種村季弘 『魔法の眼鏡』

「眠っている少女は可愛らしい。けれども、その無垢の寝顔の背後には、(中略)おそろしい怪物がひしめいていて、少女は必死で彼らと戦っているのです。」
(種村季弘 「眠れる少女の夢」 より)


種村季弘 
『魔法の眼鏡』


河出書房新社 
1994年2月15日初版印刷
1994年2月25日初版発行
218p 
四六判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,000円(本体1,942円)
装丁: 中島かほる



本書「あとがき」より:

「それを掛けるとあらゆるものが薔薇色に見える眼鏡もあれば、またあらゆるものが暗黒に見えてしまう眼鏡もある。しかしいずれにせよ、あらゆるものが薔薇色なら薔薇色、黒なら黒、と同じ色に見えてしまうのでは、何の色もないのと同じことで、おもしろくも何ともない。
 魔法の眼鏡はそれとはちがう。これを掛けると妖婆が美女に見えたり、美女が妖婆に見えたりもする。思いがけないものが見えてくるのだ。肉眼では見えないもの、つい見落としていたものが見える。それでいて見る対象は、現在肉眼に見えているものでしかない。それが、これを掛けて見ると、みるみる見慣れた外見をかなぐりすてて思いもかけない姿に変貌してしまうのだ。
 そんな話に目がなくて、機会のあるごとに物語風にまとめてきた。それを一冊の本に編んだのが本書である。私なりのメルヘン集と思って下されば幸いである。
 なかに、いかなる眼鏡も掛けないで世界を見た男の話が、一つだけまぎれ込んでいる。フリードリヒ二世の『鷹の書』の話。魔法の眼鏡をずっと掛け続けていると、それはそれで世界が一色にしか見えなくなる。最後にはそれを外して見る。するとどうなるか。それが巻末の一章の意味であると思って頂きたい。」



本文中図版(モノクロ)多数。


種村季弘 魔法の眼鏡 01


帯文:

「魔法の眼鏡をかけてみると
不可視の世界がみえてくる

だまし絵のように反転する
魔訶不思議なエッセイ集」



帯背:

「だまし絵のような
エッセイ集」



目次 (初出):

I ドラゴン物語
悪龍、美女に変身す――ドラゴン伝説の周辺 (出典不詳)
空とぶドラゴン東西話 (「みやこさろん」 1989年秋号 近鉄都ホテルチェーン)
ベラ・ドンナのまどわし (「現代思想」 1987年10月号 青土社)
天使の愛・悪魔の愛 (出典不詳)

II 妖精物語
眠れる少女の夢 (「ペーパームーン ペロー・狼とガラスの靴幻想」 1981年10月10日 新書館)
異説『ヘンゼルとグレーテル』 (「二期会オペラ公演パンフレット」 1988年12月24日 二期会オペラ振興会)
青ひげV.S.赤ひげ (「TOKYO CITY PHIL CONCERT」 No.21 1981年6月 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団)
『妖精の書』について (出典不詳)
コボルトの話 (「CEL」 Vol.3 1987年 大阪ガスエネルギー・文化研究所)
幻想植物園 (「小原流挿花」 1991年5月号 財団法人小原流)

III 魔法物語
薔薇十字団と黒魔術の鏡 (「トップパンチ」 1971年8月増刊号 檸檬社)
心臓の話 (「チャイム銀座」 1989年9月号 (株)K&Dコーポレーション)
魔法の眼鏡 (「めがねの本」(非売品) 1984年3月号 (株)ペンタックスカールツァイス)
『夏の夜の夢』のタロット占い (「太陽」 1979年12月号 平凡社)
占いの絵図を解く (「ブルータス」 1990年12月15日号 マガジンハウス)
箱としての世界 (「CLINICIAN」 Vol.28 1981年4月1日 (株)エーザイ)
美しい不吉な贈り物 (「太陽」 1980年12月号 平凡社)

IV 錬金術物語
錬金術師らしからぬ錬金術師 (「歴史読本」臨時増刊号 1983年9月号 新人物往来社)
錬金術の色 (「東洋インキニュース」 66号 1990年10月15日 (株)東洋インキ)
強者の黄金・弱者の黄金――ソロモン王の秘宝 (「BA・SA・RA」 1991年1月号 (株)アメニティメッセージ)
みにくい神の話 (「CEL」 Vol.16 1991年 大阪ガスエネルギー・文化研究所)

