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間章 『僕はランチにでかける』

「本当に挫折し、身を持ちくずしたことのないものにさびしさもやさしさもありっこないし、生きてゆくことの確かさなんてありっこない。 だから僕は自信家や自分がこれまで勝ちつづけてきたと思いこんでいる人間を軽蔑している。彼らこそもっとも大きな人生の落伍者なんだ。」
(間章 「アナーキズム遊星群」 より)


間章 
『僕はランチにでかける 
〈ロック・エッセイ〉』

OAK BOOKS

柏書房
1992年10月8日 初版第1刷発行
254p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価1,800円(1,748円)
装丁: 宇野亜喜良



間章(あいだ・あきら)の没後刊行評論集。
本文中図版(モノクロ)多数。


間章 僕はランチにでかける 01


帯裏:

「ロック・エッセイに登場するアーティストたち
ビートルズ
ローリング・ストーンズ
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド
マーク・ボラン
パティ・スミス
テレヴィジョン
ラモーンズ
ハート・ブレイカーズ
アラン・パーソンズ・プロジェクト
タンジェリン・ドリーム
アモン・デュール
カン
ブルー・チアー
作家ウィリアム・バロウズ 他」



目次 (初出):

なしくずしの共和国 (「ローリング・ストーン」 1975年5月号)
ビートルズ映画について (「ライト・ミュージック」 1974年10月号)
アトニー現象としての音楽共感文化の闇へむけて (「音楽之友」 1972年9月号)
ドイツにおけるロックの未分化な発現への視座 (「Zoo」 1976年3月号、5月号、10月号)
ローリング・ストーンズにおけるブライアンとその影 (「Zoo」 1976年3月号)
ロックの異化から異化のロックへ (「Zoo」 1976年5月号)
ニューヨーク地下王国の夏そして白夜 (「Zoo」 1976年8月号)
怪奇と幻想の物語・異説 (「Zoo」 1976年10月号)
パンク・ロック論のための覚書 (「Zoo」 1977年1月号)
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド試論 (「Zoo」 1977年3月号)
アナーキズム遊星群 (「ロック・マガジン」 1978年10月号、11月号、12月号、1979年1月号)

初出一覧
何を求めたのだろうか (村上龍)
アーティスト・プロフィール
年譜



間章 僕はランチにでかける 02



◆本書より◆


「なしくずしの共和国」より:

「例えば長くゆるやかな見知らぬ季節の回廊をめぐり、どのような移動感覚からも違和感からも離れて、時のまにまに行きつき、そしてまた通りすぎたこの〈場所〉を私はなんと名づけよう。さまざまな予感、めくるめく受感の風に吹かれ、私がいるところ、そこでは私はついに何者でもなく、ただあてどもない私のあらゆるゆらめきと反映のなかにあって、さだかならぬ囚われのなかにあり、途方もない明示と未明のなかで、さらにきれぎれの破片のうちに身をかがみこませ、記憶の地平にただ白痴のように見入りながら、たった一つの言葉にさえもたどりつけないでいる。
 吹いてくる言葉の海、白痴のようにただひろまってゆく観念のすそ野、あらゆる光景、あらゆる音のなかにあって、私はふと最初の一行から無限に遠ざかってしまう。めくるめく意識の始まり。
 私は……と弱く発語しようとするそのとき、私のあらゆる時制をからめとってしまう、慰安にも似た暴力がある瞬間は私の喉を湿った円筒のように虚ろにしてしまう。そしてただかろうじて私のいるこの〈場所〉だけが、私自身を見知らぬ者として無関心に放置しようとする。ゆえ知らぬ未明のなかへ。
 最初の言葉、最初の一行が、あてどもなく脱落し、私のまわりのあらゆるものが、くずれ落ちる書割のように脱落し、あらゆる光景から脱けでて私は、ゆるやかなゆるやかな脱落のさまだけを目撃している。そして私はどこにあっても旅人でも異邦人でも、記憶喪失者でもなかったように、一個の私ですら始まりもせず終りもせずに、ただかすかな寒さのなかに〈私〉を覚めつづけているだけだ。
 たどりつくもの、それはいつも〈冬〉であった。そして始まってしまった始まり、それもいつも〈冬〉だった。
 私はただ〈寒さ〉のなかにかろうじて〈私〉の位置を感じ、そして〈寒さ〉をとおして〈私〉へと持続してゆく。例えばそのとき、ただ〈寒さ〉それだけがあらゆる時のさなかにあって私を名指し、いまわしさのなかへと、現前のはてなさのなかへと、私を保持させてゆく……。」

