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西岡兄妹 『救済の日』

「このへんじゃ、だれでも狂っているんだ。おれも狂ってるし、あんたも狂ってる」
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(矢川澄子 訳)より。


西岡兄妹 『救済の日』
青林工藝舎 2008年10月20日初版第1刷発行
209p A5判 並装 カバー 定価1,400円+税
装幀: ミルキィ・イソベ
デザイン: 明光院花音

 
西岡兄妹の『この世の終りへの旅』に続く長編第二作。
 
 
救済の日1
 
帯文:
 
「人類なんで
ほっといたって
いずれ滅亡
したのにね
 
ある朝目を覚ますと戦争が始まっていた。
それは人類が未だ遭遇したことのない戦争だった。
―悪夢と現実の境界が失われた世界で
呆然と立ち尽す。
絶望のその先に「救い」はあるのだろうか?
 
西岡兄妹が紡ぐ現代の黙示録。待望の長編第2弾!」

 
帯背:
 
「「滅び去れ」その途端
一瞬にして全てが消え去った」

 
 
救済の日2
 
カバーを外してみた。
 
 
もくじ:
 
一話 嬰児
二話 胎児の戦争
三話 職場にて
四話 妻子を探して
五話 平和の火
六話 政治犯収容所にて
七話 ある共産主義者との対話
八話 猫の動物園
九話 天使
十話 救済の日
十一話 夜へ
あとがき (西岡智)
 
 
未熟児で生まれて、身体は大きくなっていくものの、二年たっても胎児の姿のまま形を変えようとしないわが子を、「障害を持っているのだから医者か専門家に診てもらった方がいい」と主人公の「ぼく」は言うが、なんの疑問も抱かずに子育てする妻は「ぼく」を「悪魔を見るような目で」見る。
胎児の姿を保ち続ける子どもは何を象徴するのか。先走って言ってしまえば「滅び」に向かいつつある「人類」にとっての「救済」の象徴であろう。彼は頑なに胎児のままに留まって「余計なことは何一つ」しないからだ(著者による「あとがき」に「福田首相は偉大な宰相だったかもしれない。「余計なことは何一つしなかった」というその点において」とある)。そしてそのようなわが子を守る母である「妻」の態度は正しい。しかし、人間社会(それは根本的に間違っている)の「常識」のコントロール下にある「ぼく」には、その正しさが分からない(社会人である「ぼく」が自分を正当化するための魔法の言葉は「ぼくには仕事があるのだ」であるが、そんな言い訳は人間社会でしか通用しないだろう。しかもまもなく「ぼく」は仕事を失ってしまうのだ)。ところで、動物には発情期があるが、人間は一年中発情している。発情期が限定されているということは、動物としてのモラルであるが、人間にはそのモラルが欠如している。「ぼく」もまた妻に対して動物のモラルを破る行動を取ろうとして拒絶される。「ぼく」は自分の部屋に籠って泣く。自分の正しさへの懐疑が兆したゆえであろう、「ぼく」は、そうであると信じきっていたのとは別の「現実」の姿を見ることになる。すなわち、翌朝目覚めると町は「戦争」によって「焦土」と化していた。「軍隊」が焼跡に埋もれた胎児を殺してまわっている。「現実」のほんとうの姿はずっとそうだったのに、「ぼく」には見えていなかったというだけのことだ。いるはずのない、いてはならないはずの「軍隊」がいて、「末来」である胎児を殺してまわっている。ここでまた著者による「あとがき」を参照すると、「ようするにぼくの立場は「護憲」だということだ」とある。そして「今の日本人には「国民投票」をする資格も無い」とあるが、それはもっともな意見だ。「憲法は「それを守る義務」と「それを変える権利」を同時に課し与えている」が、日本人は「戦力は保持しない」という憲法の規定を守る義務を果していないのだから、憲法を変える権利はない、そういうことだろう。
 
と、ここでいきなり「平和の火」の寓話が挿入される。とある町にやってきた、平和と戦争放棄を布教する男は、子どもたちには好かれるが、大人たちからは煙たがられ、町を追い出される。男は子どもたちを連れて町を出て行こうとするが(ハーメルンの笛吹き男、あるいは少年十字軍)、男は去る前に町の家々に「平和の火」で火をつけてまわったので(ソドムとゴモラ)、子どもたちは振り返って燃える町を見て「塩の柱」になる(ロトの妻)。
平和を望むことはもはや絶望的だ、ということだろうか。
 
そして本編に戻って、「共産主義者」との対話があって、「ぼく」は、「人間は人間の肉を食うことによって、人肉食によって人間になったのではないかと思うのです」「資本主義こそ人肉食の、もっとも象徴化され、完成された形態なのです」と、「この戦争が始まってから」抱くようになった考えを表明する。ところで、この対話で「ぼく」は、「わかりません。ぼくが狂っているのか世界が狂っているのか」と言うが、これは『ドグラマグラ』や『虚無への供物』の思想だ。昭和の文学作品(安部公房、倉橋由美子、武田泰淳など)をしきりにリファレンスする西岡兄妹は、人々が古典化することで無害化しようとしている思想の、いまここにおける有効性を試そうとしているかのようだ。共産主義者は「洗礼者ヨハネ」だったので首を刎ねられ、「ぼく」は「イエス(キリスト)」になって、世界に対して「滅び去れ」と宣告する。
 
ここでまた「猫の動物園」という寓話、というか、黒いユーモア短篇が挿入される。娘を連れて漁村の動物園を見学する「ぼく」の話だが、ありきたりの野良猫が展示されていて五千円だの一万円だのの値札までついている。娘は片目のつぶれた五百円の猫を買って欲しいと言う。「ぼく」は、こんな「奇形」の猫はきっと「病気」を持っているだろうから飼いたくないと思うが、仕方なく買い与える。これは本書の冒頭のわが子にたいする「ぼく」の反応と全く同じだ。とすると、この一見本編とは無関係そうな「猫の動物園」に、本書を理解する鍵があるような気がしないでもない。しかしよくわからない。娘の姿が見えなくなったので探し回ると、船着場で「男の黒い影」が娘の首を絞めている。黒い影の男は娘を海に放り投げて逃げる。「ぼく」は、すでに死んでいるであろう娘を助けるために海に飛び込めばいいのか、犯人である男を追いかければいいのかわからなくなって、片目の猫を抱いて立ち尽す。
「ぼく」にとっては、社会的には価値の無い奇形の猫を選ぶ娘(善)も、娘を絞殺する男(悪)も、理解することができない存在である。「ぼく」は善にも悪にもなりえない、ひたすら何物かにコントロールされて生きてきた人間なのであろう。そしてこのような状況に直面することになってはじめて、娘に対する心からの愛情も、犯罪者に対する心からの憎悪も、どちらも自分は持ち合わせていなかったということに気づいて、呆然とするのだ。
 
そしてまだ本編は続くのですが、めまいがするのでこのへんで切り上げます。
 
 
救済の日3
 
本書より。荒野を歩く「ぼく」。めまいの原因はコレでした。
(イエス(キリスト)は荒野で悪魔(キリスト教の「悪魔」が誰にとっても常に絶対的な「悪」であるとは限らない。いづれにしろそれは自らの内面が外部に投影されたものだ)と出会い、「誘惑」を受けるが、それを退ける。本書の「ぼく」も、荒野の果てで何ものかの「誘惑」を受けることになる。)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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