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川村二郎 『日本廻国記 一宮巡歴』

「ぼくは三河出身だが、三河では、優秀な土地の人材はみな家康公について江戸へ行き、(中略)残ったのは無能な人間ばかりだ、などと自嘲めいた冗談まじりに語られることがある。ぼくも無能者の末裔ということになるが、別段それを卑下するつもりはない。ただ、何につけても、栄達の道から外れていると見えるものに対して、ほとんど本能的な親和感をおぼえるのは、そのせいかもしれないと思うのである。」
(川村二郎 『日本廻国記』 より)


川村二郎 
『日本廻国記 
一宮巡歴』


河出書房新社 
昭和62年5月8日 初版発行
昭和62年7月27日 再版発行
294p 口絵(カラー)2p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,860円(本体1,806円)
装幀: 田淵裕一
写真: 中村昭夫・渡辺良正・榊原和夫・共同通信社



本書「あとがき」より:

「一宮巡りを始めた時は、全く個人的な道楽のつもりで、その見聞をまとめようなどとは夢にも思わなかった。こうして、とにもかくにも一冊の本が出来上ることになると、やはり書いてよかったと、つくづく思う。」


本文中地図8点、写真図版(モノクロ)17点。


川村二郎 日本廻国記


帯文:

「全国一宮(いちのみや)案内
日本の各地で篤い信仰を集める神社、一宮――全国68ヵ所の一宮すべてをたずね歩き、由来、祭神、神社の建物・鎮座地の印象、交通の便などを綴り、神と人とのかかわりを考える。」



帯裏:

「一宮を巡ろうなどというのは、「神いぢりの傾きのあるもの」(柳田國男)の道楽にひとしいかもしれないが、氏神と氏子の関係がもはやかつての親密を保ち得ずにいる所では、制度としてはきわめて曖昧な、しかしそうであるだけ、公の権威の承認とは別の次元で、より自然発生的により内密に、特殊かつ具体的な土地土地の歴史や伝承に根ざした形で崇敬される神として、諸国一宮を眺めるいわれがありはしないかと思うのである。(本書・序章)」


目次:

口絵
 備中一宮 吉備津神社
 安芸一宮 厳島神社序章

序章

第一章 三河から東海道を下る
 一   三河 砥鹿神社
 二   遠江 小国神社 ほか
 三   駿河 浅間神社
 四   甲斐 浅間神社
 五   伊豆 三島神社
 六   相模 寒川神社
 七   武蔵 氷川神社
 八   安房 洲崎神社 ほか
 九   上総 玉前神社
 十   下総 香取神宮
 十一  常盤 鹿島神宮

第二章 東北から東山道を上る
 十二  出羽 大物忌神社
 十三  陸奥 都々古別神社
 十四  下野 二荒山神社
 十五  上野 貫前神社
 十六  信濃 諏訪神社
 十七  飛騨 水無神社
 十八  美濃 南宮神社
 十九  近江 建部神社

第三章 北陸道を下る
 二十  若狭 若狭彦神社
 二十一 越前 気比神社
 二十二 加賀 白山比咩神社
 二十三 能登 気多神社
 二十四 越中 気多神社 ほか
 二十五 越後 弥彦神社
 二十六 佐渡 度津神社

第四章 尾張から畿内へ
 二十七 尾張 真清田神社
 二十八 志摩 伊雑宮
 二十九 伊勢 椿大神社
 三十  伊賀 敢国神社
 三十一 山城 賀茂神社
 三十二 大和 大神神社
 三十三 河内 枚岡神社
 三十四 和泉 大鳥神社
 三十五 摂津 住吉神社

第五章 山陰道を北へ、隠岐の島まで
 三十六 丹波 出雲神社
 三十七 但馬 出石神社
 三十八 丹後 籠神社
 三十九 因幡 宇倍神社
 四十  伯耆 倭文神社
 四十一 出雲 熊野神社 出雲大社
 四十二 石見 物部神社
 四十三 隠岐 水若酢神社

第六章 山陽道を西へ行く
 四十四 播磨 伊和神社
 四十五 美作 中山神社
 四十六 備前 吉備津彦神社
 四十七 備中 吉備津神社
 四十八 備後 吉備津神社
 四十九 安芸 厳島神社
 五十  周防 玉祖神社
 五十一 長門 住吉神社