「その日の午後買った英字新聞に、「サルトルがバーダー・マインホフと会見」という見出しを見つける。すでに一年あまりの監禁に服させられている西ドイツの赤軍と呼ばれるバーダー・マインホフにサルトルが特別に会見を許され、質問状による幾つかの質問を行ったが、マインホフの三人は抵抗のための絶食と独房と取調べを通じた完全な沈黙により、発言を許されても痴呆か記憶喪失者のごとくうわごとのようなつぶやきをくり返すだけで、どうも脳に障害が出てきたらしく、サルトルの質問に一つとして答えられなかったというのが、その内容であった。ドイツの最初の日、この記事を目にし読んだことは何か象徴的に思えた。例えば、バーダー・マインホフのおのおのが西ドイツ政府の尋問に全的に拒否の姿勢を貫くということがこの場合、彼らによって自覚的、意志的な自己の頭脳破壊つまり知性解体としてとらえられたのかもしれないという可能性が予感されたからであるし、意志の力をとおして黙秘しつづけるという戦術を超えた、また自決し死を選ぶという戦術を超えた、新しい位相においての抵抗の地平がうかがい知れたからである。敵の体制は常に全的であるし、死も断念も許されないものとしてある以上、それに根底的に抗することはこちらの意志のバネを通じた飛び越え、こちらの新しい知の形、あるときは狂気の創造、自己破壊、知能錯乱が用意されねばならないということが浮かびあがってくるからなのである。向こう側の、つまり敵の用意する狂気に対峙する、こちら側の知、または狂気、このことはおぼろげに、そして遠くはあるが現存の音楽や芸術総体をとりまく状況と深く抵触してゆく。つまり現前を支え、それを補完させてゆく無関心=アパティアと、それに対してゆく創造的な無関心=ニル・アドミラリとの対決という事柄が立ち現れてくるからなのだ。無限の許容と無限の抑圧を有する体制と、それをなし支えてゆく無関心はすべての具体的指標、具体的認識、具体的方針、具体的発言をからめとって肥大してゆくものである以上、すべての異端とか辺境とかの、もう一つの、別の、アンダーグラウンド(地下)のという言葉でくくられてゆく領域なり、それが指し示し目指そうとするものは、体制と反体制、異端と正統といったさまざまな二元的思考の貧困さのそのまさにただなかで包囲され、なしくずしにされ、あるいは自死し、あるいは体制なるものに組み込まれ光を当てられ、あるいはそれ相当の存続可能な場所を与えられてしまい、色あせ消え入ってゆく運命をしか持たないものなのだ。」



「ドイツにおけるロックの未分化な発現への視差」より:

「〈カオス〉からの超出とは、〈カオス〉を秩序化することではない。〈カオス〉を法則化し、〈カオス〉をエネルギーとするということでもない。それは〈カオス〉からまったく新たな地平を創出し再生することなのだ。〈カオス〉のなかで一度死に絶え、そこからまた新たに始まろうとすることなのだ。というより、何よりも〈カオス〉のなかで自己破壊と自己発見を同時に見つめ、あらゆる関係と制度の変容を戦略的に用意することなのだ。だから自己破壊者はどこまでも自己に客観的で冷静でなくてはならないし、狂うためにはどこまでも覚めつづけなければならない。〈カオス〉の超出とは〈カオス〉を否定することではない、それを破棄することではない。それは〈カオス〉外のものを〈カオス〉へ巻き込むこと、〈カオス〉ならぬものを〈カオス〉化してゆくことなのだ。さらに言おう、〈カオス〉からの超出とは〈カオス〉から出てゆくことではない。〈カオス〉のなかにこそ入口と進路を見いだすことなのだ。そのことによって〈カオス〉とそうでないものとのあいだに有機的な回路と運動的相関関係を築くことなのだ。」
「アヴァンギャルドの時代は終った、というのは簡単だ。しかしそうではない、形式的なアヴァンギャルドの時代がまずは終ったのだ。そしてそれとともに、形式的なファッション的なインテリ的なアヴァンギャルド・ミュージシャンがほうむり去られるだろうということにおいては喜ばしいことだと言ってもいい。」
「「ロックンロールは有毒だ」とかつてルー・リードはいった。有毒でないロックや音楽があるだろうか。もしそんなものがあるとしたら体制のもの、われわれを押し殺し、すり切らせるためのものでしかないはずだ。あらゆるものが有毒であり、破壊的でなければならない。創造とか解放というのは毒や暴力がわれわれのものであり、われわれにとって闘いや目覚めの武器や方法であるときだけ、その毒や暴力によって生み出させるものにほかならないのだ。それをポエジーと名づけようがニヒリズムと名づけようがロックと名づけようが、そんなことはたいしたことじゃない。われわれは名づけるよりも前にそれを使うだろう。それが有毒か有効かどうかは、われわれの傷の深さと、困難さの質によってはかられるだろう。われわれはわれわれの快楽や娯楽の質と構造を変えなくてはならない。無関心の質を、感性の在り方を変えねばならない。それがわれわれにとっての〈カオス〉超出のひとつの手がかりであり、われわれがロックへ指し向ける創造的な悪意、破壊的な愛着となるものだからなのだ。すべての〈安全〉と〈健康〉と〈秩序〉に毒を、死を注射しよう。」



「ニューヨーク地下王国の夏そして白夜」より:

「バロウズはそのジャックス・バーという店のすみで、テキーラのソーダ割りのようなものを飲んでいた。(中略)僕の「ドラッグ体験が人間の解放へつながる道はどのようにしてあり、どのようにしてわれわれは抑圧との戦いを個的にも、社会的にも推し進めることが可能なのか」という質問をすると、彼はつぎのように答えた。
 「私はもう四十年近くヘロインをやっている。止めたつもりはない。私はかつてすべての人間はジャンキーなのだし、またジャンキーになるべきだと言ったことがある。つまりこういうことが言いたかったのです。宗教や生活そのものに中毒しているジャンキーよりも麻薬のジャンキーのほうが人間的なのだし、より自由なのだと。麻薬はわれわれの甘っちょろいヒロイズムや夢や論理を打ちくだき、肉体とは、生きるとはどんなことなのかを教えてくれるのです。十年前の私と現在の私とは幾分変わっていますが、人間はジャンキーになったときこそ、そのぬかるみのなかで真の人間の自由を知るのです。(略)そしてすべてのドラッグ体験はわれわれがそこに押し込められている〈自我〉をこわし、ふみつけにすることを意味しているのです。私はありとあらゆるドラッグをやりましたが、それはそのことについて醒めるためでもあるのです。ジャンキーであればあるほど、禁欲的でモラリストでなければならないという逆説をあなたは信じますか。ジャンキーであること、それ自体がすべてとの戦いでもあるのです。そしてジャンキーは自分が孤独であるということをごまかしも隠しもできない人間なのです。二億人のアメリカ人がすべてジャンキーになったとき、戦争はおきないでしょうし、また差別を止めるでしょう。もっと具体的なことを言いましょう。〈自我〉との戦いなくして、社会は変革できないし、社会との暴力的対決なくして〈自我〉は変革できないということです。われわれは社会そのものをジャンキーにすることを考えねばなりません。ヘロインが害毒だという宣伝はまちがっています。そういう人こそが社会にとって害毒なのです。ジャンキーになったこともなくてヘロインを止めろなどと人に言えないはずですから。ジャンキーは死と狂気とともに生活しています。オーヴァーな量を打てば死ぬし、方法をまちがえば狂うこともあるからです。しかし、ジャンキーは決してそのまま敗北者なのではありません。回数を守り、量を守りという細心の注意を払うことに敗(ま)けたものだけが、その場合、敗北したといえるかもしれませんが。社会に同調した進歩主義者や、順応主義者や右翼にくらべたら、とるに足らない敗北です。麻薬を止めさせろという右翼こそが真の敗け犬なのだし、社会の中毒者なのです」」
「彼はまたつぎのようにも言った。「誰も麻薬を止めさせたりできないさ。売春も同性愛も。それが人間の自由の形なんだ。もしそれで人間が亡びたっていいじゃないか。原子爆弾で亡びるよりはずっといいんじゃないのか。最下層の人間たちのヒューマンさを知らない人間が、平等を与えるとか言うのさ。人間が平等だって、そんなことあるもんか。平等主義こそが差別主義だし、エリートの思想なんだ。(中略)ノーマルな人間なんてどこにいる。ホワイトハウスのやつらか。(中略)そうじゃないんだ。生きていること自体が毒だし、ライフ自体がアブノーマルじゃないか。われわれの本当に生き残るべき理由も知らないくせに、生き残り、支配することを考えるやつらこそ殺さなければならない。正義なんか持たないことだ、理想なんか持たないことだ、正義なんてあるはずがない。夢を決して持たないためにはジャンキーでなければならないのだ」」



