谷川健一 『独学のすすめ』

「正統的な学問をやれば大学の先生になり、社会的には認められ、自分でも安定感をもつかもしれない。しかし独学者にはそれがない。(中略)社会的評価というのは、独学者にとってはある意味で邪魔でもあるわけです。本当の独学者というのは、それを無視できるわけです。」
(谷川健一 『独学のすすめ』 より)


谷川健一
『独学のすすめ
― 時代を超えた巨人たち』


晶文社 1996年10月15日初版
253p 人物年表xxiv 初出一覧その他2p
B6判 丸背紙装上製本 カバー 
定価2,300円(本体2,233円)
ブックデザイン: 平野甲賀



本書「生きた学問とは何か」より:

「権威主義の学問はいずれにしても硬直をまぬかれません。それは知識の死滅につながります。そこに生気をあたえてよみがえらせるためには、在野の精神が必要なのです。またアカデミズムが眼をむけなかった分野へのあくことのない好奇心が求められるのです。そうした未知の世界に進むには、既成の尺度は役に立ちません。そこでは独創の精神が不可欠です。独創ということに焦点をあてると、独創的な大きな仕事をした者はみんな独学者です。大学者というのはまた別にいますが、独創、オリジナリティは、お仕着せの知識をうのみにすることを拒否する精神だけにもたらされる栄光である、といっても言いすぎではないと思います。それこそが生きた学問の名に値するものです。」


本文中図版(モノクロ)多数。


谷川健一 独学のすすめ1


「BOOK」データベースより:

「柳田国男。南方熊楠。折口信夫。吉田東伍。中村十作。笹森儀助。明治から昭和にかけて、既成の知識に縛られず、自分で自分の道を切り拓いた巨人たち。彼らは何よりも「お仕着せ」を嫌い、誇りをもって独りで学び、独自に行動した。強烈な光を放つこの6つの個性は、いかにして生まれたのか。在野の民俗学の第一人者が、彼らのライフヒストリーを通しておおらかに語る「独学のすすめ」。」


目次 (初出):

南方熊楠
 独学のすすめ (第二回南方熊楠賞受賞記念講演 1992年)
 二人の巨人 南方熊楠と柳田国男 (南方熊楠没後四十周年記念講演会 1982年)
柳田国男
 柳田学をいかに受けつぐか (「国文学」第30巻1号 1985年/「柳田学の継承に向けて」を改題)
 沖縄との出会い (播磨学講座 1992年/「柳田国男と沖縄」を改題)
折口信夫
 柳田国男と折口信夫 (「コンステラツィオーン」No. 287 1994年/「民俗学の現代的な衝撃力」を改題、大幅加筆)
 日本人の神をめぐって (「国文学」第30巻1号 1985年/柳田の神と折口の神と」を改題)
吉田東伍
 辞書に地霊を吹きこんだ学者 (安田歴史地理研究会主宰「吉田東伍とその周辺」展での講演 1993年 於新潟県北蒲原郡安田町)
中村十作
 沖縄・人頭税廃止に立ちあがった青年 (「中村十作フェスティバル」での講演 1995年 於新潟県中頸城郡板倉町)
笹森儀助
 辺境の旅人 (シンポジウム「笹森儀助の探験と八重山の伝統芸能」での講演 1995年 於青森市)
おわりに 生きた学問とは何か (語り下し 1996年3月15日)

あとがき
登場人物の紹介

登場人物対照年表

初出一覧
資料提供協力者




◆本書より◆


「私は学校卒業証書や肩書で生活しない。私は私自身を作り出したので、私一個人は私のみである。私は自身を作り出さんとこれまで日夜苦心したのである。されば私は私自身で生き、私のシムボルは私である。のみならず、私の学問も私の学問である。
 かくして私は自ら生き、またこれからもこれで生きんと思う。
                 鳥居龍蔵『ある老学徒の手記』」



「南方熊楠」より:

「もしも知識が所与のもの、つまりお仕着のものであったとするならば、その知識に対する姿勢は自動的であり受け身である、またその知識に対する姿勢は、むしろ知識が主人公で自分が従者であるようにもなりかねないのです。」
「真に自分の身につく学問や知識は、独力で勝ち取ったものであります。」

「ここで私は南方熊楠・柳田国男・折口信夫のこの三人を念頭において話をすすめたいと思うのですが、この三人にはいろんな共通な点がありました。それは、三人とも人の真似をすることが大嫌いだという性格が共通しています。真似をすることは大嫌いである。生理的なまでに苦痛なのです。」

「柳田は大正二年、田辺に熊楠を一度訪問したことがあります。この話もまた有名な逸話ですが、熊楠は非常にはずかしがりやだった。手紙をこんなに往復していても、人に会うときは素面では会えないのです。熊楠は、柳田とその友人の松本という人をたずねて宿屋へ行きますけれど、はずかしいものですから、もうその前に宿屋の帳場で酒をしこたま飲んで、ぐでんぐでんに酔っぱらうわけです。そして会うのですが、かなり酩酊していて、途中から熊楠は家に帰ってしまいます。で、柳田と友人が、翌日あいさつに行きます。すると熊楠はどてらを着て、かいまきのそでの中から声を出したというのです。」