第七章 南海道一周
 五十二 紀伊 日前・国懸神社
 五十三 淡路 伊弉諾神社
 五十四 阿波 大麻比古神社
 五十五 讃岐 田村神社
 五十六 土佐 土佐神社
 五十七 伊予 大山祇神社

第八章 西海道を一巡して壱岐対馬まで
 五十八 豊前 宇佐八幡宮
 五十九 豊後 柞原八幡宮 ほか
 六十  筑前 筥崎八幡宮 ほか
 六十一 筑後 高良神社
 六十二 肥前 千栗八幡宮 ほか
 六十三 肥後 阿蘇神社
 六十四 日向 都農神社
 六十五 大隈 鹿児島神社
 六十六 薩摩 枚聞神社
 六十七 壱岐 天手長男神社
 六十八 対馬 和多都美神社

あとがき
一宮表




◆本書より◆


「十一 常陸 鹿島神宮」より:

「しかし靖国神社、あるいはそれに追随する全国各地の護国神社のような、欺瞞的な軍神など(欺瞞的というのは、それらが死者の栄誉をたたえ、功績を顕彰することだけを建前とし、死者の恨み、呪いを畏れる生者の恭謙を全く欠いている点を指す。おしなべて格式張って威圧的で影の乏しい、社地社殿の結構自体が、そのことを明示している)と、この鹿島の神とは、あらゆる意味で同日の談ではない。
 まず森の深さ。」

「だが、ほかでもないその力のなさ、いう甲斐なさ故にこそ、小さな石は神としてひそかに斎かれるいわれがあるともいえるのだ。強力な巨大なものだけが神となるのではない。ささやかな目立たぬもの、そのよるべないばかりのささやかさがかえって、いつの日か、類なく大きくすこやかになることを願う思いを、見る者の胸にかき立てるということがある。(中略)このように小さな物に神霊の宿りを感じ取る心は、また、常世の国たるべきこの土地へ、海の彼方から祝福をもたらすミロクの神の舟が漂い着くことを待望する心でもあった。所詮空しい待望、永遠に訪れぬ千年王国への祈願にすぎぬかもしれない。海からの救済のいわば見果てぬ夢の形象として、小さな石を包みこんだ黒い森は、強大な現実の神、先端的科学技術の根拠地の背後にあって、それだけ一層夢の秘めやかさを印象づけるのである。」



「十四 下野 二荒山神社」より:

「しかしそれにしても、ニ荒山神社の祭神には、色々奇妙な説、物語がまつわりついている。」
「開拓英雄の名が出てくるのは、信仰を公の側に取りこむ上で当然であり、また大己貴(大物主)の名もありふれているが、その子の名、特にアジスキタカヒコネが陸奥一宮に並んで現れるのは注目に値する。というのも、ニ荒山の神は蛇となって、上野赤城山の百足(むかで)の神と戦ったという、神戦の伝承が古くからあるわけだが、アジスキタカヒコネは、記紀の記述において、大物主同様、蛇神と見なされる根拠が十分存在するからである。
 蛇神信仰の中心は信州の諏訪である。そしてこの信仰は、地上の秩序をつかさどる権威とは別種の、地下の無定型な力、無定型であるが故にいつでも形ある秩序をおびやかし得る力に対する畏怖と結びついている。」



「十六 信濃 諏訪神社」より:

「しかしなだらかに傾いだ社地の平面は広く木々の影は深く、十間廊と呼ばれる、神への貢物を供進した場という吹き抜けの横長建築など、大きくてがらんとしているだけ、かつて生牲の千頭の鹿の頭が並べられた情景が空想の中で一層不気味にふくれ上る。諏訪の信仰と狩猟とは切っても切り放せず、その根拠はまことに明らかにしがたいが、少くとも平地の農耕の神とは異種の、荒々しい闘争と殺戮のイメージが、この山岳の神にこびりついていることは否みようがない。」


「十七 飛騨 水無神社」より:

「神社の略由緒には、仁徳天皇時代、この地にあって叛いた賊両面宿儺(りょうめんすくな)を皇軍が征討した際に、先帝応神を奉祀したので水無八幡と号したとあり、公権力の推戴は表面上はまぎれもないが、「氏子拝殿」とも呼ばれるらしい絵馬殿の、簡朴にして剛毅な木造建築を眺めていると、体は一つで顔は二つ、四本の手に太刀を振い弓矢を用い、「皇命に随わなかった」(日本書紀)大力無双の山国の英雄、両面宿儺のかたくなな不服従の精神は、この土地に住む民の血に、脈々と受け継がれてきたのではなかったか、という幻想に誘われるのである。」