「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド試論」より:

「夜が続いている。しかし一度だって本当に朝が訪れたことなんてあったのだろうか。
 ただ夜だけが続いてきた。その夜の底を伝わってすべての秘かなことが受け入れられ、そして持続されてきた。
 ありとあらゆる殺意が、愛が、残酷が、あわれみが、生成が、亡びが、憎悪が、やさしさがその夜のなかを生きてきた者たちによって〈今〉と〈ここ〉へまで渡ってきたのだった。(中略)地上の自我と制度に呪縛され、アドレッセンスと終末にとらわれてきた夜に潜む者。誰よりもやさしさと悪について、愛と亡びについて知っている夜に潜む者たち。お前たちは肉体と感性によって、そしてイマジネールと個体意識によって、言葉と情動によって十字架にかけられた〈夜の子供たち〉だ。
 物質としての肉と、アストラルとしてのサンチマンにひき裂かれ、はりつけにされた〈夜の子供たち〉〈無秩序(アナーキー)の子供たち〉だ。
 お前たちはいつも亡びとともにあった。そしてそれゆえにこそどこからも遠く、この人類の先端と底にあった。
 「現にあるものそれはすべて廃墟にすぎない」
 このことの深い意味をお前たちは誰よりも知っていた。
 「この世のあらゆるものは地獄のさなかなる果てしない地獄の旅の途中である」
 このことについてお前たちは誰よりも身をもってそれを知っていた。
 そしてお前たちは言ったのだ。「いつわりの救済よりは亡びを」「現(うつ)しに建てられるあらゆる殿堂よりは、この廃墟を」と。
 そうなのだ、お前たちは〈亡びの子供たち〉でもあったし〈廃墟の子供たち〉でもあった。
 肉と精神と霊性のことごとくにおいて分離したこの地上では、そしてお前たちこそが誰よりも醒(さ)めた者たちだったのだ。」
「人が太陽や花や生の営みに目つぶしされている以上に、お前たちはデカダンスと狂気と死とともに生きている、決して同化できないながらも。そして本当は逆説的な意味でお前たちこそが誰よりも太陽や花や生の営みの本質を知っているのだ。
 ただ今は〈夜〉がある。〈夜〉だけがある。
 〈寒さ〉と〈飢え〉と〈狂気〉とともに。あらゆる〈自虐〉と〈サディズム〉、限りなくやさしさと同質の〈暴力〉そして〈ドープ〉とともに。
 お前たちはそして常に〈もう一滴の毒〉を飲みつづけ、〈もうひとかけらの破壊への愛〉を抱きつづけ、〈さらに微(かす)かな狂気と悪意〉をかかえてこの生の〈荒野〉をこの実存の〈迷路〉を生きてゆく。
 私はそのお前たちの〈夜〉に与(くみ)する。
 お前たちの凶々しさと孤独と狂気に与する。というのは私は決して〈日常生活のジャンキー〉や〈制度の犬〉や〈健全な生活を生きる敗残者〉〈幸福と平和の奴隷〉〈権力のシステムの一部としての安全な生活者〉の側に与しないからだ。私はお前たちの毒と亡びと悪意に、この地上のとらわれから本当の形で脱する可能性の一部をかけるからなのだ。お前たちの〈夜〉のなかにこそ、真の闘いの地平があると信ずるし、闘いの入口と出口とその過程があると信ずるからだ。というより私はここで告白しよう。私自身もより多くお前たちの〈夜〉のなかへ身をひたしているし、その〈夜〉のアナーキーとテロルから真のアナーキズムとテロリズムを導き出そうとしているからなのだ。
 しかしお前たちが現にいるところの夜はまだ今は本当の〈夜〉にとっての〈長い前夜〉にすぎない。お前たちはあらゆる負性を負っているのだ。お前たちの無関心と迷いと血と傷のなかからしか何も生まれないとしても、しかしお前たちはこの現実と現世、地上の圧制のまだ皮相なアンチ・テーゼと逆理と反逆の位相にいるだけだからなのだ。あらゆる〈夜の子供たち〉よ、〈異形の者たち(フリークス)〉よ、まだ夜の底へ堕ちてゆけ。まだ毒の海へ入ってゆけ。まだ狂気と亡びへ降りてゆけ。お前たちが風化してゆかないためには、制度にくるまれないためには、秩序が与える〈なしくずし〉からのがれるためには、静止と固定と形式からのがれるためにはそれが必要なのだ。本当の地獄を探せ。本当の廃墟へ向かえ。お前たちの〈夜〉はありとあらゆる意味で忌(いま)わしく狂おしくなければならない。そのためには最後の夢さえもしめ殺してゆかなくてはならないのだ。」



