ロラン・バルト 『明るい部屋 ― 写真についての覚書』 花輪光 訳

「「観客」としての私は、ただ《感情》によってしか「写真」に関心を寄せなかった。私は「写真」を、一つの問題(一つの主題)としてではなく、心の傷のようなものとして掘り下げたいと思っていた。私は見る、私は感ずる、ゆえに、私は気づき、見つめ、考えるのである。」
(ロラン・バルト 『明るい部屋』 より)


ロラン・バルト 
『明るい部屋
― 写真についての覚書』 
花輪光 訳


みすず書房
1985年6月20日 第1刷発行
1986年3月5日 第3刷発行
152p v 著者・訳者略歴1p
口絵(カラー)1葉 
図版(モノクロ)24p
四六判 丸背並装上製本 カバー
定価2,000円
カバー: 「カメラ・ルシダ」を用いて絵を描いているところ



本書「訳者あとがき」より:

「本書はバルトの遺著となった左記の写真論の全訳である。
Roland Barthes: La chambre claire. Note sur la photographie, Cahiers du Cinéma, Gallimard, Seuil, 1980.」



本書でロラン・バルトは、写真をみる時の関心の基礎をなす二つの要素を「ストゥディウム」「プンクトゥム」と名づけています。
「ストゥディウム(studium)」は、「道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとし」「人間的関心」であり、「ある種の一般的な思い入れ」である。
一方、「プンクトゥム(punctum)」は、「ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るもので」あり、「写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来る」「プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり、しかもまた、骰子の一振りのことでもある」「ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである」
ストゥディウムは約束事であり、「単一」なものである。それに関心を持ち、理解するとか賛成したり反対したりすることはできるが、「愛」の対象とはなりえない。
「ごく普通には単一のものである写真の空間のなかで、ときおり(といっても、残念ながら、めったにないが)、ある《細部》が、私を引きつける。その細部が存在するだけで、私の読み取りは一変し、現に眺めている写真が、新しい写真となって、私の目にはより高い価値をおびて見えるような気がする。そうした《細部》が、プンクトゥム(私を突き刺すもの)なのである。」

よくわからないですが、「プンクトゥム」とは校長先生のお説教中に校庭に迷い込んだ犬みたいなものなのではないでしょうか。
本書はカバーが銀で、パラフィン紙が掛けてあります。


バルト 明るい部屋 01


カバー裏文:

「「マルパが息子の死によっていたく心を動かされていると、弟子たちの一人が言った。《師は常々、すべては幻影にすぎないとおっしゃっていたではありませんか。御子息の死もまたしかり、幻影にすぎないのではありませんか?》と。マルパはこれに答えて言った。《しかり、されどわが息子の死は超幻影なり》と」
(『チベットの道の実践』)」



カバーそで文:

「《狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌のページをめくること)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる》(ロラン・バルト)
 本書は、現象学的な方法によって、写真の本質・ノエマ(《それはかつてあった》)を明証しようとした写真論である。細部=プンクトゥムを注視しつつ、写真の核心に迫ってゆくバルトの追求にはまことにスリリングなものがある。
 本書はまた、亡き母に捧げられたレクイエムともいえるだろう。私事について語ること少なかったバルト、その彼がかくも直接的に、母の喪の悲しみを語るとは! 本書は明らかに、著者のイメージ論の総決算であると同時に、バルトの『失われた時を求めて』となっている。《『明るい部屋』の写真論の中心には、光り輝く核としての母の写真の物語が据えられている》(J・デリダ)」



目次:


1 「写真」の特殊性
2 分類しがたい「写真」
3 出発点としての感動
4 「撮影者」、「幻像」、「観客」
5 撮影される人
6 「観客」――その無秩序な好み
7 冒険としての「写真」
8 鷹揚な現象学
9 二重性
10 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」
11 「ストゥディウム」
12 知らせること
13 描くこと
14 不意にとらえること
15 意味すること
16 欲望をかきたてること
17 単一な「写真」
18 「ストゥディウム」と「プンクトゥム」の共存
19 「プンクトゥム」――部分的特徴
20 無意志的特徴
21 悟り
22 事後と沈黙
23 見えない場