V 奇人物語
大海賊の末路 (「BOW」 1980年 No.4)
美しき落下傘スパイ (「資生堂インウィーレディー」 Vol.15 1982年秋号)
終りのない決闘 (「月刊小説」 1991年2月号)

VI シチリアの鷹
シチリアの鷹――フリードリヒ二世の『鷹の書』 (「CEL」 Vol.7 特集「鳥」 1988年 大阪ガスエネルギー・文化研究所)



種村季弘 魔法の眼鏡 02



◆本書より◆


「悪龍、美女に変身す」より:

「さなきだに中世ではドラゴンは悪魔と同一視されていて、有鱗の胴、嘴のある醜貌や手足の鉤爪ないし水掻き、トカゲ状の尾などから構成された悪魔のイメージはドラゴンの畸形とそっくりである。つまり悪魔もドラゴンも、その身体部位のそれぞれを人界からもっとも遠い水中や大空や森や山岳地帯に生棲する生物から採集した上で合成されており、人界が秩序に守護されているとするならば、これにたいする渾沌として造型されたのだった。
 この一事からしてもドラゴンが渾沌といかに深い関係にあるかが知れようというものだが、さて、始末に悪いことに、渾沌は秩序形成以前に存在したばかりでなく、秩序の外側にいまも身をひそめているばかりか、秩序の崩壊とともに隠されていたその全容を明らかにするやもしれない。ドラゴンが黙示録的な終末思想と結びつきやすいのはそのためである。ゲルマン神話では悪魔的な神ローキーの後裔であるミドガルドの蛇が万有の周囲にとぐろを巻いている。そこでアーゼがこれを海のなかに投げ込むと、ミドガルド蛇は水のなかでみるみる巨大に成長し、ついには大地を全身で取り巻いてしまう。ミドガルド蛇のこの大地緊縛は雷神の鉄槌が下る日まで解けないが、縛が解かれるその日は世界の終りの日であって、このとき地上はふたたび渾沌の支配下に入るであろう。
 ひょっとすると現代の映画やSF小説にしきりに現われる、放射能汚染のために突然変異したドラゴン状の怪物たちは、渾沌への古き終末論的恐怖と期待の隔世遺伝現象なのではなかろうか。(中略)それは人間をはじめとする哺乳類がみずから招いた環境不適応のために地上から絶滅し、かつて古代跛虫類の原因不明の死滅の後に哺乳類が出現したように、現在の哺乳類の死の後にふたたび未来の巨大爬虫類が地上に君臨する戴冠式のためのお触れのごときものではないだろうか。
 そういえばバジリスクが王冠を戴いている図がどうも気になるのである。私たちの神話も、イザナギ、イザナミの最初の子ヒルコが爬虫類に似ているために渾沌たる海に差し戻されたが、しかし進化の長大な過程のなかで爬虫類と哺乳類の分岐する点までさかのぼるなら、地質学的変化がそのときどきで適応可能な両者のうちの一方を選択してきたのだから、類的本能の深層における人間とドラゴンの戦いはまだ決定的には終っていないというべきなのである。人間が人間となるためにはドラゴンを殺さなければならなかったが、このイニシエーションは先方にとっても同様である。ドラゴンが空想の世界から現実に帰還してくれば、人間は地上を去って空想の領域に移り住まなければならない。
 しかし、だからといってドラゴンは人間の永遠の敵ということにはならない。錬金術の寓意画にはしばしばドラゴンが象徴獣として登場するが、そのもっとも重要なものはみずからの尾を咬んでいるウロボロス(宇宙蛇)である。発端にあった蛇(渾沌)と終末にくる蛇(渾沌)とは一つの円環となって結びつく。これが賢者の石もしくは完全性の象徴である。円環が結ばれるとき賢者の石探究の道士は象徴的に地上を去って、高次の不滅の精神の王国に移り住む。とはつまり、二度目にドラゴンがやってくるときに私たちが移り住むべき世界は、ありようはこうした魅せられた仙境なのだ。」



「眠れる少女の夢」より:

「眠っている少女は可愛らしい。けれども、その無垢の寝顔の背後には、フュッスリの「厭夢魔(ナイトメア)」に描かれているようなおそろしい怪物がひしめいていて、少女は必死で彼らと戦っているのです。幻想を生きながら現実と和解する道はありません。いや、たった一つ、それが可能かもしれない道があることはあるのですが、(中略)それは少女期の甘くおそろしい幻想を引き伸ばしながら、その夢のようにとりとめのない無定形のイメージに言葉や形による秩序を与え、いわば夢や幻想を生捕りにしてしまう芸術家や詩人の仕事です。
 けれどもそれが、家事なんぞとは段ちがいの、想像を絶するきびしい訓練と緊張の上にはじめて成り立つか、あるいはむしろつねに崩壊の危機にさらされている創造作業であることは、申すまでもないでしょう。」



「錬金術の色」より:

「まず黒い土、鉛、いやしい汚れた金属があり、そのなかを冥府や地下世界をくぐり抜けるように通過してさんさんと光あふれる浄化された地上にふたたびめぐりあうのでなければならない。ダンテの『新曲』の地獄、煉獄をへめぐって到達する天堂界を思われるがよい。このように精神のはたらきが通過しなかった物質はただの死んだ物質にすぎず、逆にいえば、精神の裏付けがあってはじめて死んだ物質はよみがえり、復活するのである。その意味で、錬金術は物質を相手にする作業であるよりは、あくまでも精神の作業であって、暗い物質の世界においてさまざまの艱難辛苦に出会う旅を続けた後に、魂の高次の姿に生れ変るという倫理的な作業なのだ。しかも物質世界のいくつもの形相を通過するので、そのたびに、魂は白化とか赤化とか、各段階に固有の色に変色する。この色彩の神秘学は一口には申しにくい。」


「みにくい神の話」より:

「火も噴くが、同時に地震を起こし、農地に灰をまきちらして、都市や農村に壊滅的な打撃を与える火山活動は、人間生活にとってなるほどありがたいものではないかもしれない。しかしかりそめに安定した生活を破壊すると見えて、じつは高度の精神活動に向かって生活を変形するかけがえのない機会もまた、火山爆発は与えてくれる。古代地中海の人びとは二つの火を知っていた。ひとつは地下=冥府に閉じ込められた火であり、もうひとつは天上に燃える火である太陽だった。そもそもひとつの火=光であったものが二つに分割されて、一方は天上にのこり、一方は地中に閉じ込められ物質に囚われている。その地中の(汚された)火を物質の闇から解放して、天上の純粋な火にふたたび帰一せしめること。それが鍛冶師・錬金術師の究極の目的である。
 火山活動は自然界におけるそのモデルであった。」

「高熱のため液状化した金属は、冷却・凝固の段階を経てふたたび加熱され、第二第三の変形・精錬の過程にさらされるだろう。水の冷却作用によってかりそめに固定されれば、一時的にはアポローン的に安定した美に到達する。それはしかし所詮は地上に属する美であって、いまだ来たらぬものを求めてやまぬ精神は、これをまたしても熔かし変形し続ける。その永遠の変形作業を先導するのがみにくい鍛冶神なのである。」



「シチリアの鷹」より:

「フリードリヒ二世は耳学問を一切信用しない。この目で見た実経験がすべてに先行する。寓意動物誌を彼はとことん疑い、ことごとに実地観察にゆだねた。」
「『鷹の書』の序文に彼はこう書く。「われわれの意図は、げんにある事物を、そのあるがままに目に見えるようにすることである。」事物の前にも背後にも、なにか事物以外のものを見るということをしない。事物がなによりもまず事物それ自身であることをこの目で見るのである。ときとしてそれが、彼をして事物の破壊にみちびくこともなくはない。見知らぬ玩具をあたえられた子供が、それがどうなっているのかを知りたくて、なかをこじあけてしまうのと似ている。自然とその法則に対する好奇心、知性の祝祭としてのあくなき好奇心は、ときとして無邪気にも残酷な破壊の相を帯びる。それはとりもなおさず、少年の晴れやかな知性の残酷さである。」
「皇帝はあるとき二人の男に食事をあたえて、その一人は食後ゆったりと休ませ、もう一人には運動をさせた。それから二人の胃袋を解剖させて、さてどちらのほうが消化がよかったかを見せてもらった。」
「自然とは彼にとって、機械のように分解し構成することのできるなにものかだった。自然はもしかすると彼には、機械=玩具だったのかもしれず、それをあやつることにかけては彼は天性の才能の持ち主だったのかもしれない」


























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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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