「三十二 大和 大神神社」より:

「神婚説話には蛇の出てくることが多い。大体雷と蛇は、走る形状の相似からか同一視されるのが常だが、人間の娘のもとに夜な夜な通ってきた男の正体が蛇だったとか、生れた子が大蛇となったとか、賀茂の伝承ではあからさまでないその異形の動物が、三輪明神、大和の大神(おおみわ)神社では、信仰の中心に蟠踞している。
 いうまでもなく、三輪山の麓にこの神の社はある。山が御神体だから本殿はなく、拝殿だけがあるというのもよく知られたことである。神体山はどこにでもあるが、拝殿のすぐ背後に山が聳え、いかにも異界への入口というたたずまいを拝殿が見せているのは、他には武蔵二宮の金鑽(かなさな)神社くらいしか見当らない。
 御神体だから勝手に登るわけには行かないが、摂社の狭井(さい)神社でそこばくの寄進をすると木綿襷(ゆうだすき)をくれる。潔斎のしるしであるこの襷を肩にかけて登拝口から入山することができる。登り始めてしばらくは比較的なだらかな山道だが、やがて人間の歩く道だか、雨の後水の走り抜ける路だか区別のつかぬような、木の根と岩の凹凸ばかりの傾斜となり、とりわけ巨怪な岩石の畳み重なる所――神の座としての磐座(いわくら)――へたどり着くと、見るからに信心深げな参拝者が、岩の上に卵と酒を供えて、暗く湿った大地にひれ伏したまま一心に祈りを捧げている。聖地を巡り歩いていれば似た情景をそこここで目にすることはできるにしても、この山中での祈願のさまほど、土地に結びついた神秘との交感を強く印象づけられたことはかつてない。
 卵を供えるのは、それが蛇の好物だからである。」
「この山の神大物主(おおものぬし)は、書紀によれば、女のもとへ通うのに、昼は避け夜ばかり訪れていた。夜ばかりではお顔が分らぬ、明るい所でお顔を見せてくれという女の願いを容れて、夜が明けてから蛇の正体をあらわすと、愕いた女は箸で陰(ほと)を突いて死んでしまう。
 古事記ではもっと露骨で、三輪の大物主は、美人が厠に入って大便をしている時、丹塗の矢に化けて下から陰を突く。賀茂縁起の伝承との関連は一目瞭然で、矢は当然蛇のアナロジーとなっている。人間の女が神と交ってその正体を知り破滅する、あるいは危険にさらされる、というのは、ゼウスとセメレー(その間にディオニュソスが生れる)、エロスとプシュケーなど、ギリシャの古代神話にもさまざま類似の例があり、神か魔か、要するに異類との交りの恐怖を寓意していようが、三輪の説話はなかでもやはり、気色の悪さにおいて際立っている。諏訪その他で再三蛇神にふれてはきたが、何といっても三輪が、この爬虫類の人間に与える戦慄を、一等生々しく説話を通して、また現実の蛇崇拝(中略)を通して、具体化しているように思われる。」



「三十三 河内 枚岡神社」より:

「日向に栄えるものをやみくもに白眼視するのは、精神の貧寒な偏りを暴露するにすぎぬようでもあるが、藤原という一族の歴史には、どう見ても、親近感や同情はおろか、一抹の感傷を寄せるに足るほどの陰翳もない。(中略)とにかく至尊に癒着して貴族社会の中核を維持し終せた、陰険な軟体動物のような種族の生命力は、結局はただおぞましいというよりほかはない。」
「ぼくは三河出身だが、三河では、優秀な土地の人材はみな家康公について江戸へ行き、それぞれ栄達の道を歩み、残ったのは無能な人間ばかりだ、などと自嘲めいた冗談まじりに語られることがある。ぼくも無能者の末裔ということになるが、別段それを卑下するつもりはない。ただ、何につけても、栄達の道から外れていると見えるものに対して、ほとんど本能的な親和感をおぼえるのは、そのせいかもしれないと思うのである。」



「四十一 出雲 熊野神社 出雲大社」より:

「現在公称の主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)である。スサノオが大国主神と並んで、出雲神話の代表的英雄とされていることはいうまでもない。しかしこの神ほど性格の複雑な、捉えがたい神はない。古伝承の記す数々の事蹟のうち、何より知られた八岐の大蛇退治にしても、それが何を意味しているのか、また記紀には出ていても出雲国風土記には記されていないその冒険物語が、果して出雲固有のものであるのかどうか、あれこれ学者たちの所説を読み比べて見ても、すっきり謎が解けたと感じた覚えはない。ただ少くとも、明るい光よりも暗い闇、おだやかな生の安らぎよりも不断の漂泊の辛酸、平静な観照よりも荒ぶる激情、そうしたものがスサノオの物語に常につきまとっていることだけは、認められると思う。出雲が根の国、底の国、つまりは死の国と見なされるようになったのに、この国を生の中心から遠ざけようとする中央政権のたくらみが与っていたかどうかは知らず、根の国の神、スサノオという原型的形姿は、一旦成立してからはゆるがしがたくなっていよう。しかもその神の座が、幽冥界にひとしくくまぐましい影の領域、熊野。すべてにわたって照応は事理に叶っているというべきだろう。」
「大社には参拝客が引きもきらない。しかしその大半はバスでなければ自家用車で来ている。広大な駐車場の混雑は大都会駅前のターミナル並である。もしそれらの乗客が大社線を利用すれば、路線廃止の憂目を見ることはあるまいに、といって見ても時代錯誤の繰り言にすぎない。どの道時代錯誤、自分ひとりは一本道をとぼとぼと、行手の大鳥居がだんだん間近に迫ってくるのを心頼みに、足を運ぶのである。」



「六十五 大隅 鹿児島神社」より:

「丘を下って神社正面からさらに数百メートル北へ歩くと、石体宮(しゃくたいぐう)がある。ささやかな小祠にすぎないが、正八幡の信仰の根源がこちらにあるという説からしても、足をとめるべき意義がある。八幡の神体たる石がここに出現したと平安末期に唱えられて、その崇拝が現在では安産の守り神という形で維持されているわけだが、石が神として崇められる例は原始信仰において珍しいことではないにせよ、八幡の場合特に顕著だとはいえる。宇佐の正体は背後の山の三つの岩、それが宇佐三座だという有力な学説から、神功が懐妊の身で出征する時、胎児が生れないように御裳の腰に石を挿んだとか(つまり石で産道に栓をしたのである)、宇佐の祭に御神体をうつろ舟に入れて海へ流すと、伊予の海中の石に流れ着くとか、奇態な石の物語がさまざまにまつわりついている。しかも、うつぼ(うつろ)舟の話がこれにからんでいるのがいよいよ幻妙で、おそらくうつぼ舟と石は同じものなのである。
 折口信夫は『石に出で入るもの』で、うつぼとは「魂の這入るべき空洞を有したもの」であり、「尊い母親と子どもとが、其中に籠って育って行く」ものであり、石もその中に神霊が宿る聖なる容器と見なされる時うつぼなのだと語っている。霊=魂(たま)=玉=石という等式が多分そこに成り立つので、上総一宮の玉前(たまさき)神社、常陸の磯前薬師菩薩神社などの、海から漂着する玉あるいは石の神も、当然その文脈で思い合わせられる。しかし石と、母子神と、海の彼方から流れ寄る空洞の丸木舟、その複合において大隅正八幡宮の伝承と来歴は、どこよりも瞭然とはかりがたい神秘を啓示している。」



「六十八 対馬 和多都美神社」より:

「本殿の奧の藪の中に、奇怪な岩の塊があり、豊玉姫の墓と称している。神の座たる磐座はむろんどこでも見られるが、ここのそれは突兀とした形状において並以上におどろおどろしい。おどろおどろしさがさらに勝るのは、境内前面の水の干(ひ)た小さな池の、泥の真中に盛り上っている、亀甲状とも柘榴状ともつかぬ、縦横にひびわれたいびつな岩である。磯良(いそら)の墓と伝えられている。磯良は神功皇后の親征を援けて力あったとされている海神だから、住吉とも、また八幡とも関連してくるが、容貌醜怪で姿を見せるのを嫌うたという説などからも、神というより、怪物、海の最も原始的なゲニウス・ロキのように思いなされる。神社から少し離れた浜辺の暗い木蔭には、サツマの枚聞神社で見たと同じ、豊玉姫のイロコの宮と因縁づけた「玉の井」があり、のぞいて見ると、ぽっかりあいた穴の縁にも奧にも、子供の拳程度の大きさの蟹がうじゃうじゃ這い廻っていて、ぞっとした。」










































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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