25 《ある晩……》
26 分け隔てるもの、「歴史」
27 再認・認識すること
28 「温室の写真」
29 少女
30 アリアドネ
31 「家族」、「母」
32 《それはかつてあった》
33 ポーズ
34 光線、色彩
35 「驚き」
36 確実性の証明
37 停滞
38 平板な死
39 プンクトゥムとしての「時間」
40 「私的なもの」/「公的なもの」
41 子細に検討する
42 似ているということ
43 家系
44 明るい部屋
45 《雰囲気》
46 「まなざし」
47 「狂気」、「憐れみ」
48 飼い馴らされた「写真」

訳者あとがき

参考文献
写真家索引
掲載写真一覧



バルト 明るい部屋 02



◆本書より◆


「分類しがたい「写真」」より:

「何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは指向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに、指向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのものに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。「写真」のことを扱った本という本は、(中略)いずれもこの困難の犠牲となっている。ある本は、技術的である。(中略)また他の本は、歴史的ないし社会的である。(中略)しかしどの本も、まさしく私の関心を引く写真、私に快楽や感動を与える写真については語ってくれない、ということがわかって私はいらだたしさを感じた。風景写真の構図の規則など、私にとって何のかかわりがあろう? 「写真」について書かれたものを読むたびに、私は、自分の好きなあれこれの写真のことを考えて、腹が立った。それというのも、私の目には、ただ指向対象だけ、欲望の対象だけ、最愛の人の肉体だけしか見えなかったからである。しかし、その都度、ある執拗な声(科学の声)が、おごそかな口調で私に命じるのだった。《「写真」一般にもどりたまえ。君が眺めて苦しんでいる写真は、ある社会学者のチームが研究した、“素人写真”の範疇に属するものだ。「家」を立て直すためにおこなわれる、成員統合の社会的儀式の痕跡にほかならない》、等々。しかし私は従わなかった。もう一つのさらに強力な声が、そうした社会学的な説明を否定するように私を駆り立てていた。私はある種の写真に対して、野生の状態で、教養文化を抜きにして、向かい合いたいと思っていたのである。」



「出発点としての感動」より:

「そこで私は、こう思った。「写真」について書きたいと望んだ結果、以上のような無秩序とディレンマが明らかになったが、確かにこの状態は、私がいつも味わってきた一種の居心地の悪さを反映するものだ。それは主体が二種類の言語活動、つまり一つは表現的言語活動、もう一つは批評的言語活動の板ばさみになったとき感ずる居心地の悪さであり、さらにこの後者の言語活動の内部において、何種類かの言説、たとえば社会学や記号学や精神分析などの言説の板ばさみになったとき感ずるものである。しかし他方、私がそうした言語活動のいずれにもついに満足していないということは、私のうちにある唯一の確実なもの(たとえそれがいかに素朴なものであっても)を証明している。つまり、あらゆる還元的な体系に反発する私の激しい抵抗感である。(中略)いっそのこと、これをかぎりに、私の個別性から発する抗議の声を逆に道理と見なし、《古代の自我の至高性》(ニーチェ)を、発見のための原理にしようとするほうがよいのだ。そこで私は、自分の探求の出発点として、わずか数枚の写真、私にとって存在することが確実な数枚の写真を採用することに決めた。それは資料体(コルプス)とは何の関係もない、ただいくつかの肉体(コール)にすぎなかった。主観性と科学の関係については、要するに型にはまった例のとおりの議論がおこなわれているが、その議論を通して私は、つぎのような奇妙な考えに到達したのである。いったいなぜ、いわば個々の対象を扱う新しい科学がないのか? なぜ(「普遍学」 Mathesis universalis ならぬ)「個別学」(Mathesis singularis)がないのか? と。そこで私は、自らを「写真」全体の媒介者と見なすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。」


