫判 並装 カバー 
定価440円
表紙・扉: 白井晟一
カバー: 鈴木康司



単行本初版は昭和54年2月、中央公論社刊。スズキコージ氏によるカバー絵は単行本と同じです。


武田百合子 犬が星見た 01


武田泰淳・竹内好のような有名人も出てきますが、有名人でない人も出てきて印象的な言動をします。

「陽なたの石に腰を下ろしていると、銭高老人が嬉し気にやってくる。
 「見てみなはれ。壁も塀も門も、よおく見ると、皆、少しづつ、かしいでおりますがな。うまくかしいで建ててありますがな。ここは地盤がえろうやわらかいんじゃ。えらいもんでっせ。地震を見込んで、最初から、かしげて建ててありますのや。やわらこう、遊ばせて建ててありますのや」「たいしたもんじゃ。えらいもんじゃ。ロッシャはたいした国じゃ。わしゃ、よう知っとった」
 話してしまうと、老人はうしろ手を組んで小走りに往来を横ぎり、日照りの辻に立って、双眼鏡でくわしく視察をはじめた。」


もちろん著者も印象的な言動をします。
 
「「例の雑誌(引用者注: 旅行中に北欧で買ったいかがわしい雑誌)なんだが、この部屋は明るいから、明日の朝、ここで写真に撮ってそのフィルムを持ち帰ろうか。それとも小包で郵送しようか。羽田で没収されるからなあ、雑誌は置いて行くことにしたよ」
 私「置いて行くの?」
 竹内「そう。忘れたふりして部屋に置いて行こう。この部屋に置いて行こう。あとで掃除婦が見つけたとき、ぼくの部屋では恥ずかしい。この机の下の棚がいい」
 主人「竹内が買ったんだから竹内のいいようにするさ」
 私「あんなに一生懸命買ったものを置いていくなんて……。いくら位で買ったの?」
 主人「十五ドル位だったかな?」
 竹内「うん。その位」
 「もったいない!!」私は立ち上り、大きな声になった。大きな声を出したら威張りたくなった。
 「十五ドルも出したの。それを置いていくなんて!! 腹が立つ。あたしが持って帰る。あたしのトランクへ入れて帰る」」



武田百合子 犬が星見た 02


カバー裏文:

「生涯最後の旅を予感している夫武田泰淳とその友人竹内好のロシアへの旅に同行して、星に驚く犬のような心と天真爛漫な目とをもって、旅中の出来事・風物を克明に伸びやかにつづり、二人の文学者の旅の肖像を、屈託ない穏やかさでとらえる紀行。読売文学賞受賞作。」


内容: 

犬が星見た――ロシア旅行
あとがき

解説 (色川武大)




◆本書より◆


「だから私は、猫のように耳をたてて、皆のしている話をきいていた。
――この河は洪水のたびに、いい土を運び流してきてくれたので、大昔からこのあたりには作物が出来、人が住み、町が作られたのである。草原に、ぽつり、ぽつりと見える小高い丘は、二世紀から八世紀ごろまでにあった町の住居の跡である。蒙古族のたびたびの侵略で、人も住居も町も全滅し、また作られる。それをくり返していた――。
 河は氾濫した後らしかった。大小の水溜りが皮膚病のようにどこまでもひろがっている。そこには灌木のような丈高い草が繁り、草にはうす赤い花が咲いているらしく、そんな色にどこまでも霞んでいる。
 「東南から流れてきて、砂漠の中で、どこあたりでか、いつのまにやら消え失せてしまう河ですねん」
 走る。真直ぐの道が一本、地平線に向っているだけ。」
「ガイドが左を指さした。運転手も指さした。砂漠の遠くに、ポツリ、ポツリと見えるもの。カザハ族の包(パオ)。」
「まあるくかぶさった大きな空の下で、包は二つが一組になって暮しているらしい。見当もつかないほど遠くに、はなればなれに三組だけは見えた。点に見えるのは駱駝だ。」
「包に近づくと、中から黒白の斑猫が、ひそっと出てきた。毛並がつやつやしている。猫は見渡す限りの砂漠の海のまん中へ静かに出かけて行った。
 包の中はひいやりとうす暗く涼しい。」
「何だか、サーカス団の団長の楽屋へ遊びにきているみたいだ。」
「十一、二歳と五歳位の女の子が入ってくる。姉の方は、こわれかかった戸棚から土瓶と茶碗を出している。妹の方は、緑色の鼻汁を垂らして、すすり上げたり、横こすりしたりしながら、私たちをみつめている。平らな顔に、つり気味の一皮まぶたの黒い眼。緑色の鼻汁。私は子供のとき、こんなだった。」
「隣りの包を覗くと、さっきの二人の少女と、その姉らしい十七、八の娘がお茶の支度をしていた。こっちの包は台所と茶の間らしい。炊事用具がごたごたとある。(中略)三人の娘は私をみつめて笑わない。私も笑わない。眼がくたびれかけたころ、両方でちょっと笑った。末の女の子は私について包から出てくる。陽が照りわたっている。」
「包と包の間に綱を張って洗濯ものを干している。獣の皮をなめしたのも並べて干してある。皮はぬめぬめと、まだ、うすい血の色に濡れている。自転車が一台たてかけてある。ゴムタイヤをとった骨組だけの車輪だ。砂の海をこぐにはこの方がいいかもしれない。わずかに出来ている自転車の日蔭に、大きな犬がねそべっている。
 犬は私が近寄ると、のっそりと立ち上り、遙か離れた包の方角へ歩きだした。砂を掘って火を焚いたあとがある。古いサモワール(湯沸し器)がころがしてある。見馴れると、遠くには馬や羊もいた。」
「いつも、チラッ、チラッとしているのは、とかげだ。それは消えるように飛ぶように、素早く動いては静止する。止まるたびに、撓う硬そうな尾の裏を、反射的に背中にあげて見せる。体全体は砂の色で、尾の裏だけが、黒と白の縞だ。そこだけエナメルを塗ったように光っている。丘に立って、見るともなく砂漠いちめんを見ているとき、眼病に罹ったごとく、眼のはしを、チラッ、チラッと白い閃光になって走るのだ。
 ついてくる女の子に小さい化粧鏡をやった。」

「この人はモスクワ駐在商社員で、四日間の商用でストックホルムに来たのだといった。奥さんが人なつこく話しかけてくる。
 「北欧ははじめてでいらっしゃいます?」
 「はじめてです。ロシアもはじめてです。日本から外へ出たのもはじめてです」
 「モスクワからいらっしゃいますと感動なさいましたでしょう。北欧は素晴らしゅうございましょう?」佐久間良子風の美人の奥さんは、しきりと感想を促す。
 「はあ」物が豊富で迅速に事が運ぶ文化都市にやってきたのだな、ロシアとはちがったところだな、と思っているだけだ。感動というのは、中央アジアの町へ着いたときにした。前世というものがあるなら、そのとき、ここで暮していたのではないかという気がしたのだから。」















































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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