「熊楠の特徴というのは、どんなささいなことにでも全力を尽くした、ということだと思います。」
「考えてみれば、彼が守ろうとしているのは小さな祠(ほこら)なのです。それは、一握りの土の上に建った小さな神の社であるし、一本の木かもしれません。しかし、それを守るために全力を尽くす人間がいたことは、これはすばらしいことです。」



「折口信夫」より:

「柳田は今まで民間に語られている話をたくさん集めて、文字化されず、規格化されない日本の物語の中に、日本の歴史の裏側にひそんでいる、あるいは日本の歴史に先行するもうひとつの歴史、つまり先住民と後来の人たちとのたたかい、妥協、和睦や婚姻といった歴史を、山人という切り口を通して考えようとしたのです。ここが、これまでの学問のやり方とはちがうのです。」
「サンカの話、イタカの話、山人の話なんてこれまでだれも研究していないし、学校に行っても教えてくれないわけですね。けれども柳田のような好奇心は、学校で学ぶことは学問のごく一部であり、学校で習わない学問もあるのだと見ていくのです。だれも教えてくれなければ、独学でやるしかないということになります。(中略)しかし、そうなると柳田は当然一人でやっていかなくてはならない。非常に孤独です。独学者というのは、羅針盤を自分でつくらなくてはいけない。自分で分野を開拓して、自分で進めなくてはならないから、孤独ですね。」

「柳田や折口や南方の本を読むと、ほかの本にない充実感があります。自分が豊かになったような、世界が広くなったような気持がするのです。ところがアカデミックな学問の中では、私の場合あまり充実感がないのです。それよりも民俗学的な本に書かれている事柄を読むと、非常に充実して感じ方も豊かになるし、考えも深くなるような気がする。それはほとんど生理的なものです。さらに考えれば、たとえば宇宙のリズムのようなものを私は民俗学の中で感じるのです。」
「私はいわゆる常民と呼ばれるものを自然的人間と規定していますけれども、それは、波のざわめきとか潮の満ち引き、あるいは月が満ちてきて欠けてまた満ちるという変化、そういうものに感応する力をもっている人間のことだと思うんです。」
「花が咲いて実がなって、それが散ってまた咲いて。そうしたリズムのなかに古代人や常民はいたのです。自然的人間の生活を調べていくと、生命のリズムという宇宙のリズム、自然のリズムになにか触れる。だから豊かな気持ちになる。」
「自然的人間というのは、ほとんど動物と変わらないんです。ただ一点だけちがう。要するに、私の定義によると、あの世、次の世界、他界を想像することのできる動物であるということ。(中略)人間は他界を夢見ることのできる、次の世界、もうひとつの世界を想像することのできる動物であると考えるんです。」
「自然界を目に見えるものと目に見えないものとに分けたら、他界というのは目に見えない世界です。われわれの世界というのは、目に見える世界だけでは成り立たない、目に見えない世界と合わせてワンセットになっているというのが、民俗学の考えです。」
「だから人間をトータルに理解するには、他界というものを入れないかぎりは、全体的に理解できないのではないかというのが、民俗学の提言なんです。」

「折口の学問の特徴は、自分の眼で古典を読みぬいたことです。記紀や万葉集の一語一語を先人の解釈にわずらわされず、考え、判断しました。(中略)そのうえ折口は民俗学の研究で得た実感を大切にしました。古代学と民俗学のもっとも幸福でみごとな結晶が生まれました。その結果、前人のおよびもつかない古代人の世界が明るみに引きだされました。折口ほど人の真似をするのを嫌った学者はいないと思います。」

「客神、すなわちストレンジャー・ゴッドは折口流の言葉ではマレビトと称せられる異神である。」
「折口のマレビトもまた慈愛にみちた祖先の貌をとってはいなかった。アカマタ・クロマタが「猛貌の神」と称せられたように、猛々しいものであるという認識が折口にはあった。(中略)神の原初的な形態は人間に幸福をもたらすものとばかりはかぎらず、人間に畏怖を与え、人間を侵犯する荒ぶる霊であるという考えが優先すべきであることを折口は主張したのであった。しかもそれは最初から人間の形をとってはいなかった。」
「折口は(中略)柳田との対談の中で「日本の村々でいう村八分みたいな刑罰によって、追放せられた者、そういう人たちも、漂浪して他の部落にはいって行く……」と述べているが、そこではスサノオを想定していると思われる。いずれにしてもこのマレビトは祖霊ではなく、他界からおとずれる異神であって、人間の形を備えているためにマレビトと呼ばれているが、(中略)はじめから人格(ペルソナ)を備えたものではない。マレビトの考えをもっともさかのぼると何があるか。それを折口は(中略)次のように言う。「或は時として定まつてある一方から吹くそよ風、彼等と約束ある如く照し来る方面の光線、或は彼等の為にばかり其処に立ち、峙つてゐる様に見られてゐる樹木岩石」。このような風や光線や樹木岩石もまたマレビトの一類だと折口は説くのである。」












































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本