「「撮影者」、「幻像」、「観客」」より:

「というわけで、いまや、「写真」に関する《知》の尺度となるのは、私自身である。」


「「観客」――その無秩序な好み」より:

「ここで問題になっているのは、たあいない心情の動きであって、私は好きだ/私は嫌いだと言ってしまえば、それで事がすんでしまう、ということは私にもよくわかっていた。(中略)だがしかし、まさしくそれが問題だったのだ。私はつねに自分の気分を論じたいと思っていたのである。といっても、自分の気分を正当化するためではないし、ましてや自分の個性をテクストの舞台いっぱいに繰り広げるためではない。それどころか、その個性を、主体の科学といったものに捧げ、提供するためである。その科学の名前は大して問題ではないが、ただその科学は、私を還元することも圧殺することもないような、ある一般性に到達するのでなければならない(これは、まだおこなわれたことのない賭である)。そこで、とにかく試してみる必要があった。」


「「ストゥディウム」と「プンクトゥム」」より:

「第一の要素は、明らかに、ある広がりをもつものである。それは、私が自分の知識や教養に関してかなり日常的に認めているような、ある一つの場の広がりをもつ。その場は、(中略)必ず、ある典型的な情報に関係している。(中略)何千という写真が、そうした情報の場によって成り立っており、確かに私はそうした写真に対して、一種の一般的関心、ときには感動に満ちた関心をいだくことができるが、しかしその感動は、道徳的、政治的な教養(文化)という合理的な仲介物を仲立ちとしている。そうした写真に対して私が感ずる感情は、平均的な感情に属し、ほとんどしつけから生ずると言ってよい。(中略)私が多くの写真に関心をいだき、それらを政治的証言として受けとめたり、見事な歴史的画面として味わったりするのは、そうしたストゥディウム(一般的関心)による。というのも、私が人物像に、表情に、身振りに、背景に、行為に共感するのは、教養文化を通してだからである(ストゥディウムのうちには、それが文化的なものであるという共示的意味(コノテーション)が含まれているのである)。
 第二の要素は、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。こんどは、私のほうからそれを求めて行くわけではない(中略)写真の場面から矢のように発し、私を刺し貫きにやって来るのは、向こうのほうである。ラテン語には、そうした傷、刺し傷、鋭くとがった道具によってつけられた標識(しるし)を表わす語がある。しかもその語は、点を打つという観念にも関係があるだけに、私にとってはなおさら好都合である。実際、ここで問題になっている写真には、あたかもそうした感じやすい痛点のようなものがあり、ときにはそれが斑点状になってさえいるのだ。(中略)それゆえ、ストゥディウムの場をかき乱しにやって来るこの第二の要素を、私はプンクトゥム(punctum)と呼ぶことにしたい。というのも、プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことでもあり――しかもまた、骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。」



「欲望をかきたてること」より:

「一軒の古い家屋、影になっているポーチ、屋根瓦、昔のアラブ風の装飾、壁に寄りかかって座っている男、人気のない街路、地中海沿岸に見られる樹木(チャールズ・クリフォード撮影の「アルハンブラ」)。この古い写真(一八五四年)は私の心を打つ。私はひたすらここで暮らしたいと思う。この願望は、私の心の奥深いところに、私の知らない根を下ろしている。私を引きつけるのは、気候の暑さか? 地中海の神話か? アポロン的静謐か? 相続人のいない状態か? 隠棲か? 匿名性か? 気高さか? いずれにせよ(私自身、私の動機、私の幻想がどのようなものであるにせよ)、私はそこで繊細に暮らしたいと思う――その繊細さは、観光写真によっては決して満足させられない。私にとって風景写真は(中略)、訪れることのできるものではなく、住むことのできるものでなければならない。(中略)この欲望は幻想的なものであり、一種の透視力に根ざしている。透視力によって私は未来の、あるユートピア的な時代のほうへ運ばれるか、または過去の、どこか知らぬが私自身のいた場所に連れもどされるように思われる。ボードレールが「旅への誘(いざな)い」と「前の世」でうたっているのは、この二重の運動である。そうした大好きな風景を前にすると、いわば私は、かつてそこにいたことがあり、いつかそこにもどっていくことになる、ということを確信する。ところでフロイトは、母胎について、《かつてそこにいたことがあると、これほどの確信をもって言える場所はほかにない》と言っている。してみると、(欲望によって選ばれた)風景の本質もまた、このようなものであろう。私の心に(少しも不安を与えない)「母」をよみがえらせる、故郷のようなもの(heimlich)であろう。」