「アナーキズム遊星群」より:

「私はアナーキストこそを見いだしてゆくだろう。もはや制度や思想の一切を超えたアナーキストたちを。これからはアナーキストを探しだすために旅に出る。そしてその旅の果てに私こそひとりのアナーキストになるために。」
「スーサイドをニューヨークで聴いた夜、私は彼らとの出会いの喜びのあまり、したたかにやりすぎた。そして一時的に眼が見えなくなってしまった。そして闇のなかでぼんやりと思ったものだ。「ニューヨークは巨大でにぎやかな廃墟だ。私はその廃墟のなかで未知の〈夜の子供だち〉と会うだろう。彼らがどのように凶々しく、どのように邪悪であろうとも、どのように退廃的であろうとも、彼らこそが真に生きている者たちだ。なぜなら彼らこそ痛みとやさしさをもっともよく知っている者たちだからだ。そして今後は失うべきものなど何もない」
 それは決意ではない私の覚めだった。決意などバカげている。
 そして私は私のなかですべてが終る日まで書きつづけてゆくだろう。たぶん私が〈廃墟〉そのものになる日まで。(中略)それは〈廃墟〉であって決して死ではない。先にあげたシオランはまた次のようにも言っている。「自殺について語るとき、私はかつて一度も、大いなる敬意を払わずには口を開いたことがありません。もし自殺というイデーが存在しなかったとしたら、私は完全に絶望していたことでしょう。このイデーは想像されるような閉じられたものではありません。すべてに向かって開かれた何ものかなのです」「自殺という観念はいわば私の補助者であり、この観念のおかげで私は今まで生きてこられたのです」
 ここでシオランが語ろうとしているところが廃墟への出発点ではないかと私には思われる。スーサイドはすばらしい。何ものでもないことによって輝かしい。その輝かしさは今の世にあってはかけがえのないものに思える、絶望的に。パティ・スミスは三度聴いた。彼女は痛みを知ることによってやさしくなりえた女だ。だが決してこのスーサイドのようには輝かしくはない。」

「二年ほど前にニューヨークでウィリアム・バロウズと会った。会った瞬間に僕は分かった。この男は本当に地獄を生きて通りぬけてきた男だと。もう老人なのだが、その顔はどこまでも静かでやさしく、その影にこの上ない孤独さとある凄惨さを潜めていた。このウィリアム・バロウズは僕の知っている本当のアナーキストのひとりだ。デレク・ベイリーがそうであるように。彼はバロウズ計算器の社長の家柄に生まれて、それらの一切を捨て、そしてジャンキー=麻薬中毒者になった。この人ほど徹底的にジャンキーだった人はいないのではないかと思う。(中略)ニューヨークで会ったとき、バロウズは話のなかで言ったものだ。「ヘロインのジャンキーは本当にはジャンキーではない。彼らこそ痛みとやさしさとを知っているナイーヴでデリケートな人間たちだからだ。本当のジャンキーとは日常生活や家庭生活や社会のジャンキーたちだ。日常や家庭や結婚や社会の秩序を信じて、そのなかに安全であると信じて生きている人たち。彼らこそがジャンキー=中毒者なんだ」」