「少女」より:

「ギリシア人たちは、あとずさりしながら「死の国」に入っていったという。つまり彼らの目の前にあったのは、彼らの過去であった。同様にして私は、一つの人生を、私の一生ではなく私の愛する母の一生を遡っていった。死ぬ前の夏に撮った母の最後の映像(中略)から出発して、私は四分の三世紀を遡り、一人の少女の映像に到達したのだ。」
「時間を遡る「写真」のこの運動(中略)を、私は実生活でも経験していた。(中略)生涯の終わりにさしかかった母は衰弱していた。(中略)母の病気のあいだ、私は母を看病し、(中略)母は私の小さな娘になり、私にとっては、最初の写真に写っている本質的な少女と一つになっていたのだ。ブレヒトの作品では、(中略)息子のほうが母親を(政治的に)教育する。しかし私の母の場合、私は母を教育して、それが何であるにせよ、何かに変えようとは決してしなかった。(中略)母と私は、互いに口にこそ出さなかったが、言葉がいくぶん無意味になり、イメージが停止されるときこそ、愛の空間そのものが生まれ、愛の調べが聞かれるはずだと考えていた。あんなに強く、私の心の「おきて」だった母を、私は最後に自分の娘として実感していた。私はこうして、私なりに、「死」の問題に答を出していた。多くの哲学者が言うように、「死」とは種(しゅ)の冷酷な勝利にほかならず、特殊なものは普遍的なものを満足させるために死ぬのであり、個体は、自分自身以外の個体として自己を再生したのち、否定され乗り越えられて死んでいくというのが事実なら、私は実際には子供をつくらなかったが、母の病気そのものを通して母を子供として生みだしたのだ。その母が死んだいま、私にはもはや高次の「生命体」(種(しゅ))の歩みに身をゆだねる理由はまったくない。私の特殊性は、もはや決して普遍的なものとなりえないだろう(ただ、ユートピアとしては、書くこと(エクリチュール)によってそれが可能となるのだから、今後は書く企てが私の人生の唯一の目的となるのでなければならないのである)。いまや私は、私自身の完全な、非弁証法的な死を待つしかなかった。」

 

「「狂気」、「憐れみ」」より:

「「写真」と「狂気」と、それに名前がよくわからないある何ものかとのあいだには、ある種のつながり(結びつき)がある、ということを私は理解したと思った。私はその何ものかをとりあえず愛の苦悩と呼んでみた。(中略)しかしながら、そうとばかりも言い切れなかった。その何ものかは、恋愛感情よりももっと豊かな感情のうねりだった。「写真」によって(ある種の写真によって)呼び覚まされる愛のうちには、「憐れみ」という奇妙に古くさい名前をもった、もう一つの調べが聞き取れた。私は最後にもう一度、私を《突き刺した》映像(中略)を、残らず思い浮かべてみた。それらの映像のどれをとっても、まちがいなく私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像のなかへ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。ちょうどニーチェが、一八八九年一月三日、虐待されている馬を見て、「憐れみ」のために気が狂い、泣きながら馬の首に抱きついたのと同じように。」


「飼い馴らされた「写真」」より:

「狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリスムが、美的ないし経験的な習慣(中略)によって弱められ、相対的なレアリスムにとどまるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリスムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始源的なレアリスムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるなら、「写真」は狂気となる。つまりそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、私は本書を終えるにあたり、これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。」
「「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。」



バルト 明るい部屋 04


































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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