「今生きつづけている人が何人いるだろうか? どの街もどの通りも世界じゅう生きている死人たちで満ち満ちている。本当のやさしさとも亡びともついに無縁の人たちで満ち満ちているのだ。
 本当に生きつづけてゆくのは、単に生きてゆくことよりずっとむずかしい。だってちょっとでも気をぬけばもう〈なしくずし〉が待っているのだから。自らの地獄を直視し闘ってゆくものしか本当には生きてゆけないのだ。そして戦士には休息なんてありっこないし、ましてや永久革命者の悲哀なんてありっこない。
 本当に挫折し、身を持ちくずしたことのないものにさびしさもやさしさもありっこないし、生きてゆくことの確かさなんてありっこない。 だから僕は自信家や自分がこれまで勝ちつづけてきたと思いこんでいる人間を軽蔑している。彼らこそもっとも大きな人生の落伍者なんだ。」

「僕はちょっとランチに出かける。
 それは闘いながら死んでいった者たちとまだ闘いつづけている者たちとの会食だ。
 世界で一番強い酒でもさげてゆくか。多分それは水だろう。
 きっと笑い声に満ちていて楽しいだろう。
 だって地獄ほど楽しいところはまたとないのだから。やさしさのあるところには必ず亡びがある。そしてさらに言っておこう。亡びのない闘いはない。僕はその果てへこそ向かおうとしている。だがその前にちょっとランチへ出かける。このランチには遅れるわけにはいかないのだ。」

「ルー・リードはこの世の最高のミュージシャンの一人だ。(中略)そして何より彼が素晴らしいのはあの『Metal Machine Music』を生み出したからだ。」
「『Metal Machine Music』は断じて実験ではない。それは現代の霊のある際立ったところによってロックが生みだしえた現代の霊的な音楽なのだ。もちろんこの音楽が持つ毒と危険さを知った上で、私はロックがルー・リードという存在を経てひとつの霊的な次元にたどり着いたのだということをはっきり受感した。アナーキーといえばこれほどアナーキーな音楽はない。このアナーキーはしかし逆理的に豊かな反映としてあるのだ。現代の孤独な人間の迷える魂とそれゆえに開かれた窓の……。人びとは二十年後に初めてこの『Metal Machine Music』の示す重要な意味について知るだろう。この悪い時代、ブライアン・イーノやディーヴォというフェイクの時代、私にはルー・リードこそひとつの闇めいた光に思える。(中略)ルー・リードは誰よりも遠いところへいった。誰よりもアナーキー、それが生きることの本質であり、愛することの本質であるということを知る深いところまでいった。孤独な魂は救いうるか? という人間の永遠の問いにルーは身をもってひとつの可能性を開いたのだ。たとえば〈自分自身を見つめ、自分自身と出会うことによってあらゆる地獄を誠実に生きそして超えることによって、自己は非人称の愛によって救われる〉、そしてそれは〈自分をあるがままに自らの固有性において高めることによってのみ可能である〉という方位において。(略)やさしさはすべてではない。自我によって守られている限りは。人は一生を通した自分の経験をけんめいに生きることによってしか何ものにも達しえない。一生が修行なのだ。そして愛すること以外に何があろうか。
 そして本当に wild side を歩いてきた人間以外に。」
「めくらがいる。めくらの音楽で満ちあふれているこの世にあって、ルーは本当に貴重な存在である。そのことを知っている者だけが今は僕の仲間だと思う一日がある。
 とてもつらく、とても幸せな日々が続いている。何度か自殺の誘惑にかられた。
 そしてそのたびに生きていることの大切さと喜びをかみしめるのだ。
 もう今はこれ以上書けない。この先には空白がくるでしょう。しかしその空白は空虚さとは違う、あらゆるものに満ちあらゆるものがせめぎあう充満の空白なのだ。Step out!
 夜は明けそうかい? ワンワン。」




















































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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